「……ン、ラーン、起きて~!」
「はっ!」
ラーンは目を覚ました。
辺りは真っ暗。木々の隙間から、月が微かに見えていた。
隣を向くと、フレデリカがこちらを覗き込んでいた。そして、ラーンの目の前で大きな欠伸をした。
「あっ、もう時間ですか?」
「そうね~」
「えと……見張りって何をすればいいですか?」
「ん~えっと、とりあえず火が消えないようにすることと、荷物を見張っておくことと、魔物が来ないか警戒することね~。何か来たら起こして~」
「わかりました」
フレデリカはだいぶ眠そうだ。しきりに欠伸をしていて、目も半分閉じている。
ラーンがハンモックから降りると、代わりにフレデリカがそれに上る。
「おやすみ~」
「おやすみなさい」
少ししてから、ラーンはフレデリカの方を見る。フレデリカは、夢の世界に行ってしまったようだった。
ラーンは焚き火のそばで、腰を下ろす。すでに火の勢いはだいぶ弱まっていて、炭が赤色に光っていた。
周りの森は、不気味なほどに静かだ。虫の音も、動物の息遣いさえもしない。時々吹き抜ける風と、それに揺らされる枝葉だけが、音を発していた。
広大な森の中、二人きり。ラーンは急に、ひどく寂しく、不安になった。
頼れるのは己と、フレデリカだけだ。もし自分たちの手に負えないような事態が発生した場合、その瞬間に詰んでしまう。
そんな心配をしなくていいような生活を手に入れたい。
元はと言えば、帝国にいるのが悪いのだ。早く王国に行って、この不安を払拭したい。焦燥感が、ラーンの内側をジリジリと焼く。
しばらくの間、ラーンは、自分の内面に意識を向けていた。だが、裏を返せばそれは、自分の外側へ意識を向けるのが疎かになってしまっている、ということだった。
ラーンが考え込んでいる間、それは着実に二人の方へと迫っていた。音を立てないように、気配を殺しながら。
故に、ラーンの反応は遅れた。
勢いよく飛び出してきたものに、ラーンは気づいた。体を捻って、その方向を向く。
しかしながら、そこまでしか動作は間に合わなかった。手のひらから炎の魔法を使おうとするが、相手の方が早かった。
「うぐっ!」
ラーンは相手にぶつかられて、その勢いで仰向けに倒された。
相手の姿はよく見えない。人間なのか、魔物なのか、はたまた別の何かなのか。ラーンに認識する暇すら与えない。
そして、それはラーンの上に流れるような動きで馬乗りになると、そのままラーンの首筋に思いっきり噛みついたのだった。
「っあ゛ー!」
ラーンはやっと痛みに反応して悲鳴を上げる。変な叫び声だった。
その叫び声に反応して、フレデリカがガバッと身を起こす。
「え、何⁉︎ どうしたの⁉︎ ラーン!」
ラーンはそれを引き剥がそうとするが、強い力で押さえつけられて、体から全く離れない。チューチューと噛み付かれたところから何かが吸い出される不快な感覚がする。
相手に至近距離から炎をぶつけたいが、こうも密着されると自分自身にも燃え移ってしまう可能性があり、ラーンは躊躇していた。
「離れなさいよ!」
次の瞬間、ラーンに噛みついたそれの背後から、フレデリカが短剣を持って飛びかかった。
しかしながら、それは一瞬でラーンの上から消える。
正確には、消えたのではない。ものすごい速さで、ラーンの上から移動したのだ。
「うわ!」
「きゃっ!」
フレデリカはラーンに短剣を刺すところだったが、その寸前で軌道を逸らしてラーンのすぐ横の地面に突き立てる。だが、勢いを殺すことができず、フレデリカとラーンはそのまま衝突した。
深夜の森の中に、バタンと大きな音が響く。
しかし、倒れたままの体勢でいるわけにはいかない。襲ってきたものの正体が不明である以上、体勢を立て直して対処しなければならない。
二人は身を起こすと、焚き火の向こうにいる、襲ってきたものに対峙する。
この時、二人はようやく自分たちに襲いかかってきたものの正体をはっきりと認識した。
姿は人型。身長は二人と同じくらいで、ボロボロの簡素な服を身に纏っている。髪は長く、暗さのせいでよくわからないが黒っぽい色だった。年齢は二人と同じくらいか、それよりも少し年上くらいだろうか。妖艶な体つきをしていて、真紅の瞳がこちらを向いている。
一番に目を引くのは、口からはみ出しているその犬歯。焚き火の炎を反射してギラギラと輝きを放っていた。
すると、突然彼女は顔を引き攣らせる。そして、みるみる顔を青くして、目を見開いた。
