授業の終了を告げるチャイムが鳴り、生徒がわらわらと廊下へと出ていく。
俺は教科書を閉じると、スクールバッグに入れて、チャックを閉めた。
今日の授業もこれで終わりだ。特に部活には入っていないので、今日も即刻自宅に帰って勉強だ。
ふわーわ、と欠伸をして外に出ようとすると。
「チョーップ‼」
「ぐへっ‼」
元気な声とともに、後ろから頭に強い衝撃が加わった。
俺は前のめりに倒れそうになるが、教室のドアに手をついて転倒を免れる。
「いってー……」
「おうおう、あっくんよぅ、ウチを置いてどこへ行こうとしているんだい?」
「またかよ……」
痛む頭をさすりながら振り返ると、そこには見慣れたクラスメイトの顔。
染めているのではないかと疑われるほどの明るいの茶髪。それを肩にかかるくらいまで伸ばしている。髪は内側にくるんとウェーブ。目鼻立ちはしっかりしていて、かなりの小顔。
そこに立っていたのは、完全に可愛い系女子そのものだった。
彼女の名は、七之宮(しちのみや)柚緋(ゆずひ)。
俺のクラスメイトだ。
そんな彼女は、クラスの中では極めて異質で、浮いている存在──いわゆる、変人だった。
人は見かけによらない、という言葉がある。
例えば、毎日の授業をさぼってゲーセンで遊んでいるような不良でも、定期テストを受けさせてみると全教科満点を取ったりだとか。
超怖い顔をしている男子が、実はかわいいぬいぐるみが大好きだったとか。
それを、いろんな面で体現したのが彼女、七之宮柚緋なのだった。
具体的に言うと、こんなに見た目は可愛いのに、性格がとってもさばさばしているだとか。
きゃぴきゃぴしてそうなのに、クラス内では結構ボッチだったりだとか。
文系が得意そうなのに、実は理系で文系は全くできなかったりだとか。
とにかく、彼女はクラス中、いや学校中で、『外見と性格が全く嚙み合っていない女子』だとか、『文系に見えるが実はリケジョだった女子』だとか、さまざまに言われているのである。
そんな彼女がチョップしてくるということは……。
「あー、今日、あの日だっけ?」
「そーだよ。ほら、早く教えてくれ」
そう言って、教科書をバサバサと広げてペンを取り出す。
開いたのは、今習っている英語のところだった。
「まあ、いいか。で、今日の英語の小テストは何点だったんだ?」
「それがな! 今回はよくできたんだぞ!」
そう言って彼女は、鞄から一枚の答案を引っ張り出す。
「……三点か」
「どうだ凄いだろう!」
「…………」
エッヘン、と誇らしげに胸を張るが、俺からしてみれば零点と大差ない。
このテストは、二十点満点で、十五点以上が合格となる。
つまり、三点というのはその合格ラインをはるかに下回る、赤点の赤点くらいの点数なのだった。
「先生に、『七之宮が三点を取るなんて珍しい』って言ってたぞ!」
「それ、自慢になってないからな」
まあ、以前は毎回当然のように零点だったから、少しはマシになったか。
ただ、コイツの場合、英語以外の文系科目全般も全くできていない。
そんな科目を教える・教えられるの関係にあるのが、現在の俺と彼女の関係だ。
もちろん、教える側が俺、教えられる側が彼女だ。
これが始まって、早いこともう半年が経つ。
その成果は、英語の小テストの零点が赤点に変化しただけだ。
まあ、それだけでも大きな成果なのかもしれないけどな。
俺たちはワイワイ言いながら完全下校時刻まで教室に居残り、勉強した後、肩を並べて学校を出る。
そして、俺はいつものように彼女の家に向かう。
ちなみに別に彼女とは付き合っていない。告白とかそれ以前に、手を繋いだことすらない。
では、どうして別に付き合ってもいないのに、当然のように彼女の家に向かうのか。
だって、いくら断っても腕をバカ力(ぢから)で無理やり引っ張られて連れてこさせられるんだもん。
こいつ、見た目はひ弱そうなのに、体力テストの結果はオールAなのだ。
ホント、見た目と中身が一致していないよなぁ……。
※
俺たちは程なくして彼女の家に着く。
目の前に聳え立っているのは、広大な敷地を持つ大豪邸。
こいつの家がお金持ちだということは、クラス中でも俺しか知らないだろう。
そして、俺たちは豪邸の中へ入ると、地下室に向かう。
地下室といえば、暗くてじめじめしていて、コンクリートで囲まれた無機質な空間をイメージするだろう。
しかし、この七之宮邸の地下室は、そのイメージからは全くかけ離れていた。
白い照明が部屋全体を明るく照らし、天井ではファンがぐるぐると回っている。
特徴的なのは、部屋を構成している材質。床のみならず、壁までが、全て木でできていた。
そして、その壁には掛け軸や、木刀、日本刀の類がズラーッと飾られている。
実はこの地下室は、刀オタク、七之宮柚緋の専用地下室なのだ。
彼女はこの部屋を『道場』と呼んでいる。俺も、初めてここに来た時、道場だと思った。
さて、その道場で始まるのは、刀オタクの直々の指導だ。
