2026年8月28日 公開
子供が産まれてから、研究者夫婦であるわたしたちの子育てについて文章を書いていた。これは、NPO法人FENICSのメールマガジンの連載として書いたものだった。当時は研究者の子育てに関してフリーにアクセスできる文章もそれほど多くはなかった (あるいは、子育て若輩者のわたしたちの狭い視野では見つけられなかった)。そこで、ほかの人たちにも参考になると良いなと思い、FENICSからも許可をもらって、内容はわたしのウェブサイトで公開した※1。するとありがたいことに、「読んで参考になりました」と言ってくださる方にときどき出会ったりもして、公開しておいて良かったなという思いを新たにした。なにより、あとになって自身で読み返してみると、そういえばあんなことがあったとか、このときはそう考えていたんだなとか、忘却してしまっていたこと、あるいは、場合によっては後に作られた記憶や思いで都合よく上書きされていたことも、当時の感覚で思い出すことができた。
ここ数年で研究者の子育てに関するエッセイや記事は大きく増加したように思う。たとえば『研究者、生活を語る』という書籍が2024年に出版されているし、オンラインのコンテンツもよく目にするようになった気がする。わたしはこの流れを歓迎する。差し支えがなければだけど、みんなもっと生活のことを語ってほしい。それによって、偏見からできるだけ自由になって、いろいろな選択が自然に受け入れられる世の中になってほしい。
子供がまだ小さいうちの研究者の子育てに関する話は以前よりも目にするようになったものの、もう少し大きくなって「赤ちゃん」とは言い難くなって以降の子供の子育てについては、まだそれほど情報を見ないように思う。生後1年間で執筆が終わりとなったわたしたちのケースを振り返ってみて、3つの理由が思い浮かぶ。
ひとつは忙しさ。子供が大きくなればそれだけ子育てにかかる労力も増える側面がある (育休が終わり、保育園が始まり、子供も保護者も風邪をもらってダウンし、発達に応じて都度生じる新たな要求に対処し…)。人生に突如現れた子供の存在に対する物珍しさの気持ちがだんだん落ち着いてくると、そのような忙しい生活のなかでわざわざ文章を書くモチベーションの優先順位はなかなか上がらなくなる。また、一般的に、これにあわせて親の側の職位なども上がってくる。私は当時ポスドクだったけれど、自分がリードするプロジェクトが増えてきて時間的な余裕がなくなり、教員になったあとは、教育や大学業務などにも携わるようになってさらに時間や余裕がなくなるということも理解した。
ふたつめの理由は書きづらさ。生後すぐは幼い生き物をどうやって死なせないように毎日を送るかということが子育ての本質のひとつだけれど、大きくなるとそうした生物学的な要求の相対的な割合はどんどん低下し、社会のなかで年若い人間とどうやって共に生活を送っていくかという社会体な要求に重点が移っていく。舞台が生活に移ると、公にしづらい事柄もたくさん出てきて、守らなければならない個人情報も多くなる。また、子供の年齢が上がるにつれて手厚い制度もだんだん減っていき、交渉や工夫によって難局を乗り越える必要のある場面が増えてくる。そうしたもののなかには、見る人が見ると眉をひそめたり非難を始めたりするようなものも含まれるかもしれない (あるいは、相互監視的な社会にあってはそうした被害妄想がどうしてもわたしたちの頭を悩ませる)。そこまでいかなくても、常日頃無理をお願いすることになってしまっている職場の同僚がたまたまこの文章を目にしたときに、不快な気持ちを抱かないか心配になる。また、親の年齢も上になってくると、自分たちのまわりにもさまざまな人生の選択が見えてくる。不妊治療を継続していたけれど終了せざるを得なかった、シングルでいくことを決めた、子供などとてもじゃないけれど無理、子供ももうけたけれど離婚という結果になった、などなど。そうしたさまざまな人生の過程を現実に目の前にして、どちらかといえば社会的に良いとされているような形態に現状でたまたま沿っている人生のひとつをことさら書き顕すことは、ある種の暴力性を帯びた行為なのではないかということも思う。そうした書きづらさを前にして、自分たちの人生に集中しようとPCを閉じることは、わたしには、きわめて自然ななりゆきに思われた。
みっつめの理由はあきらめ。生まれたばかりの子供をとりまく状況は比較的似通っていて、n = 1の個別のケースであっても、比較的高い一般性のもとに、自分たちの情報がほかの人たちにも役立つのではないかという見通しがある。しかし、子供の年齢が上がってくると、この見通しは成り立たなくなる。子供ひとりひとり違う心身の特性が、多様な生育環境で徐々に現れていき、ふたつとして同じもののないそれぞれの社会的な文脈に織り込まれていく。こうした多様性を前にして、自分たちの本当にn = 1でしかなくなったケースを書き表わすことが、果たしてどの程度、ほかの人たちの参考になるのだろうかということがわからなくなってくる。多様性を前にした前向きなあきらめが、こうした文章を書くための動機をふんわりと包み隠してしまう。
こうしたことをつらつらと考えつつ、わたしは、だからこそ続編を書きたいなという結論に至った。忙しいのはみな同じで、忙しければ忙しいほど、どうすればうまくやっていけるのだろうということが重要になる。書きづらいことを書かなければ、それは存在しないのと同じことになってしまうような側面がある。人が納得できる判断をするためには、事前に見識を広げてくれるような情報は多いほうが良いかもしれない。そして、あきらめとは結局のところ自分自身への言い訳の側面がある。人のためではなく、自分のために、書きたいから書くのだ。そういう側面があることを、わたしはたしかに知っている。
そのようなわけで、どこまで続くかわからないけれど、「研究者の子育て 続編」を書いてみることにした。子供が「赤ちゃん」と言えるような時期を過ぎて、親たちのキャリアもどうにかこうにか先に進んでいったとき、わたしたちは何を考えてどのように子育てと研究を共に進めていったのか。そうしたことを書いてみたいと思う。
※1 独自ドメインのサイトからGoogleサイトへの移行に伴ってURLは変わっているが、今でもこちらからアクセス可能
https://sites.google.com/view/tsuta/ja/essay