フレデリカを先頭に、二人は森の中を歩いていく。右側には、ノルトバルトの城壁。それが見えるか見えないかの位置を保ちながら、ゆっくりと方向を変えていく。
「あの……本当に、申し訳ないです」
「なんで?」
「だって、私と一緒にいたら、あなたまで軍に追われちゃうじゃないですか……」
「大丈夫よ。どうせ私もそうなんだし」
「え?」
ラーンが、どういうことかとフレデリカに問いただそうとしたそのとき、フレデリカが手でラーンを制する。
「しっ、静かに! 隠れて!」
「は、はい!」
二人は急いで木の後ろに隠れる。
次の瞬間、遠くから微かに足音が聞こえてきた。何十もの規則的な足音だ。石畳を打つ靴の音、それに混じった馬の蹄が地面を打つ音が、どんどん近づいてくる。
ラーンは、その足音の正体を瞬時に察して、思わず口を手で塞いだ。
二人の目の前には、石畳の広い街道が東西に伸びていた。西側にはノルトバルトの東側の城門が見える。ラーンはちょうど、右回りに四分の一周したところだった。
その街道を、西から街の方へ、目の前を軍人が隊列を組んで通過していく。
軍人らとラーンとの距離はほとんどない。ラーンが立ったら、一瞬で見つかってしまう。そんな極限状態に置かれて、ラーンが平静を保てるはずがなかった。
呼吸が速くなる。冷や汗が流れて、手や背中が濡れていく。ラーンの頭の中には施設での辛い仕打ちがフラッシュバックする。
フレデリカはラーンの背中をさする。ラーンは動いてしまいそうだったが、なんとか耐え忍ぶ。
「……行ったわ」
永遠とも思える時間が経った後、フレデリカがそう言った。直後にラーンは口から手を離して、荒い呼吸を繰り返す。
ラーンが落ち着いたのはしばらくしてからだった。すでに軍の姿はない。脅威は去った。
フレデリカは、ラーンが落ち着いた後に、立ち上がるように促す。
「……ラーン、行くわよ」
「……はい」
二人は街道を横断する。
ラーンはチラッと右を見る。
遠くに見える街の東側の入り口に、軍の姿は見えなかった。
二人は、再び『黒い森』に入っていった。
『黒い森』は、その名の通り、遠くから見ると黒く見えることからそう呼ばれている。
本当は黒くはなく、葉が濃い緑色の木が密集しているからなのだが、もう一つ、その名で呼ばれる理由がある。
「……暗いですね」
「そうね」
太陽はすでに昇っているのに、その光が地表にはほとんど届かないのだ。それゆえに、この森は中から見ると常に薄暗い。そして、日光も当たらないので、どこか肌寒い。
ラーンは足元に注意を向ける。薄暗いので、注意しないと足を取られてすぐに転んでしまいそうだった。
しかし、フレデリカの足取りは軽い。まるで木の根など無いかのように、スイスイと森の中を進んでいく。
ラーンは必死についていこうとするが、フレデリカに追いつくことは難しかった。
フレデリカは時々立ち止まって、ラーンを待つ。ラーンは自分が足手纏いになっていることを感じて、非常に申し訳なく思っていた。
「フレデリカさんは、歩き慣れているんですね」
「まあ、ここは森だもの」
理由になっているのかなっていないのかよくわからない言葉を吐いて、フレデリカは続ける。
「エルフは、森に住んでいる種族。エルフにとって森とは、自分の家であり、庭であり、狩場であり、遊び場なのよ」
「な、なるほど……」
「まあ、それでもこの森は、私はあまり好きでは無いけどね。薄暗いし、なんかジメジメしているし、ちょっと寒いし」
いくら森に親和性が高いといえども、その中には好き嫌いがあるんだな、とラーンは思った。
二人は獣道をずっと歩いていく。周りの景色はずっと木だらけで、目新しさはどこにもない。
同じような景色がずっと続いているせいで、ラーンはすっかり方向感覚を失ってしまっていた。しかし、フレデリカは迷いなく一直線にズンズン進んでいく。ラーンはその後ろをついていくだけだった。
もし一人でこの森に入っていたら、一瞬で迷って出れなくなってしまうだろう、とラーンは感じていた。エルフのフレデリカは森に慣れているので、こんな環境でも方向感覚を失うことなく進んでいけるのだろう。
しばらく進んでいると、目の前に太陽の光が降り注ぐ場所が現れた。
