「んぬ……」
「あ、起きましたか?」
ラーンの背中の上で、フレデリカが目覚めたようだった。
ラーンは大木の影に入ると、フレデリカをゆっくりと降ろす。
「大丈夫ですか……?」
「私……何を……?」
「フレデリカさん、疲れてしまって寝てしまったんですよ」
「そうだっけ……」
フレデリカは、まだ眠気が覚めていないようだった。
魔法を使って危機を脱し、石畳の道を少し進んだ後、フレデリカは倒れてしまった。
よく考えてみれば、当然のことだった。二日前、森に入って一日目の夜は、アウレリアの襲撃によって邪魔されてしまった。そして昨晩、二日目の夜は軍の襲撃によって邪魔されてしまった。
しかも、ものすごい集中力を使う風魔法を発動したのだ。フレデリカは完全に寝不足と疲労困憊の状態に陥っていた。
よって、魔法の発動を終えた直後に、気絶するように眠ってしまったのだった。
目の前でフレデリカが倒れたラーンは、大いに慌てた。すぐに眠ってしまっているだけだとはわかったが、ラーンはこのままフレデリカとその場で朝を迎えるわけにはいかなかった。
アウレリアが軍を足止めしてくれたとはいえ、いつこちらに追いついてくるかわからない。歩みを止めるわけにはいかなかったのだ。
そういうわけで、ラーンはフレデリカと二人分の荷物を背負って、森の中を進むことにしたのだった。
ラーンにとって、背負っていた荷物は正直に言って少し重かったが、文句は言っていられない。
ホムンクルスは魔力で動く。逆に言えば、魔力が尽きなければずっと動いていられる。
軍が背後にいる。そう思うだけで、少しでも遠くへ逃げなければ、と自然と足が動いたのだった。
幸い、軍に追い付かれることはなかった。そして、フレデリカが目覚めたと言うわけである。
「……今は、まだ朝くらいかしら」
「いえ、もうすぐ夕方ですね」
「えっ、そんなに私寝てた⁉︎」
フレデリカは一気に目が覚めたようで、立ち上がる。
すでに、太陽は南中の位置からだいぶ西の方に落ちてしまっていた。
フレデリカは頭をかきながら、ラーンに礼を言う。
「ラーン、ありがとう」
「いえ、どういたしまして……ともかく、先に進みましょう」
「ええ。そうね」
フレデリカは自分の荷物を持つと、先に進む。ラーンも、その後に続いた。
「ところで、私を背負っている間は、魔物に遭遇しなかったの?」
「あ、はい。特に何もなかったです」
「そう、運がいいわね。なんだか不気味にさえ思えてくるけど……」
アウレリアが暴れ回ってこの辺の魔物を駆逐していたからなのではないか、とラーンは密かに予想していた。
しばらく進むと、周りが一気に開けた。
目の前には広い丘陵地帯。広大な農地が広がっていて、ところどころに家と小規模な森がある。そして、道の遥か先には、灰色の城壁に囲まれた都市の姿が小さく見えた。
二人は、丸三日をかけて、『黒い森』をついに通過したのだった。
「あれが、シュニーの街ですか?」
「そうよ。今晩にはあそこに辿り着くのが目標よ。さあ、もう一踏ん張り、行きましょ」
「はい!」
久しぶりに開放的な場所に出たことで、なんだか解放された気分になったラーンだった。
「と、その前に、水浴びをするわよ」
「えっ……なんでですか?」
「そりゃ、数日間も風呂に入っていないのだから、体を綺麗にしておかないと気持ち悪いでしょ?」
「まあ、そうですけど……」
確かに、自分たちは『黒い森』を通り抜ける間、風呂に入っていない。フレデリカは二日間、ラーンに至っては施設を脱出してから一切入っていないのだ。
「それに、街の中で他の人から臭いと思われて、注目を浴びるのも嫌でしょ?」
「確かに……」
「リスクはできるだけ減らしておくものなのよ」
フレデリカの言う通りだった。クラインの街に入る前にも、同じようなことを考えたっけ、とラーンは思い返す。
「でも、どこで水浴びをするんですか?」
道の先、シュニーの街までの道沿いには、宿屋らしき建物はないようだ。もしかして、一般のお宅にお邪魔してやるのだろうか、なんて馬鹿なことを、ラーンは一瞬考えてしまう。
すると、フレデリカはとある方向を指差した。
「あそこよ」
「……森ですけど」
「だから、森の中に流れている小川で、水浴びをするのよ」
「え……」
「だってしょうがないじゃない。どこかの家で水浴びをするわけにもいかないし、かと言って開けたところで水浴びをしたらただの痴女でしょ?」
「まあ、そうですけど……本当にあそこの森に小川ってあるんですか?」
「あるわよ。だって、以前あそこで水浴びをしたんだもの」
「そ、そうなんですか」
