一時間後。俺とみやびは、みやびの部屋にいた。
ここには今、俺とみやびの二人しかいない。サーシャは自分の部屋に篭っている。
ドアや窓は閉まっており、鍵がかかっている。ドアは防音、窓は磨りガラスで、さらに鉄格子まではまっており、この部屋は現在完全に密室状態だった。ミステリー小説なら殺人事件の一つでも起きそうな状況だが、俺たちがしているのはそんなことではない。
みやびがパソコンから目を離し、俺の方を向く。
「うん、異常なし! 外していいよ」
「わかった、ありがとう」
俺はみやびのパソコンから伸びているケーブルをへそから抜いた。彼女はそれをグルグルと巻き取り、パソコンを片付ける。
「スペアの部品があってよかったよ」
「そうだね。まあ、定期メンテナンスの時にまた詳しく調べるよ。それに、また何か異常を感じたら早めに言ってね」
「わかった」
俺はお腹をさする。さっきまで感じていた違和感は完全に消え去り、ビリビリとした不快な感覚もなくなっている。ひとまず大丈夫そうだ。
「はぁ……それにしても、まさか本当にうまくいってしまうなんてな……」
俺はため息をつく。
三日前、サーシャが俺に何かをしようとしている現場を押さえるため、俺たちはある作戦を実行することにした。
もし研究所へのサイバー攻撃や、俺へのウイルス感染にサーシャが関わっているのだとしたら、サーシャの狙いは俺からデータを抜き取ることだ。それに、みやびが盗聴したところによると、サーシャは近日行動を起こすのだという。
問題は、サーシャが俺のデータを抜き取る方法がわからないことだった。ネット経由で抜き取るのか、俺のへそにケーブルを繋げて抜き取るのか、あるいは俺を襲って壊して無理やり取るのか。それを確定する必要があった。
そこで俺たちは、こちらからその手段を限ってしまうことにした。セキュリティを厳しくして他の手段を使えなくして、一つの手段を取るように仕向けたのだ。
その手段とは、俺のへそに配線を繋げてデータを抜き取る、というものだった。これなら、サーシャが俺のデータを抜き取ろうとしている現場を直接押さえられる。へそに機械を繋ぐために俺に接近しなければいけないからだ。
すると、今度はサーシャを本当に押さえることができるのかどうかが問題になる。大人しく捕まってくれればいいのだが、もし全力で抵抗してきた場合、サーシャを逃がしてしまったり、逆に壊されてデータを抜き取られてしまったりするかもしれない。
したがって、サーシャの対応はすべてAIに任せることになった。みやび曰く、AIには自衛機能が備わっているらしく、自分に明らかに害をなす人間を無力化できるのだという。運動神経や体力、パワーの面からみても、みやびや俺よりAIが対処するのが最適だった。
というわけで、俺はここ最近、毎晩AIに警戒させながら眠りにつくことになった。その間、俺の意識は眠っている最中なので、何も覚えていない。しかし、今朝の様子から考えると、どうやらこの作戦はうまくいったようだった。
ただ、振り返ってみると、やはり思うところはある。
「かなり危ない作戦だったんじゃないか。俺、お腹壊されたし」
「まあ、多少の被害は出ちゃったけど、データを抜き取られるよりかはマシでしょ?」
「そうだけど……」
みやびによると、どうやらサーシャと揉み合った際に思いっきりお腹を蹴られたらしい。
俺の知らないところで故障してしまうのは怖いな……。
「で、結局サーシャはスパイだったんだよな」
「そうだね」
今朝、サーシャが俺たちの前でゲロったのは、サーシャはロシアから派遣されたスパイだった、ということだった。俺たちの予想どおりだ。そして、サーシャの狙いは、俺──正確には俺が動かしているアンドロイドの体の情報だった。これも予想どおりだ。
サーシャはいわゆる『産業スパイ』というやつで、ロシアのどこかの機関からやってきたようだ。さらに言えば、『サーシャ』……もとい、『アレクサンドラ・イリーニチナ・イヴァノヴァ』というのも偽名らしい。そういうのを聞くと、さすがスパイだな、と思う。
サーシャを送り込んできた機関は、日本でみやびたちが、ほぼ人間と見分けがつかず、さらに人間よりもいくつも優れた点を持つアンドロイドを開発したことをどこからか聞きつけたらしい。そして、その技術をどうにかして盗むために、同じくらいの年齢のサーシャを送り込んで、俺と接触させて情報を得ようとしたのだった。
文化祭前の真夜中、俺がサーシャの部屋で聞いたのは、そのサーシャを送り込んできた機関とのやりとりだったようだ。その時、サーシャは焦っていたのだという。俺にベタベタしたり、一緒にお風呂に入ったりしたが、予想以上にガードが固く、何も情報を得られないのだと。
