修学旅行当日、午前五時。
普段よりも一時間ほど早起きした俺は、着替えて階下へ向かう。
すると、リビングの照明が点いていた。昨夜消し忘れたか? と思いながら俺は部屋の中に入る。
「あ、お兄ちゃんおはよー」
「……みやび、どうして」
そこには、リビングの隣のダイニングで、朝食のグラノーラを食べているみやびがいた。
こんな時間に起きているなんてとても珍しい。いったいどうしたんだ……?
「いやー、お兄ちゃん今日修学旅行でしょ? こんな日にまで朝ご飯作ってもらうの、なんか悪いなーって」
「そっか……ありがとう」
どうやら、俺がみやびの朝ご飯を作る手間をなくすために、わざわざ俺より早起きしたらしい。
そんなみやびはかなり眠いようで、半分しか目が開いていない。そのため、ものすごく目つきが悪いように見える。まったく、健気な奴だ。
「俺、明後日の夜まで帰ってこないけど、大丈夫だよな?」
「うん、心配しないで」
「わかった……それと、聞きたいことがあるんだけどさ」
「なに?」
「もし、修学旅行中に体がおかしくなったり壊れちゃったら、どうすればいいの?」
「それは心配しなくても大丈夫だよ。サポートチームも一緒に沖縄に行くから」
「そうなの?」
「うん。もしお兄ちゃんに何かがあった場合、学校側からそっちに連絡が行くようにしてあるよ」
「そ、そうなんだ」
俺の知らないところですでに根回し済みだったらしい。妹、恐るべし。
とにかく、修学旅行中に何かあっても、そんなに慌てることはなさそうだ。
「おはようございマス〜」
振り返ると、そこにはパジャマ姿で寝ぼけ眼を擦っているサーシャの姿があった。
その姿を見て、みやびがテーブルの向かいの席を指差しながら言った。
「サーシャの分の朝ご飯は、ここに用意してあるよ」
「了解デス……」
みやびはサーシャの分まで用意してくれたらしい。徹底的に俺の手間を省こうとしているようだ。ありがたい。
「サーシャ、モタモタしていると集合時刻に遅れるから早く準備しよう」
「わかったデス」
約一時間後、俺たちは朝の支度と修学旅行の支度を終えて、ボストンバッグやスーツケースなどの荷物を玄関に運んでいた。
「ところでほまれ」
「どうしたの、サーシャ?」
「今回の修学旅行には、みやびはついてこないデスよね?」
「当たり前じゃん。だって、うちの高校の生徒じゃないんだし」
「だったら……」
すると、サーシャはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。そして、俺に後ろから抱きついてくる。
「ちょっ、何するんだよ」
「ワタシがもし旅行中にほまれの体の中を調べようとしても、バレないデスよね〜」
「なっ……!」
サーシャが俺の耳元で呟いたことに、俺は戦慄する。
そうだ、忘れかけていたが、サーシャはロシアからの刺客。その本来の目的は、機密事項の塊である俺の体について探ることだ。
今はみやびとの取り引きや彼女から受けたトラウマが枷となって大人しくしているが、修学旅行中はみやびから離れられる。つまり、サーシャに対する抑止力がいない状態となる。
サーシャが俺の体を撫でる。俺はゾワゾワと何か気色悪いものを感じた。
「そんなことはさせないよ、サーシャ」
だが、俺の心配を打ち消すかのように、背後から聞こえてくる力強い声。俺たちが振り返ると、そこにはみやびの姿。
「言っとくけど、お兄ちゃんに何かがあったらすぐにわかるようにしてあるからね」
それに、と彼女は続ける。
「忘れないでね、サーシャはすでにミッションには失敗しているんだよ。今は私が定期的に情報を渡しているからバレていないけど……もしお兄ちゃんに何かしたら、どうなるかわかっているよね?」
「ヒエッ、じょじょ、冗談デスよ〜ハハハ〜」
それを聞いて、サーシャは俺からパッと離れた。現状、サーシャの生殺与奪権はみやびが握っている。もしサーシャがとっくのとうにミッションに失敗していることがバレてしまったら……おそらく何か恐ろしい罰が待っているのだろう。本人も『シベリア送りにされる』と言っていたようだし。
おっと、もう出発しないと間に合わなくなってしまう!
