建物が崩れるけたたましい音がする。それに混じって、遠くから小さく怒号や悲鳴が聞こえる。
辺りは暗い。黒煙に包まれ、よく見えない。
周りは熱い。灰色の中、オレンジの炎が迫ってくる。
足音が近づいてきた。すると、目の前に幾つもの影が現れる。そして、そこから複数の声。
「おい! コイツはどうすンだ! 助けねェと!」
「いけません! 早くしないと追いつかれてしまいます!」
「だからって、このまま置いてくわけにはいかねェだろ!」
「しかし時間がありません! 今のわたくしたちには無理です!」
「ひぃっ! もう来てるよぉ……」
「いこう、もうだめだ」
「……ボクも、ここから離れた方が良いと思うよ。このチャンスを不意にするわけにはいかない」
「まだ外に出たことのないこの子まで無理に脱出させようとして、わたくしたち全員が掴まってしまったら元も子もありません!」
「……クソッ、わーったよ!」
「行きますよ!」
足音は去っていく。最後まで、声の主らの顔は見えなかった。
そして、ひときわ炎が強くなったかと思うと、轟音とともに目の前が真っ暗になった––
「……はっ!」
そこで、彼女は目を覚ました。
見慣れた薄汚れた灰色の天井。澱んだ空気。壁の高い位置にある鉄格子から差し込む光が、部屋を薄く照らしていた。
彼女は上体を起こす。白い両手首には黒い金属の輪が掛かっていた。足に目を向けると、同じように足輪が掛かっている。彼女にとって、それはいつも通りの光景だった。
この夢を見るのは何回目なのか、彼女自身も覚えていない。時々見る、不思議な夢だった。
夢の中に出てくる声は誰だろう? 姿の見えない複数の声。火事で建物が崩れていく中、どこかに閉じ込められている自分を、一人が脱出させようとするが、他の人に止められ去っていく。彼女は、声の主らに会ったことはない。だが、なぜかその声に懐かしさを感じていた。
それにしても、妙に生々しい夢だ、と彼女は思う。もしかしたら、夢なんかではなく、遠い過去の物心がつく前の出来事なのかもしれない––
「六号、訓練の時間だ」
そこまで考えた時、ガシャリガシャリという音が近づいてきた。
そして、部屋の鉄格子のドア越しに彼女の前に立ち止まると、低い声で彼女–-六号に告げる。
音の主は、全身を重そうな鎧に包んだ男だった。頭全体が防具で覆われているので、その表情は分からない。
男はドアを解錠すると、中に入る。そして、六号の首に嵌められている黒い首輪から伸びる鎖を掴むと、何の躊躇もなく引っ張った。
「うっ……!」
六号が苦しそうな声を上げて、半ば引きずられながら立ち上がる。
だが、男はそんな彼女の様子を意に介す様子は無く、無言で鎖を引っ張り続けた。
六号は大して抵抗することなく、鎖に引っ張られて歩き始める。
部屋からドアを抜け、鉄格子の向こうへ。男の後ろ数メートルを、六号は大人しくついていく。
このような扱いに、六号が不満を抱いていないわけがなかった。
しかし、この男に抵抗した場合、自分の身に何が起こるのか、六号はよくわかっていた。なぜなら、以前実際に抵抗したことがあるからだ。その結果を忘れてしまうほど、六号は馬鹿ではない。その時のことを思い出して、六号は思わず身震いする。
廊下を通り抜けると、二人は広い部屋に入る。天井は高く、奥行きもある。窓は無く、部屋の中には何も置かれていなかった。
男に続いて六号が入ると、重々しい音を立てて部屋のドアが閉まった。
「戦闘訓練だ」
そう言うと、男が腰に下げた巾着の中から、綺麗な多面体に加工された、手のひらサイズの赤い石を取り出す。男はそれを壁のくぼみにはめ込んだ。
それから、小さな声で何かを呟く。すると、男の周りには円状に深紅の光が立ち昇り、たちまち男を囲むように結界が生成される。彼は鎖から手を離した。
六号は身構える。すると、彼女の正面、少し離れた地点の床が青く発光し始めた。たちまち、そこに何重もの巨大な円環と、その隙間を埋め尽くす幾何学模様––魔法陣が描かれる。そして、その真上からは、一つ一つが腕一本分の大きさくらいの氷の塊が、部屋の端から端まで何百個も現れた。氷塊の先端は鋭く尖っていて、その切先は全て六号の方を向いていた。
