六号は瓶を開ける。中にはかなりの量のミスリルが入っていた。
ついつい飲んでしまいそうになるが、すんでのところで六号は紙に書いてある内容を思い出した。
六号は、首輪を手で押さえる。
この首輪はオリハルコンという特殊な金属でできている。軽いくせに非常に頑丈なのだ。
さらに、この首輪には六号の魔力を制限する魔法陣が刻まれていた。
六号はホムンクルスだ。ホムンクルスは食事を必要としない。その代わりに、魔力で活動している。
つまり、ホムンクルスにとって、魔力が制限されることは、生死に直結することなのだ。
実際、今まで六号は鎧の男の管理のもと、魔力を制限されていた。普段、首輪は赤、活動するのに最低限の魔力しか通さない状態、訓練時は、青、比較的魔力を通す状態、そして罰が与えられる時は、紫、一切の魔力を通さない状態、というように。
六号にとって、この首輪は忌々しくもあり、そして最も恐るべきものであった。
六号は首輪を回転させていく。すると、紙に書いてあった通り、首輪にわずかな隙間が存在した。前後二箇所、ちょうど互いに反対側の位置だ。六号は、その隙間に向かって慎重に少しずつミスリルを垂らしていく。
すぐに、シューシュー、と何かが溶ける音とともに、薄い煙が上がっていく。
しかし、見た目には全く変化がない。六号は少し落胆しながらも、自分の服に垂らさないように気をつけながら、辛抱強くミスリルをかけ続ける。
ミスリルが床に垂れる。その腐食性により、床の石材が溶け始める。六号は、もったいない、と思った。
ミスリルが床に垂れるにつれ、石が溶けて発泡する音が大きくなる。その音で、鎧の男がこっちにやってきてしまわないか、と六号は怯えた。しかし、もう後戻りはできない。
しばらくすると、ついに首輪に変化が訪れた。
六号が首輪を触ると、ガコガコと音が鳴る。接合部分が緩くなっているようだった。もう少しで外れそうだ。
「ふんっ……」
六号は腕に力を込めて首輪を内側から引っ張る。すると、ガチャン! と首輪は二つに割れ、床に転がった。
次の瞬間、自分にずっとのしかかっていた気だるさが、スッと消えたように六号は感じた。
試しに、火炎の魔法を使ってみる。手のひらを構えて、その先から炎が出るイメージ。魔力を集中させる。
首輪が赤になっているときであれば、絶対に火炎は出てこなかった。魔法を起こすには、圧倒的に魔力が足りなかったからだ。
しかし、今回は違った。イメージ通り、手のひらの先から、炎が噴出した。
六号はビックリして固まる。本当に出るとは思わなかったからだ。
そして、じわじわと魔法が自由に使える喜びが湧き上がってくる。もう、自由だ。首輪に縛られることはない。
六号は自分の手を見る。手首には、同じくオリハルコンでできた金属の輪がかかっている。六号は、先程と同じようにミスリルの残りを接合部分にかけて、輪を外していった。
両足のオリハルコンも溶かして外すと、六号の体を縛るものは何もなくなった。
六号は、空になった瓶と、外した首輪と手足に嵌っていた輪の残骸を、隠された空間に戻すと、元通りに石を被せた。さらに、ベッドの位置も元に戻す。
六号は、ベッドの上に置きっぱなしにしておいたメモを、ぎゅっと握りしめ、ポケットの中に入れる。そして、向こう側が外になっている、上部に鉄格子のはまった壁の前に立つ。
一度、深呼吸。
そして、六号は壁に向かって全力で炎を出す。
炎の当たったところから、壁は溶けることなく、消失していく。あまりの高温に、気体に昇華しているのだ。
「…………」
しばらくした後、炎を収めた六号の目の前には、綺麗な円形の穴が空いていた。穴の縁はいまだ赤く発光していて熱を持っている。そして、穴の向こうには、森が広がっていた。
風が六号の赤く長い髪を揺らす。
初めて見る外の景色。勉学の時に何度も聞いていたが、今、自分の目の前にはその外に繋がる道ができている。そして、いつでも外に出られる状況にある。