「う……うおぇぇええええー」
そして地面に膝をつくと、吐いた。
突然の出来事に二人は固まる。
まず、自分たちに突然襲いかかってきたのは、魔物ではなく人だった。魔物ではないことに一安心しかけたが、ラーンは思い出す。彼女が自分の首筋に噛み付いてきたということ、そして彼女のギラギラ光る異様に大きい犬歯を。
人間のようで人間ではない。その意味では、自分みたいなホムンクルスや、フレデリカのような亜人の一種なのではないか、とラーンは考えた。
ラーンが近づこうとするが、フレデリカが手で制する。
「なぜだか知らないけど弱っている今がチャンスよ。確実に仕留める!」
「ま、待ってください!」
ラーンは慌てて叫ぶ。
「まずは、何が目的なのか、聞いてみましょうよ」
「ラーンに襲いかかった時点で敵よ。情けは無用だわ」
「そうですけど……でも!」
ラーンは、ゲーゲー吐き続ける彼女の方を見る。
こんな深い森の真ん中に、人間、あるいは人型の生物がいるだろうか? それに彼女の身なりはボロボロ。軍の関係者でもなさそうである。きっと、なんらかの事情を抱えているに違いない、とラーンは確信していた。
「一旦事情を聞いてからでも、遅くはないと思うんです」
「……少しでもラーンが危なくなったら、すぐに殺すから。いい?」
「……はい」
短剣を持ったフレデリカの先導で、ラーンは彼女に近づく。
「だ、大丈夫ですか?」
恐る恐る声をかける。
すると、一旦吐き気が和らいだらしき彼女は、ラーンの方をきっと睨みつけた。
「お主、血は何色じゃ!」
「え、ええ?」
「あんなマズい血、初めて飲んだ! そもそもあれは血などではないな! おかげで先程から吐き気がとまら……うおぇぇええー」
再び気持ち悪くなったのか、彼女はゲーゲー吐き始めた。
ラーンは心配になって彼女の背中をさする。そんな二人をフレデリカは胡散臭そうな目で見ながら、荷物から縄を取り出した。
「一応、縛っておくわ」
「え、そんな……」
「一応よ。変なことができないようにね」
手を後ろで縛られた彼女は、ひとしきり体の中のものを吐いたところでやっと落ち着いた。
よほど苦しかったのか、荒い呼吸を繰り返し、目には涙を浮かべている。
「……大丈夫ですか?」
「……みず」
「水?」
「そうじゃ、水を、飲ませてくれ」
フレデリカは水筒から水を汲むと、彼女に飲ませた。
水を飲み干すと、彼女は一息つく。そして、ラーンの方を再び睨むと、喚き始めた。
「それにしても、お主、いったい何者じゃ⁉︎ あの味は間違いなく血ではない。猛毒じゃ⁉︎ そんなものが流れているなんて、さては汝、人間ではないな⁉︎」
「え、あ、はい」
「全く酷い目にあったわい! どう責任をとってくれる!」
「す、すみません……」
なぜか怒られて、それに反射的に謝ってしまうラーンだった。
「ラーン、謝らなくていいのよ。元はと言えば、コイツの自業自得よ」
「な、何をする! 痛いではないか!」
「は? こちらから襲いかかっておいて何様よ。殺されたいの?」
「……」
ゲシゲシと足蹴にしてくるフレデリカに彼女は文句を言うが、フレデリカの氷のような視線と声音に黙り込んだ。
「と、とりあえず……あなたは何者なんですか? まさか軍の人ですか?」
「彼奴らと一緒にするな!」
ラーンがそう言った途端に唾を飛ばし、大声を上げる彼女。なぜか知らないが、逆鱗に触れてしまったらしい。
「え、えと……そもそも、人間……ですか?」
「人間……まあ、今の妾は人間よりも魔物に近いかもしれない……」
はぁ、とため息をつくと、彼女は自己紹介を始めた。
「妾の名はアウレリア。お主らは何と呼んだかな……そう、『吸血鬼』というやつじゃ」
「何ですって!」
フレデリカが驚きの声をあげる。
ラーンは『吸血鬼』という単語を聞いたことがなかったので、フレデリカに尋ねる。
「知っているんですか?」
「……ええ。『黒い森』に出没する魔物の中で、最も強く、最も恐れられているのよ。遭遇してしまったら基本的には生きて帰ってこれないって言われているの」
「ふん、妾はそんなことはしとらん」
「とか言って、どうせ血を抜いて死に至らしめているんでしょ?」
「腹を満たすためにちょっと血をもらっているだけじゃ。まあ、大半の人間は失神してそのまま魔物に食べられておるが」
「間接的に殺しているじゃない!」
「あ、あの……血を、吸うんですか?」