「『二段階、解除』」
紅い結界の中で、男が呟く。すると、六号の黒い首輪の真ん中を水平に一周する赤い輪の部分が二回光り、青色に変化した。
次の瞬間、浮いていた氷塊が一斉に飛んでくる。
六号はそれに即座に反応し、手のひらを飛んでくる氷塊の方へ向ける。すると、彼女の手のひらより少し離れたところから眩い光が一瞬迸り、氷塊に向けて巨大な炎が発射された。
魔力というエネルギーを消費し、物理法則とはまた別の法則に従って起こる事象を、この世界では魔法と呼ぶ。
六号は、今まさに、魔法での攻撃に対して魔法で対処する訓練の真っ最中だった。
炎の中に突っ込んだ氷塊は、たちまちジュッと音を立てて瞬時に蒸発する。しかし、魔法陣は光り続け、後から後から氷塊を生成し、六号の方へランダムなタイミングで発射し続ける。
六号の炎は無尽蔵に生み出せるわけではない。最初こそ、全ての氷塊を一瞬のうちに蒸発させていたが、徐々に勢いが弱くなり、ついに溶けきれずに残った氷塊が彼女の体を傷つけた。
ザシュッ! という音とともに、六号の皮膚が切り裂かれた。
「ああっっ‼︎」
一度だけではない。飛んでくる氷塊は、幾つも幾つも炎を通り抜け始めていた。幾つかの氷塊は避けられたが、それでも避けきれなかった氷塊が六号の皮膚を裂き、肉に突き刺さった。
そして、ドスッ、と彼女の腹部に、巨大な氷塊が突き刺さる。
「ゴフッ」
六号が勢いで後ろに吹っ飛ぶ。
同時に、炎の噴出が止まった。当然、身を守る障壁が無くなったため、六号は容赦無く氷塊に襲われる。
「ああぁぁああぁぁ!」
六号はパニックになりながらも、自分の前に炎の壁を生成する。しかし、完全に氷塊を融かすには、それはあまりにも薄く、あまりにも弱かった。多少勢いが弱められながらも、氷塊は炎を通過し、六号の肉体を引き裂き、ボロボロにしていく。
六号はたまらず体を丸くして、氷塊が飛んでくる方に背を向け、頭を守るように小さくなる。六号の背中、脇腹にはどんどん氷塊が突き刺さる。その度に六号は苦痛に耐えるように体を揺らすが、時間が経つにつれて彼女の反応はどんどん小さくなっていった。
しばらくして、ようやく氷塊による攻撃が終わった。床の魔法陣が消えた後、男が結界を解除すると、六号の方に歩み寄る。
「…………ぁ…………っ」
六号は息も絶え絶えになっていた。虚な目をして、何も喋らず、動かない。ただ呼吸するだけだった。
背中や腹部には氷塊が突き刺さり、そこから銀色に輝く液体が流れ落ちる。その液体は六号の服を溶かし、穴だらけにしていた。さらに、それが流れ落ちた床からは、シュー、と薄い煙が上がっていた。
男はそんな六号の目の前に止まると、手のひらを翳して呟いた。
「『融けろ』」
次の瞬間、六号に突き刺さった氷塊が融け始めた。ものの数秒で、六号の体から氷塊は完全に取り除かれ、氷は気体になった。
しかし、これは同時に、六号の傷を塞ぐものが無くなったことを意味していた。
「あ……ぃっ! ……あああっっ‼」
大きな傷口から、銀色の液体が溢れだす。六号が痛みに耐えかねて叫びだす。
その一方で、異物が取り除かれた傷口はものすごいスピードで塞がっていった。すぐに銀色の液体は流れ出なくなり、六号の肌はすっかり元通りになった。
「『封印』」
男が呟くと、六号の首輪が二回光り、青から赤に変化する。男は六号の周りの銀色の液体に触れないように注意しながら、首輪についた鎖を掴むと、グイっと引っ張った。
「立て」
「うぐぅっ……‼」
六号は苦しそうな声を上げるが、男はお構いなしだ。無理矢理立ち上がらされて、六号がフラフラする中、男は壁から赤い石を取ると、六号を連れて開いたドアから部屋を後にした。
男は六号を別の小さな部屋に連れていく。そして、男が部屋のくぼみに水色の多面体状の石をはめ込んだ瞬間、天井から大量の水が六号を襲う。バシャーッと冷たい水を被り、六号はずぶ濡れになる。
