何かの金属音で、ラーンは目覚めた。
落ちてくる眼を無理やり開き、回転しない頭で状況を把握する。
ラーンの隣には、酔い潰れてイビキをかいて寝ているアウレリア、そして、部屋の隅っこの方ではフレデリカが丸まって熟睡していた。
ランタンの光は消してあるので、部屋は暗い。部屋の隅の壊れた窓から、月の光が微かに差し込んでくる程度だった。
「…………」
再び、金属が鳴る音が聞こえた。ガッシャガッシャと擦れる、甲高い音だ。それを聞いて、ラーンは背筋の凍る思いをして飛び起きた。
ラーンはとりあえず一番近くにいたアウレリアを激しく揺さぶる。
「うにゃ……」
しかし、アウレリアは変な声を出しただけで、起きる気配はなかった。
ラーンは諦めて、フレデリカの元へ、滑って転びそうになりながら、音を立てないように焦って向かった。そして、耳元で小声で囁く。
「フレデリカさん! フレデリカさん!」
「な、なに⁉︎」
「し、静かに!」
フレデリカはラーンの声に飛び起きた。ラーンは手で、フレデリカの声が大きいと制する。フレデリカは緊張した面持ちになった。
ラーンは小声で話しかける。
「……私たちの他に、誰かがこっちへ来ているみたいなんです」
「……そう、みたいね」
ラーンの言葉を受けたフレデリカは、少しした後にその事実を認めた。
二人は荷物を持って、一気に臨戦態勢になった。
幸い、音はまだ小さく、ここから離れたところでしているようだった。二人はアウレリアに近づくと、起こそうと試みる。
「アウレリアさん! 起きてください!」
「起きて! 緊急事態よ!」
「……んぁ?」
「『んぁ?』じゃないですよ! 誰かがこっちに向かっているみたいなんですよ!」
その瞬間、眠たげだったアウレリアの表情がスッと真剣なものになった。
静寂が三人を包み込もうとしている。
しかしながら、その静寂はわずかに聞こえる金属音によって破られていた。さらに、その音は先ほどよりも大きく、複数聞こえてくる。
そして、ラーンにとって、この音は聞き覚えがあるものだった。
施設の中、自分の部屋にいた頃、ベッドでぐったりしていると遠くから聞こえてきたあの嫌な音。訓練を指導していた男が来ていた、鎧の擦れる音だ。
嫌な汗がラーンの背中を流れる。
「ら、来客でしょうか……?」
「こ、こんな誰も使っていない建物に誰が来るのよ!」
「……ここ百年、来客などいない。そもそも強い魔物の巣窟である『黒い森』の真ん中にあるのじゃ。魔物が活発に動く真夜中に、わざわざ訪ねてくる奴など、よっぽどの物好きに違いない」
アウレリアが部屋の外の様子を伺おうとしたその時、金属音が鳴り止んだ。直後に人の声が聞こえた。
「それでは、これよりこの建物の調査を行う!」
恐る恐る三人は部屋の入り口から、声のした方を伺う。
三人がいる大広間から直線の廊下で繋がっている入り口の方を見ると、複数の人間が明かりを灯し、武装した姿で整列していた。その集団の前に、リーダーらしき人物がこちらに背を向けて立ち、集団に向けて何か言葉を発していた。
「ぐ、軍じゃ! なぜこんなところに……!」
「マズいわ……早く脱出しないと!」
建物の正面ではリーダーらしき人物が指示を終えたらしく、兵士が軍靴を鳴らして建物の中に侵入してきていた。
「アウレリア、ここから正面玄関以外に脱出する経路は?」
「……ない」
「え⁉︎」
「ない。もともと軍事用の施設じゃ。実験体が逃げ出さないよう、外につながる出口は正面入り口だけになっておる」
「壁を破壊して外に出るのは?」
「大きな音が出てしまうからすぐに見つかってしまうじゃろ。それに、ここは建物のちょうど真ん中、部屋の出口もそこ一箇所だから難しい」
「……ラーンの炎の魔法で壁を溶かして出られないかしら?」
「無理じゃろう。壁が厚すぎる。その間に見つかってしまう」
「……くっ、他の方法を考えるわよ」
「とはいえ、もう時間的余裕はないのう……」
