目の前を、火の粉が舞う。
周囲の木々には漏れなく火がつき、轟々と燃えている。
そんな状況なのに、不思議と熱さは感じなかった。しかし、その代わりに感じるのは激痛。全身を切り刻まれているようで、どこも凄まじく痛い。
自分の中から命のスープが流れ出していく。それはもう、残り少ない。
見下ろすと、そこには一人の人間が立っていた。かなりの数の細かい傷が、人間の鎧には走っている。これまでどれだけの激闘を演じてきたのか、容易に推しはかれた。
人間は大剣を構えてこちらを憎々しげに見上げている。しかし、自分が抱いていたのは、目の前の人間に殺される恐怖でも、目の前の人間にの仕打ちに対する怒りでもなく、ただただどうしようもないくらいの哀れみだけだった。
『人間よ、どうしてこのような酷い仕打ちをするのですか。何もやっていないではないですか』
「とぼけるな! 私は騙されない! 私は知っている。貴様が人々にこれまでどんなことをしてきたか!」
『……お前は皇帝に騙されているのです』
「戯言を! 皇帝陛下だけではなく、官僚も、聖職者も、みんな同じことを言っている! 貴様の罪は、その死を持って償え!」
もう命は長くはない。直感的に自分の最期であることを悟ると、人間に問いを投げかける。
『……人間、名は何というのですか』
「……■■■だ、冥土の土産に教えてやるよ」
『■■■。いつの日か、真実がわかる時が来るでしょう。その時は……きっと帝国が終焉を迎えます』
「そうか、ご忠告どうも! それじゃあな!」
次の瞬間、激痛とともに首に痛みが走る。
「……ぁ……あ……っ……」
目が覚めた。視界が霞んでよく見えない。
知らない天井だ。いったいどこにいるんだろう。ラーンはほとんど考えられない頭でぼんやりそう思うが、次の瞬間、ものすごい痛みが全身を襲いそれどころではなくなった。
「ああっっっああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ー!」
ラーンは叫ぶ。しかし、叫び声に呼応して、全身に激痛が走る。
頭も痛い。首も痛い。肩も痛い。腕も痛い。手も痛い。胸も痛い。腹も痛い。背中も痛い。脚も痛い。足も痛い。
全身を複雑骨折している上に、内臓もいくつか潰れている。体が動かない。動かせない。
「し……しぬ…………」
ラーンは生きているのに死にそうになっている状態だった。
魔力が欠乏している。頭がクラクラする。ミスリルを失いすぎたのだ。どうして体を保って生きているのか不思議なくらいだ。
すると、遠くからバタバタと足音がして、誰かがこちらを覗き込んでくる。
「め、目が覚めました! 大丈夫ですか!」
目がぼやけて何者なのかわからない。しかし、このままでは魔力が足りずに死んでしまう。
「み……すり……」
「な、何ですか?」
「ミス……リル……はやく……」
「い、今持ってきます!」
バタバタと再び足音が遠ざかる。その足音はすぐに戻ってきて、目の前には水差しが差し出される。その中には大量の銀色の液体。ミスリルだ。
「ミスリルです!」
「のま……せて……」
ラーンの口を開けさせられる。激痛の中、今度は苦いものが口の中に流れ込む。吐き出しそうになるが、体が渇望している。相反する本能に体が混乱するが、ラーンは理性でどうにか喉の奥にミスリルを流し込む。
「ゴポゴポゴボ……」
呼吸もままならない状態で、ミスリルが体に流れ込む。苦い。苦しい。しかし、どうしてラーンはとても自分が満たされていくのを感じた。自分の中に命のスープが流れ込んでいく。
ラーンはあっという間に大量にあったミスリルを飲む干してしまった。ゴホッゴホッ、と咳をする。
しかし、先ほどよりも痛くはない。もう体が回復し始めているようだった。
「あ、あの……大丈夫……ですか?」
ラーンはやっと、自分に声をかけてきた人の正体を知る。
金色の髪をおさげにしている。背はかなり低い。まだ子供だ。
だが、その耳は見間違えようがなく、先が尖っている。エルフだ。
「ひ、ひとまずは……」
ただし、フレデリカではない。フレデリカはもっと大人びているはずだった。
