太陽が地平線に沈みかけて、空は橙色に染まっていた。
そんな中、ラーンは入ってきた方とは反対側の城門から街を出ていく。
最終的に、ラーンは目的のものを全て買い揃えることができた。替えの服を一セット、カード入れ付きの財布、それらを入れるための容量の大きな背嚢。そして、腰に提げた鞘に収まった短剣に、帝国全土の地図。
ラーンの装備は、財布の重さが減るのと引き換えに、だいぶ充実していた。
残金は二百ゲルト。金貨二枚分しかないが、これからお金を使う機会はあまりないだろう。それに、足りなくなりそうだったら、また魔物を斃して魔石を換金すればいいだけだ。
揃えた装備の中で、今のところ一番役に立ったのは地図だった。これによって、ラーンは自分の現在地をようやくきちんと把握できた。
ラーンが今まで滞在していたのは、帝国中西部のヴァイテルフルス州、その南部に位置するクラインという小さな街だった。
地図には書かれていないが、施設はその街を南北に通る街道の西側のどこかにあったはずだ。ここまで来る途中、他の街などを見なかったことを考えると、クラインからはそこまで離れていない場所にあるはずだった。
次にラーンが向かうのは、ここからさらに南の方にある街、ノルトバルトだ。ノルトバルトはヴァイテルフルス州の南側にあるズーデンベルク州、その北部に位置するそこそこ規模の大きい街だった。
最終的に、ラーンは隣国の王国に亡命するつもりだ。そのためには、王国と帝国の国境となっている大河、ブラウ川を東から西へと渡らなければならない。
しかし、ブラウ川は川幅がとても広く、危険な魔物が多数生息しているため、渡れるポイントは限られている。
そして、そのポイントの一つに続く道の途中に、ノルトバルトがあるのだった。
クラインからノルトバルトまでは、歩いて一日程度の距離だった。急げば、半日未満で到着できるだろう、とラーンは予想していた。
すでに日が暮れ、辺りが暗くなりつつある。しかし、ラーンには街に泊まるという選択肢はない。
その一番の理由は、追っ手を恐れてのことだった。宿に泊まっている間に追いつかれて捕まってしまうことを、ラーンは本当に恐れていた。ラーンには時間的な余裕が存在しないのだ。
街の城壁がどんどん小さくなっていく。周りでは、家が減って農地が増えていく。太陽が地平線の向こうに完全に沈み、空が濃紺になっていく。
街道には、人も馬車もいない。街の近くなので、普通は皆、そこで宿を取って休むのだ。それに、夜は昼に比べてより危険な魔物が活発に動く時間帯でもある。
だからこそ、ラーンはこの時間帯に移動している。魔物も怖いが、ラーンにとっては人の方が怖かった。
ラーンは夜通し歩き続けた。月と星の光だけが、ラーンの行く道を照らしていた。
クラインからノルトバルトまでは、施設からクラインまでと比べると、道も道沿いも十分発展していた。
未開の森などはなく、小さな集落と農地が交互に続いている。街道もよく整備されており、魔物の出没も全然ない。
ラーンは休みなく歩き続ける。途中、どころどころで駆け足で時間を短縮しながら進んでいくと、地平線の向こうから太陽が昇る頃には、行く先に巨大な街の城壁が見えてきた。ノルトバルトだった。
ラーンが今通っている、北から街に近づく道の片側は、城壁までこんもりした森になっていた。ちょうど森の端をなぞるようにして、道が通っているような格好だ。
その森は、街を半分飲み込むようにして、ずっと南の方まで続いているようだった。地図によると、この森は『黒い森』と呼ばれており、ズーデンベルク州の六分の一ほどを占めている。
『黒い森』には強い魔物がいる、と地図の注釈には書かれていた。できれば避けて通りたい、とラーンは思う。
そのまま、街の城門に足を進めようとするが、そこから出てきた人々を見てラーンの足が止まった。
「……!」
咄嗟にラーンは道を外れて、森の中に駆け込んだ。
城門の前には、警備の兵士がいた。しかし、ラーンが注目したのは、彼らではない。
その隣にいる軍服を着ている三人の男たちだ。警備の兵士とは違って、しっかりとした身なりをしている。軍服の男たちは何かを話しているようで、幸いにもこちらには気づいていない。
