広場が静まり返る。ラーン以外のこの場の誰もが、今起こった出来事が理解できなかった。
そして、バタン! と残されたグスタフの体が倒れた音で、それまで止まっていた時が動き出す。その時、ラーンはアウレリアの手足の縄を焼き切り、アウレリアを抱えようとしていた。
「捕らえろ! 逆賊だ!」
「うわああぁぁああああ!」
「いやぁあぁああああぁぁあ!」
その場は一瞬で混沌と化した。目の前でグスタフの頭部を塵も残らず焼き尽くされる現場を見てしまったシュニーの市民はパニックになり、大声を上げながらその場から逃走した。
周りで警備していた兵士の中には、その民衆に紛れて逃走しようとするものもいたが、大部分はラーンを捕らえようと演壇に向かおうとしていた。しかし、逃げる民衆に押されてしまってなかなか近づけなかった。一方で、演壇の周辺で警備をしていた兵士たちは、最初こそあっけに取られていたものの、すぐにラーンを捕らえようと武器を手に取り駆け出すのだった。
ラーンはアウレリアを抱えているせいで、素早く動けない。このままではすぐに兵士に捕えられるか、武器で殺害されてしまうはずだった。
「くそっ、どきなさいよっ!」
「うわあああっっっ」
「うおおおぉぉぉぉ」
しかし、ラーンを中心に巻き起こる強風。その勢いに、ラーンに向かって走っていた兵士は、一転して後ろに吹き飛ばされてしまう。
自身の下に風を起こして、フレデリカが飛んできた。そして、一瞬だけラーンを中心とする旋風を収めると、彼女に駆け寄る。
「ラーン、逃げるわよ! しっかり掴まりなさい! 『風よ!』」
次の瞬間、フレデリカは背後からラーンの腰に手を回すと、風魔法を使って勢いよく風を噴射した。二人の体が宙に浮いたかと思うと、ものすごい勢いで斜め四十度ですっ飛んでいく。
「ぬ゛ぬ゛う゛う゛う゛!」
破滅的な魔力消費ペースに加え、ラーン+アウレリアの体重を支える腕にかかる荷重と、体にかかる風圧で、フレデリカは乙女らしからぬ声をあげる。
その声に混じって、遠くからパンパンと乾いた音が聞こえる。銃の音だ。
ラーンは、咄嗟にフレデリカの足よりさらに後ろの方に、炎の壁を展開する。ジュッ、ジュッと飛んできた銃弾が炎で蒸発していく。
足裏に一瞬の高温を感じながら、二人と一体は空を飛んでいく。
遥か下には、遠ざかりながらかなりの速さで通り過ぎていくシュニーの街の城壁。ラーンたちはぐんぐん高度をあげ、さらに加速していく。
ラーンの首筋にピトッと生暖かい液体が触れる。
「ふ、フレデリカさん……鼻血……!」
フレデリカは両方の鼻の穴からダラダラと血を流していた。
「今は気にしている場合じゃないわ……このままできるだけ遠くへ行くわよ」
ラーンたちの加速が終了する。同時に上昇も終わり、最高高度に到達してから徐々に下降が始まる。
このままでは放物線軌道を描いて、勢いよく地面に激突してしまう。
しかし、フレデリカはそうならないように風魔法を発動する。すると、放物線軌道からゆっくりと落っこちていくような軌道に変化し、前進する速度を保ちながらゆっくりと降下していく。
目の前には草地が広がっている。そこを貫く一本の道。それは曲がりくねりながら遠くへ伸びていき、白い雪を被った山脈の間に吸い込まれていく。
意図せずしてシュニーを脱出することになってしまった。そして、今から目指すのは眼前のエルヴルン山脈。この旅の最大の難所だ。
数分間飛行し、地面がかなり近づいてきたところで、フレデリカは再度魔法を使って、速度を落とす。
そして、道からそれほど離れていない草地に着地……しようとしたがうまくいかず、ゴロゴロと転がることになった。
ラーンは体勢を整えると、周りを見渡す。高速で飛行してきたせいか、追っ手は今のところ見えなかった。
「フレデリカさん……」
フレデリカがラーンに近づく。何か言葉をかけてくるのかと思いきや、飛んできたのは平手打ちした。
パチン! と張り詰めた音が何もない草原に響いた。
「バカじゃないの! あのままだったら死ぬところだったわよ! 死にたいの⁉︎ それとも軍に捕まりたかったの⁉︎」
「え……あ……」
「今回は運よく逃げられたから良かったけど、一歩間違っていたら間違いなく死んでたわよ!」
強い言葉で叱るフレデリカは、鼻血を流し、そして涙で顔面をぐちゃぐちゃにしていた。
