私の両親は高度経済成長期に、それぞれ京ヶ瀬と赤谷から仕事のために燕に移り住み、洋食器工場で働き、そこで出会い結婚し、私も含めて3人の子をここ燕で育て上げました。父は生涯、工場でプレスや鍛造の職人として一家を支えました。いまでも母と姉は燕に住み、妹は燕で働いています。つまり、我が家は、ここ燕市で誕生し、育まれ、暮らしてきました。また、保育園から高校までで、共に学んだ友人・仲間・知人の多くは燕で家庭を築き、子供を育て、仕事に励んでいます。我が一家の礎である燕市への恩返し、友人・仲間・知人が頑張っている燕市に役に立てることは無いかとの思いをずっと持っていました。

 大学進学とともに新潟を離れ、あっという間に約40年が経過しました。私自身は、燕市がふるさとであること、燕人の誇りを常に思ってきたためか、また、燕在住の仲間と長く繋がってきて頂いたおかげか、40年間も離れていた実感は強くありません。が、皆様からは「40年も離れていた人に燕市のことがわかるのか?何ができるのか?」というご指摘が多くあることは当然のことと理解しています。確かに、この40年間に燕で日々起こってきたこと、変化など、分からないことばかりです。これらについては、私自身も勉強し、また、皆様からのご協力頂き、幅広く多くのお話を聞かせて頂くことで、少しでもキャッチアップし、その上で、現在燕市が抱えている諸問題、市民の皆様の願いや思いをきちんと理解し、今後の燕市を考えてゆきます。

 一方で、燕を離れていた40年間で、エンジニアを目指して入った大学で学んだ事、金融業界に転じて学んだ金融ビジネス、海外での勤務経験、外資系企業での富裕層ビジネス・ビジネス手法、組織マネジメントの経験、など、多くのことを学び、経験し、習得できたと思っています。

自身のキャリアの集大成として、この40年間で培った様々な知見・経験を、燕市の市政のために活用し、燕市民の皆様と新しい燕市づくりの役に立つべき時だと思い至りました。 現市政の方向性を継続しつつも、民間出身であるユニークな切り口と、予断なき、公正公平な目線から、スピード感をもって実効性の高い施策を進めたい。また、既成概念に囚われることなく変革を進め、新たな領域や困難へ挑戦することにより、もっと輝く、魅力あふれる新しい燕市をつくりたいと思います。

 ドラマやふるさと納税の効果もあり、「ものづくりの燕」、「燕品質」は広く知られるところとなり、燕を知っている・燕製品を使っている人は多くいます。一方で、燕に行ったことがある人や燕に行ってみたい人は多くはありません。燕をもっと活性化し、暮らす人々をもっと元気にし、伝統のものづくりに磨きをかけ、また、さらに新たな魅力のあるビジネスやコンテンツを加え、「是非、行ってみたい」と思われる街、自信と誇りをもって、「燕に是非きてください」「燕に一度行ってみてください」と言える街にしてゆきたい!と思っています。。同時に多様な人たちを迎え入れ、共に地域を発展させてゆくことが出来る「開かれた街」にしてゆきたいと思っています。

 世界経済、政治、技術、あらゆる面で、変化・進化のスピードは猛烈に早まっています。ブロック化が進む世界では、国レベルにおいても、他国に頼ることなく、自国でしっかりとした未来への展望と戦略を持つことが必要です。そのような環境の中で、日本の政治も目まぐるしく変化しており、また、不安定化しています。今後は、国に頼るばかりではなく、市町村単位の自治体がより主体性を発揮して、独自の行政を行ってゆくべき時代になります。目まぐるしく変化し進化する世界では、停滞は後退を意味します。育んできた燕市の伝統と独自性を発揮して、変化をいとわず、チャレンジを止めず、力強く前進することにより、ふるさと燕を、県や地域を牽引する主役に押し上げてゆきたいと思っています。