ホムンクルスは魔力で動いている。その魔力は、何もしなくとも自動的に補充される。だから、基本的にはホムンクルスに食事は必要がなく、ずっと動き続けることができる。
首輪による制限が解除された六号は、夜通し街道を走って南下していた。
そして、空が明るくなり、日の光が差し込んできた頃、六号は林を抜けることができた。
こんなに連続して動いたのは初めてだった。疲労を感じた六号は、このタイミングで徐々にスピードを落として、歩き始める。
森を抜けた先には、平原が広がっていた。起伏のなだらかな丘がずっと続き、牧草地と畑が交互に入り混じっている。その中にはぽつぽつと木造の民家が点在していて、そのうちの何軒かは白い煙を煙突から吐き出していた。
のどかな田舎の風景。六号は初めて見る景色に、今まで感じたことのない気持ちになった。
人の姿は無い。誰かが馬車を走らせて来る様子もない。
しかしながら、太陽が昇ったということは、人間が活動を始めたということだ。きっと、今頃あの施設では自分が脱走したことが発覚して、大騒ぎになっていることだろう。
そう考えると、六号の気が一気に引き締まる。絶対に捕まってはいけない、というプレッシャーをひしひしと感じていた。
六号は自分の身なりを確認する。
ところどころ汚れていて、特に狼の魔物に噛まれたところが大きく裂かれた白い服。靴は履いていない。肌も綺麗だとは言えない。若干汚れているし、なんだか臭う……気もする。
これから人間の目に触れる機会は必然的に増加する。その時に、こんな格好だったら、自分はどう思われるだろうか?
変な格好をしていたら、人々に怪しまれる。そうなってしまったら、六号にとってはかなり悪い状況だ。そこから疑われて、自分がホムンクルスだとバレて、捕まってしまう……。
「ああああ!」
ダメだダメだダメだ! 六号は声を上げ、頭を振って否定する。絶対にそんなことになってはならない。何とかしなければならない。
六号は再び走り出す。しばらくすると、道から少し離れた場所に、小屋が見えてきた。明らかに人が住んでいるような家ではない。物置だろう、と六号は推察した。
辺りに人の気配はない。六号はキョロキョロと見回すと、道を外れてガサガサと草をかき分けて小屋に近づいた。
こちらを向いている戸はボロボロだ。六号が戸を押すと、ぎいいいいいと耳障りな音を立てながら扉が開く。
小屋の所有者はまさかこんなところに誰も忍び込むとは思っていなかったのだろう。小屋に鍵はかかっていなかった。
予想外に大きな音が響いてビビる六号。改めて周りに誰もいないか確認した後、慎重に小屋の中に入っていく。
小屋の中はとても埃っぽかった。誰も使っていないようで、棚の上や床の端など、至る所に埃が堆積している。
まず目につくのは、農具だ。鍬や鋤、鎌などが置かれている。
奥には一時的に休めるスペースがあり、小さなタンスや毛布、蝋燭、さらに非常用食料である瓶詰めなどが置かれていた。
どうやら、ここは農家の道具置き場兼一時避難場所のようだ。
六号に、農具は必要ない。今、一番必要なのは、着替えだ。
六号は奥に進むと、箪笥の引き出しを開ける。ここに何か着替えが入っていないだろうか、そんな期待をする。
箪笥に入っていたのは、農民の着ているような服だった。農家が所有している小屋なのだから、当然だった。
六号は、最初に取り出した男物の服を着てみる。だが、予想通り、六号にとってその服はあまりにも大きすぎた。ブカブカで動きづらい上に、明らかに怪しい格好だった。
六号は服を脱ぐと、下着姿のまま箪笥の中をゴソゴソと探す。
すると、箪笥の底の方から、女ものの服を見つけた。早速、身につけてみる。
「……うん」
少し胸周りとお尻周りがきついような気がするが、大きすぎず小さすぎず、六号にちょうどよい大きさの服だった。
