「あ、暑い……」
修学旅行一日目の行程がすべて終わった後、旅館の部屋で、俺は一人、水を飲んでいた。
夜になっても二十五度を下回らないなんて、さすがは南国。俺は事前に体内の冷却水をすっからかんにしてきてしまったが、結果から言うとその判断は間違いだった。
ここまで暑いと思っていなかったので、俺はあまり薄くない、通気性もあまりよくない服で来てしまった。しかも、今日は日差しが降り注ぐ中でかなりの距離を歩いたり、ガイドの人の説明を聞くためにその場に留まったりした。もちろん、帽子なんてものは持ってきていない。
つまり、俺の体温は、日中上がりまくりの状況だった。途中で水を買ってなんとか凌いでいたが、結構危なかった時間もある。
ちなみに明日の天気予報も晴れだ。自由行動はちゃんと水を持っていって、こまめに水分補給しよう……。
ちょうどペットボトルの水を飲み干したので、俺は容器をゴミ箱に捨てて一息つく。
「今日は、何の進展もなかったな……」
修学旅行の一日目は、学年全体の団体行動だった。あらかじめ学校が決めたルートを辿って見て回るだけ。どちらかといえば、校外学習に近いだろう。
もちろん、檜山と佐田は俺たちと同じクラスなので、当然話す機会などはなくもないが……。俺が見ていた限りでは、今日二人が話している場面はなかった。
よく考えればそれも当然だろう。俺たちは移動にバスを使っていたが、バスの席順も出席番号順だった。そのため、佐田と檜山は席が離れてしまい、話しにくい状況だったからだ。
まあ、今日は仕方がない。重要なのは、明日、二日目だ。その自由行動でうまくいくかがすべてを決める。
そんなことを考えていると、廊下の方から足音が聞こえてきた。そして、ガラガラと部屋の扉が開いた。
「天野、風呂の時間だぞー」
「はい、今行きます!」
こちらに顔を出したのは、担任の斎藤先生。俺は急いで自分の風呂道具を荷物から取り出して、部屋の出入り口へ向かう。
先生の後ろについて歩いていくと、先生が俺に謝ってきた。
「すまんなー天野、ひとりぼっちの部屋で」
「いえ……こうするほかないと思います」
実は、今回の修学旅行の参加生徒で、一人部屋なのは俺だけだ。他の人は、クラス別、そして男女別に、さらに複数のグループに分かれてそれぞれの部屋に泊まっている。ちなみに、二泊とも同じ旅館だし、同室のメンバーに変わりはない。
俺が一人部屋なのは、もちろん俺が、『女性型アンドロイドになった男子生徒』とかいうものすごく扱いにくい存在だからだ。きっと、先生たちは俺をどうするかで苦慮しただろうな……。中身どおりに男子部屋に放り込むのには問題があるし、かといって見た目どおりに女子部屋に放り込むのにも問題がある。
まあ、すでに私的な旅行では、夏休みの時点で女子たちと一緒に二泊もしているのだが……。学校的には、一人部屋に押し込むしかないだろう。そうするしかないことを、俺はよく理解していた。
「ここが風呂だ。三十分後にはA組の女子たちが入ってくるから、それまでに出ろよ」
「わかりました」
俺は先生と別れて、女湯の暖簾をくぐる。
当たり前だが、脱衣所には誰もいない。俺は風呂場に一番近いロッカーを選ぶと、急いで服を脱ぎ始める。
予定どおりなら、今の時間帯は皆部屋で夕食を食べているはずだ。しかし、もちろん俺は夕食など必要ない。つまり、皆に必要で、俺には必要ないその時間に、俺は風呂に入ることになっていたのだ。
ガラガラとドアを開けて、いよいよ大浴場に入る。
「おぉ……」
女湯の大浴場はとても広かった。さすが、修学旅行に来た三百三十名を丸々収容できるだけの大きな旅館だけある。体を洗うスペースがたくさん並んでいるのはもちろん、大小様々な湯船の他にも、ジェットバスや露天風呂、さらにサウナや水風呂もあるみたいだ。
おっと、ぼーっとしている場合じゃない。今から二十八分後には他の人が入ってきてしまうのだ。俺は近くの椅子に座ると、さっさと体を洗う。
体を洗い終わった後、俺は早速内湯で一番大きい湯船に浸かった。
「ふぅ〜〜〜〜」
俺のデカい声が風呂場に反響する。しかし、俺の他には誰もいないので、これを咎める人はいない。
いいね、人の目を気にすることなくゆっくり入れるっていうのは。こんなにリラックスできる機会はそうそうない。
よし、せっかくだし風呂場を堪能し尽くしてやろう! 俺は、この場にあるすべての種類の湯船に浸かることにした。
「ちょっと熱いな……」
