翌日の早朝。村の西の外れには、大きな背嚢を持ったラーンと、フレデリカが朝日を浴びながら立っていた。
「それじゃあ、行くわよ」
「……はい」
「……やっぱり名残惜しい?」
「それは……」
「ラーンさえ良ければずっといてもいいのよ」
「いえ、それはやめておきます」
ラーンはきっぱりと断った。
本当は、名残惜しい。いつまでも村にいたい。帝国軍の追ってこない場所で、軍を気にせず暮らしていたい。
しかし、自分がこれ以上ここにいたら、いずれ軍が自分を追ってここに来てしまうかもしれない。本来いなくても良い存在である自分のせいで、この村が大変なことになってしまったら……と考えると、ラーンは早く王国に亡命しなければならない、と思うのだった。
ラーンはポケットからメモを取り出す。旅の過酷な環境に晒され、すっかりくしゃくしゃになったそれには、『真下の石畳を開けろ。首輪の継ぎ目にかけろ。王国で待つ』と書かれている。
自分を施設から解き放つきっかけになったそのメモに、『王国で待つ』という先達からのメッセージが残されている。これを果たさずにはいられない。何より、ラーン自身が、姉にあたるホムンクルスに会いたいと思っているのだ。
「……出発するわよ」
「はい」
ラーンとフレデリカの、最後の危険な逃避行が始まった。
『エルフ解放戦線』の拠点は、エルヴルン州中部の森の中にひっそりと存在している。ラーンたちが目指すのは、エルヴルン州の西端、ブラウ河を渡るための、エルフにしか知られていない渡り場だ。もちろん、人目につく街道などを通るわけにはいかないので、森の中の道なき道を通ることになる。旅の工程は全部で三日。最終日の夜に渡り場に到達して、夜の闇に紛れてひっそりとラーンが渡る計画だった。
二人は森の中を歩いていく。しかし、『黒い森』とは違って、エルヴルン州の森にはほとんど魔物がいなかった。
「さっきから全然魔物がいませんね」
「エルヴルン州の森には、魔物はほとんどいないわ。元々ほとんど魔物が湧かない上に、大きな山脈に遮られているから侵入が阻まれているのよ」
そう言って、フレデリカは北側と南側を交互に指差す。北側にはつい一月前に必死の思いで越えてきたエルヴルン山脈が、その雄大な姿を惜しげもなく晒している。一方、南側にも同じような、頭に雪を被った高峰がずーっと連なっているのが見えた。
「あんなところにも山脈があるんですね」
「ええ。スペラス山脈っていうのよ。あの向こうには強い魔物がいっぱいいて、向こうに行った人で帰ってこれたのは誰もいないそうよ」
「そ、そうなんですか……」
ラーンの持っている帝国の地図には、南の端の国境は書かれていなかった。その理由は、係争中でもなんでもなく、単純に危険すぎてどこまでが自国の領土である、と宣言できないからなのだ。
でも、きっとあの山の向こうにも、広大な土地があるのだろうな、とラーンは妄想を膨らませる。施設の中しか知らなかった自分の世界は、一月で随分と広くなった。それでも、まだまだその広がりに限りはないのだ。それこそ、自分より世界の広さを知っているフレデリカでさえ知らないくらいに。
いつか、この世界の全部を見てまわりたい、とラーンは密かに思うのだった。
二人はひたすら西に進んでいく。途中で食事休憩をとったり、夜になって暗くなったらキャンプファイヤーをしたり、誰とも会わずに進んでいく。地図上では、エルヴルン州を東西に横断する街道に、幾つもの街が描かれていたが、二人は特に街に寄ることもしなかった。
旅道具一式は、山脈を越える前に買ったものと拠点の村で整えてあったし、食料は森の恵みがとても豊富だったため、現地調達で特に困らなかったのだ。
「おお……」
「見えてきたわね」
旅を始めてから三日目の夕方、二人は高台に到着した。そこから見えるのは、東から西へと流れる支流・エルヴルン川と、北から南に流れてきた本流・ブラウ河の合流地点だった。合流した河は、東の方へと一直線に流れていく。
ラーンは一目見て、ブラウ河を越えるのが難しい理由を察した。なぜなら、河が流れていたのは、とても巨大な渓谷の底だったからだ。しかも、渓谷の幅もとても大きい。こんな場所、本当に渡れるのだろうか、とラーンは疑問に思う。
「あの河の向こうが、王国なんですよね?」
「ええ。そうよ」
「でも、どうやって渡るんですか? 橋などは見当たりませんでしたけど……」
「実はね、あそこには蔓が張ってあるのよ」
「蔓?」
「そう。エルヴルン州固有の種で、一見すると普通の蔓に見えるんだけど、これをほぐして、魔力を込めながら撚っていくと、とんでもない強度になるの。それを両岸に渡して、一人分が渡れるような、吊り橋を作っているのよ」
「す、すごいですね……」
目を凝らしてフレデリカの指差した方向を見ると、確かに小さいヒモのようなものが、こちら側から向こうに伸びているのがわかった。対岸が遠すぎて、どこまで続いているのかは霞の中に消えてわからないが、きっと辿っていけば王国に着けるのだろう。
「じゃあ、あれを渡ればいいんですね」
「まあ、そうだけど……でも、もっと簡単な方法があるわよ?」
「え?」
「なんのために私がいると思っているのよ」
「……もしかして、魔法で運んでくれるんですか?」
「……最初からそのつもりだったけど」
「じゃあ、なんでわざわざ蔓のある場所に……」
「それは、ここが一番川の幅が狭いからよ」
「あ、なるほど」