それに、農作業用の服なので動きやすい。少なくとも先程の服装よりかはマシだった。
六号は箪笥から引っ張り出した服を元通りに戻し、近くのテーブルの上に、魔石を二つ置く。服を勝手に使うことの対価のつもりだった。
ポケットの中身を移し替え、今まで自分が着ていた服を小さく畳んで手に持つと、六号は拝借した靴と靴下を履く。そして、すっかり田舎娘になって小屋の外に出た。
六号は戸を閉め、小屋の後ろに回ると、炎の魔法で今まで自分が着ていた服を、灰も残さず高温で燃やしきる。
立ち昇る煙が消えたのを確認した後、六号は道と並行に流れている小川のほとりでしゃがみこんだ。そして、顔と手足、腕など、服から露出している部分を軽く洗う。
洗い終わった後、水面に映る自分の姿。
紅く長い髪に、同じ色の瞳。前髪がだいぶ長くなっており、全体的に少々ぼさぼさなのが気になる。
本当なら風呂に入るのが一番だが、今はそんなことはできない。人に見える部分を綺麗にすることが、六号にとっての精いっぱいだった。
六号は街道に合流すると、南へと歩き出す。
すでに日は地平線からだいぶ昇っており、畑にはちらほら人の姿があった。
六号は少々怯えながら、道を歩く。人の目に晒されることが怖い。すでに研究所からは容易には到達できない距離まで移動してきていて、追っ手はまだ来ていないとはわかっている。しかし、自分を見る周りの人間すべてが、自分のことを敵に密告しようとしているかのように六号は感じていた。
後ろからガラガラと音が聞こえてくる。六号はビクッと反応すると、後ろを振り返った。
遠くから荷馬車がやってきていた。荷台の前方にはガタイのいい男性が乗り、その後ろには箱が大量に積まれていた。その中には、農産物が入っている。
このまま道の真ん中を歩いていては、馬車の通行の邪魔になってしまう。何よりも注意されたら目立ってしまう。
六号は道の脇に避けると、馬車が通り過ぎるのを待つことにした。
しかし、六号の予想に反して、馬車はゆっくりと減速すると、六号のちょうど真横で止まった。
六号が戦々恐々としていると、馬の鞭を取る男性が、話しかけてくる。
「嬢ちゃん、いったいどこに向かっているんだい?」
六号は、今まで人とほとんど話したことがない。訓練の最中は話をする余裕は無かったし、勉学の最中は余計な言葉を発すると叱られ罰を受けた。六号が今まで話したことのある人間はたった二人。鎧の男と、禿頭の男だけだ。さらに、その回数は非常に少ない。
そんな六号が、今、初めて外の人間に話しかけられた。会話のボールはこちら側にある。
六号はあ、とか、え、とか挙動不審になりながらも、数秒経って蚊の鳴くような声で答えを絞り出した。
「……街に」
「街って……クラインの街かい? ここから徒歩だと丸一日はかかるぞ?」
六号は、勉学を通じて帝国の地理をある程度把握していた。しかし、小さな街の名前や位置までは把握していない。男性が発した、クライン、という名前の街も、六号にとっては初耳だった。
だが、六号は肯定することにした。ここで気の利いた言い訳を思いつければ良かったのだが、人との会話の経験が少ない六号の頭はあまりうまく働かなかった。
それに、どうせ自分は南に向かうのだ。この道の先にクラインがあるのならば、必然的にそこを通ることになるだろう。
六号は首肯する。黙ったままでいると、男性は思いもよらぬ言葉を発した。
「それじゃあ、荷台に乗って行きな。嬢ちゃん一人で行くのはさすがに無謀すぎる」
「……え」
「これに乗れば半日もかからず着くはずだ。ほら、乗った乗った!」
「……あ、ありがとう、ございます」
六号は若干とまどいながらも、荷台に乗り込む。
それを確認した男性は、鞭を打って馬車を再び動かし始めた。
