ゴキブリから逃げきった俺たちは、今度はクローゼットに閉じ込められた。
みなとは何度も扉を開けようとするが、ガタガタと鳴るだけで開く気配はない。取っ手がないことから、中から開けることは想定されていないのだろう。そもそもクローゼットは中に人が隠れるためのものではない。
しかも、クローゼットはとても狭かった。人二人がギリギリ並んで立てるくらいの床面積しかない。しかも、そこにハンガーにかかった衣装が入っているので、俺たちの体が入れる領域はより狭かった。
そのため、みなとの代わりに俺がドアを開けようにも、今の体勢から動くのはかなり難しかった。
それに、みなとはかなり無理のある体勢をしていたようで、徐々にバランスを崩していく。
「ちょ、ほまれ……ごめんなさい」
みなとが振り向きざまに、俺の頭の左上の壁に右手をつく。まるで俺を壁ドンしているような姿勢になる。
次の瞬間、俺の目の前にはみなとの大きな胸が迫る。俺が若干のけぞっていて、みなとが背伸びをしているため、ちょうどよい身長差になり、みなとの胸が俺の目の前に来たのだ。
みなとも俺も下着姿だ。つまり、俺の目と鼻の先にはブラジャーに包まれた巨乳があるわけで……。
「みなと、姿勢を変えられない?」
「そ、それはちょっと難しいわ」
そう言いながらもみなとはなんとか姿勢を変えようと動く。そのたびに、目の前の巨乳がゆさゆさと揺れる。その姿があまりにも煽情的で、俺の理性が音を立てて崩れていく。
次の瞬間、みなとが左手を動かす。そして、俺の右胸を鷲掴みにした。
「ちょ、みなと……やぁ!」
「ど、どうしたのよほまれ⁉︎」
「俺の胸掴んでる……」
「ご、ごめんなさい!」
みなとは慌てて俺の胸から手を離した。
ここで俺は気づく。どうやら、みなとは俺の姿がよく見えていないようだ。
というか、俺が見えているのが異常なのだ。こんな真っ暗な状況では、普通の人間は何も見えない。しかし、俺の高性能カメラアイはばっちり見えている。みなとの体勢も、下着も、表情も。
「それにしても、暑いわね……」
「そ、そうだね」
狭い空間に閉じ込められているので、俺たちは密着している。そのため、俺たちの体温と呼気でこの空間はムシムシしてきていた。
それに、目の前にはみなとの半裸姿。早くどうにかしないと俺の理性が崩壊してしまう!
「と、とりあえず脱出方法を考えよう!」
「そ、そうね……」
「なぎさちゃんは家にいるんだよね?」
「ええ」
「だったら叫んで助けを求めよう」
ということで、まずは声で助けを呼ぶ作戦だ。
「なぎさー! ちょっと来てほしいのー!」
「なぎさちゃーん!」
俺たちは大声を張り上げて、ドンドンとクローゼットのドアを叩く。それを一分ほど繰り返したが、何の音沙汰もなかった。
さっき、確かにゴキブリを殺す声が聞こえてきたんだが……。外出する時のドアの開閉音も聞こえなかったし、まだ家の中にいるはずだ。ということは、逆になぎさちゃんに何か大変なことが起こっているんじゃないか? 俺は不安になる。
「ね、ねえ、なぎさちゃん、いるんだよね?」
「いるわ。……気づいていないのは、たぶんイヤホンか何かをしているからね」
みなとはため息をついた。
現状、一番手っ取り早いのは一番近くにいるなぎさちゃんに助けを求めることだ。どうにかして俺たちのピンチに気づいてもらえれば……!
ここで、俺は名案を思いつく。
「なぎさちゃんにスマホで連絡するっていうのは?」
イヤホンか何かをしているということは、スマホか何かで音楽を聴いていたり動画を視聴していたりしているのだろう。だったら、スマホに連絡できれば気づいてくれる可能性が高い。
そう思ってみなとの顔を見るが、彼女は申し訳なさそうな表情をしていた。
「ごめんなさい、スマホは外よ……」
「ああ……」
だよねー! そもそも俺たちは下着姿だし、さっきまでゴキブリから逃げ回っていたのだから、スマホなんて都合よく持っているわけないよね!
これで連絡手段は断たれてしまった……と思ったその時。
「あ」
俺は解決方法を思いついた。
「みなと」
「何?」
「なぎさちゃんのスマホの電話番号、教えて」
「え、ええ。いいけど……」
俺はみなとに、なぎさちゃんの電話番号を教えてもらう。
番号を言い終わると、みなとは訝しげな不安そうな表情で俺に尋ねる。
「いったい何をするつもりなの、ほまれ?」
「電話をかけるんだよ……俺の体から」
俺は教えてもらった番号に電話を発信する。なぎさちゃんとは電話番号を交換していないので、向こうからしたら知らない番号から電話がかかってきたように見えるだろう。頼む、無視しないでくれ……!