修羅場を潜り抜け、落ち着いた環境に身を置いたからか、ラーンの頭が冷えていく。
そして、自分が起こしてしまった事の重大さを、初めてまともに認識した。
「ご、ごめんなさい…………」
ラーンは項垂れる。自分のその場の感情に任せた行動で、自分だけがその結果を被るのなら良かったかもしれない。しかし、今は一人ではない。ラーンだけではなく、フレデリカまで命の危険に巻き込んでしまったのだ。
ラーンは自分の右手を見る。手が半分黒焦げになっていた。自分の出した炎に焼かれていたのだ。今まで興奮状態だったから気づかなかっただけで、それを認識した途端、ラーンは手のひらに痛みを覚えた。しかし、ホムンクルス生来の回復力で、黒焦げになった皮膚がボロボロと剥がれ、元に戻っていく。
さっき、初めてラーンは自分の魔法で人を殺した。本来の自分は、帝国軍の殺人兵器。施設にあのまま囚われていたら、いずれ確実に経験していたであろう出来事だ。
頭を焼かれた人は叫びながら死んでいった。きっとものすごい痛みを感じながら死んでいったのだと、ラーンは思う。今自分が感じている痛みは、その何分の一だろうか。これが人を殺したことの痛みだろうか。
「うっ……うぉぇ…………」
ラーンは気持ち悪くなって吐いた。頭がクラクラする。飛行中に揺られて気持ち悪くなったのか、殺人したことへの後悔か、あるいは、自分が殺人兵器としての役割を意図せずに全うしてしまったことへの恐怖からか。ラーンは胃酸を吐き出し、酸っぱい味と共に喉のヒリつきを感じる。フレデリカは、ラーンの背中を黙って摩っていた。
ひとしきり吐いて落ち着くと、ラーンは草原に横たわるアウレリアを見ながら、ポツリポツリと話し出す。
「アウレリアさんが死んでしまったのは、悲しいです」
「……そうね」
「だけど、もっと悲しいのは、死んでしまった後でも軍に利用され続けたことです。本当は、ただ軍に連れ去られて、過酷な実験をさせられて、望まずにそうなってしまっただけなのに……死んでからも吊し上げられて民衆の喝采を浴びせられるなんて……あまりにもかわいそうじゃないですか……」
「…………」
ラーンは、アウレリアの開きっぱなしだった目をそっと閉じる。そして口も閉じ、顔にかかった汚れをタオルで拭う。
もし、あのまま施設から抜け出せなかったら……自分が軍の都合で生まれ、軍の都合で使われ、そして最後は軍の都合で始末される、アウレリアのような結末を辿っていたかもしれない。
『……絶対に、軍から逃げ切るのじゃぞ』という言葉の重みが、今になってようやく分かった。
「くっ……っずっ……うぅぅぅ……」
アウレリアの顔に、ラーンの流した涙がこぼれ落ちる。
絶対に、軍の思い通りにはならない。絶対に、逃げ切らないといけない。
ラーンは改めて決意を固くしたのだった。
☆
草原にポツンと立つ一本の大木。その根元に土を被せ、ラーンは立ち上がった。
上を向くと、ちょうど最後まで残っていた煙が風に流され、消えたところだった。
ここまでアウレリアの死体を持ってきたはいいが、このまま持ち歩くわけにも、かと言って放置するわけにもいかない。ましてや、軍に再度取り返される事態はどうにかして避けなければならない。
最終的に、二人が選んだのは火葬だった。下手に土葬したら掘り返されてしまうかもしれないし、それにそもそも二人にはそうするだけの道具も体力も余裕もなかった。
どうやら死んだ後は、生前アウレリアが言っていた『日光によって皮膚がボロボロになる』という現象は起こらなくなるようで、日光の下でもアウレリアは抜けるような真っ白な肌のままだった。最後にそれを目に焼き付けた後、ラーンは、高温でアウレリアの死体を灰にした。そして、残った灰を集めて、木の下に埋めたのだった。
すると、隣に立っているフレデリカが不思議な動作をする。何かをぶつぶつと呟くと、手を動かして見上げる。
「……今のは何ですか?」
「エルフ流の死者への弔いよ」
フレデリカにも、何か思うものがあったらしい、とラーンは考える。
「行くわよ。確実に追っ手が来るから、いつまでもここにいたら捕まるわよ」
「はい……」
ラーンはフレデリカの後を追って、数歩進む。そして、不意にその場で立ち止まると、後ろを振り返った。
「……さよなら」
風に揺られて、木がザワザワと音を鳴らす。ラーンは前を向くと、フレデリカの後を急いで追っていくのだった。