「とりあえず、フレデリカ姉さんを呼んできますね」
「あ……はい……」
彼女はにっこり笑うと、そう言って部屋を出て行った。
ラーンは辺りを見回す。自分が横たわっているのは白いベッドだ。掛け布団を捲ると、全身が包帯でぐるぐる巻きになっていた。高いところにある窓からは、太陽の光が優しく差し込んできている。
部屋の中には、ベッドの他にも箪笥や小さいテーブルなどが置いてある。どうやら木造のどこかの住宅らしい。
次の瞬間、ドドドドと何かが床を踏み鳴らす音が聞こえた。それはどんどんこちらに近づいてきており、そしてバーンと勢いよくドアが開いた。
「ラーン!」
「ふ、フレデリカさん……!」
姿を現したのはフレデリカだった。部屋に入ってくると、そのままフレデリカはラーンに思いっきり抱きついてきた。
「目覚めたのね〜、よかったぁ〜。もうずっと目覚めないんじゃないかと思ったわよ〜」
「フレデリカさ……ちょ……苦しいです」
「あっ、ごめんなさい……」
フレデリカは慌ててラーンから離れる。それでもなお、ラーンが目覚めたことに、フレデリカは興奮しているようだった。
フレデリカがいたことに、ラーンはひとまず安心した。しかし、ラーンにはわからないことが山ほど残っている。
「……フレデリカさん、聞きたいことがいくつかあるんですか」
「ええ、何でも聞いてちょうだい!」
「私は、峠に到着した後、どうなったんでしたっけ……」
「えっと、私に先に行け! ってラーンが言うから、私は魔法で飛んだのよ。そうしたら、ラーンと兵士たちの間で突然爆発が起こって、吹き飛ばされたラーンが山の崖を転がり落ちたのよ」
「……そうでしたね」
ミスリルの回りが良くなってきて、頭が働き始めたのか、ラーンの記憶も徐々に戻ってくる。記憶がなくなったのは、空中から地面に叩きつけられて、頭かどこかを打ってしまったからだろう。
「もう、本当に酷い怪我だったんだから! やっと転がるのが止まったと思ったら、腕と足は変な方向に曲がっているし、ミスリルがドバドバ出ていたから、迂闊にさわれなかったのよ。でも息があったから、私がここに運び込んだのよ」
「……ありがとうございます。それで、ここはどこですか?」
「エルヴルン州の『エルフ解放戦線』の拠点よ」
薄々勘づいていたが、どうやらフレデリカは自分たちの組織の拠点まで運んでくれたようだ。
そして、ラーンは一番気になっていたことを尋ねる。
「……帝国軍の追っ手は?」
「撒いたわ。ここには絶対にやってこれない」
その言葉を聞いて、ラーンは心から安堵のため息をついた。視界がにじみ、頬を涙が伝う。
「私は……私たちは、逃げ切れたんですね……」
「そうよ。逃げ切ったのよ……!」
ついに帝国軍の手から逃れることに成功した。ずっと張り詰めていた糸がプツンと切れ、涙が止まらない。
ひとしきりラーンが泣き終わるのを待って、フレデリカは言った。
「とりあえず、しばらくここで休みなさい。王国に亡命するのはそれからでも遅くはないわ」
「……わかりました。お言葉に甘えさせてもらいます」
こうして、ラーンは帝国軍から逃げ切れたことを噛み締めながら、ひとまず休息を取ることにしたのだった。
☆
『エルフ解放戦線』。
帝国暦二百二十七年に併合されたエルフの国、エルヴルン国の復興を企む反政府組織だ。
エルフによる、エルフのための、エルフの国を作る。そのことを目標に、帝国に馴染めなかったエルフたちが、帝国全土で活動している。
もちろん、帝国政府はエルフ解放戦線の存在を知っている。そして、帝国の一体性を揺らがせる異分子として排除しようとしていた。
「だから、帝国、とりわけ軍には絶対に見つからないように、結界が張ってあるのよ」
フレデリカは目の前の何もない空間に手を伸ばす。すると、突然緑色をした透明な膜が、フレデリカの手に反応して現れた。
フレデリカは手を引っ込めると、膜は消えた。そのまま歩いていくと、再度膜が現れた。フレデリカの全身は何の抵抗も受けずにその膜を通り抜けた。
「内側からは、こうやって外に出られるんだけど、普通の人は外からは入れないわ。私はエルフだから入れるけどね」
