「それじゃあ、行きましょうか」
「わかりました」
巨人を倒してから二日目の朝、登山装備に着替え、体調を整え、万全の体制になった二人は洞窟を出発した。
結局、巨人を倒した翌日は、丸一日使って体力と傷の回復に努めることになった。
幸いにも、フレデリカに目立った外傷はなく、骨折もしていないみたいだった。しかし、打撲をしているようで、その日はあまり動けなかったのだった。
一方、ラーンは勝手に回復こそするものの、受けたダメージが骨や内臓にまで響いているようで、回復スピードが遅かった。さらに、施設では流出した分のミスリルが補給できたからよかったものの、ここでは補給できなかったため、回復の遅延に拍車をかける形になってしまったのだ。
その間に二人は倒した巨人を調べた。どうやら巨人は魔物だったようで、心臓の近くに魔石があった。グローサーベアーと同じくらいの大きさで、かなり価値のありそうなものだった。ラーンは、炎の魔法を使い、うまい具合に魔石を取り出した。
フレデリカによれば、この巨人の魔物は『ギガント』というらしく、エルヴルン山脈特有の魔物らしい。しかし、人前に姿を現すことはほとんどなく、フレデリカも伝承で知っている程度の、とても珍しい魔物だった。
ただ、魔物を倒せたは良いものの、二人はその処理に困った。移動させたかったが、あまりにも重すぎてフレデリカの風魔法では移動させられなかった。かといって解体して外に運ぶのもとても手間で、燃やそうにも洞窟の中だけにやりづらい。
二人は仕方なく放置することに決めたが、次第に悪臭が発生し、どんどん酷くなっていくばかりだった。
ラーンはこの匂いに釣られた魔物に襲われてしまうのではないか、と思ったが、フレデリカによると、どうやら山脈にはもともと生息している魔物は少ないらしく、あまり心配しなくて良いとのことだった。
そして、どうにか悪臭をやり過ごした二人は、倒してから二日目の早朝に外に出る。
一昨日の夜から断続的に降り続いていた雨は、今朝止んだようで、外は青空が広がっていた。
二人は元の道に戻ると、山登りを開始する。
「とりあえず、今日の夕方までに峠を越えるわよ」
「はい」
これから目指すのは山の頂上ではなく、峠だ。峠といっても、周りの山より少し低いくらいの高さだ。そこまでなら軍も追ってこれないだろう、と二人は予想していた。
ラーンは時々チラチラと後ろを振り返るが、誰の姿も見えない。山を登っているのは本当に二人だけだった。
しばらく山道を登っていると、ついに目の前が雪道になった。二人はシュタイクアイゼンを靴につけると、銀世界をゆっくり登っていく。
今朝まで雪が降っていたのか、雪はまっさらで何の痕跡も残されていない。道すらまともに見えないその斜面を、二人は白い息を吐きながら、ゆっくりと、ゆっくりと登っていく。
昼休憩を挟み、二人はさらに高度を上げる。ラーンがふと振り返ると、眼下には広大な平野が広がっていた。手前側にはシュニーの街、奥には『黒い森』が広がっていて、さらにその奥には微かにノルトバルトの街が見える。研究所ももしかしたら見えるのではないだろうか……とラーンは思う。
「ラーン、進むわよ」
「あ、はい! すみません」
フレデリカに声をかけられ、ラーンは慌てて前を向いて、再び歩き始める。
ラーンは改めて、世界は広いことを改めて実感する。わずか七日前まで施設の一室が自分の世界の全てだった。それが今、ここまで広がっている。これからもこの広さを保つ、いやもっともっと広げていくには、この山を越えなければならない。
「……ちなみに、峠までどのくらいですか?」
「そうね……このペースなら日が落ちるまでには着けそうね」
「泊まるところはどうするんですか? 野宿ですか?」
