深夜二時。天野家は静寂と暗闇に包まれていた。
しかし、そんな静寂を打ち破るように、二階の廊下の突き当たりの部屋から微かに物音がした。ギギギ、と蝶番が軋み、ドアがゆっくりと開く。
その向こうから現れたのは、金髪ロングのロシア人留学生、サーシャだった。頭には暗視ゴーグルをつけ、右手には長いケーブルを持っており、それはパジャマの尻ポケットの中にある小さな機械に続いていた。
サーシャはキョロキョロと辺りを見回すと、抜き足差し足忍び足で、廊下を進んでいく。靴下を履いているので、ペタペタという音は鳴らないが、微かに床が軋む音がしていた。彼女は慎重に壁伝いに進んでいく。
サーシャはみやびの部屋の前に辿り着いた。すると、おもむろにドアに耳をあて、中から物音がしないか確かめる。十数秒間耳をそばだてたが、何の音もしなかった。みやびは眠っているらしい。そう判断した彼女は、ドアから離れると、さらに廊下を進んでいく。
そして、サーシャは目的の部屋の前に到着した。サーシャの同級生、天野ほまれの部屋。先ほどと同じようにして中から物音がしないことを確かめると、彼女はゆっくりとドアを開いた。
とにかく音を立てないように気をつけながら、サーシャは部屋の中に突入する。
緑色の視界の中、サーシャはベッドの上の膨らみを認識する。よく見ると、その端から足がにゅっと突き出ていた。彼女はそろそろとベッドに近づいていく。
ベッドの上で、ほまれはタオルケットを被って眠っていた。サーシャはほまれの顔を見る。無表情のまま目を瞑っていた。
彼女はそれを確認すると、固唾を飲み込んで、ベッドのすぐ横にしゃがんだ。そして、おそるおそるといったふうに、体にかかっているタオルケットを外していく。
ほまれの上半身があらわになった。チラッと確認するも、ほまれが目覚めている様子はない。ここで、サーシャは大胆にも、ほまれのパジャマに手をかけると、ゆっくりとまくっていく。
サーシャが手を離したとき、彼女の目の前にはほまれのお腹が丸出しになっていた。へそには何も差されていない。サーシャにとっては幸運なことだった。
ここで、サーシャは右手に持ったケーブルの先端をしっかり持つ。そして、それをほまれのへそであるプラグに差し込んだ。
カチッ!
ケーブルが接続された音が、暗闇の中に響いた次の瞬間、ほまれの体がビクン! と大きく跳ねた。ベッドのスプリングが、ぎしっと大きな音を立てる。
「不明な接続を確認しました。解除します」
そして、ガバッと上半身を起こしたかと思うと、ほまれは右手でむんずとケーブルを掴み、へそから勢いよく引き抜いた。
「『ちくしょう!』」
サーシャは母語で悪態をつくと、作戦を変更する。ここで気づかれた以上、言い訳はできない。今日この場で、なんとしてでもやり遂げる必要がある。
ほまれが上半身を起こし、へそからケーブルを引き抜いている間に、サーシャはズボンの前ポケットから、素早く黒く細長い機械を取り出していた。
そして、立ち上がりざまにほまれの顔の方に急接近すると、手に持ったその機械の先端を、ほまれの首筋に押しつけた。
「『くらえ!』」
次の瞬間、暗い部屋をバチバチと紫電が明るく染めた。スタンガンだ。
サーシャは眩しくて一瞬目を逸らすが、すぐに戻す。精密機械は高電圧に弱い。うまくいけば、一発で無力化できるだろう。だが、スタンガン対策をしている場合やうまくいかなかった場合を考えて、相手の動きを止める程度の効果しか期待していなかった。
しかし、サーシャにはそれで十分だった。一瞬の隙を作れば制圧できる。非常に長く過酷だった訓練を乗り越えた彼女には自信があった。
サーシャはスタンガンを押し当てた後、ベッドに素早く上がると、ほまれの上に馬乗りになる。
刹那、彼女のアテは外れた。
「gg……本機に危害が加えられました。無力化を実行します」
「『ちっ』」
ほまれがスタンガンで動きを止めていたのは一瞬だった。
次の瞬間、サーシャの腕を掴もうと、腹の上にサーシャが乗っかっている状態で、上体を起こしたのだ。