ズンズン進むフレデリカに引っ張られるようにして、ラーンはその後をついていった。
二人は道から外れて、小さな森の中に入る。少し進むと、フレデリカの言う通り、目の前に小川が現れた。
周りに人の気配はない。
「さて、入るわよ」
「は、はい」
フレデリカはスポスポと服を脱いで、水の中に入る。そして、荷物からタオルを取り出すと体を念入りに洗い始める。
森の中とはいえ、大自然の中で自身の裸を晒すのは、やはり少し抵抗感があった。
それでも、必要なことなのだ、とラーンは覚悟を決める。
ラーンはあまり気乗りしなかったが、服を脱いで裸になり、流水の中に身を沈めた。
清流の冷たさが、体に染み渡る。全身を水につけるのは久しぶりのことだったが、やはり気持ちのいいものだった。
ラーンは、鼻歌を歌いながら体を洗うフレデリカを見る。
ノルトバルトの街の外で初めて出会った時にも少し見たが、やはりフレデリカの体はスレンダーで、とても引き締まっていた。まさにハンターと呼ぶにふさわしい体つきをしていた。
それに比べて自分は、あまり筋肉がついているわけでもないし、そんなにスレンダーというわけでもない。ラーンは若干自信を失っていた。
「ラーン、髪を洗ってあげるわ」
「あ、ありがとうございます……」
後ろからフレデリカがそう申し出る。
「気になっていたんだけど、ラーンの髪、だいぶボサボサだったわよね。ちゃんと手入れをすれば綺麗になると思うのだけれど」
「あはは……ちょっと余裕がなくて」
「まあ、そうよね……ちなみに、前回水浴びをしたのはいつだったの?」
「えっと……三日前ですかね。水浴びというほどでもないですけど」
「三日前……だいぶ経っているわね」
そう言いながら、フレデリカは櫛でラーンの髪の毛を梳かしていく。
「これでどうかしら?」
ラーンが水面を覗き込むと、そこにはだいぶスッキリした髪型になった自分が映っていた。ラーンは、なんだか身軽になったような気がした。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして。ラーンの髪、とっても綺麗よ」
「えへへ……でも、フレデリカさんは全身綺麗ですよ」
「それは言い過ぎよ。ラーンに及ばない部分もあるわ」
「え、そうですか?」
「そうよ……」
フレデリカはジト目でラーンを見つめる。
その視線が、自分の胸部に注がれていることに気づいて、ラーンは少し顔を赤くして腕で隠した。
フレデリカはため息をついて言う。
「エルフって、種族的な問題なのか、あまり体つきが良くないのよね……」
「……」
どうやら、フレデリカは自分の体つきにコンプレックスを抱いているようだった。
二人は水浴びを終えると、着替えて、これまで着ていた服も軽く小川で洗う。そして、フレデリカの風魔法で一気に乾かした。
ラーンは、こういう時には風魔法はとても便利だなぁ、と感じた。
「出発しますか?」
「ちょっと待って、これで自分の髪を結んでほしいの。あと、これを被って」
「え」
すると、フレデリカがラーンに髪留めと黒い帽子を渡してきた。しかし、ラーンはそれを持ったまま固まる。
フレデリカは、そんなラーンをよそに、自分の長い金髪を結ぶと、眼鏡をかける。あっという間に、フレデリカはラーンの見たことがない姿に変身したのだった。
変装し終わったフレデリカは、全く動こうとしないラーンを見て不思議そうに尋ねる。
「ラーン、どうしたの?」
「……髪の留め方、わからないんです」
「あぁ、そうなのね」
ラーンは、今まで一度も髪を留めたことがなかったので、やり方がわからなかったのだ。
フレデリカは、ラーンの長い髪を留めて、帽子を被せる。
ラーンは小川を覗き込む。水の中には、今までの見慣れた自分とは全く異なる姿があった。
「どうかしら?」
「……なんだか、自分が自分でないみたいです。なんでこんな風に変装をするんですか?」
「街に入った時に、軍にバレないようにするためよ」
「なるほど」
これなら、確かにバレにくくなるかもしれない。きっと、自分のことは『赤髪の長髪』という特徴で探されるだろうから、その両方をこの変装で隠せているのは、逃げる上でかなり大きいだろう、とラーンは思った。
フレデリカは自身の耳を隠すために、フードを被った。
すでに日は暮れ、空は赤くなっていた。
そんな中、二人は出発する。だが、先ほど通ってきた道には戻らず、そのまま森の中の獣道を進んでいく。
「フレデリカさん、どこへ行くんですか?」
「もちろん、シュニーの街よ」
「でも、道はあっちですよ?」
「……言い方が悪かったわね。シュニーの街へは、正面からは入らないわ」