「いいえ、違うわ。実はね、峠には建物が残っているのよ。まだ帝国とエルヴルン国の国境が引かれていた時代に建てられたものね。今は廃墟になっているから、今日はそこに泊まるわ」
「わ、わかりました」
二人は、昼休憩を挟み、ひたすら雪の上を登っていく。森林限界を超えたせいか、周りは開けており、一切の遮蔽物が存在しなかった。見上げれば、雲ひとつない、抜けるような快晴。濃い青空が広がっていて、太陽がギラギラと照りつけてくる。しかし、高度が上がるごとに、どんどん寒くなっていき、そしてラーンの呼吸は苦しくなっていった。
「ふーっ、ふーっ……」
「ラーン、大丈夫?」
「……ちょっと、苦しいです」
「もしかしたら、高山病かもね」
「高山病?」
「そう。高い山に登ると、空気が薄いせいで、眩暈がしたり、吐き気がしたり、呼吸が苦しくなったりするのよ」
「なるほど……フレデリカさんは、大丈夫なんですか?」
「高山病は、人によって発症する高度が違うのよ。峠くらいまでの高さなら、私は大丈夫よ」
フレデリカのことが、ラーンは少し羨ましかった。
「少しペースを落としましょうか。もう少しだから、頑張りましょう」
「……はい」
フレデリカに励まされながら、ラーンは一歩一歩、雪を踏みしめて登っていく。
もうすぐ、もうすぐ、峠を越えて、エルヴルン州に入る。そうしたら、『エルフ解放戦線』の拠点に案内してもらえる。反政府組織というくらいだから、帝国軍の目にはつかないような場所にあるのだろう。そこまで行けば、勝ちだ。ラーンは、それだけを見据えながら、必死に足を動かし続ける。
かなり時間が経過し、太陽が傾き、空が赤くなってきた頃、不意にフレデリカが立ち止まった。
「見えてきたわね」
「え……?」
「峠の頂上よ。見える? あの建物」
フレデリカが指差した先には、小さな白い石造の建物があった。稜線上に建っているため、建物の向こう側に山肌は見えない。
ラーンの希望の炎が激しく燃え上がる。
「……フレデリカさん、いきましょう!」
「ええ……そうね!」
二人は最後の力を振り絞って、雪を踏みしめていく。
太陽は地平線へ沈みゆき、辺りはどんどん暗くなる。
そして、稜線上に差し掛かり、地面がなだらかになって、建物が大きくなってきた、その時だった。
建物に明かりが灯った。
次の瞬間、ラーンの心臓が跳ねる。そして、猛烈に嫌な予感を感じた。
それはフレデリカも同じだったようで、ラーンの隣で足を止め、建物を見つめている。
北側からの登山者はラーンたち二人だけだったはず。それなのに峠の建物に明かりがついた、ということは、他にここまで登ってきた人がいることを意味している。
建物の周りに目を凝らすと、幾つもの足跡がついていた。それは、こちら側の道の途中から突然現れ、そして建物の入り口に続いている。
実は、二人の後を何者かが追って登ってきていたのだ。そして、洞窟で休んでいる間に抜かされた。峠まで登山道についていた足跡は、降った雪でかき消されてしまい、気づけなかったのだ。
「……フレデリカさん」
「……まずいわね」
二人とも、最悪の事態を想定していた。
あの建物の中には軍隊がいて、ラーンたちを捕まえようと待ち構えている。
ラーンは辺りを見渡す。このまま道なりにいくと、建物のすぐ真横を通ることになる。本当ならそれを避けて別の道へ行きたいが、建物の両隣はかなり急な斜面になっていて、とても迂回することはできない。かといって時間的にも距離的にも引き返すわけにもいかない。
「……どうしますか」
「静かに、なるべく早く通り過ぎるしかないわね」
「……わかりました」
フレデリカは、ラーンを抱えようとする。風魔法を使って、一気に通り抜けようとしているのだ。ラーンはその意図を理解して、フレデリカに身を預けようとした。
次の瞬間、ガチガチガチッ! と地面から不気味な音がした。慌てて辺りを見回すと、雪の地面がみるみる凍りつき、そしてこちらに迫ってきていた。