ラーンは、自分がフレデリカにとてもよくしてもらっていることに感謝していた。それと同時に、自分がフレデリカに対して何もしてあげていないのではないか、とも感じていた。フレデリカがいなかったら、ラーンは帝国を脱出することはできなかった。つまり、ラーンはフレデリカが必要だったのだ。しかし、フレデリカは、ラーンがいなくても拠点には帰れただろう。つまり、フレデリカにラーンは必要なかった。
ラーンにとって、そのことはとてももどかしく感じていた。
「フレデリカさん、本当になんとお礼を言えばいいのか……」
「どうしたのよ突然……」
「だって、私、今までフレデリカさんに助けてもらってばかりで……私のせいで危険な目に遭ってしまったこともたくさんあったし……何も役に立ててないです」
「そんなことないわよ! 私だって、ラーンに何度も助けられたわ」
「でも……フレデリカさんにしてもらっただけのことを、私はフレデリカさんにしてあげられてないです!」
フレデリカは少しの間黙る。
「……それじゃあ、二つだけ、ラーンにお願いがあるんだけど」
「はい、なんでも言ってください」
「一つ目、王国に着いたら手紙を書いてこちらに送ってほしいの」
「手紙……ですか?」
「そう。ラーン、文字は書けるでしょ?」
「ええ、それはまあ……」
「だったら、王国に無事に亡命できたら、そのことを手紙に書いて、送ってちょうだい。宛先はここにして」
そう言って、フレデリカはラーンに小さな木の札を手渡す。その表面には、文字が書かれている。
「ここに書かれている場所に送れば、私たちに届くわ。よろしくね」
「……わかりました」
「それと二つ目。エルフと仲良くしてほしい」
「エルフと……仲良く……」
「ええ。帝国への併合によって、王国に逃れたエルフも多いわ。だけど、その人たちの多くは、差別や貧困に苦しみながら暮らしていることが多い。だから、もしエルフたちが困っていたら、差別することなく、助けてほしいの」
「……わかりました」
「それと……まあ、こんなことは起こらないかもしれないけど……」
「……?」
「もし、私たちの組織が助けを求めることがあったら……その時は、よろしくね」
「……もちろんです」
「ふふっ、ありがとう」
フレデリカは微笑んだ。
すっかり太陽は沈み、辺りは急速に暗くなりつつある。二人は、渓谷の方へ歩き始める。
森の中は薄暗く、そのままどんどん暗くなっていく。ラーンは気持ちが早まり、フレデリカよりも前を歩いていく。
その時だった。ラーンから少し離れた木の根本が怪しく光る。光は全部で四箇所、ラーンを取り囲むように配置されていた。
次の瞬間、ラーンの足元に、紫色の光が迸る。すぐにその光は、そこに何重もの巨大な円環と、その隙間を埋め尽くす幾何学模様を描き出す。
魔法陣だ。ラーンがそのことを理解した瞬間、ズン、とラーンにとてつもない圧力がかかった。
「あっ……あ゛っ゛」
「ラーン!」
「来ないでください! フレデリカさん!」
ラーンは地面に倒れ込む。全身が凄まじい力で地面に押し付けられる。
とても熱い。圧力で空気が圧縮され、加熱されているのだ。呼吸をすると肺を焼かれそうになる。しかし、自分の体にのしかかる力で、ラーンは呼吸どころではなかった。
体が何十倍も重くなった感覚。苦しい。痛い。ビキビキと嫌な音が身体中から響く。体の中身がぺちゃんこに潰れていく。
「ごぽっ……」
すると、周りからガサガサと物音。ラーンがミスリルを吐きながら、そちらに目線を向けると、茂六からガサガサと音がする。
「かかったぞ!」
「ひっ……!」
現れたのは、帝国軍の兵士だった。
その瞬間、ラーンは理解した。これは、罠だったのだと。帝国軍の仕掛けた、自分を嵌めるための重力の魔法陣だったのだと。
幸いにも、フレデリカはこの罠にかかっていなかった。ギリギリ、魔法陣の外側にいて、難を逃れたのだ。
しかし、このままでは指名手配犯のフレデリカも軍に捕えられてしまう。かといって、ラーンを助けようとしても、魔法陣の範囲内に入ってしまえば、フレデリカもまた同じように重力の魔法にかかって潰されてしまう。
「フレデリカさん、逃げてください!」
「でも……」
「私は、大丈夫だから!」
「『風よ!』」
フレデリカは軍の方を見る。そして、再度ラーンの方をチラッと見る。
そして、何とも言えない悲しい顔をすると、風の魔法を使って飛び立った。
「ぅっぐうううう!」
ラーンは起き上がろうと試みるが、体はびくとも動かない。早く動かないと、軍に捕まってしまうのに、とラーンの中で焦燥感が募る。
次の瞬間、ビシッ! という音とともに、地面にラーンを中心とした放射状のひび割れが入る。同時に、地面がグラグラと揺れる。
「な、何だ⁉︎」
「地震だ!」
軍は想定外の事態に、狼狽して足を止める。ラーンは、今がチャンスだ、ともがく。
しかし、その手は空を切った。しかも、空を切ったのは手だけではない。体全体だ。
突然、ものすごい轟音がした。下を見ると、地面にぽっかりと巨大な穴が空き、真っ黒な暗闇がラーンを飲み込もうとしている。重力魔法による重みの増加に耐えられず、地面が崩落したのだ、とラーンはすぐに理解した。
しかし、ラーンは何もできない。地面がなくなったとはいえ、重力魔法は健在だし、フレデリカのように空を飛ぶ術も持ち合わせていない。
「ああああああああああぁぁぁぁぁぁ…………」
ラーンはなす術もなく、巨大な竪穴の中に落下していくのだった。