六号はごくりと唾を飲み込んだ。心臓がバクバクと速く鼓動を刻んでいる。
意を決して、六号は一歩を踏み出し、穴をくぐって外に出た。
六号を包み込むのは、澱んだ空気ではなく、気持ちの良いひんやりとした空気だった。髪を揺らした風は木々をも揺らし、周囲からザーッという音を響かせる。
空からは黄色い月がこちらを見下ろしていた。それは、窓越しで見ていたそれより、何倍も大きく見えた。
六号は後ろを振り返る。そこには、これまで過ごしてきた部屋がある。
数秒見つめたあと、忌々しい思い出を断ち切るように六号は前を向くと、裸足のまま、勢いよく走り出した。
外に出るとすぐに、石畳で舗装された一本の道にぶち当たった。道幅は広く、平らに舗装されているので、馬車も楽に走れそうだった。それだけ重要な道なのだろう、と六号は思った。
道の両側は鬱蒼とした森になっている。月の光も葉に遮られ、すぐ先が見通せないほど真っ暗だった。
左を向くと、建物の玄関が見えた。六号は、すぐにそこが、自分が閉じ込められていた施設だとわかって目を逸らした。
六号は右へと走り出す。少しでも遠くへ、見つからないように。
☆
六号は、自分が重要人物であることを知っていた。
そもそも、六号はホムンクルス。人間ではなく、魔法によって人工的に作られた存在だ。
ではなぜ、六号が生み出されたのか。もちろん、気まぐれではない。
生きた魔法兵器として、帝国が運用するためだ。
だから、六号には過酷な訓練が課せられた。戦争が起こったとき、少しでも多く敵国の兵士を殺せるように。
だから、六号には過酷な勉学が課せられた。戦争が起こったとき、指示をスムーズに間違いなく実行するために。
だから、六号には過酷な拘束が課せられた。訓練と勉学から逃げ出してしまわないように。そして、他国には秘密にするために。
もし、六号が脱出したと施設の職員が知ったら、彼らは六号を探し回るだろう。そして、なんとしてでも、再び自分たちの管理下におこうとするだろう。
しかも、一号から五号の件もある。あの夢が本当で、あのメモの通りに上手くいったのなら、一号から五号は施設が混乱している隙に脱出しているはずだった。その失敗を繰り返すまいと、六号の脱出はなんとしてでも阻止したいはずだった。
六号は、その追っ手を掻い潜り、遠くへ、遠くへと逃げなければならない。
狭い世界に生きていた六号にとっては、気の遠くなるような話だった。だが、走っている最中の六号に、このことを考える余裕は存在しない。
突然、六号は何かの気配を感じた。自分の右側の森からだ。
六号は走りながらそちらに目を向けるが、何も見えない。そして、視線を元に戻そうとしたその瞬間、森の奥で何かが光った。
六号の心臓が跳ねる。何かがいる。一対の光がこちらを向いていた。
その何かは自分と並走しながら、どんどん近づいていた。二つの光がどんどん大きくなる。
さらに悪いことに、最初に現れた光の後ろから、新たな光がどんどんと湧き出て、こちらに近づいてきていた。
六号は立ち止まった。そして、光に対して身構える。
ガサガサという音の直後、それは道に飛び出してきた。
体長二メートルをゆうに超える巨大な狼の魔物だった。銀色の毛並みが月に反射して輝いている。頭には巨大な一本の角が生えており、普通の狼とは違うことを示していた。
魔物とは、生物が非常に強い魔力を受け、変異したもの、またはその子孫のことだ。変異元の種よりも獰猛かつ凶暴、力も跳ね上がっていて、非常に危険な生物だった。
その例外に漏れず、狼の魔物の獰猛な顔は、真っ直ぐ六号の方を向き、まさに獲物を捉えんとしていた。
六号が何かをする前に、狼の魔物は六号に飛び掛かると、そのまま押し倒した。そして、腕に思い切り噛みつく。
「うああああぁぁぁぁああああ‼︎」