ラーンは、呼吸を整えながらこっそり近づき、耳を澄ます。
「……本当にこの街に来るのだろうか?」
「わからん。あくまで、来るかもしれない、っていう話だ」
「まぁでも可能性は高そうですね。国外に逃げようとして南に向かった場合、ここを通ることになりますからね」
「それにしても、おっかねぇよな。帝国軍の秘密兵器が逃走したって。全く、担当部隊は何をやっているんだか。もっとしっかり管理しろよな」
「人相書によると、赤髪の少女、であると……弱そうに見えるものだが」
「きっと、そういう見た目にして敵を油断させるためですよ。軍が秘密にするくらいですから、とても強いはずです。だからこそ自分らが動員されているんでしょう?」
「まあ、確かにそうだな」
明らかに自分の話をしている。ラーンは血の気が引いていくのを感じた。
すでに逃走したのはバレているとは思っていた。だから、あとは時間の問題だった。
しかし、すでにここまで包囲網が形成されているとは思わなかった。まだ見つかってはいないものの、何らかの手段で先回りをされている。おそらく、この先の街にも、もう自分が逃げたという情報は伝えられている、と考えた方がいいだろう。
つまり、ラーンは一気に街に入るのが困難になった、というわけだ。
もちろん、目の前のノルトバルトにも入れないだろう。入ろうとすれば、軍服の男たちにバレてしまう。
ラーンには、迂回するという選択肢しか残されていなかった。
ラーンは森の中へ進んで行こうとする。が、続けて聞こえてきた軍服の男たちの話に、思わず足を止めた。
「ところで、三年くらい前にも同じような事件なかったか?」
「ありましたね。その時も、帝国の秘密兵器が五体逃げ出したとか」
「あれは結局捕まったのだろうか?」
「いえ。それどころか、王国に逃げてしまったとか……それで追うのは諦めたようです。外国に逃げてしまっては敵わないですからね」
「じゃあ、今回の奴も王国に逃げるかもしれない、っつうことか」
「その可能性は高いですね。だからこそ、この街の見張りに駆り出されているわけですから」
この話を聞いて、ラーンは少し希望を持った。
やはり、一号から五号までは、帝国から脱出することに成功したのだ、と。そして、王国に亡命したのだ、と。
今までメモに『王国で待っている』としか書かれていなかったので、本当に逃げ切れたのかどうかはわからなかった。しかし、今の軍服の男たちの話が本当だとするならば、五人は亡命に成功して、もう帝国を去っている、ということになる。
絶対に王国に亡命してやる、とラーンは決意を固くした。
そのためには、軍の人間には絶対に見つからないようにしなければならない。
ラーンは止めていた足を再び動かして、森の中を進むことにしたのだった。
当然ながら、森に道などは存在しない。日光が木にかなり遮られるせいか、下草こそ地面にあまり生えていないものの、地面では根っこが複雑に絡まり合って、気を抜くと躓いて転んでしまいそうになる。実際、ラーンは三回ほど転びかけた。
太陽はすでに高く昇っているはずだが、日光はあまり届かない。ところどころ差し込む光を辿りつつ、城壁の外側に沿って大きな弧を描いて迂回していく。
しばらく進んでいると、小さな水の流れと合流した。この森のどこかから湧き出た水が、流れを形作っているのだろう。目指している方向と同じ方に流れているようだったので、ラーンはそれを目印に進むことにした。
まだ森の奥深くではないからか、魔物の姿はどこにもなかった。都合が良いとはいえ、どこから敵が出てくるかわからないため、ラーンは警戒しながら慎重に進んでいく。
唐突にラーンは何かの気配を感じた。
前方、木や茂みに隠れて見通しが悪いが、その向こうに何かがいる。
ラーンは足音を殺して、茂みに隠れるようにして前に進む。
すると、目の前に川幅が広くなった場所が現れた。そこは小さな淵になっており、深さもそれほどではなく、水浴びに適していそうな場所だった。
そして、実際に水浴びをしている人物がいた。
まず目を引くのは金色の長い髪。すらっとした肢体。腰まで水に浸かり、こちらに背を向けている。
近くの木には彼女のものらしき服が引っ掛けてあり、近くの地面には背嚢が置いてあった。どうやら、水浴びをしているようだった。