「え」
「だってそうでしょ? 正面から入ったら、街を守る兵士に一発でバレるじゃない」
「あ」
しばらく街に入っていなかったため、ラーンはそのことをすっかり忘れていた。正面から入れば、街の城門の兵士に見つかってしまう。当たり前の話だ。
「でも、そうしたらどこから入るんですか? 装備を整える予定ですから、街を迂回するわけにもいかないですよね……」
「そうね。でもあるのよ。街に通じている入り口」
しばらく歩いた後、フレデリカが立ち止まった。ラーンもその隣で立ち止まる。
二人の目の前に現れたのは、小さな水路だった。どうやら先ほどの小川から取水しているようだ。
水路の水は、石造りのトンネルの中へ流れ込んでいる。トンネルには鉄格子がはめられていて、人や魔物が立ち入れないようになっている。そして、そのトンネルは、街の方角へと続いているようだった。
「これは……?」
「シュニーの街の上水道よ」
「もしかして、ここから入るんですか……?」
「その通りよ」
二人は水路に近づいていき、流れのすぐそばからトンネル内部を覗き込む。
上水道のトンネルには水路の横に人が通れるような通路があった。そこを通って、上水道から街の内部に侵入する作戦なのだろう、とラーンは察した。
しかし、まずは目の前の鉄格子をどうにかしなければならない。鉄格子の通路に続く部分には扉が設置されているが、南京錠がかかって開けられないようになっている。
ここで、ラーンの出番だった。
「ラーン、よろしく」
「わかりました」
ラーンは南京錠に向けて手のひらをかざす。すると、それを包み込むように炎が出現し、南京錠はみるみる溶けていった。
ラーンが炎を収めた頃には、南京錠は融けて原型を留めていなかった。残ったのは、地面にへばりつくようにして固まった、かつて南京錠だったものだけだった。
「さすが、ラーンね」
「どういたしまして」
「それじゃ、行きましょう」
フレデリカはランタンを灯すと、ドアを開けてトンネルの中に入っていく。ラーンもその後についていった。
トンネルの中は、暗く、ジメジメしていた。人間が通るような場所ではない。
だが、それは当たり前の話だった。上水道とはそもそも人々の使う水が流れる場所であり、人が通る目的で作られているわけではない。しかし、だからこそ、このように意表をついた形で侵入することができるのだった。
しばらく進むと、フレデリカが立ち止まった。ランタンで壁を照らす。
「……どうしたんですか?」
「見て、ラーン。壁の色が変わっているでしょ?」
「……そうですね」
「ここから先は、シュニーの城壁の中っていうことを表しているのよ」
「じゃあ、どこかから上がることができれば……!」
「そういうことよ」
「でも、どこから上がるんですか?」
「それについてはもうアテがあるのよ」
そういうと、フレデリカは歩いていく。
壁の色が変わってから、トンネルは分岐を始めた。通路のついた分岐もあれば、通路のない小規模なトンネルの分岐まで、大小ざまざまなものがある。フレデリカは分岐で繰り返し曲がって進んでいく。
そして、ついにトンネルの通路は行き止まりになった。水路自体はその先まで続いているが、通路が終わっている上に、トンネルがとても小さく、とても入れないのだ。
「……ここよ」
壁際には足をかけるつっぱりがあり、それが上に続いていた。
「ここを昇れば、街の中に出られるんですか?」
「そうよ」
「でも、大丈夫なんですか? 地上に出てすぐに人に見つかってしまった……なんてことが起きたら、一巻の終わりですよ。上水道から上がってくる人なんて明らかに怪しいんですから」
「大丈夫よ……人気のないところに出るようになっているから」
そういうと、フレデリカは昇っていく。ラーンは不安に思いながらも、その後についていった。
「よい……しょ」
ガガガと重たい石を動かす音。フレデリカが地上への出口の蓋を動かしたのだ。二人は上水道から脱出する。
フレデリカが石を元に戻している間、ラーンは辺りを見渡す。近くには塀、そして背後には蔦の這う荒廃した建物があった。どうやら廃墟の敷地内に二人は出たようだった。
空はすでに藍色になっており、辺りは薄暗い。塀の向こうには街の城壁が見えた。二人はシュニーの街に侵入することに成功したのだ。
「さあ、行くわよ。こんなところにいたら、怪しまれてしまうわ」
「わかりました」
二人は敷地から通りの様子を伺う。通りは狭く、人の姿はない。二人は通りに合流して進んでいく。
「フレデリカさん、これからどこに向かうんですか?」
「とりあえず宿ね。今日はそこに泊まるわ」