こんなことをする理由は、いつも勉強を教えてもらっているお礼、と彼女は言う。
お礼がとても変な方向にいっている気がするのは俺だけだろうか。
ともかく、勉強を教えた日の夕方の一時間は、彼女による剣術の指導の時間だった。
勉強があるから、と断るのは、彼女の腕力に抗える気がしないので、とっくの昔に諦めてしまった。
まあ、いざ付き合ってやると、案外楽しかったりするものなのだが……。
俺たちは、荷物を端っこに降ろすと、いつも使っている木刀を手に取る。
そしれ、道場の中央に相対して構える。
「よし、じゃあ始めよっか」
「なあ、七之宮」
「なんだ? もういい加減柚緋って呼んでもいいんだぞ」
「そうじゃなくて……。こんなに剣が使えるならうちの学校の剣道部に入ればいいのに、って思うんだが」
その言葉に、向かい合った彼女は即答する。
「ウチが使うのは、剣を通して人の道を学ぶ『剣道』ではなく、本当にただ戦うための技術である『剣術』だから」
「……これは実践的で、精神的なものではないから違う、ってことか?」
「まあ、大体そんな感じ」
そして、彼女は長く細く息を吐く。
「今日は何をやるんだ?」
「今日は……そうだな、模擬戦でもやるか」
「模擬戦?」
「そう。これまで教えたことの総復習だ」
「わかった」
「ただし、条件がある」
「どんな?」
「ウチは天の型だけ、そしてあっくんは地の型のみを使うこと」
「え」
「ちなみにこれに違反したら無条件で敗北&こちらの要求を一つ飲むことな」
……うわ、きっついな、それ。
それに、こちらの要求を一つ飲む、って、ロクでもないこと考えてそう。
しかし、やれないことはない。とにかく頑張るか。
「よし、じゃあ始めるぞ」
「了解」
俺と彼女は静かに木刀を構え直す。
つかの間の静寂が流れる。
そして、彼女が一歩足を踏み込み、試合が始まった。
俺は半強制的に鍛えられた動体視力でそれを捉える。
そして、鍛えさせられた反射神経と個人の運動能力で、木刀を振り、こちらも飛び出す。
両者の木刀が、ちょうど道場の中心でぶつかり合う。
そして、互いの体にぶつかり合うことなく、両方の木刀が弾かれる。
間違いなく、彼女の木刀の振り方は、こちらの木刀に本気でぶつかってくる軌道を描いていた。
木刀でまともに防いでいては、かなりの衝撃になっただろう。
しかし、そんなことはしない。
俺は、木刀がぶつかり合う直前に、微妙に木刀を傾けていた。
その結果、木刀同士は激しくぶつかり合うことなく、運動エネルギーを残したまま、振りぬかれることになった。
俺が使っているこの技こそ、七之宮流の真髄である、地の型である。
刀を微妙に傾けることで、相手の斬撃のエネルギーと方向性を捻じ曲げる技。
傾き具合で、どの程度エネルギーを吸収させるか、そしてどの程度方向をそらせるかを決められる、かなり便利な技だ。
しかし、これは扱うのが難しい。
繊細な刀の調節能力と卓越した動体視力、その他諸々の高い能力が必要だ。
一方、彼女が扱っているのが、七之宮流のもう一つの真髄、天の型である。
これは、自分を中心として刀の軌道が円を描くという技だ。
その気になれば、どこまでも途切れることなく流れるように延々と斬撃を浴びせられる。
俺たちの木刀は激突してから一秒も経たずに再度ぶつかり合う。
俺は斬撃を逸らし、彼女は斬撃を続ける。
まるで互いの重力で引かれ合いながら自転・公転する二重連星のように、俺たちは相対的には相手を正面に捉えながら、側から見たら互いを中心に回るようにして足を運ぶ。
それが、延々と続いていった。
終わりが見えないように感じたそのとき。
突然彼女は大きくバックステップをして、木刀を下ろした。
「合格」
「え?」
突然のその宣言に俺は戸惑いを隠せない。
「だから合格」
「……何がだ?」
「七之宮流の真髄が使えているかどうかの試験。前回は天の型縛りでやっただろう?」
「ああ」
「あれも合格だったから、あっくんは免許皆伝ってこと」
「……え? そうなの」
「うん」
免許皆伝。即ち、七之宮流剣術をマスターした、ということだ。
それを理解した途端、なんだか心の中に込み上げてくるものがある。
思えば、無理やりこの部屋に案内されて、『よし、お礼に剣術を教えよう!』と言われた時は、どうなるんだろう、と戸惑ったものだ。
それが、ここまで成長するとは……。
「ゴホン、小野里敦司殿」
「はい」
「其方に、七之宮流剣術の全てを修めたことに対し、七之宮柚緋から免許皆伝を授ける」
「は、ははー」
俺はそう言って礼をする。
そして、顔を上げると、彼女はボソリとつぶやいた。
「まあ、勝手にウチが認めただけだけど」
「正式なものじゃないのかよ!」
「ま、まあ、それに相当する実力があるってことだ!」
彼女はそう慌てたように取り繕うと。
「とにかく、よく頑張ったな、あっくん! すごいぞ!」
とびきりの笑顔を見せたのだった。