そう言って、フレデリカは何事もなかったかのように再びこちら側に戻る。
「じゃあ、私はどうやってこの中に入ったんですか?」
「一旦、この結界を解除したのよ」
「そうなんですね……これってものすごく広いですよね。どうやって保っているんですか?」
「昔のエルフが作った、すごい魔法装置があるの。それで周囲のマナを吸って自動で動いているわ」
ラーンは、施設で鎧の男が使っていた結界と、石をはめ込むと動き出す魔法陣を思い出していた。あの二つを合体したような仕組みなのだろう、と理解した。
「それじゃあ、戻りましょうか」
「はい」
フレデリカに結界を見せてもらい満足したラーンは、二人で拠点の中心部に戻る。
しばらく森の中を歩くと、突如として開けた場所に到着する。
周りには平屋建ての可愛らしい木の家が立ち並んでいる。鳥が囀り、日光が暖かく差し込む。
「あー! フレデリカだー!」
「ねーちゃーん」
「あそぼ〜」
すると、広場で遊んでいた子どもたちが、二人の姿を見つけてこちらに駆け寄ってくる。
「はいはい、そんな慌てない慌てない」
フレデリカは笑顔になって子供に囲まれる。
そして、子供たちはラーンの周りにも集まってきた。
「赤いかみのおねーちゃんもあそぼーよ」
「なんでおねーちゃんは黄色のかみじゃないのー?」
「え、ええと……それは、私がホムンクルスだからで……」
「ほむんくるす?」
「おっぱいおっきいー」
「ひゃああああ」
「おしりもおっきい〜」
「ひょえええええ」
「ねえなんでー? エルフはみんなちっちゃいのに〜」
「コラー! ラーンの胸と尻を揉まないのー!」
「フレデリカが怒ったー!」
「逃げろー!」
キャハハハハと無邪気に笑いながら、エルフの子供たちは逃げていった。ラーンは膝をつく。
「ごめんなさい、あの子たちに言い聞かせておくから」
「いえ……良いんです……私が大きいのが悪いんですから……」
「そ、そんなに落ち込まないで……」
ラーンが目覚めてから一月が経った。ここでの生活にはかなり慣れてきたが、エルフの子供たちと触れる機会は少ない。そもそもラーンがあまり外に出ないというのもあるが、ラーンが一人でいるとエルフの子供たちは近寄ってこなかったのだ。
ただ、エルフの子供とはいえ、子供なのは見た目だけだ。年齢はラーンよりはるかに年上。エルフはとても長齢なので、幼年期も長いのだ。フレデリカも、年齢を聞くと怒るのでわからないが、少なくとも百歳は超えているだろう。ラーンはため息をついた。
「とりあえず、行きましょう。さあ、立って」
「……はい」
「それに、今日は大事な話があるから」
「大事な話……?」
「ええ」
フレデリカを先頭にして、二人は村の中を歩いていく。そして、一つの家の中に入っていく。
ここはフレデリカの住居だ。ラーンが怪我を負っていた時に寝かされていたのも、この家の一室だった。フレデリカは家に入ると、照明をつけて、ダイニングのテーブルの席に腰掛けた。ラーンはその向かいに腰掛ける。
ラーンは落ち着かずにソワソワする。しばらく待ってもフレデリカが黙ったままなので、耐えられずにラーンは話を切り出した。
「話っていうのは……」
「軍が、動き出したわ」
ラーンは息を呑む。フレデリカは言葉を続ける。
「帝国の東で戦争が始まったわ。おそらく、また領土を広げる気でしょうね」
この時点で、フレデリカが何を言いたいのか、ラーンは察していた。
「じゃ、じゃあ……」
「ええ。私たちを追ってエルヴルン州に駐留していた兵士たちは、どんどん移動して少なくなっているわ。戦争がどこまで長期化するかわからない以上、亡命するなら今よ」
フレデリカの口から出た『亡命』という言葉に、ラーンは実感が湧いてくる。
帝国から離れ、王国に入るのはもうすぐだ。ラーンの悲願は果たされる。
「ついに、この時がやってきましたね……」
「なるべく早い方がいいわ。準備しましょう」
しかし、同時にそれは、この心地よい環境との別れも意味している。
嬉しいような悲しいような、モヤモヤした気持ちで、ラーンはその日就寝するのだった。