「……宿のアテはあるんですか?」
「ええ」
しばらく歩いていくと、道の脇に宿屋の看板が見えた。三階建ての小さな建物だ。フレデリカはその中に入っていく。ラーンもその後ろに続く。
入ってすぐのところにはロビーがあり、その奥には受付があった。そこには、机の上に足を上げて新聞を読んでいる人がいた。
「こんばんは」
フレデリカが声を上げると、新聞の上から男性が目を覗かせる。そして、フレデリカの姿を認めると、驚いたような声を出した。
「おう、フレデリカ嬢じゃないか! 久しぶりだな」
「ええ、久しぶり」
「活動の方は順調か?」
「そうね。今から拠点に帰るところなのよ」
「そうかそうか。長老によろしくな……ところでそっちは?」
「あ、えと……」
突然話を振られて、ラーンは言葉に詰まった。初対面の人とスムーズに話せるようになるには、まだまだ時間が必要だった。
「紹介するわ。ラーンよ。帝国軍に作られたホムンクルス……人工生命体なんだけど、軍から脱走して王国に逃げている最中なの」
「へぇ……そうなのか」
「……ラーンです。軍から逃げて、王国に向かっているところです。フレデリカさんとはその時に出会って、色々とお世話になっています」
男性は、ラーンを値踏みするように見る。ここで、ラーンは男性の耳がフレデリカと同じく、細長く尖っていることに気がついた。
「フレデリカさん、この人は?」
「私と同じくエルフで、同志、つまり『エルフ解放戦線』の構成員よ」
「そうだったんですね……」
道理でフレデリカと先ほどのような会話をしていたわけか、とラーンは納得した。
「それにしても、こんなところで宿屋なんてやっているんですね」
「彼は諜報員として、市井に紛れて帝国の情報を集めてもらっているのよ。それと、時には協力者として、構成員に対して色々と便宜を図ることもあるわ」
「なるほど……」
フレデリカの言っていたアテというのはこのことだったのか、とラーンは理解した。
すると、彼がフレデリカに尋ねる。
「フレデリカ、俺たちのことはすでに知っているんだな?」
「ええ。でも、心配しなくても大丈夫。ラーンが裏切る可能性はないわ。さっきも話した通り、ラーンも私たちと同じ境遇なの。それに、私たちの『渡り場』を使って王国に渡ろうとしているから、私たちを裏切っても何のメリットもないのよ」
「……無用な厄介事は招くべきではないと思うのだが」
「あら、私たちだってもうすでに軍に追われているじゃない。一人増えたところで変わらないわよ。それに、ラーンのおかげで助かっていることだってあるんだから」
「はぁ……まあいい。そんなら、責任持ってしっかり面倒見ろよ」
「もちろん」
男性はカウンターの上に、鍵付きのプレートを出した。
「二階の二〇二号室だ。しっかり休んでいけよ、お二人さん」
「助かるわ」
フレデリカは鍵を手に取ると、受付の横を通って、奥の廊下へ歩いていった。ラーンは男性に軽く一礼すると、フレデリカの後ろを突いていった。
案内された二階の部屋は二人用だった。フレデリカは荷物を置くや否や、ベッドに倒れ込んだ。
「っはぁ~……疲れた~」
「お疲れ様です」
「ラーンだって疲れているでしょ~、ゆっくりしなさいよ~」
「……そうですね」
ラーンもフレデリカと同じように、隣のベッドに倒れ込む。久しぶりのフカフカのベッドに、ラーンは安心感を覚えた。
最後にベッドで寝たのは、施設を脱出する前のことだ。実に五日ぶりのことだった。
ラーンは施設でのことを思い出す。施設での生活は過酷を極めたが、自分が過ごしていた部屋までもが過酷だったわけではなかった。この宿と同様、いつもフカフカのベッドで寝ていたし、自分が訓練や勉学で部屋を空けている間に、部屋は掃除され、ベッドのシーツは交換されていた。
それは多分、自分が軍の兵器という立場にあったからだろう、とラーンは思う。
軍の兵器として、その能力を引き上げるために過酷な訓練を課された一方で、軍の兵器として重要な存在だったからこそ、ある程度の配慮がみられた。ベッドで寝ていたということは、それだけラーンが重要視されていたことを表していたのだ。
「それにしても、前言っていた買い物は今日しないんですか?」
「んー、今日はしないわ」
「なんでですか?」
「疲れているでしょ?」
「まあ、そうですけど……」
「それに、明日の方が何かと都合がいいのよ」
「……どういうことですか?」
「それは明日のお楽しみ」
「えぇ……」
「とりあえず、夕食にしましょう。一階の食堂で食べられるわ」
「……わかりました」
ラーンの疑問は解決しないまま、二人は夕食を食べに一階へ向かうのであった。