六号は叫び声を上げながら必死に抵抗する。しかし、狼の魔物は離れず、むしろより深くその牙を肉に食い込ませる。
だが、六号の体からミスリルが流れ出た瞬間、狼の魔物が突然飛び跳ねた。
「キャイーン!」
噛みついていた狼の魔物は情けない声を上げて、急いで六号から離れた。
他の個体も、六号を取り囲むが、少し離れた所から近づこうとしない。
六号の体から流れ落ちたミスリルが石畳に触れると、石畳が溶け始める。
それと同時に、六号の体の傷は治り始めて、ミスリルの流出が収まる。
ミスリルは、ガラスなどを除いたほとんどのものを溶かす。当然、生物にとっては猛毒に値する物質だ。
さらに、ミスリルはものすごく苦く、不味い。それゆえ、狼の魔物は自分の口の中に入ったミスリルに驚き、慌てて離れたのだ。
六号は立ち上がる。そして、手のひらを敵に向けた。目には、狼の魔物に対する、憎しみが込められていた。
「……死ね!」
そう叫んだ次の瞬間、六号に一番近い場所にいた群れの中の一体が、突然炎に包まれる。
その個体は、何か声を上げる間もなく全身が焼けこげ、あっという間に肉体が消失し、灰になった。
そうしている間にも、六号が手のひらを向けた個体から、次々と炎に包まれる。
何体かは六号の手のひらが向けられる前に逃げようと、情けない鳴き声を上げ、尻尾を巻きながらその場を離れようとした。
だが、六号はそいつらを見逃すつもりはなかった。自分を襲った個体ではなくとも、六号にとっては全員が敵、連帯責任だった。
こうして狼の魔物は全て炎に包まれた。しばらく後に、道が再び元の暗さを取り戻した時には、狼の魔物の群れはどこにも存在しなかった。
代わりに残っているのは、石畳に残った黒い焦げ。黒と白が混ざった灰の小山。そして、その中に埋もれるように顔を出していた、小さな深紅の結晶。
「これは、魔石……?」
六号は、狼の魔物らが残した置き土産を、かつて奴らだったものから拾い上げた。
魔石。魔物の体内で生成される、高純度のマナを含んでいる結晶だ。マナは、魔法を使うときに魔力に変換されるもので、そのために魔物の体内で生成される魔石は、魔法を使うための道具などに利用するために取引されている、と六号は学んでいた。
六号は魔石を九つ全て拾い上げると、ポケットの中にしまう。
これから先、人間界を逃げることになる。人間界では商品の売買で『お金』を使う。したがって、これから先、いかにして『お金』を手にするかが大事になる、と六号は勘づいていた。
そして、この魔石は『お金』になるかもしれない。六号はそんな打算を働かせていた。
道に残った灰を足で払い、奴らがいた証拠を隠滅すると、六号は再び走り出す。
ぐずぐずなどしていられない。一刻も早く、遠くへ行かなければならない。
しばらく六号が走っていると、突然道が分岐した。
目の前には丁字路。看板などは立っておらず、どちらも林の中に延々と舗装された道が続いている。
六号はどちらに向かうか迷う。だいぶ傾いた月の方角から考えると、片方は北へ、もう片方は南に向かう道のようだった。
六号は今まで勉強したことを思いだす。
今、自分がいるのは帝国中西部のヴァイテルフルス州、そのどこかだ。そこから北東方向に進むと帝都がある。
ここで帝都方面に行くのは悪手だ、と六号は結論付けた。自分は追われる身だ。今はバレていないかもしれないが、そのうち施設の誰かが脱走に気付く。何より、自分は帝国軍のために生み出された軍事兵器。軍が帝国中を捜索して自分を探し出すことは確実だ。
それならば、人が多く、なおかつ軍の拠点がある帝都に向かうのは、自分から見つかりに行くようなものだ、と六号は思った。
それよりかは、人口が少ない南部の方へひとまず移動するのが良いだろう。しかも、南部には、帝国西端を流れる大河の向こうの王国へ通じる、数少ないルートの一つがある。
ゆくゆくは、王国への亡命も––
「……よし」
六号は南を向くと、再び走り始めるのだった。