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歴史の分岐点に関わった合戦の“城物語”
①上田城と上田合戦(第一次合戦1585年、第二次合戦1600年)
「上田合戦」は、信濃の国の上田城と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏と徳川氏の戦いの総称です。この地で真田氏と徳川氏の戦いは2回行われ、天正13年(1585)の戦うを第一次、慶長5年(1600)の戦いを第二次とし区別している。
上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域であったが、真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、小県郡も安定し、上田城を築城した。この戦いは真田昌幸は主に上田城に籠り戦ったことから、「上田城の戦い」とも呼ばれる。
●第一次上田合戦:天正10年(1582)の2つの事件(①3月の甲州征伐 で主君「武田勝頼」が自刃=武田氏滅亡➁6月の本能寺の変での「織田信長」の死)による武田氏旧領は大混乱、織田の家臣は去り、徳川家康、上杉景勝、北条氏直の三つ巴の領地争奪が始まった。国衆の真田昌幸は3大名と外交・軍事で智略を発揮し、渡り合いました。徳川との合戦では作戦勝ちで少人数で大勝しました。
●第二次上田合戦:慶長3年(1598)豊臣秀吉の死去し、五大老筆頭の徳川家康と五奉行の石田三成の対立が顕著になり、三成が決起した西軍と徳川方の東軍に分かれ、慶長5年(1600)「関ヶ原戦い」の前哨戦が各地で開始されました。その際、真田家は親子・兄弟が分かれて戦うことを決め、真田昌幸・信繁(幸村)親子は西軍の付き、徳川秀忠率いる徳川本隊と応戦し、関ヶ原への遅参させる手柄を立てました。しかし西軍は敗北し、昌幸・信繁父子は高野山に配流されました。
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➁小田原城と小田原合戦(1590年=天正18年)
戦国時代、天下統一を目指す関白「豊臣秀吉』は九州平定した後、関東の北条氏を従わせようと、真田氏との沼田領問題を裁定し、上洛をうながしていましたが、これが果たされないうちに、北条氏側の武将が“名胡桃城”を攻めたことから、関東の「惣無事令(大名同士の領土の取りあい停止)」に違反したととらえ、宣戦布告となりました。秀吉軍は21万余の大軍で小田原を陸と海から囲み、小田原城の対面の山には“石垣山一夜城”も築き、驚かせました。北条方の本拠地「小田原城」は城と城下町を全部包み込んだ「惣構え」体制で約3ヶ月籠城、関東の支城も次々落城し、ついに北条氏直は小田原城を開城して降伏しました。父・氏政,叔父・氏照は切腹し、氏直は高野山に追放されました。
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③大坂城と大坂冬の陣・大坂夏の陣(1614年=慶長19年~翌年)
1614年(慶長19)冬と翌年夏、徳川氏が豊臣氏を滅ぼした二度の戦い。関ヶ原の戦いの後、徳川家康は方広寺鐘楼の問題を口実に大阪城を攻めたが、城外での「真田幸村」の真田丸や要害堅固な城壁に大苦戦、外堀を埋めることで和議が成立した(大阪冬の陣)。その後、家康は約束にない内堀も埋め秀頼の転封を強要したため翌年戦闘が再開され、豊臣軍は破れ、秀頼・淀君以下自刃、豊臣氏は滅亡した(大坂夏の陣)。
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④会津若松城と戊辰戦争<その1>
1868年(慶応4)戊辰の年に始まり、維新政府軍と旧幕府側との間に16ヶ月余にわたって戦われた内戦。正月の鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月に江戸城を接取、上野に籠る彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、さらに維新政府軍は東北地方に北上し、京都で守護職だった会津藩を標的にされた。奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩も会津戦争を頂点に帰順した(1868年9月開城)。白虎隊の悲劇も起こった。
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維新政府軍
⑤五稜郭と戊辰戦争<その2>箱館戦争
1868年(明治1)、榎本武揚を中心とする旧幕臣が箱館五稜郭に立てこもって新政府樹立を図り、維新政府に抵抗した戦い。翌年、幕府最大の戦艦「開陽丸」座礁・沈没、新撰組副長だった「土方歳三(陸軍奉行並)」の戦死など、戦況が悪化し、榎本らは降服。ここに戊辰戦争は終結した。
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維新
政府軍
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⑥熊本城と西南戦争(1877=明治10)
西郷隆盛を中心とする鹿児島士族の反乱。征韓論により下野した西郷は帰郷して私学校を興したが、その生徒が西郷を擁して挙兵、熊本鎮台のある熊本城を包囲し攻めたが、城の強固さに落城させることはできず、熊本城の強固さが証明された。しかし、本丸の大部分が焼失、宇土櫓はじめ12基の櫓が現存することができた。その後の西郷軍は鹿児島へと後退し、政府軍に鎮圧され西郷らの指導者は多く自刃した。西南戦争は明治初年の士族反乱のうち最大で最後のものになった。
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維新
政府軍