こちらに気づいている様子はない。引っ掛けてある服からして軍の人間ではなさそうだ。
しかし声をかける必要を、ラーンは感じていなかった。むしろ、大通りから外れた森の中で水浴びをしている人間なんて、普通の人間でないことは明白だ。ラーンは関わるべきではない、と思った。
ただ、ラーンは彼女のいる方向に進みたかった。だが、彼女にはこのまま気づかれたくない。
逡巡したのち、仕方なく、ラーンはこの場を離れて迂回することにした。
そして、茂みから一歩下がった時、ラーンの踵は木の根につまづいた。
「あっ……」
声を上げた時には遅かった。バランスを崩して、ラーンは思い切り尻餅をついた。ガサガサと音を立ててしまう。
「何者⁉︎」
そんな声と共に、前からバシャバシャと音がする。そして、ビュッと風を切る音が聞こえたかと思うと、茂みの上から金髪を揺らしながら彼女が飛び出してきた。
「ひっ!」
ラーンは、彼女の左手に煌めいているものを見つけて後退りする。その左手に握りしめられていたのは、短剣だった。
ラーンは姿勢を立て直して、咄嗟に魔法を発動しようとするが、彼女は一瞬にしてラーンとの距離を詰めてくる。
気がついた時には、ラーンは彼女によって左腕を押さえつけられ、仰向けに倒されていた。
「運が悪かったわね、人間。私の姿を見たからには、この世から退場してもらうわ」
仰向けのラーンに馬乗りになった彼女は、そう言うと短剣をまっすぐ胸に振り下ろしてきた。
「ひ、わ、私は人間じゃない!」
咄嗟に、ラーンの口からその言葉が出た。
ラーンは自分でも、なぜ悲鳴でも抵抗の言葉でもなく、それが真っ先に出てきたのか、わからなかった。
しかし、意外なことに、彼女はその言葉を受けて、振り下ろした短剣を、ラーンの胸を切り裂く寸前でピタリと止めた。
「人間じゃない……?」
「そそそ、そうです! 私は人間じゃないです!」
一縷の希望を見出したラーンは、その事実を強調する。
しかし、馬乗りになっている彼女ははぁ、と呆れたようにため息をついた。
「……じゃあ、証拠を見せなさいよ。人間以外の種族なら、何か特徴があるでしょ」
そう言われてラーンが真っ先に思いついたのは、自分の体にはミスリルが流れている、ということだった。
ラーンはそれを示すべく、自由になっている右手で、胸に振り下ろされかけている短剣を握りしめた。
「ちょっ……!」
ラーンの手のひらに鈍い痛みが走る。小さな傷ならすぐに回復してしまうので、ミスリルは出てこない。ある程度の深い傷をつける必要があったので覚悟はしていたが、やはり痛みは不快なものだった。
ラーンの右手から、銀色の液体が流れ出す。
彼女は、その様子を見て驚きのあまり固まってしまった。
「…………」
「どうですか? ……これで、私が人間でないとわかりましたか?」
「わ、わかったわよ……わかったから!」
彼女は慌てたようにラーンの上から退いた。ラーンが精一杯の笑顔を浮かべようとして、しかしながら痛みを堪えた顔は、少々不気味なものだった。
「あなたが人間ではないと言うのはわかったから、早く手当てをしないと!」
「あ、それは大丈夫ですよ。ほら」
ラーンは身を起こすと、彼女に右の手のひらを向ける。
すでにミスリルの流出は収まり、徐々に傷が消えていく最中だった。
彼女は呆気に取られた顔をする。ここでようやく、ラーンは相手の顔をまともに見た。
整った顔立ちの美少女だ。若干吊り目がちで、気の強そうな顔をしている。
そして何より目を引くのはその耳だった。耳の先が尖っていて、人間よりも明らかに長い。
この世界には人類だけが住んでいるわけではない。人類とはよく似ているが、人類ではない、『亜人』と呼ばれる種族が存在する。彼女は、その亜人の一つである『エルフ』だった。
ラーンは、勉学でしか存在を知らなかったエルフが目の前にいることに、驚きを覚えた。それもそのはず、エルフは人間に対してとても数が少なく、しかも住んでいる地域からほとんど出ないと学んでいたからだった。
「あ、あの……」
「な、何よ……」
「とりあえず、服、着ないんですか?」
ラーンに指摘されて、エルフはここで自分がすっぽんぽんのままであったことに今更ながら気づき、顔が真っ赤になった。