六号は、とても戸惑っていた。これまで、『人の善意』を経験してこなかったのに、突然見ず知らずの人からそれを受けたのだ。
この後対価として何か酷いことをされるのではないか。六号は男性の背中を見つめながら、そんなことばかりを考えていた。
荷台に積まれている箱の中には、野菜がたくさん入っていた。おそらく男性の農場で収穫したもので、それを今からクラインの街に売りに行くのだろう、と六号は予想した。
男性は寡黙な人だった。馬車を操っている間、六号に話しかけてくることはほとんどなかった。だがそれが逆に、人とまともなコミュニケーションを取ったことのない六号にとってはありがたかった。
それに加え、男性との会話に意識を振り分ける必要が無いため、常に後方から追っ手が迫ってこないかを警戒するのに集中することができた。
太陽が南中を迎える。男性が馬車を止めると、荷台から降りて、六号に声を掛けた。
「昼ご飯にするぞ」
「……はい」
六号は荷台から降りた。
男性は道端に腰掛けると、鞄の中から水筒と籠を取り出した。籠を開けると、中にはサンドウィッチが数切れ入っていた。
「食べな」
六号が隣で見ていると、男性はそのうちの一切れを、六号に手渡した。六号はそれを受け取ると、じっと見つめる。
ホムンクルスは食事を必要としない。口、舌、消化器官などは備わっているので、『食べる』という行為自体はできるものの、魔力で活動できるためにそうする必要がないのだ。
したがって、六号は、生まれてから一度も『食べ物』を食べたことが無かった。六号にとって、『食べる』という行為は、勉学の中でしか聞いたことのない行為であり、『食べ物』という存在は、一つの概念でしかなかった。
そんな食べ物が、今、自分の手元に存在する。六号はその名前を知らなかったが、食べ物ということはすぐにわかった。
隣で男性がサンドウィッチを頬張る。六号もそれに倣って、一口齧った。
次の瞬間、六号はこれまで経験したことのない感覚を体験する。パンの味、レタスの味、ハムの味……。それらが口の中に広がっていく。
頭でしか知らなかった『美味しい』という形容詞を、六号は今この瞬間初めて実感した。
結局、六号はサンドウィッチを二切れ分けてもらった。人生で初めての食事に、六号は大満足していた。
二人は馬車に乗り込むと、再び南下し始める。
馬車が進むにつれ、周りの景色は徐々に変化していく。
森から出た地点では農地や牧草地がほとんどで、家は数えるほどしかなかった。それに、まだ未開拓と思われる、何もない原っぱや森も点在していた。
しかし、南に向かうにつれて、周りは農地が増え、それから家の割合が多くなっていく。いつの間にか、道の脇を流れていた小川は、流れを集めて川幅が広くなっていた。
太陽がだいぶ傾いてきた頃、行く手に大きな城壁が見えてきた。
遂に、目的地のクラインの街に到達したのだ。
馬車は城壁の前の堀に架かった橋を渡ると、城門に差し掛かる。
「待て」
すると、門の横にいた兵士に呼び止められた。男性は馬車を止める。
「今日は何をしに?」
「見ての通り、野菜を卸しに行く」
兵士は、男性の方を見る。その後に、六号の方を見た。
六号の心臓の鼓動が速くなる。何か言われるのではないか。もし何か言われたら適切に対応できるだろうか。頭の中で思考がぐるぐる回っていく。
「ふむ、行ってよし」
結局、兵士は六号については何も言わなかった。男性は馬車を動かして、城門を通過した。
城門を通過してから、男性は六号に尋ねる。
「そういや、嬢ちゃんはこの街のどこで降りるんだい?」
「え、あ」
六号は、自分がこの街で何をしようか、特に考えていなかったことに気づく。元々、南に向かおうとしていて、その通過点にクラインの街がたまたまあっただけなのだ。