このままでは足が氷に飲み込まれて動けなくなってしまう! ラーンがそう思った瞬間、二人はズボッと足を雪から抜き、そのまま上昇した。
「魔法攻撃ね……!」
下を見ると、さっきまで自分たちが立っていたところは、すっかり凍りついてしまっていた。あのままだったら、間違いなく足が地面に取られて動けなくなっていただろう。
すると、建物の中から数人の兵士が現れた。二人の最悪な想像は当たっていたのだ。
「赤く長い髪の女……間違いない、手配書にあった通りだ!」
「それに金髪のエルフもいるぞ! エルフの指名手配犯だ!」
「どど、どうしましょうフレデリカさん!」
「仕方ないからこのまま峠の向こう側まで下るわ!」
そう言って、フレデリカは風魔法を調節して、そのまま建物を越えようとする。
しかし、軍はそう簡単に二人の逃走を許すつもりは無かった。
「『暴風!』」
兵士の一人が大声でそう叫び、空を飛ぶ二人に杖の先を向ける。
すると、二人の周辺に、フレデリカの魔法のものとは違う別の突風が吹き荒れる。
「ああっ、うう……」
「フレデリカさん!」
「制御が……効かないっ……!」
風魔法で突風を吹き起こし、空を飛ぶ。しかし、それは言うは易し、行うは難し、だ。
しっかりとした足場があるわけではない風で、空を飛ぶのはとても難しい。緻密な操作が要求され、一歩間違えれば落下してしまう。空を自由自在に飛べるのは、風の操作に相当習熟している者だけ。いくら風魔法に長けているエルフとはいえ、これができるのはフレデリカなど、ほんの一握りしかいなかった。
兵士の放った魔法は、二人を浮かす風の流れを乱す。フレデリカは体勢を立て直そうとするが、ランダムに乱れる風を制御しきることはできない。すぐに失速して、雪の上に墜落してしまった。
「うばっ!」
「がはっ!」
ずぼん! と浅くはない雪の中に、二人の体は埋まる。すぐに立ち上がれないでいると、兵士たちが続々とこちらに向かってくる音がして、二人は慌てて立ち上がる。
兵士たちはかんじきのようなものを履いていた。そのため、雪でも沈まず、二人よりも早く移動できていた。
「銃は使うな! 生捕りにしろ! 魔力を封じれば、赤髪の方は動けなくなる!」
マズいマズいマズい! ラーンは焦る。兵士たちは、自分の弱点を把握している! 普通の生物は、魔力を封じても活動できる。しかし、ホムンクルスは魔力だけで動く。魔力を封じられることは、窒息させられるのと同じことなのだ。
二人は逃げようとするが、今度は足が動かない。気づくと、足元がカチコチに凍っていて、一歩も動けなくなっていた。しかも、凍りつく範囲は徐々に広がっており、足先から脚へ、そして太ももへとどんどん登ってきていた。どんどん下半身の感覚がなくなっていく。
「ぐうっ!」
次の瞬間、隣に立っていたフレデリカがよろめく。見ると、左側頭部から血を流している。
「フレデリカさ……っ!」
次の瞬間、ラーンは腕に勢いよく何かがぶつかるのを感じた。見ると、氷の礫が雪の中にコロコロと転がっていた。
氷の魔法だ。おそらく兵士の誰かがこちらにぶつけてきたのだ。フレデリカの頭に当たったのも、同じものだろう。ラーンの頭を狙っていたのだろうが、狙いが逸れてしまったらしい。
ラーンは考えを巡らせる。このままでは程なくして捕まってしまう。今は、どうにかしてここから脱出しなければならない。
「ううっ……」
ラーンは魔力を絞り出して、足元に炎を出す。シューシューと白い湯気が猛烈な勢いで立ち上ぼる。冷たさと暑さで脚の感覚がどうにかなりそうだったが、少しの間耐えるとすぐに足が動くようになった。
そして、炎を兵士たちの目の前に出す。これで、氷の礫は溶けて飛んでこない。その間に、フレデリカの足元にも炎を出して同じことをする。
「ああいいいだい゛い゛だい゛っ!」