「そう。吸血鬼は恐ろしいことに生物の血を吸うのよ。だから吸血鬼と呼ばれているの」
「な、なるほど……」
ここでようやく、ラーンはアウレリアが自分の首筋に噛み付いてきた理由を理解した。アウレリアは、ラーンの血を吸い上げようとしていたのだ。
「それにしても赤髪の……ラーンと言ったか。お主、先程人間ではないと認めたが……そこのエルフみたいに亜人でもなさそうじゃ。一体何者じゃ?」
「あ、えと、ホムンクルスです」
「ホムン……? 聞いたことない種族じゃな」
「あ、えっと種族ではなくて……うーん、と、帝国軍によって作られた、人工生命体、です」
「帝国軍……そうか。お主もまた……」
アウレリアは、どこか忌々しそうな表情をする。
帝国軍とアウレリアの間には、何か良くない関係があるのだろう、とラーンは推察していた。
すると、その時、腹が鳴る非常に間抜けな音が三人の空間に響き渡った。
しばらくの沈黙。
「……腹が減った」
そうぼやいたのは、アウレリアだった。
先程思いっきり胃の中のものを吐いていたのだ。空腹状態になるのは当然だった。
「何か、食べるものを恵んではくれぬか……?」
「誰があなたなんかに……!」
「まあまあ、フレデリカさん、昼間の魔物の肉も余っているし、少しくらいなら分けてあげてもいいんじゃないでしょうか?」
「でも!」
「アウレリアさん、私たちを襲わないと約束してくれますか?」
「もちろんじゃ」
「……信用できないわ」
「妾には、お主らを襲う理由がない。ラーンの血はとても飲めたものじゃないし、亜人の血はマズい」
「まっ……!」
マズいと言われて、フレデリカは気色ばんだ。
「疑うのなら、すぐ殺せるように妾の首筋にその短剣を当てていればいい。妾はただ飯が食いたいだけなのじゃ」
「……わかったわよ」
不服そうな顔をしつつも、フレデリカは縄を解いた。
その間に、ラーンは自分のバッグから余ったグローサーベアーの肉を取り出すと、串に刺して焚き火のそばの地面に突き刺す。そして、弱まっていた火の勢いを、魔法で強くする。
しばらくすると、美味しそうな匂いが漂ってきた。途端にアウレリアは目を輝かせる。
「何やら美味しそうな匂いじゃな! なあ、食うてもいいか?」
「うーん、まだちょっと火が通っていないような……」
「ん! うまいうまい! これはグローサーベアーの肉じゃな!」
「まだ火が通ってないって言ってるじゃない!」
「問題ない。妾の腹は生肉程度でへこたれるほど弱くはないぞ」
「はぁ……もう知らないわよ」
やれやれ、とフレデリカは頭を抱え、ため息をついた。
アウレリアは胃の中を全て吐き出してしまってよほど腹が減っていたのか、あっという間に出した分を平らげてしまった。
「ふぅ……馳走であった」
アウレリアが食べ終わった後、ラーンは気になっていたことを尋ねる。
「ところで、アウレリアさんはなんでこんなところに?」
「ん、血の匂いがしたからじゃ」
「血の匂い……?」
「そうじゃ。最初に妾が感じ取ったのはグローサーベアーの血の匂いだった。それでその元を辿ってみたらお主らがいた、というわけじゃ。まあ、飲んでみたら猛毒だったわけじゃがな」
「……なんか、すみません」
「別にいいわい。それにしても、ラーンと……そこのエルフ」
「フレデリカよ」
「フレデリカは、なぜこんな場所にいる? 道にでも迷ったか? それとも妾を討伐しにでも来たのか?」
「え、いや、討伐ではないですけど……」
「ただ通り抜けようとしただけよ」
フレデリカの言葉に、アウレリアは一瞬黙って、何かを考える。
「……お主らはどこから来て、どこへ行こうとしているのじゃ?」
「ノルトバルトから、シュニーよ」
「……それではなぜわざわざこんな場所を通る? ノルトバルトからシュニーまでは、『黒い森』を迂回するように道が通っているはずじゃが」
「それは……軍を避けるためです」
「軍?」
アウレリアの目が細くなった。
「私とラーンは、今帝国軍に追われている最中なのよ。だから、人目につきやすい街道を避けて、この森を通ってショートカットしているっていうわけ」
「なるほど……では、なぜお主らが追われているんじゃ? 地方領主でも殺したか?」
「いえ……それは、私が施設から脱出したからなんです」
「施設……? そうか、お主は帝国軍によって作られた人工生命体と言っておったな」
「はい。作られてからずっと過酷な訓練ばかりで……だけど、運よく脱出できたんです」