しかし、街だからこそ、できることもある。これから旅をしていく上で、いろんなものが必要になるだろうということは、旅初心者の六号でもわかっていた。
だが、すぐにパッとそれを考えつくわけもない。当然、この街のどこで降りたいか、など考えているはずもなかった。第一、六号は今朝初めてこの街の存在を知ったのだ。
だから、六号は時間稼ぎをする。
「えと、この馬車はどこへ向かうんですか?」
「農業ギルドだ」
「農業……ギルド?」
初めて聞く単語に、六号は首を傾げた。
「ギルドっていうのは、簡単に言うと職業組合、つまり同じ職業の人が集まってできた互助組織のことだ。例えば、俺は農家だから、農業ギルドに属している」
そう言うと、男性はカードを取り出し、六号に見せる。よく見ると、そのカードには『農業ギルド所属』と刻まれていた。
「基本的には自分と同じ職業のギルドに所属することになる。嬢ちゃん、職業は?」
「……え、と、就いてないです」
今まで施設にいた六号が、職に就いているはずがなかった。
「そうか……まあ、なりたい職業のギルドに入ればいいさ。ただ、ギルドに入ると色々便宜を図ってもらえるから、入っておいた方がいい」
「は、はい……」
六号は考える。自分は何の職業ギルドに入れればいいだろうか? 少なくとも、農家ではないのだから農業ギルドではないだろう。
これから逃走して移動し続ける自分にとって、利用しやすいギルドは何だろうか……。
その時、六号は自分のポケットの中に入っている魔石の存在を思い出した。
「……あの」
「ん?」
「魔物を狩る職業……のギルドはありますか?」
「魔物? つまりハンターギルドのことかい? 嬢ちゃんにはちと厳しいんじゃねぇかなぁ」
「え」
「まあ、やりたいなら、止める気はないが……」
厳しいと言われて、六号は少し尻込みした。
ここに来るまでに、六号は狼の魔物を斃した。しかし、それだけだ。もしかしたら狼の魔物は弱い方で、普通の魔物はそれよりも遥かに強いのかもしれない。六号は不安になった。
しかし、現状自分はそれ以外に何かできるわけではない。布を織ることができるわけでもないし、鍛治で剣が作れるわけでもない。できるのは魔法で敵と戦うことだけだ。
六号の選択肢は、一つだけだった。
「……ハンターギルドに、入ります」
「……そうか」
男性はそれ以上は何も言わなかった。
クラインの街は賑やかだった。
道は馬車が何台も通行しており、通行人も多い。道の両側には数階建ての石造りの建物が聳え立っており、たくさんの店がこちらに入り口を向けていた。
二人を乗せた馬車は広場に差し掛かる。街の中央には広場、そのさらに中央には噴水があり、広場の端では、露天商が広場全体をぐるっと囲むようにして商売をしていた。
男性が馬車を止める。
「あの正面に見える建物がハンターギルドだ」
男性が指差した先にあったのは、立派な石造り三階建ての建物だった。入り口は開け放たれており、剣をもった屈強な男や、弓を持った女性、重装備の男に、巨大な結晶の嵌った杖を持った女性などが、出入りしていた。
六号は馬車を降りる。
「あ、ありがとうございました」
「おうよ、達者でな」
「あ、あの!」
「ん?」
「こ、これ……お礼、です」
そのまま行きそうになった男性を引き止めて、六号は自分のポケットから魔石を二つ取り出した。そして、男性に差し出す。
「これは……」
「そ、それではっ!」
六号は男性の手にそれを押し付け、逃げるようにしてギルドの方へ向かった。
あれが、半日かけてここに運んでくれたのと、サンドウィッチ二つ分に釣り合う対価であるかは知らないが、たぶん大丈夫だろう、と六号は信じることにした。
六号はハンターギルドの建物の前で立ち止まる。入り口の立派な装飾に気圧されそうになるが、六号は思い切って中に入った。