アウレリアは一瞬黙ると、二人に言った。
「ラーン、フレデリカ。ここでお別れじゃ」
「え……?」
アウレリアは立ち上がる。ラーンは、思わずアウレリアの方を見た。
「お主らは、軍に見つかってはいけないのじゃろ? 幸い、妾は軍に追われているわけでもない。ただ軍に人生を滅茶苦茶にされ、勝手に恨んでいるだけの吸血鬼にすぎん。だから、妾が暴れて、軍の足止めをする。その隙に、上手い具合にお主らは逃げるのじゃ。建物の正面の道を行けば、シュニーの街には辿り着ける」
「そんな……」
「元は、妾が勝手についてきてここに案内したのが原因じゃ。だから、ここは妾が責任を取る」
「アウレリアさん……」
なおも心配そうに声をかけるラーンに、アウレリアは振り返ると笑みを浮かべた。
「安心せい、妾はそう簡単にくたばるつもりはない」
ラーンには、アウレリアのその笑顔を見て、なぜかひどく不安に思った。
「……私たちはいつ出ればいいのよ」
「足音からして、おそらく軍は分散してこの建物の捜索をしておる。じゃから、お主らが先に素早く抜け出せ。その直後に妾が大音量を立てて荒らしまわって注意を引き付けながら、お主らへ向かう兵士を優先的に始末する」
「……わかったわ。ラーン、それでいい?」
ラーンは無言でガクガクと頷いた。
「とにかく、もう時間がないわ。兵士がこの部屋を覗いてきたら、動くわ」
「うむ」
フレデリカはラーンに向き直る。
「ラーン、こっちを向いて」
「は、はい……」
ラーンは言われた通りに、フレデリカに向き合う。すると、フレデリカは後ろからラーンの脇の下に腕を通すと、そのままぎゅっと体を密着させた。
フレデリカの体温を全身で感じ、呼吸音が耳元で聞こえてラーンは少しドキドキした。
「え、あ、あの……」
「移動のためよ、私の体に腕を回して、しっかり掴まってて」
「は、はい……」
ラーンは訳もわからず、フレデリカの言われた通りにする。
そして、アウレリアの方へ向く。
「アウレリアさん」
「なんじゃ、ラーン」
「また……会えますよね」
「もちろんじゃ」
「ラーン、さぁ、行くわよ……!」
ラーンとフレデリカの二人は、部屋の入り口付近で待機する。軍靴はすぐそばまで迫っていた。
そして、軍人の姿が見える。部屋の中に入ってきた。ラーンはその姿を見た瞬間、思考が停止する。
フレデリカは動き出した。
「『風よ!』」
次の瞬間、フレデリカは軍人と入れ違えるように、廊下へ飛び出すとラーンを抱えながら目に倒れる。
しかし、二人が地面には触れることはない。その寸前に、床と並行に、建物の出口へと爆速で移動を始める。
フレデリカが風の魔法を使い、足の裏から反対方向へ猛烈な空気の流れを、フレデリカの胸側、つまりラーンの背中側には体を支えるような微弱な上昇気流を、その他の部分には進行を阻害しないような空気の流れを作り、浮遊状態を作りながら前方に一気に加速したのだ。
ラーンは急激な加速度を感じて、フレデリカの背中に回した腕に強く力を込めた。そして、脚もフレデリカの太ももの後ろに回し、まるで手足を棒に縛られて丸焼きにされる豚のような格好になる。それでもなお、振り落とされそうなほど、その身にかかる加速度は大きかった。
幸いにも、部屋から建物の入り口までの直線上には誰の姿もない。しかし、その直線の脇には、ちらほらと建物を調査している兵士たちの姿があった。いずれも、こちらを見て動きが固まっている。
あといくばくか、非常に短い時間ののちに兵士たちは攻撃を仕掛けてくる。それまでに、兵士たちの攻撃が届かないところまで移動しなければならない。
もっと速く、もっと速く。フレデリカの足の裏の猛烈なジェットがさらに勢いを増す。
それでも、絶妙な操作が行われていた。少しでも空気の流れのバランスが崩れると、思いもよらない場所へと突っ込んでしまうからだ。特に、今のような速い速度で移動するとなると、少しのずれが文字通り命取りになる。