「フレデリカさんっ! しっかりっ!」
すぐにフレデリカの足も動くようになる。しかし、同時に兵士の誰かの魔法によって、炎が急速に消えていく。冷却が炎の勢いを凌駕したのだ。
「はあっ……はぁっ……」
ラーンは息切れをする。魔力切れしないよう、今までの戦いと同じペースで魔力を使っているはずなのに、残りが少なくなってしまったのだ。なぜなのかはわからない。しかし、このままではいずれ魔法が使えなくなり、さらに無理をすれば体の機能を維持することすらできなくなり、倒れてしまう。
ラーンは考える。兵士たちと戦うことはあくまで選択肢の一つ。逃げて振り切るのも手の一つだ。
フレデリカは、氷の礫が当たったところから出血しており、つらそうだ。一方のラーンも、原因不明の魔力不足により万全ではない。
ラーンが取るべき行動は一つだった。
「フレデリカさん、風魔法で二人分運べそうですか? 正直に答えてください!」
「……難しいわ」
「わかりました。では、フレデリカさんだけでもいいので、峠を下ってください!」
「ダメよ、ラーンも一緒に……」
「私はフレデリカさんが落とされないように妨害します。後から追いつくので、先に行ってください!」
「でも……」
「早く! 行って!」
丁寧口調を絶対に崩さなかったラーンが、初めて強い言葉を使った。フレデリカは黙ると、風魔法を起こしてフラフラと飛んでいった。
たちまち動き出したフレデリカを目掛けて、氷の礫と突風が飛んでくる。それが届く前に、ラーンはフレデリカは兵士たちの眼前に巨大な炎の壁を作り、視界を遮ると同時に、氷礫を蒸発させ、気流を乱した。
「ふぅーっ……ふぅーっ」
限界が近い。フレデリカが十分遠方に行くのを確認した後、ラーンも走り出す。雪に足を取られそうになりながら、うまく動かない足で必死に走る。
「『暴風!』」
しかし、次の瞬間、ラーンを風魔法の暴風が襲いかかる。なすすべもなく風に吹き飛ばされたラーンはゴロゴロと雪の上を転がっていく。
ラーンは再度立ち上がる。しかし、もうすぐそこに兵士たちが迫ってきていた。
その時、ラーンは衝撃的なものを目にする。
「あ……」
兵士たちが手に持っているものだ。黒い金属の輪っか。そこから鎖が伸びている。
ラーンの心臓がドクンと跳ね、施設の中で受けたトラウマがフラッシュバックする。
間違いない、あれは魔力を封じる手錠だ。
あれをつけられたら、おしまい。
「うわああぁぁあああああ!」
兵士たちと自分の間の距離は、もう数歩もない。ここで炎を使えば、自分もダメージを喰らってしまう。しかし、ラーンには他の選択肢は無かった。
ラーンは雪の積もった地面に、自分に残ったありったけの魔力を込めて、炎を生成する。
数百度にもなる熱い炎は、一瞬で足元のみならずその周辺の雪まで一瞬で昇華させる。
ラーンの魔法によりとんでもない温度になった水蒸気は、千七百倍以上にもなる体積膨張を一瞬にして成し遂げた。その結果、周りの空気を勢いよく押し出す。
ドオオオオン!
凄まじい爆発音と、衝撃波がラーンと兵士を襲う。その場にいたどんな人も立つことができず、爆発の威力に吹き飛ばされた。
自身の炎による爆発で、峠とは逆方向に吹っ飛ばされたラーン。魔力の使いすぎで思考が回らず、体もボロボロになっている中、受け身を取ろうと反射的に体が動く。
しかし、いつまで経ってもラーンは叩きつけられる地面はやってこない。
それもそのはず、ラーンたちが登ってきた南の斜面とは反対の北側斜面は、急崖になっているのだ。
大きく吹き飛ばされたラーンは、峠の地面を越え、高い高い崖の上から投げ出される格好になった。
「……っああああああああ!」
「ラーン! ラーン……! ラー…………!」
どこかから聞こえるフレデリカの声が小さくなり、次の瞬間、ラーンはものすごい衝撃とともに意識を失った。