深夜という時間帯は不気味だ。
真っ暗で、昼間のようにはよく見えないし、普通の人は眠っているから、人の気配も感じられない。同じ場所であっても、どこか違う場所であるかのように感じる。
いくら体が機械になったといえ、夜中に対して俺が抱く気持ちは全然変わらなかった。
真っ暗な部屋の中、俺は身を起こす。時刻は午前一時三十分を過ぎたところだ。いわゆる、『丑の刻』である。
普段なら布団に入ってすぐにスリープ状態に入り、そのまま午前六時まで安眠する俺が、どうしてこの時間に起きているのか。その理由はとても単純だ。
トイレに行きたい。
俺の体を巡る冷却水を、放出しなければならないタイミングが来たのだ。
人間だった頃に比べればその頻度はとても少ないのだが、水分を摂取する以上、どこかのタイミングで出さなければならない。普段は昼間にやってくるのだが、たまにこんな真夜中になることもある。
ぶっちゃけ、今トイレに行く必要はない。我慢しようと思えば朝まで我慢はできる。しかし、我慢している状態で再び眠りにつく気にはなれない。やろうと思えばできるけど、特にそうしなければならない理由がない。
それに、我が家は一階だけでなく二階にもトイレがあり、ゆっくり歩いても俺の部屋からそこへは十秒以内に到達できる。わざわざ我慢する理由が見当たらないのだ。
俺はぼやーっとした意識の中、自分の部屋のドアをゆっくり開けると、寝ている人を起こさないように、静かに廊下に出る。
廊下に出て隣にあるのがみやびの部屋。その斜向かいにあるのがトイレだ。だが、俺の目はそこではなく、廊下の突き当たりに釘付けになった。
部屋のドアは閉まっているが、その下から微かに白い光が漏れている。さらに、そのドアの向こうからは人の声か何かがわずかに聞こえていた。
そこは俺の母さんの部屋だ。だが今はサーシャが使っている。
今は午前一時半だぞ……? いい子は皆寝ている時間だ。何か夜更かしする原因があるのだろうか?
トイレに行くよりも、サーシャが夜更かしをしていることの方が気になって、俺は先にサーシャの部屋に向かうことにした。
俺は、なるべく音を立てないように歩く。しかし、微かに床を踏み鳴らすギィという音がしてしまう。
俺はドキドキしながらも、サーシャの部屋の前に辿り着いた。
どうやら俺がドアのすぐ外にいることはまだバレていないようで、中からはサーシャの声が聞こえる。ただし、何を言っているのかはまったく意味がわからなかった。少なくとも日本語ではない。おそらくロシア語だろう。
俺はゆっくりとドアを小さく開けて、部屋の中の様子を窺う。
部屋の照明はついていない。ただ、デスクの上の小さな照明だけがついていた。そして、こちらに背を向けて、椅子に座り机に向かっているサーシャ。イヤホンをしているらしく、こちらには気づいていないようだ。何かを早口で小声で話している。おそらく、スマホか何かのデバイスで連絡をとっているのだろう。
こんな遅くに、いったい誰と連絡をとっているんだろう……。まあ、ロシア語で話しているようだし、少なくとも俺の知っている人ではないはずだ。
俺はそれ以上深追いすることなく、トイレに行こうと方向転換する。その時だった。
サーシャが不意にこちらを振り返った。そして、ばっちり俺と目が合う。
「ぎゃああああああああ⁉︎」
「うわあああああ⁉︎」
その瞬間、サーシャはものすごい悲鳴をあげて椅子から転げ落ちた。その声量にビビった俺も思わずしりもちをついた。
俺が倒れた反動でドアが閉まる。すると、何やらサーシャの早口が聞こえた後に、勢いよくドアが開いた。
そして、ドアから飛び出したサーシャが勢いよく俺に掴み掛かり……そこで彼女の動きが止まった。
「な、なんだ……ほまれデスか……ビビったデス……」
「あ、ははは……」
あまりにも必死な表情をしていたサーシャに、俺は乾いた笑みしか出なかった。
サーシャは立ち上がると胸の下で腕を組んだ。
「盗み聞きはダメデスよ、ほまれ! プライバシーは守るべきデス」
「ご、ごめん……こんな夜中に明かりがついていたから気になっちゃって」
「ああ、まあ……それはмамаとお話ししていたからデス」
「マーマ? お母さんと?」
「そうデス。ロシアとこっちでは時差があるデス」
「なるほどね……」
そりゃ、しばらくホームステイしていたら、故郷の家族とたまには連絡を取りたくなるよな……。
ところで、とサーシャは俺に尋ねてくる。
「話の内容、聞いてたデスか?」
「え、いや……」
「ならいいデス」
聞かれたくないことでも話していたのだろうか? だが、なんだか藪蛇になりそうな気がしたので、俺はこれ以上突っ込むのをやめた。
「まあ、何にせよ、早く寝なよ……明日も学校があるんだから」
「すぐ寝るデス」
「それじゃ、おやすみ〜」
「おやすみデス〜」
サーシャはドアをガチャンと閉めた。そして、床とドアの下の隙間から漏れる光も、程なくして暗くなった。
さて、俺も本来の目的を果たすとしますか……。
忘れそうだったが、まだ感覚は残っていたままだ。俺は素早くトイレに移動すると、用を済ませる。
トイレの便座に座りながら、俺はふと考える。
俺の体の中を巡っている水は、元はと言えば口から摂取したただの水道水だ。みやびによれば、この水は体の中で冷却するために使われている、らしい。
つまり、体内では水がただチューブか何かを巡っているだけ、ということだろう。もし他の成分が混ざらないのなら、飲んだものがそのまま放出されていることになる。
だったら、別にわざわざ出す必要なんてないんじゃないか? 要は体を冷やすために熱を運んでくれればいいのだ。
とすれば出したものを集めて冷蔵庫か何かで冷やしてそれでまた……。
俺は一瞬恐ろしい想像をしてしまったが、すぐに頭を振って打ち消す。
これ以上考えるのはやめよう……いくら理論上可能であるとはいえ、何か人間としての尊厳を失ってしまうような気がしてならない。
ゴゴゴゴ、というトイレの水が流れる独特な音を背後に、この音、結構大きいから、みやびの睡眠の邪魔になってしまわないかな……なんてことを思いながら、俺はトイレのドアを開ける。
「おにいちゃん」
「うあああああああ⁉︎」
ドアを開けた途端、目の前の暗闇からヌッとみやびの顔が現れて、俺は叫び声をあげながら後退する。
ま、まさかみやびが目の前にいるとは思わないんだ……。寝ているんじゃなかったのか?
「も、もう、ビックリした……まだ起きていたのか……」
「うん……」
みやびの目の下にはハッキリとしたクマができている。どうやらあまり寝ていないようだ。今日も徹夜するつもりだったのだろうか。可愛い顔が台無しだぞ……。
ところで、みやびもトイレに行きたかったのだろうか。俺はトイレから出て、自分の部屋に戻ろうとする。
「みやびも早く寝なよ……」
「ちょっと待って」
すると、みやびが俺のパジャマの袖を掴んできた。
「……どうした?」
「お兄ちゃんにちょっと話したいことがあるんだけど」
「え……」
小さな声で深刻そうに訴えかけてくるみやびの様子に、俺は何かただならぬものを感じた。
「とりあえず、私の部屋に来て」
「……う、うん」
俺はみやびに言われて、彼女の部屋に入るのだった。