これまでずっと鬱蒼とした森が続いていたのだが、そこだけ木のない、短い草だけが生えているぽっかりとした空間が存在している。
砂漠に現れたオアシスの如く、その場所は存在していた。まるで、二人に休憩せよ、と告げているかのように。
「ちょうどいいわね、ここで休憩しましょう」
「あ、はい」
二人は腰を下ろした。
ラーンが一息ついていると、フレデリカは自分の荷物の中から手のひら大の赤い果実を二つ取り出した。そして、片方をラーンに投げてよこす。ラーンは落としそうになりながらなんとかキャッチした。
フレデリカはすぐにその果実を齧った。シャリシャリと咀嚼していく。
ラーンは初めて見るそれに、戸惑いを隠せなかった。
「あの、フレデリカさん。これは……?」
「ん? リンゴよ」
これがリンゴ……とラーンは手に持っているそれをマジマジと見つめる。知識では知っていたが、実際に目にするのは初めてだった。
これから先も、新しいものが出てくるたび、こうして頭の中の知識と現実の物体とのすり合わせが続くのだろうな、とラーンは予感していた。
見つめるだけで食べようとしないラーンに対して、フレデリカは不思議そうに聞く。
「……もしかして、リンゴ嫌いだった?」
「いえ、そういうわけではないですが……見るのが初めてで」
「あ……そうなのね。食べないの?」
「え、と、私は魔力さえあれば生きていけるので、食事は必要ないというか、食べられるんですけど食べなくていい、っていう感じです」
「へぇ、それは羨ましいわね」
フレデリカは芯だけになったリンゴを、つまみながらそう言った。
「せっかくだし、食べちゃいなさい」
「は、はぁ……」
「……もしかして、『私が食べることで、フレデリカさんの食料が余計に減っちゃうかも』とか思ってない?」
自分の思っていることをズバリと言い当てられ、ラーンは動揺した。
「え、えと……はい」
「そんなの気にしなくていいのよ。私は十分に持っているから。それに、足りなくなったらこの森で調達していけばいいのよ。何が食べられて何が食べられないかくらいは知っているから。遠慮せずに食べなさい」
「わ、わかりました……いただきます」
ラーンはリンゴを恐る恐る齧る。
まず口の中に広がるのは甘味。その後にほのかな酸味が後を追ってくる。
食感は少し硬いが、噛むとみずみずしい果汁が出てきて、シャリシャリと音を立てる。
ラーンは『リンゴ』を味わいながら、あっという間に周りの部分を食べ終えてしまった。
そして、残りの芯の部分も食べようとしたが、固くてなかなか噛みきれなかった。
「ラーン、そこは食べなくていいのよ」
「え、そうなんですか⁉︎」
「そうよ」
フレデリカは芯まで必死に食べようとしていたラーンの様子を見て笑いながら言った。ラーンは少し恥ずかしくなった。
「ところで、今はどのくらいまで来たんですか?」
「そうね……だいたい五分の一くらいかしら」
五分の一。半日でここまで進めたのなら、案外すぐにこの森を抜けられるかもしれない、とラーンは感じていた。
しかし、現実はそう甘くはないことを、ラーンはこの直後に知ることになる。
突然、フレデリカが顔を上げた。そして、ラーンに鋭く叫ぶ。
「何か来る! 下がって!」
「え、あ、あ、はい!」
ラーンは地図と荷物を持つと、急いでフレデリカの後ろへと下がった。
フレデリカは腰の短剣を抜くと、ラーンが先程まで座っていた方へと構える。
「ウグルゥ……」
茂みの向こうで、低い唸り声がした。ラーンはこの時、初めて何かがいることを生身で感じ取った。
そして茂みの向こうからゆっくりと姿を現したのは、巨大な真っ黒なクマだった。
体長はラーンやフレデリカの三、四倍ほどの大きさ。隠しきれない巨大な白い牙が、口からのぞいていた。
明らかにただのクマではない。魔物だ。
「グローサーベアーね……!」
「ウグワァ!」
フレデリカがそう言った途端、グローサーベアーは仁王立ちになると、二人の方へ襲いかかってきた。
次の瞬間、目の前からフレデリカの姿が消える。その瞬間、周囲に爆風が吹き荒れた。
「うわっ……!」
地面から剥がされそうな勢いの風。ラーンは腕で顔を覆い、姿勢を低くして吹き飛ばされないように耐える。