「と、止まれ!」
次の瞬間、二人の進行方向に兵士が飛び出してきた。そして、二人の進路を阻むように手を広げた。
このままではぶつかってしまう! ラーンはそうなる未来を予想して、思わず目を瞑った。
「のわあぁぁっ⁉︎」
しかし、次の瞬間、兵士が上へと吹き飛ばされた。フレデリカが風魔法を行使して、兵士を強制的に退かしたのだ。そうして空いた空間を、二人は猛スピードで通過して、そのままの勢いで建物から脱出した。
真っ暗な夜。月明かりだけが道を照らしている。進行方向の道は荒れ果てているものの、その上に木などが生えているわけではない。空中飛行をしている二人にとって、地面の進みにくさは関係がなかった。
ラーンは首を動かして、脱出してきた建物の方向を見る。
流石は兵士たちというべきか、脱出した直後から、ワラワラと建物の外に出てくる。そして、こちらを追おうという姿勢を見せてきた。
「うわぁっ!」
「グアッ」
しかし、兵士たちのそんな断末魔と共に、兵士たちの前に立ちはだかる後ろ姿が現れる。アウレリアだった。
ラーンはそれを見てホッとした。先ほど本人が宣言したように、アウレリアが足止めしてくれるだろう。
だが、その期待はすぐに裏切られた。
突如、甲高い銃声音が複数回聞こえた。次の瞬間、アウレリアが崩れ落ちる。
「あ、ぁ……」
ラーンの喉から、声にならない声が出た。
直後、木の影に隠れて、アウレリアや兵士もろとも、建物の姿は見えなくなってしまった。
☆
二人が飛んでいくのを見送ると、アウレリアは魔法を発動した。
「軍がここに何しに来たぁ! 死ぬがよい!」
そして、フレデリカたちが飛び去っていく様子を唖然として見つめていた兵士の頭を、思いっきり蹴飛ばした。
グチャ! と潰れるような音を出して、兵士の頭はアウレリアの足と壁の隙間に挟まれて文字通り潰れた。
そのまま廊下に飛び出すと、アウレリアは叫びながら、フレデリカが飛び去った軌道上に出てきた兵士を力任せに薙ぎ倒していく。ある兵士は壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。また、ある兵士は勢いよく床に倒され、しばらく起き上がれなくなる。
そして、建物の入り口に集まる兵士たちの間をすり抜けると、その前に立ち塞がった。
「貴様らは妾が相手じゃぁ……」
アウレリアはニィッと不敵な笑みを浮かべる。
アウレリアは、久々に出会った軍に対して、心を躍らせていた。
主な目的は、ラーンとフレデリカの逃走の手助け、すなわち軍の足止めだ。
だが、アウレリアの本心は別のところにあった。
自分たちをいいように弄った軍。完成して撃退してから出会うことは全くなかったが、向こうから出向いてきてくれた。しかも、こちらには軍の足止めという大義名分がある。今こそ、積もりに積もった復讐心を心置きなく発散できる。
アウレリアは、かつて自分が軍に受けたように、今度は兵士を心ゆくまでいたぶり、嬲り殺すつもりだった。
しかし、アウレリアは一つ、誤った認識をしていた。
それは、武器を持った普通の兵士程度なら、自分一人でも十分対処可能である、と思っていたことだ。
アウレリアはこの百年間、人間との交流を最小限にして、この森の中で過ごしていた。
そして、時の流れを忘れ、いつしか強さの感覚を自分の中に固定してしまっていた。
しかし、その百年の中で人間の文明は確実に進歩していた。一年一年は小さくとも、百年という長い時間が経過すると、その進歩は大きなものになる。
それは実際の強さと、強さのイメージとの間に大きな溝を生み出す。
要するに、アウレリアは知らなかったのだ。
百年間で銃が大幅に改良され、ここまで小さく、正確に、連射可能になった、ということを。それが、今や軍の標準装備になり、末端の兵士まで十分の行き渡っている、ということを。
複数の銃声。