「着替えろ」
男が六号に、タオルと、今着ているものとまったく同じ服を放り投げる。六号は朦朧とする意識の中、男に背を向けて緩慢な動きで着替えた。
六号が次に連れてこられたのは、椅子と机が一つずつある小さな部屋だった。正面の壁には黒板が備え付けられている。
「……ぁぅ」
六号は椅子に座らされる。力は抜け、視線は変な方向を向いている。
机の上には、ガラスでできた、小さな容器が置いてあった。
男はそれを手に取ると、慎重にその蓋を開ける。
そして、六号の口を無理矢理開けさせると、中身をその中に一気に流し込んだ。
「ごぉはほぉっ⁉ ごぼっ!」
たまらず、彼女が咳き込む。口の端から、流し込まれた銀色の液体が少しだけ漏れた。
「おやおや、今日は体調がよろしくないようですねぇ」
すると、教室に別の男が入って来た。甲高い声で、ねちっこいような話し方をする、白衣を着た禿頭の男だった。
「まーた過度に痛めつけたのですか? 困りますよぉ、こんなにされては」
「……訓練は計画通りに行った。今回は六号がたまたま対応できなかっただけだ」
「あまりにもボロボロだと、こっちの方に支障が出ますからねぇ。多少は加減して頂きたいものですよぉ」
「……早く勉学の方を進めてくれ」
「はいはい、わかりましたよぉ……それでは、今回は前回の復習としましょうかねぇ」
ぶつくさ文句を言いながらも、禿頭の男は六号の前に一枚の紙とペンを置くと、黒板の前に立つ。一方、鎧の男は、六号の鎖を掴んだまま背後の壁に寄りかかった。
「それでは、今から私が問いを出しますから、答えをその紙に書いてくださいねぇ、それでは始めますよぉ」
禿頭の男による試問が始まった。
「第一問、我が帝国の現皇帝陛下の名前を答えよ」
六号は若干回らない頭で考え、ペンで紙に答えを書きつけていく。
六号が出題された十問の解答を書き終えると、禿頭の男が紙を回収する。そして、六号が書いた答えを見つめると、眉をひそめた。
「……三問間違いです。四問目、五問目、八問目が間違っていますねぇ」
「がっ‼ あっ、、あがぎぃ゛……」
次の瞬間、六号の首輪が赤から紫に変わった。鎧の男が、魔法で操作したのだ。六号は苦しみだし、首輪に手を掛けて外そうとする仕草をする。だが、それが外れるはずがなかった。
目を見開き、よだれを垂らしながら苦しむ六号に、禿頭の男は近づくと、やれやれ、と言わんばかりに呟く。
「あなたは出来が悪いですねぇ……本当に真面目に勉強しているんですかぁ?」
「がはっ……」
首輪の色が紫から赤に戻る。六号は苦しみから解放されると、ハーハーと荒い呼吸を繰り返した。
禿頭の男は、踵を返して黒板の方に戻りながら独り言を言う。
「全く……あなたと違って三号はとても出来が良かったんですよぉ……。まぁ、それでも二号よりはマシですが。どうして同じホムンクルスでこうも差が出るのか……。私にはまったく、理解できませんねぇ」
「ふーっ……ふー……」
禿頭の男がこうボヤくのを、彼女はこれまでに数十回聞いていた。その度に、自分以外にも同じような扱いを受けている者がいることで自分を慰め、そして『三号』と呼ばれる人物ほど、賢くなりたいと願っていた。
「とにかく、あなたには学習が足りないようなので、これから補講を行いますよぉ、ついてきてくださいねぇ」
しかし、辛く苦しい今日の勉学の時間は、まだ始まったばかりだった。
☆
地獄の勉学から解放され、散々痛めつけられた六号は、鎧の男に連れられて、再び元の部屋の中に入れられた。外へ繋がる鉄格子からは、太陽の代わりに月の光が差し込んでいた。
床に倒れ込む六号。鎧の男の足音が遠ざかっていく。
今日も散々痛めつけられた。だが、体には傷一つついていない。全て治ってしまった。そういう体に生まれたからだ。
しかし、体の傷は治っても、心の傷は治らない。数百回、数千回受けた激しい訓練と過酷な勉学により、六号の精神は擦り切れていた。
六号の左目から涙が零れ落ちる。