それはグローサーベアーも同じだった。立っている状態で爆風の影響をもろに受けたので、バランスが崩れ、その巨体が後ろに二、三歩下がる。
「はあああぁぁぁぁあああ!」
その時、フレデリカはちょうどグローサーベアーの真上にいた。
上昇から下降へ。フレデリカは重力に引っ張られて落下し始める。短剣を握りしめて、その切先を下に向け、勢いよくグローサーベアーに突っ込んでいく。
落下分の運動エネルギーが乗った短剣は、鈍い音とともにグローサーベアーの頭頂部に突き刺さった。
「グオオォォォオオォォォォ!」
短剣が突き刺さった箇所から血が吹き出す。フレデリカはラーンの目の前へ鮮やかな着地を決めた。
グローサーベアーはよろけ、そのまま倒れるかと思ったが、ズンと地面を揺らして耐える。
「なにっ……今のは致命傷のはず……あっ!」
短剣の切先がラーンのミスリルで溶けていたせいで、深く刺さらずに致命傷には至らなかったのだ。
「フレデリカさん!」
「大丈夫よ、私に任せて。とっておきの策があるの」
そう言うと、フレデリカはラーンを再び下がらせる。
「この作戦は、敵から十分間合いを取らないと、発動できないのよ! 『風よ!』」
フレデリカがそう叫ぶと、グローサーベアーに向けた手のひらを起点に、風が巻き起こる。
そして、その風はグローサーベアーを包み込むように展開すると、次の瞬間、周りに向かって勢いよく風の奔流が迸った。
「うっ!」
ラーンは吹き飛ばされないように、再び体を丸めて耐える。
「グオオオォォォオオオ!」
葉や小枝を飛ばす風の渦の中心には、グローサーベアー。だが、その様子は少しおかしい。
白目を剥きながら、胸を掻きむしるような仕草をしている。たちまち、その口からはピンク色の泡が吹き出した。
しばらく苦しむような様子を見せたのち、グローサーベアーは地面を揺らしてその巨体を横たえた。
フレデリカが魔法を終わらせ、グローサーベアーの脳天に突き刺さった短剣を、力を込めて押し込んだ。
グローサーベアーはビクンと体を震わせ、そして沈黙する。
「ふぅ……危なかったわね」
「も、もう大丈夫ですか?」
「ええ。死んでいるわ」
「よ、よかった……」
ラーンはその場にへたり込んだ。
フレデリカは解体用のナイフを取り出す。そして、グローサーベアーの脳天から短剣を抜いた。
溶けて変形していた刃を見てちょっと顔を歪めると、フレデリカは解体用の短剣を取り出して、グローサーベアーを解体し始める。
「とりあえず、肉と、希少部位と……魔石をもらいましょうか」
「わかりました」
フレデリカは手際良く死体を解体していく。
「肉と希少部位はこれくらいでいいわね。あとは魔石かしら。いつも肉がへばりついてなかなか取れないのよねー」
「あ、あの」
「ん?」
「残りの部位はもういらないんですよね?」
「ええ。そうよ」
「じゃあ、私が魔石を取り出します」
「そう? じゃあお願いするわ」
フレデリカが見ている前で、ラーンは手のひらから炎を出した。直後、円形の空間の中央にあったグローサーベアーの死体が、青い炎に包まれた。
「なっ……」
青い炎が収まった頃には、魔物の死体はなく、灰の山だけが残されていた。
ラーンはその灰の山に近づくと、中に埋もれていた青色の結晶を手に取った。
「魔石です」
「あ、ありがとう……」
二日前に斃した狼の魔物のそれよりも幾分大きいそれを、ラーンはフレデリカに差し出した。フレデリカは戸惑う様子を見せながらも、それを自分の荷物にしまう。
結果的に少し増えた荷物を持って、若干の焦げ臭さを感じながら、二人は来たときと同じ状態になったその場を後にした。
「それにしても、ラーンの魔法、すごい強力ね。さすが、ホムンクルスね……」
「あ、ありがとうございます」
「さっきの、炎の魔法よね?」
「そうです。まあ、それだけなんですけど……」
ラーンの得意な魔法は、炎を出す魔法。その形状や温度、出す位置も細かく調整できる。いや、訓練を通じて調整できるようになったのだ。
「フレデリカさんの魔法は、風ですよね?」
「ええ。風を操る魔法よ。それで空を飛んだり、大風を吹かせたりできるわ」
「すごいですね……。ところで、さっきクマの魔物を斃した時、最後に何をしたんですか? 風で攻撃しているようには見えなかったんですけど……」