サーシャは転がり落ちそうになるが、慌ててベッドの上から退避して床に降りる。思わず舌打ちをする。
「ターゲット確認、無力化します」
ほまれはゆらりとベッドから床に降りると、何事もなかったかのように、のしのしと歩いてサーシャを捕縛しようと近づく。サーシャは慌てて体勢を整えると、全力ダッシュで部屋から出ようとした。だが、ほまれはそれを許さなかった。
ほまれはサーシャの手首をガシッと掴む。サーシャは、それくらい振り払えると思って腕を動かすが、その見立ては甘かった。
「『放せ!』」
ほまれの手は、サーシャの手首を放さない。強い握力でガッチリと捉えて、ただブンブンとほまれの腕が揺れるだけだった。
ならば、とサーシャはわざと重心を体の後ろに思いっきりかける。すると、彼女のその動きは予想外だったのか、ほまれがつられて前のめりになる。
ほまれは体格からは想像できないほど体重があった。手首が引きちぎれそうになる痛みがサーシャを襲うが、彼女はそれに耐える。
「『おっも……! うらっ!』」
そして、ちょうど目の前に倒れ込んできたほまれに向かって、サーシャは膝蹴りを繰り出した。
バキッ! ともミシッ! とも聞こえる音がほまれからした。
そのまま二人は半回転すると、サーシャはほまれを部屋の外に押し出して、勢いよく頭を廊下の壁に打ちつけた。そして、掴まれていない方の手で彼女の頭を押さえつけると、何度も後頭部を壁にぶつける。
「本kkkkkにきggggいがくwwwwえられttttttいます!8¶™」
この際、体が少しくらい壊れてしまってもいい。データが取れれば問題ないのだ。
「『はぁ……はぁ……やったか……?』」
幾度となくほまれの頭を壁にぶつけた後、荒い息を吐きながらサーシャは動きを止めた。壁にぶつけている間、最初はほまれは何かバグったような声を出していたが、最後の方はすっかり沈黙していた。
サーシャは、ほまれの頭を掴んでいた手を放す。ほまれの目は明後日の方を向いていて、動いている様子はない。サーシャは心の中でホッと息をついた。
だが、次の瞬間、ほまれの目がグリンと動いてサーシャをまっすぐ捉えた。
その時、サーシャをものすごい恐怖が襲った。自分は人間ではなく、化け物を相手にしているのだと、今目の前にいるのは、自分のこれまでの常識がまったく通じないものだと悟った。散々痛めつけてダウンさせたはずなのに、無表情のまま平然としていることに、底知れぬ恐怖を抱いた。
ヤバい! サーシャがそう思ったと同時に、彼女の腹にとても重い衝撃が走った。
「『ごっ……』」
鳩尾に綺麗に入ったストレート。ほぼ密着していた体勢から、人間ではありえないほどの威力のパンチを繰り出してきた。
迫り上げてくる胃液をなんとかこらえるも、サーシャは痛みでまともに立つことができない。かといって手首を掴まれているので倒れることもできず、体をくの字に曲げる。
「無力化を実行します」
ほまれがそう告げた次の瞬間、サーシャは宙を舞っていた。
投げ飛ばされた、と認識した直後、彼女は受け身の体勢を取る。さらに、背中に衝撃が走る。
「『がはっ……』」
廊下に叩きつけられ、変な声が漏れる。そして、ドスンとその上にほまれが馬乗りになった。
まったくの無表情で、ほまれはサーシャを見下ろす。体を動かそうとするも、お腹の上にまるで何トンもの鉛の塊があるかのようで、完全に押さえつけられてしまっている。
「『くそっ、放せ、放せっ! 化け物めっ!』」
喚き散らし手足をバタバタさせるサーシャの声などまったく耳に入っていないかのように、ほまれは冷静に彼女の片腕を押さえつける。
「ターゲットの無力化を実行します」
「『くそっ、くそっ、やめろ! やめろ!』」
サーシャは必死に抵抗するが、抜け出せない。そうこうしているうちに、ほまれはサーシャの首に、正確に手刀を叩き込んだ。
「『がっ……』」
最後にサーシャのそんな声が響いて、廊下は再び静寂に包まれた。