血を摂取することにより身体を強化する魔法を発動できる。アウレリアは、多くのデメリットと引き換えにそれを会得させられたが、決して万能ではない。
素早い動きで大抵の攻撃は避けられるが、同時に限界も存在する。例えば、自分の知覚を超越するような攻撃は避けられない。
その中には、音速を超える速度で発射される、拳銃の弾も含まれていた。
「がっ……!」
アウレリアは崩れ落ちた。太ももに二発、脇腹に一発。肩に一発。
複数の角度から同時に発射された銃弾は、アウレリアの命を奪おうと襲いかかってきたのだ。
しかし、これでもアウレリアは自分にできる最大限の防御をした。
何もしなければ、頭や胸など、致命傷になる場所に当たっていた。その前に、驚異的な反応速度と勘で、体を捻ったのだ。
油断した、と膝をついたアウレリアは後悔する。
アウレリアの認識では、軍隊の持っている銃は、もっと大きく、持っていて目立つものだった。それゆえに、銃弾が発射される前、銃口が向けられた時点で気づき、難なく回避することができた。
だが、それは過去の話。百年進めば技術も進化する。兵士の服などに隠れ、誰が銃を持っているか、さらに、どこから銃弾が飛んでくるか、アウレリアは全く予想することができなかったのだ。
「がはっ……!」
しかし、ここでおとなしく負けるわけにはいかない。後ろにはフレデリカとラーンがいる。二人に目の前の軍の手が及ばないように、少しでも時間を稼がなくてはならないのだ。
アウレリアは傷口、そして口から血を吐きながら立ち上がる。痛みにその足は震えていた。
そんなアウレリアの様子に、兵士たちは多少動揺していた。
「……避けられただと⁉︎」
「立ち上がりやがった……」
「おい、こいつまさか……『吸血鬼』じゃないか⁉︎」
「嘘だろ……」
「怯むな! 我々が十分対処できる相手だ! 油断せず、確実に仕留める!」
「仕留めるだと……? 妾を仕留められるとでも思っているのか人間如きが!」
アウレリアはそう叫ぶと、走り始める。
先ほどよりも明らかにスピードは落ちている。それでも、人間の知覚ではとても捉えきれないような速度で、アウレリアは敵の集団のど真ん中に移動し、攻撃を繰り出す。
「グアッ!」
「ゲポォァ⁉︎」
次々と斃れていく兵士たち。銃で応戦しようとするも、周囲に仲間がいる状態ではみだりに撃つこともできない。
ただ床を濡らす鮮血だけが、増えていく。
斃された兵士たちは、死の直前、全員が同じアウレリアの表情を目撃していた。
血走った目。修羅の如き形相。ありったけの憎しみを込めた視線。
銃撃され、先程の兵士の鼓舞に煽られたと感じたアウレリアは、軍への憎しみを爆発されていた。
もはやそこに理性などは存在せず、ありったけの憎悪を自身の攻撃に乗せ繰り出していたのだった。
「何があったんですか!」
突然の声に、アウレリアが視線を向ける。
見ると、入り口のホールにある二階への階段の上に、数人の兵士がいた。二階を捜索していた兵士たちが、戦闘が始まったことに気づいて戻ってきたのだ。
アウレリアは気にせず攻撃を続ける。上の階にいたとしても関係ない。この大乱戦の中では、仲間に当たってしまうことを躊躇して、銃の使用はできないだろう。そう思っていた。
しかし、アウレリアの読みは外れた。
「目を塞いで!」
次の瞬間、眩い光が入り口のホールを埋め尽くした。
「がああっっ!」
アウレリアの視界は白一色に塗り潰され、思わず悲鳴を上げた。
強烈な光を発する魔法を、二階にいた兵士のうちの一人が発動したのだ。
光っている時間は長くはなかった。それでも、暗順応をしていたフレデリカの視界をダメにするには十分すぎる時間だった。
人間は、外界の情報のほとんどを視覚から仕入れている。それは、吸血鬼となった元人間のアウレリアも例外ではなかった。
視界が潰され、アウレリアの動きが止まる。
「今です!」
次の瞬間、銃声が響きアウレリアの腹に凄まじい激痛が走った。
「がはっ!」