泣けなくなってしまうまであと何日だろう。六号の頭の中を、そんな思考が一瞬掠めた。
六号は部屋の端っこに備え付けられたベッドまで這いずり、よじ登るようにしてその上に上がって、身を横たえる。
六号が部屋から連れ出されているうちに、シーツは洗濯された新しいものになっていた。
普段なら、六号はこの後すぐに眠りに落ちてしまう。しかしながら、今日はなぜか眠る気にはなれなかった。
六号は重たい手を動かして、ベッドの前方の柱に手をかける。柱は筒状になっていて、中が空洞になっていた。六号はその穴の中に自分の指を突っ込む。
指先に何かが触れた。
六号はゆっくりと顔を上げる。そして、ノロノロと体を動かして柱の近くまで移動すると、指を深く突っ込んだ。しばらく格闘した後、手に触れたものを外に引っ張り出すことに成功する。
六号の目の前に現れたのは、紙の切れ端だった。そこには何かが書いてある。六号は外から差し込む光を頼りに、書いてある乱雑な文字を声に出して読む。
「『真下の石畳を開けろ。首輪の継ぎ目にかけろ。王国で待つ』」
六号は、今朝見た夢を思い出した。火災が起き、建物が崩落する中、動けない自分に呼びかける複数の声。もしかしたら、このメッセージを残したのは、その人たちなのではないか。
六号はそんなことを思いながら、ベッドの下を覗き込んだ。
しかし、当然ながらベッドの下は真っ暗で何も見えない。六号はベッドから降りると、ベッドをどかそうと試みる。
疲れて力の出ない六号は、ベッドを引っ張ったり押したりして、少しずつ動かして、長い時間をかけてどうにかずらしきった。
「はぁっ……はぁっ……」
六号は息切れしながら、ベッドがあった場所の床を調べる。石畳のようになっていて、一見すると何の変哲もない床だ。
しかし、六号が一つの石畳の上に手を置いたとき、違和感を感じた。微かにその石だけゴトゴトと動く。
顔を上げて、鉄格子のドアの向こうの廊下から誰も見ていないことを確認すると、六号は石を剥がしにかかる。
「うぬぬ……」
重たい石が少しずつ動く。爪が剥がれそうになる痛みを耐えながら、苦労して石を引っ張り上げてずらすと、その下に小さな空間が現れた。
その中には何かが入っている。六号は光を反射してテラテラしているそれを取り出した。
ガラスでできた小さな容器だ。その中には、銀色の液体が入っている。
「……ミスリル」
六号はその液体の正体を口にした。
ミスリルは、銀色の液体金属だ。高い魔力伝導性を示す希少な物質で、六号が訓練中に体から流し、そして勉学の前に口に流し込まれたものだった。
六号は、ミスリルがガラスなどを除き、ほとんどのものを溶かす腐食性を持っていることを知っていた。それは、この世界で最も硬く、腐食に耐える金属であるオリハルコンも例外ではない。
そこまで考えた時点で、六号は気付く。
夢で見た、複数の声の正体。禿頭の男が示唆した、二号、三号の存在。ベッドの柱に隠されていたメモ。床の下に隠されたミスリルの小瓶。そして、メモの最後に書かれた、『王国で待つ』という短文。
これらが、六号の頭の中で一斉に繋がり、ある仮説を構成する。
自分がここに来るよりも前に、ここには自分と同類のホムンクルスが住んでいた。
そのホムンクルスは脱出したが、その際、後からここに入る自分のために脱出するためのヒントを与えた。
そして、そのホムンクルスたちは、夢の中の声の主。そう考えれば、夢の中の発言にも辻褄が合う。
いや、夢ではない。六号の意識が曖昧な頃、実際に起こったことなのだ。
自分が六号と呼ばれていることから、一号から五号までがいたことは何となく想像がついていた。しかし、今まで彼女たちがどこにいるのかわからなかった。
しかし、今日、六号はようやく理解した。このメモによれば、彼女たちは、すでにこの建物から……いや、この帝国から脱出して、隣国の王国にいるのだ!
姉たちのように、自分も自由になりたい。そして、自分の姉に当たる存在に、会いたい。
六号は、ここから脱出することを決意した。