源泉掛け流しの熱めの湯船。温度は四十五度とかなり高めだ。
「うははは、くすぐったいな!」
湯が泡と一緒に出てくるジェットバス。尻とか背中とか、ジェットが当たったところは人間だった時と変わらずくすぐったく感じる。
「……そろそろ外も出てみるか」
湯船にずっと浸かっていたせいで、だいぶ体が熱くなってしまった。この体は、湿度の高い暑い環境で長時間過ごすことに向いていない。熱が溜まって動作に異常が出てくる可能性があるからだ。
俺は、より涼しい外の風呂に向かうことにする。
「ちょっと涼しいな」
ガラガラと外に続く扉を開けて、滑らないように慎重に歩いて露天風呂に浸かる。
西の方に目を向けると、遠くの方に海が見えた。東シナ海だろうか。俺の真上の空の色は濃いインディゴだが、海の上の方はまだ黄色い。東京ならすでに真っ暗になっている時間帯だが、ここはそこから経度が十二度ほど西にずれているので、およそ五十分日没が遅いのだ。
露天風呂の端には大きな木の仕切りが聳え立っている。三メートル半ほどありそうだ。位置関係から推定すると、おそらくその向こうは男湯の露天風呂だろう。きっと覗き対策に違いない。今回の修学旅行でも、誰かがやらかしそうな気はする。まあ、今の時間帯は男湯にも誰もいないはずだ。俺が覗かれる心配はしなくていいだろう。
「……そろそろ出るか」
俺は露天風呂から出ると、建物の中に戻る。そして、ペタペタと歩いて脱衣所の方に向かって、脱衣所のドアに手をかけた。
「…………〜」
「!」
俺はそこで固まった。なぜなら、そのドアの向こうから、するはずのない人の声が聞こえたからだ。しかも、複数。
すりガラスのドアの向こうを、俺は赤外線で視る。すると、向こう側にはいくつものシルエットが見えた。
ま、マズい……。俺は時刻を確認する。先生が言った三十分は、まだ過ぎていない。しかし、実際問題、ドアの向こうには誰かがいる。
ここは女湯。もちろん、その向こうは女用の脱衣所。当然、そこにいるのは女子のはずだ。
このままドアの外に出たら、女の人が脱いでいる場面に鉢合わせてしまうだろう。かといって、このまま中にいても女の人がいずれ入ってきて鉢合わせになってしまうだろう。マズい状況だ。
モタモタしていると、ドアの向こうの人影が大きくなってきた。それに、声も大きくなっている。向こう側の人たちがこちらに近づいてきているのだ。
ヤバい! どうにかしないと! 焦りながら周囲を見渡した俺の目に入ってきたのは、壁に埋め込まれるように設置されている木目調の扉だった。
ここしかない! 俺はそう思って急いでその中に入った。
扉を閉めた瞬間、背にしたその向こうから女子の話し声とともに、床を踏み鳴らす複数の音。女子が入ってきたのだ。あ、危なかった……。
それにしても蒸し暑い。肌にねっとりと絡みつくような恐ろしいほどの湿気、いや、もはや蒸気だ。天井からはオレンジ色の光がぼんやりと部屋を照らしている。
「サウナか……」
俺が飛び込んだ部屋は、サウナだった。俺の体とは、相性が最悪だ。
高温の空気で満たされた密室である上に、飽和した水を多分に含んだ空気。このままでは高温で機械がイカれてしまうし、水で機械がダメになってしまうかもしれない。
俺は一刻も早くこのサウナルームから脱出したかった。しかし、ドアの向こうからはバシャンバシャンとシャワーを浴びる音や、騒ぐ女子の声。とてもここから出ていけるような状況ではない。
しかし、そうこうしている間にも、俺の体の温度は上昇し続ける。呼吸が荒くなるが、体は全然冷えない。頭がぼーっとして、意識が途切れそうになる。
「あ……ヤバい……」
いつの間にか、俺は膝をついてしまっていた。頭がうまく回らない。体がうまく動かない。
は、早く出ないと……!
様々な異常の報告が次々と脳内に舞い込んでくる中、このとき俺が考えられたのは、この部屋から外に出ること、とにかくそれだけだった。
最後の力を振り絞って立ち上がると、俺はドアに向かって走り出す。実際は、フラフラで走るなんてものではなかったが、とにかく俺は出口に向かって突撃していった。
そして、渾身の力でドアを勢いよく開けた次の瞬間、俺の頭はついにオーバーヒートしてしまった。
このとき、体重を前方にかけて走るような姿勢をとっていた最中だったので、急に止まれるわけがなかった。
俺は、意識を失いながら、サウナのちょうど向かいにあった水風呂の中にドボンとダイブして、ブクブクと水底へと沈んでいくのだった。