アウレリアは床に倒れ込んだ。何発も撃たれているのにもかかわらず、ものすごいスピードで動いていたので、傷口から血が大量に失われていたのだ。
アウレリアの身体強化魔法は、血液を媒介として発動する。従って、血を失えば失うほど、身体強化の度合いは低下していく。
すでに、アウレリアは一般人よりも力が出せない存在になってしまうほど、血液を失っていた。
意識が朦朧とする。ショックが起きているのだ。体が急に動かせなくなる。
しかし、それでもなお、アウレリアの頭を支配していたのは、軍に対する激しい憎悪だった。
「なぜだ……! なぜ妾は……軍に人生を……めちゃくちゃにされねば、ならんの……がはっ!」
アウレリアは吐血した。もう長くはない、とアウレリアは本能的に感じていた。
アウレリアの人生は、軍にめちゃくちゃにされてきた。
軍によって肉体を改造され、ダメだとわかると放棄され、そして今、敵対したことで殺されようとしている。
最初から最後まで、帝国軍がずっとまとわりついている。自分の都合などお構いなし。全て向こうの都合で物事が進んでいる。
他者に支配された人生。アウレリアは、ずっと不満だったのだ。
これまでの記憶が蘇る。孤児院での日々、軍に連れられ、『黒い森』の中にあるこの施設に連れてこられた日。過酷な人体実験、死んでいった数多くの同胞の姿、森を彷徨う日々。
ふと、頭の中に、ラーンが思い浮かんだ。
軍の施設から自力で脱出し、逃走しているラーン。軍の都合で生み出されたものの、軍による人生の支配に抵抗し、今まさに自由を勝ちろうとしている。アウレリアとラーンには、重なる部分がたくさんあった。
『暇だから』。ラーンについて行こうとした時、そんな言葉が口からついて出た。なぜか、ラーンたちについて行こうと思った。今まで自分でもよくわかっていなかったその理由を、アウレリアは悟る。
ラーンに、自分のように失敗してほしくなかったのだ。
背中に圧力。ここからは見えないが、背中を踏んづけられているのだろう、とアウレリアは確信した。
そして、後頭部に押し当てられる冷たい金属。
こうなるのは自分だけで十分だった。
アウレリアは力無く笑う。
乾いた銃声が響く。
☆
ズザザザザザ、と凄まじい音を立てて、ラーンとフレデリカは勢いよく石畳の地面を転がる。
しばらくして、二人は抱き合った状態で、やっと停止する。
先に立ち上がったのはラーンだった。そして、そばで倒れているフレデリカを心配そうに覗き込む。
「フレデリカさん! 大丈夫ですか?」
「えぇ……平気よ……」
フレデリカはゆっくりと立ち上がる。その表情は、とても疲れたように見えた。
無理もあるまい、とラーンは思う。空中を勢いよく飛ぶ風魔法は、膨大な魔力を消費し、かつ緻密な制御を要求しているのはラーンから見てもわかった。しかも、フレデリカは抱えたラーンにも気を配らなければならない状態だったのだ。
「アウレリアさんは、大丈夫でしょうか……」
「……大丈夫よ」
フレデリカはそう言うも、ラーンの頭の中からは、最後に見た、銃声と共に倒れるアウレリアの姿が離れない。
自分があの時、パニックにならず、魔法を使える状態であれば、とラーンは忸怩たる思いを抱いた。
ラーンは自分たちが飛んできた方向を振り返る。すでにかなり遠くまで来てしまったらしく、建物の影はもはや何も見えなかった。あそこに今から戻るわけにもいかないし、むしろアウレリアの意思を踏み躙ることになってしまう。
「とにかく、ここから離れましょう。少しでも遠いところへ」
「……はい」
二人は石畳の道を南下していく。石畳の道は古く、ろくに整備されていないとはいえ、道は道。
軍が建物に行くときに通った思われる道を通るのは、二人にとってリスクがとても高かったが、森の中に入ってしまうと月明かりが遮られて何も見えないため、ここを通る他ないのだった。
焦燥と不安を抱きながら、二人は歩いていく。