「なるほど……被害者というわけじゃな」
ギリッ、とアウレリアが奥歯を噛み締める音。
「まったく……帝国軍は、どこまで罪を重ねるつもりなのか……!」
ラーンとフレデリカは顔を見合わせた。
ラーンは恐る恐る尋ねる。
「……アウレリアさんと、帝国軍の間には、何かあったんですか?」
「大アリじゃ。というか、妾はラーンと同様、帝国軍に作られたようなものじゃ」
「え⁉︎」
「……どういうことよ」
アウレリアは天を仰ぐ。そして、フー、と息を吐くと、語り始めた。
「そもそもお主らは、吸血鬼とは何者だと思う?」
「何って……そりゃ、魔物じゃないの?」
「魔物……まあ、そう思われてもおかしくはない。ただ、信じてもらえないかもしれんが……吸血鬼は、元は人間だった」
「……え」
「……そうなの?」
まさかのアウレリアの出自に、ラーンとフレデリカは驚きを隠せなかった。
「もうかなり昔になるが、帝国軍が軍備の増強に邁進していた時期があった。そんな時に、強い魔法使いを育成しようという計画が持ち上がったのじゃ。そしてその計画は実行された。しかし、そのやり方は極悪非道そのものだった」
ラーンは嫌な予感しかしなかった。
「彼奴らはまず孤児院から子供を集めた。そして、この『黒い森』に建てられた施設に連れて行き、そこで訓練を受けさせた。だが、訓練とは名ばかりだった。妾が受けたのは人体実験、いや、それよりももっとおぞましいものだった。あの実験で何人の同胞が死んでいったか……今でも、あの叫び声が夢に出てきて、思い出すだけで吐き気がする」
アウレリアは視線を落とした。
「数ヶ月の実験の後、計画は『完遂』された。数多くの屍を踏み台に、残ったのは妾を含めて数人だけ。しかし、計画は『成功』はしなかった」
意味深な言い方に、ラーンの頭上には『?』が浮かんだ。
「軍の目指した『最強の魔法使い』は完成した。完成はしたのだが、それを塗りつぶしてしまうほどの欠点があったのじゃ」
「それってまさか……」
フレデリカは何かを察したようだった。
「まず、太陽の光が妾らにとって害をなす存在になった。日光に当たると並の人間よりも弱体化してしまったのじゃ。日光に当たり続けると、皮膚はボロボロになり、そのまま死んでしまう。移動は夜の間か、なんらかの方法で暗闇を作り出してからするしか無くなった。
そして、最大の欠点は、吸血衝動じゃ。妾らは生き物の血を接種することで力が強くなる魔法が使えるように改造された。しかし同時に、血を定期的に摂取しないと力が弱くなってしまい、そして、見境なく血を求めて生物を殺しまわる衝動が生まれてしまった」
「……吸血鬼としての性質が、出来上がってしまった、ということね」
「そういうことじゃ。
結局、彼奴らは妾らを使い物にならんと切り捨て、全員殺そうとした。しかし、妾らは抵抗し、同胞を何人か殺されながらも、軍を撃退した。
しかし、日光の存在が仇となって、この森からは出られずじまいじゃ。時間が経つにつれ、また一人、また一人と倒れていき、ついに妾だけになってしまった。
結局、身寄りもない妾は、この薄暗い森で、毎日血を求めて彷徨い歩くことになったのじゃ」
吸血鬼もまた、帝国の非道な振る舞いが生んだ、悲しき産物だったのだ。
ラーンは、自分もまた帝国に造られた者として、アウレリアの立場が痛いほどに理解できた。
「ひどい話です……帝国がこんなことをしていたなんて……」
「許せないわね」
奇しくも、この場にいる三人は、全員が帝国から何らかの被害を受けた者たちだった。
ふと、ラーンは空を見上げる。
葉っぱの隙間から見える空は、群青色をしていた。明らかに明るくなっている。朝を迎えたのだ。
「……そろそろ出発かしらね」
「そうですね」
「……お主らは、シュニーの街に向かうのであったな」
「そうよ」
「では、妾もついていこう。と言っても、『黒い森』が続いているところまでじゃが」
「えっ、そんな、いいんですか……?」
「別に良いぞ。やることもなく暇じゃからな。それに、久しぶりに話の通じる人間と出会ったのじゃ。もう少し、一緒にいたいというのは妾の望みすぎか?」
「……まあいいわ。でも、絶対に私たちを襲わないでよね。襲ってきたらすぐ殺すから」
「あまり信用されてないのぅ。まあ、好きにすれば良い」
そういうと、アウレリアは立ち上がった。あとの二人も出発の準備を始める。
葉の隙間から見える空が薄青色になった頃、三人は南に向かって出発した。