さらに、文化祭の後にはウイルスに感染させて情報を抜き出そうとしたが、これも失敗に終わった。ということで、昨夜、寝ている間に俺に機器を接続して、情報を盗もうとしたというわけだ。
みやびはため息をつく。
「はぁ……でも、こんなに対策されても家に侵入されちゃうなんてね」
「対策?」
「うん。夏休みの間に、家のセキュリティを強化して、監視カメラとか、鉄格子とかつけて、外部から侵入しにくくしたじゃん。あれってサーシャみたいな人が、外から侵入してお兄ちゃんを連れ去らないように、って思ってやったんだけど……」
「まあ、まさか留学生っていう名目で内側から侵入されるとは思わないよな……」
せっかくのセキュリティがほとんど役に立たなかった。というか、サーシャを連れてきたのは父さんだよな? 友人に娘を託された、とか言って。つまり、そこからすでに騙されていた、ということか……。
ここで、俺は重大なことに気づく。
「ちょ、みやび! 父さんたちは大丈夫かな⁉︎ 父さんがサーシャを連れてきたってことは、あっちの機関は父さんのこと知ってるってことだよな⁉︎ だったら」
サーシャの任務が失敗し、スパイであることがバレた以上、俺から無理やり情報を得るために、父さんに危害を加えるかもしれない!
そう俺は続けるつもりだったが、みやびは俺の発言を先回りして答える。
「それなら大丈夫だよ。だって、サーシャは『失敗していない』ことになっているから」
「失敗していない……ってどういうこと?」
「そのまんまの意味だよ。サーシャには、向こうの機関にはまだ失敗していません! って伝えるように言ってあるんだ」
「でも……データを送信していない、とかでバレるんじゃ」
「データは渡したよ。偽のデータだけどね」
「それバレるんじゃ……?」
「バレないバレない。一見すると本物に見えるけど、ところどころ改竄してあるし、重要な情報は載せてないから」
「そ、そっか……でも、サーシャが『スパイであることがバレました』って向こうに伝えて裏切ったら大変なことになるんじゃないか?」
「うーん、それはないんじゃない?」
「どうして?」
すると、みやびは、かたわらのヘッドギア型の機械を触りながら笑みを浮かべる。
「昨晩、たっぷり時間をかけて『一生消えない思い出』を作ってあげたから」
「何それ怖っ」
なんとなく想像がつく。それを頭に被せて、サーシャのトラウマになるようなことをしたのだろう……。我が妹ながら恐ろしい。
「だからあんなにみやびに怯えていたのか……」
「うん。『シベリア送りにされるー!』って言ってたよ」
「笑えない冗談だな……」
サーシャの場合、本当にシベリア送りにされそうで怖い。
「そうか、サーシャは……その、シベリア送りにされたくないから、成果を偽ることに協力的にならざるをえないのか。それに、約束を破ったらみやびに何をされるかわからなくて怖いから」
そういう意味で、さっきみやびは『サーシャが裏切ることはない』と言ったのか。
でも、まだ一つわからないところがある。
「でもさ、みやびはサーシャをこの家からは追い出さないつもりなんだろ?」
「うん」
「それはなんで? だって、サーシャがこの家にいることはそれだけで向こうに情報が伝わるリスクになるじゃん」
「まあ、追い出したらいろいろ不都合が生まれるからなんだけど……一番の理由は、サーシャを通じて向こうの動向が探れるからかな」
「……二重スパイってこと?」
「まあ、そんな感じ。ここでサーシャを追い出したら、また向こうの機関の動向がわかんなくなっちゃうじゃん。それで、もし機関がもっとヤバい部隊を送り込んできたら、対応できないかもしれない。それよりは、サーシャを手元に置くことで、向こうの機関の情報を流してもらった方が対応しやすくなるから、お兄ちゃんはより安全だと思うよ」
「……まあ、確かに」
なるほど、みやびの話も一理ある。もしサーシャを帰してしまって、本気を出した機関が特殊部隊を使って人の気配がない場所で俺を攫いにでもきたら、とても対応できるとは思えない。
「ま、そういうわけだから、お兄ちゃんは普段どおりにサーシャと接すればいいと思うよ」
「そ、そっか……」
俺を見たとき、かなり怯えているようだったから、それはそれでかなり難しいような気はするが……。
こうして、サーシャの留学から起こった一連のスパイ事件は、一応の収束を迎えた。
改めて俺は、みやびは絶対に敵に回しちゃいけないな、と思うのだった。