すると、俺の祈りが通じたのか、通話が始まる。なぎさちゃんが出てくれたのだ。
「もしもしなぎさちゃん? ほまれだけど、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
俺は事情を説明する。すると、すぐにドタドタとこちらに向かってくる足音。
次の瞬間、クローゼットのドアがガチャリと開かれ、部屋の眩しい照明が俺たちを照らす。目の前には、右耳にスマホを当てた逆光のなぎさちゃんが立っていた。
こうして、俺たちは無事にクローゼットから脱出することができたのだった。
※
この後もいろいろコスプレをして撮影した後、俺は帰ることになった。
隣にはみなと。俺の家まで送ってくれるというのだ。初めは悪いよ、と断ろうとしたのだが、最後だしこの体のほまれと少しでも長く一緒にいたい、と押しきられて、付き合ってもらうことになった。
俺たちは、我が家の最寄り駅で電車を降りて、住宅地を歩いていく。
「今日は楽しかったわ。付き合ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
みなとが満足できたのならよかった。俺もこの体で最後の思い出を作ることができた。
「明日、ついに元の体に戻るのよね」
「そうだよ」
「でも、戻ってからすぐに会えるわけではないでしょう? 一年間も入院していたわけだし、リハビリが必要よね」
「うん、それはみやびにも言われた。だから、学校に行くのは少し時間がかかるかな」
「……そうね。元気になったほまれを待ってるわ」
すると、みなとは辺りを見回す。そして、誰もいないことを確認した後、俺の唇を塞いだ。
「……」
「……」
この体でするキスも、きっとこれが最後だろう。
「……行きましょう」
「うん」
みなとは俺の前を歩き出す。そして、信号のない横断歩道に差しかかった。
その時、俺は視界の端で何か大きなものがこちらに迫ってきていることに気づいた。咄嗟に顔を向けてそれをしっかりと視界にとらえる。
その正体は大型トラックだった。この近くには国道があるのだが、そこはかなりの頻度で渋滞が発生する。そのため、この道は抜け道としてよく利用されるのだ。大型トラックが通ることも珍しくない。
しかし、そのトラックは様子がおかしかった。明らかに早すぎるスピードで走っている。このままブレーキをかけなければ、数秒後には俺たちを跳ね飛ばしてしまうだろう。
ここで、ようやくトラックがブレーキをかけはじめる。キーッ! と甲高い音を立ててトラックが減速し始め、みなとがようやくトラックの方を向く。だが、もう遅い。
俺には、数秒後に俺たちがこのトラックに轢かれる未来がはっきりと見えていた。
俺の脳裏にいつぞやの光景がフラッシュバックする。同じようにトラックがこちらに迫ってくる光景。記憶の底に眠っていて、今までいっさい思い出せなかったのに、突然明瞭に再生される。
そして、俺は理解した。それが一年前、この体になった原因の交通事故だと。デジャブが記憶の封印を解いたのだ。
俺は知っている。トラックに轢かれたらどうなってしまうかを。一年前に身をもって体験済みだ。
だったら、今できる最善の行動は一つしかない!
俺は瞬間的に走り出すと、みなとの背中に迫る。そして、思いっきりその背中を突き飛ばした。
こうすれば、計算上、みなとの体はトラックの進路からはギリギリで逸れる。俺に搭載されている電子頭脳がそうシミュレートしているのだから、間違いない。
少々強引だが、俺はそうするしかなかった。二人とも助かる道はなかったのだから。
みなとの背中が遠くなっていくのを眺めていた次の瞬間、俺の体にものすごい衝撃が走る。これまでこの体で受けたどの撃力も、そよ風に思えてしまうほどの重い衝撃だった。
当然、俺の体はそれに耐えられるはずもなく、バラバラになっていく。フレームがひしゃげ、ケーブルが切れ、関節が外れ、モーターが壊れ、俺に内蔵されているあらゆる機械が本来の形から逸脱していく。脳内に数千のエラーが瞬時に浮かび上がった。
直後、俺は宙を舞う。目の前を、自分の右手が細かく部品を撒き散らしながら横切っていく。視界が錐揉み状態になる。
俺は自分が完全に終わったことを悟った。もう助からないだろう。
せめて、みなとだけでも無事でいてくれ……。
最後にそう思った刹那、頭に強い衝撃が走り、俺の意識は暗転した。