「ああ、それはね、窒息させたのよ」
「窒息?」
「そう。グローサーベアー……さっきのクマの魔物ね。そいつの周りの空気を操って、そこだけ空気がない状態にしたのよ」
「な、なるほど……!」
だから死ぬ間際にあんなに苦悶の表情を浮かべていたのか、とラーンは納得した。
二人は、荷物をまとめると、どんどん南へ進んでいく。
途中で何度か小休止を挟みながら歩いていると、やがて日が暮れて辺りは真っ暗になってしまった。
「……今日はここで野宿しましょう」
「はい」
二人は適当に開けた場所を見つけると、夜をやり過ごすことに決めた。
ラーンはここ三日寝ずに行動している。ずっと軍に見つからないか緊張し、ずっと休まずに移動し続けていたため、疲労は相当なものだった。
二人は周辺から木の枝を集める。そこにフレデリカが持っていた炭を投入し、ラーンの魔法で火をつけた。
フレデリカは食事の準備をする。昼間に倒したグローサーベアーの肉を串に刺し、それを焚き火の周りの地面に刺して焼く。すぐに、肉の焼けるいい匂いが立ち込めてきた。
「さ、食べるわよ」
「いただきます」
二人は肉にかぶりつく。ラーンにとって初めての焼肉の味。これまでの食べ物とはまた違った美味しさを、ラーンはその体に覚えるのだった。
デザートとしてリンゴを一つずつ食べ終えると、二人は今後について話し合う。
「今は、どの辺りなんですか?」
「『黒い森』の五分の二くらいね。明後日の昼くらいには森を抜けられると思うわ」
「……案外楽に抜けられそうですね」
「油断しちゃダメよ、ラーン。ここからが『黒い森』の本番なの」
「本番?」
「ええ。『黒い森』は南に行けば行くほど、強い魔物がいるの。この先には、昼間遭遇したグローサーベアーより、もっと強い魔物が住んでいるのよ。ますます油断できないわ」
「そ、そうなんですね……」
ラーンは改めて気を引き締める。軍に捕まるのもダメだが、ここで魔物に襲われて、命を落としてしまっては元も子もない。
「それじゃあ、寝ましょうか。見張りの順番はどうする?」
「え、見張り?」
「そうよ。夜の間に襲ってくる魔物もいるからね。時間を決めて、交互にやるものなのよ」
「そ、それだったら私がずっと起きてますよ!」
「ダメよ」
しかし、ラーンの提案をフレデリカは即座に却下した。
「ずっと逃げてきているのだから、疲れているでしょう?」
「そ、そんなことは……」
「ねぇ、ラーン。あなた何日間寝てないの?」
自分がずっと寝ずに歩いてきていることを見透かされたような気がして、ラーンは目を逸らした。
「……三日です」
「三日! その間、常に追っ手を気にして緊張していたんでしょ? だったら尚更よ。こんな森のど真ん中、見つかるわけがないわ。こんな状況なかなかないんだから、今日くらいはゆっくり休みなさいよ」
「……わかりました。ありがとうございます」
「それじゃあ、今から真夜中までと、真夜中から朝まで、どっちを見張りたい?」
「……後の方で」
「わかったわ。じゃあ早速、寝てていいわよ。そこにハンモック作っておいたから、使って」
「ありがとうございます」
ラーンはハンモックによじ登ると、身を横たえた。
初めて、施設の中の自分の部屋のベッド以外で眠る夜。ラーンは全然違う感覚に戸惑いつつも、ハンモックに体を預ける。
三日ぶりの睡眠。ラーンは目を閉じて、これまでの三日間を頭の中で振り返る。
過酷な訓練から帰ってきたあの日、ベッドから一枚のメモを見つけた。それが全ての始まりだった。
メモ通りにミスリルを見つけると、拘束具を外し、魔法を使って壁を破壊し、誰にも見つかることなく自由を手に入れた。
歩いて走って、時には馬車に乗せてもらい、街で装備を整えたのがつい昨日。
そして今日、フレデリカと衝撃的な出会いを果たし、一緒にエルヴルン州へ向かうことになった。
つい三日前まで施設にいたはずなのに、こんなに遠くまで飛び出してきてしまった。
もちろん、ラーンには戻る気はさらさらない。むしろ、これからさらに遠くへ行かねばならないのだ。
これから先、ラーンにはたくさんの困難が待ち受けているだろう。しかし、これらを乗り越えなければ真の安寧は訪れない。
旅の無事を祈りながら、ラーンは静かに目を閉じるのだった。