「サーシャ、時間がない、行こう」
「そ、そうデスね」
「それじゃ、二人とも行ってらっしゃい!」
俺たちはそれぞれ大量の荷物を持つと、みやびに見送られながら、駅に向かって出かけるのだった。
最寄り駅に着いて、俺たちは都心に向かう電車に乗る。朝のラッシュアワーの前だが、電車はかなり混雑していた。
俺たちは最後尾の車両に乗り込み、そのさらに一番後ろに立つ。もちろん、意味もなくここに立っているわけではない。
しばらく電車に乗っていると、いつも学校に行くために乗り換える駅に到着する。数人の乗客が降り、たくさんの乗客が乗ってくるが、その中に見覚えのある顔が一人。
「おはよう、みなと」
「おはようデス」
「おはよう、ほまれ、サーシャ」
大荷物を持ったみなとが乗り込んできた。ガラガラとスーツケースを引っ張って、俺の横に来て車掌室との仕切りに寄りかかった。
「今日の修学旅行、楽しみね」
「そうだね。沖縄に行くのは初めてだから、楽しみだよ」
「私もよ……ふわぁ」
すると、みなとがあくびをする。
「……あんまり眠れなかった?」
「そうね……楽しみでね……」
すると、みなとが俺に寄りかかってくる。彼女のいい匂いがしてきて、俺は不意にドキドキしてしまう。頭が俺の目の前に接近する。
「み、みなと……? 大丈夫……?」
「ちょっと、寝てもいい……?」
「……いいよ」
俺はみなとが倒れないように、手を回して彼女の体を支える。少しすると、彼女の体からフッと力が抜けるのがわかった。
俺にみなとの体重がのしかかる。しかし、俺の体重は彼女よりはるかに重いし、力も常人よりはるかに力持ちだ。みなとが寄りかかったくらいじゃ俺はびくともしない。
しかし、体はびくともしなくても、心は動揺しまくりだった。なにせ、彼女が俺と体を密着させている上に、ほぼノーガードで眠っているのだ。これでドキドキしないわけがない。
その間にも電車は進み、どんどん乗客が増える。何回目か電車が停まったとき、不意に聞き覚えのある声がした。
「おはよ〜、サーシャちゃん、ほまれちゃん」
「おはようデス、ひなた!」
「おはよう、飯山」
飯山が乗ってきたのだ。そして、俺の隣を見て一瞬固まると、ニコニコ笑って一言。
「……わたしはお邪魔だったかな?」
「い、いやいや、そんなことはないけど」
「二人はラブラブデスね」
「ホントだよね〜」
「もう、勘弁してくれよ……」
都心に近づくにつれ、さらに混雑する電車。やっとのことで終着駅に着くと、電車のドアが開いた途端に大量の人がドバッと降りていく。
「みなと、起きて」
「んぁ……」
「ほら、行くよ」
俺はみなとの荷物を一部持つと、まだ眠たげな彼女の手を引っ張って、一足先に降りた二人に遅れないように急いで下車する。
「いや〜、この駅は複雑デスね……人酔いしそうデス……」
「ここは、飯山についていけば大丈夫だよ」
飯山は何度もこの迷宮のような駅に来ているので、人が多くともスイスイと進んでいく。俺たちは親ガモの後ろを大人しく歩く小ガモのごとく、飯山の後を追った。
人の波に飲まれそうになりながら移動して、なんとか目的の電車に乗り換え成功。最後尾に乗り込んで一息ついていると、またもや聞き覚えのある声がかかる。
「おー、あんたたちも同じ電車だったんだ、偶然だね」
「おはようございます、みなさん」
「檜山に越智か……、おはよう二人とも」
そこには檜山と越智の二人。きっと二人は違う路線で来たのだろう。心なしか、檜山の荷物は量が多く、逆に越智の荷物は少なめに見える。
檜山は、俺たちの方に近づくと、腕を肩に回して小声で言った。
「今日から三日間、よろしく頼んだよ……!」
「もっちろん!」
「わかりました」
「了解デス!」
「うん、わかった」
……何も知らない人からすれば、ただ修学旅行で一緒の班員に挨拶しているように聞こえるだろう。しかし、その本意はまったく異なることを俺たちは暗黙のうちに認識していた。すなわち、檜山と佐田がくっつけるように、手伝ってほしい。そういう文脈を、檜山は言葉の裏に隠している。
ところで、檜山はみなとにはこの話をしているのだろうか。部活が同じだし、かなり仲がいいはずだから、みなとがこのことを知っていてもおかしくはないと思うが……。
「おはよう、ほまれ!」
「うおっ、佐田⁉︎」
そんなことを考えていると、急に俺の名前が呼ばれて、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこにはよっ! と笑顔で挨拶する佐田の姿。ちょうど停車した駅で乗ってきたのだ。
まさかこんなところで合流するとは……。本当に予想していなかったタイミングだったので、ちょっと大きな声が出てしまった。
「皆、おはよう」
「ちょっ、あおい、どんなタイミングだよ!」
佐田が皆に挨拶すると、途端に檜山がつっかかる。
「うっせ、いいだろ別にどのタイミングでも」
「よくない!」
「なんでだよ……」
「よくないったらよくない!」
また二人でギャーギャーやり出したが、両方の顔は少し赤くなっているように見える。檜山はちょっと恥ずかしそうにバシバシ佐田を叩いているし、佐田は嫌がっているような、満更でもないような顔をしている……。
その様子を見てか、みなとがスススと近づいてきて、俺に耳打ちをする。
「もしかして、なおと佐田君って……できてる?」
そのあまりの観察眼の鋭さ、あるいは恋愛センサーの敏感さに、俺はビクッとなった。
「え、あ、いや、できてないよ」
「……何か、隠しているでしょ」
「…………」
「ねえ」
「……ちょっとこっち来て」
俺はみなとを皆から引き離して、電車の隅の方で小声で話す。
「誰にも言わないでよ?」
「……ええ」
「……実は、二人はお互いにお互いを片想いしている状態なんだ」
「あら……両片想いなのね」
みなとは目を輝かせる。ロマンスが溢れるこの状況に食いつかない女子はいないはずだ。
「二人は修学旅行中に告白するつもりなのかしら?」
「そうみたいだよ……自由行動の時にね」
「そうなのね……じゃあ私はその現場には居合わせられないわね」
確かみなとたちの班が選んだのは、南部を回るCコース。俺たちとは方向が真逆だ。
すると、みなとは俺の肩をがっしり掴むと、顔を近づける。
「ほまれ、私の分までしっかり見届けるのよ!」
「わ、わかったよ……」
その恋愛に賭けるあまりの熱意に、俺は少々引き気味になってしまう。
その間にも、俺たちの乗る電車は空港の方へと走っていくのだった。