「やったー!」
平日の夕方、リビングにいると、洗面所からみやびの嬉しそうな声が聞こえてくる。
なんだなんだ? と思っていると、みやびがリビングにやってきた。先ほど聞こえてきた声のとおり、なんだか嬉しそうな様子だ。
俺がみやびに尋ねる流れが完全に出来上がっているな……。
「……みやび、どうしたの?」
「あのね、お兄ちゃん! 実は、やっと体重が元に戻ったんだよ〜」
「おお、それはよかった!」
みやびはなんだかんだダイエットを続けていた。初めの頃はジョギングしかせず、しかもすぐにバテててしまっていたので、長い距離を全然走れなかった。しかし、イヤイヤながらもほぼ毎日走っていると体力がついてきたようで、だんだん速く、そして長く走れるようになってきていた。それに加えて、ジョギング以外にも筋トレなどをするようになり、最近は俺やサーシャがついていかなくても、みやびは朝に勝手にジョギングをしにいくようになっていた。
俺は改めてみやびの様子を見る。ダイエットのために運動を始めた一ヶ月前に比べると、明らかに顔が引き締まっているし、腕や足に筋肉がついているのがわかる。みやびは、『継続は力なり』をまさに体現していた。
「お腹はもうプニプニしていないのか?」
「んもー、セクハラだよ、お兄ちゃん」
「ごめんごめん……」
「でもほら、スッとしているでしょ」
みやびはペロンとシャツをまくる。結局見せるんかい!
まあ、確かに一ヶ月前に比べれば余計な肉はついていないように見える。ダイエット成功だな。
「……これからはこの体型体重を維持しないとな。不規則な生活とか夜更かしとか間食とかやめろよ」
「うん」
この様子なら、この前遊園地で貰ったお菓子はまだ出さない方がいいかもしれない。みやびが間食して、リバウンドする可能性がある。しばらくしたら小出しにして、様子を見ていくことにしよう。
「でね、お兄ちゃん、相談なんだけどさ」
「何?」
すると、みやびが予想もしないことを言ってきた。
「今度、登山に行きたいんだ」
「登山⁉︎」
「え……そんなにビックリすることだった?」
「いや……みやびの口からまさかその二文字が出てくるとは思わなかった」
みやびは登山とは最も縁遠い存在だと思っていたのに……。いったいどういう風のふきまわしだ? なんか変なものでも食べたか?
「いや〜、なんかダイエットしている間に運動するのがなんかちょっと楽しくなっちゃってさ。それで、最近テレビで山が紅葉しているって聞いたから、紅葉狩りしてみたくなったんだ」
「そうなんだ……じゃあ、行ってきたら?」
「お兄ちゃん、ついてきてよ」
「えー」
「いいでしょ? たまには自然の中で運動するのも気持ちいいよ!」
なんか、以前とは俺とみやびの立場が逆転しているな……。確かに、思い返してみれば最後に俺が登山をしたのはいつだったか。少なくとも、高校に入ってからは一度も山に行っていない。
「……それじゃあ、行くか」
「やったー!」
「何の話デス?」
すると、サーシャが顔を出してきた。俺はこれまでの話を簡単に彼女に説明する。
「へー、紅葉狩りデスか」
「ロシアに紅葉はあるの?」
「あるデスよ〜。日本よりだいぶ早い九月から十月上旬くらいデスね。Золотая Осень……『黄金の秋』って言うデス」
やはり紅葉の時期は、北にあるとだけあってだいぶ早いらしい。
「でも、日本の紅葉には興味あるデスね。それに、日本の山にも行ってみたいデス!」
「じゃあ、サーシャも一緒に行こう! いいよね、お兄ちゃん?」
「うん、いいよ」
俺には特に断る理由はない。みやびが企画したのだから、みやびが決めればいい。
「じゃあ、今週末に近くの山に行こう! ちょうど紅葉しているから」
「わかった」
「了解デス〜」
※
「……という話を一昨日したんだ」
翌々日の昼休み、みなとと一緒にいつもの場所で昼飯を食べている最中、俺は話の流れでそのことを切り出した。
すると、モッキュモキュご飯を頬張っていたみなとが、意外なことを言い出した。
「それ、昨日なぎさからも聞いたわ」
「そうなの?」
「ええ」
昨日、中学かどこかでみやびがなぎさちゃんに話したのだろう。
しかし、中学三年生のこの時期といえば、普通だったら高校受験に向けてラストスパートをかけ始める頃だ。登山に行っている余裕なんて大半の人は存在しないと思う。
「……なぎさちゃん、それについて何か言ってた?」
「……『登山行きたいけど勉強が〜』って言ってたわよ」
「そうだよな〜」
それが普通の中学生の感覚だろう。勉強に追われてそれどころじゃないはずだ。
そんなことを考えていると、みなとが意外な提案をしてきた。
「……ねえほまれ」
「なに?」
「……もしよければの話だけど、なぎさを山に連れて行ってくれないかしら」
「え……?」
「あの子、最近ちょっと勉強に根を詰めすぎなのよね……精神的にもあんまりよくなさそうなのに、無理して勉強しようとしているし……」
だから、とみなとは続ける。
「なぎさには休息が必要だと思うの。でも今のあの子じゃ、『何もしない日』というのは心が耐えられないでしょうね。だから、登山でリフレッシュした方がいいと思うわ」
「なるほどね……」
勉強勉強勉強と、勉強漬けになってしまうと、よほどの超人でない限りいつかは限界を迎えて壊れてしまう。みなと曰く、なぎさちゃんはかなりマズい状態にあるようだ。
「言い出しっぺはみやびだから、本当はみやびに許可を取るのが筋だけど……なぎさちゃんとは仲良いから大丈夫だと思う。ただ、問題なのは、なぎさちゃんが拒否してこないかってことだね。俺から誘うのは立場的にちょっと変だと思う」
友達の兄から、『勉強ばかりしていたら体にも悪いから、登山に行ってリフレッシュしようよ』なんて言われて、『そうですね、行きます!』とはならないだろう、普通。
でも、なぎさちゃんは登山に行きたいとは思っているようだ。『登山行きたいけど勉強が〜』とみなとに言っていることがその証拠だ。
「そこは大丈夫よ。わたしから説得するから」
「……わかった」
ここで、急にみなとの目つきが鋭くなる。
「それと、あなたもサーシャも行くんでしょう?」
「え、うん。そうだよ」
「なら私も行かせてもらえないかしら」
「……みやびに話してみるよ。たぶん大丈夫だと思う」
「わかったわ。みやびちゃんによろしくね」
みなとから、何かサーシャへの対抗意識のようなものを感じるんだが。自分のいないところで俺とサーシャを二人きりにさせたくない、という意志を感じる。
とにかく、俺とみやびとサーシャに加えて、なぎさちゃんとみなとも登山に参加することになりそうなのだった。