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東京票房の「票房」とは、票(チケット)売り場ではなく、京劇の「票友」(中国伝統劇のアマ チュア愛好家メンバー)がともに活動する団体のことです。
東京票房の第一頁は、戦後、駐日中国代表団の京劇愛好家の外交員によって綴られました。 1949年、朱震球と彼の同僚の程乃昌の提唱で、「中国駐日代表団同仁平劇組」が結成されました。 その後、公演を行うため、「平劇組」は広くメンバーを募り、名前も「中華業余平劇団」に改めました(北京はかつて「北平」と呼ばれていたため、京劇も「平劇」と呼ばれていました)。しかし1953年秋、演技 や伴奏など担当する朱震球と数名の会員が日本を離れたため、票房は公演を中心とした活動から京劇を学ぶ場として変化していきました。後に日本に来た上海・香港のアマチュア界の名優・章英明が 歌・演技・弦楽器・打楽器全てに長けていた為、楽団の総指揮を任され、第二代会長となり、票房は 「中華国劇業余研究者」(略称「東京票房」)として新たな活動を始めました。それでも、1950年代初 めから70年代末まで計31回の公演を行いました。日中の国交が正常化する以前の厳しい時代にあってこのことは日本における京劇の発揚に大きく貢献したものと思います。
1960 年代以降、活動の場は熱心な京劇愛好者であった清代末洋務運動の主将・盛宣懐の孫 たち により、東京にある留園飯店と新亜飯店を、1970年代から 2003年まで、盛毓 郵・任芷芳ご夫妻による多大なサポートにより大門の新亜飯店を、そして 2017 年からは東京華僑総会の力強い協力のもと、票房の活動の場を東 京華僑会館を拠点に活動を続けてきました。現在は、コロナ等の影響もあり、三ノ輪で活動をしてお ります。
公演は、80〜90年代には人材や財政面の問題からほとんど行えませんでしたが、2000年以降、新しいジェネレーションの成長もあり、公演を催す事ができる様になり、2019年には東京票房70周年記念して大きな公演を開催致しました。
このように、東京票房は多くの中国の知識人、富裕層の人々、プロの京劇関係者らの心強いサ ポー トにより今日までの長い歴史を刻むことが出来ました。 先述のように当初票房のメンバーは、 初期の頃は外交官とその身内が主体でしたが、その後、上海、香港、 台湾からビジネスのため日本にき た人々が中心となりました。1980 年代からは多くの日本人も加わり、現在、中国伝統劇の研究者となられている加藤徹氏や波多野真矢氏などもその当時活動に参加されていました。また、慶應大学名誉教授山下輝彦氏も当時から票房の柱として活動されています。90 年代以降は、日中間の交流が盛んになった影響で中国からの留学生や新華僑も加わり、オープンな雰囲気になりました。現在は、20代から70代まで幅広い年齢層の日中両国のメンバーが活動しています。
以上、東京票房を簡単にご紹介致しましたが、ご興味をお持ちになられた方は、是非一度のぞいてみて下さい。いつでも大歓迎です。
(根据《戏剧学》年刊第2辑2014年12月原文简缩)
https://mp.weixin.qq.com/s/PbiW28rpusntu07RInulLA
2015年第8期《上海采风》 本刊记者·胡凌虹 2015-07-22 08:25
日前,由上海市文联和中宣文广国际文化传媒(北京)集团指导、上海通俗文艺研究会主办的“京剧票友票房文化学术研讨会”在上海召开。来自全国各地和港澳台地区以及加拿大、日本等地的京剧票界精英40多人欢聚一堂,第二日又举办了海内外京剧票友演唱会,气氛热烈。
……
在这次海内外“票友”大会师中,上海人吴敏特地从日本赶回来,代表东京票房参与此次研讨会。在海外京剧票房中,数量最多的要数美国,最长寿的要数东京票房了。东京票房诞生于1949年,最初名叫“中国驻日代表团同仁平剧组”,因为发起人朱震球和程乃昌以及大多数团员都是中国驻日代表团团员,后为搞演出,吸收了不少团外人员,之后更名为“中华业余平剧团”“中华国剧业余研究社”,简称“东京票房”。
“上世纪50年代初,日本一片废墟,有钱也买不到东西,中国驻日代表团在筹备演出时比较艰苦,当时他们道具、衣服都是自己做的。两年中他们演了十九出京剧折子戏,尤其是1953年三次规模很大的演出,公告打出去以后,共有三千多人前来观看,其中有旅日华侨和日本民众,还有东京各界领袖。之所以如此轰动,在于1924年梅兰芳访日演出后,近三十年没有京剧在这里登过台。”吴敏带着些自豪的口吻告诉我。
已过甲子之年的东京票房历经四代。创始阶段,票友大多是从政的官员,少数是从事经贸工作的。上世纪50年代中期至70年代末是第二阶段,票友大多是经商的老板及其家眷。上世纪80年代至90年代是第三阶段,票友都是主攻中国戏曲专业的大学生,后都成了教授、学者。上世纪90年代至今是第四阶段,目前京剧票房共有20人,包括3个日本人,会员多为教师、公司职员等工薪阶层。吴敏介绍,上世纪80年代中叶起,东京票房有了新的血液——日本票友。比如,明治大学的教授加藤彻先生,不仅能自拉自唱,还著有《京剧——政治大学的群优像》,还做了一个《京剧城》的网页,介绍京剧基础知识、唱腔、剧目、乐器等信息,点击率非常高。又如,庆应义塾大学文学部的教授山下辉彦是东京票房的中流砥柱,实际上的领导。他除了热衷于票房活动外,还到处普及京剧知识,在主持日本教育电视台的中文讲座时搞了一个《看看听听》节目,用了5个篇章介绍京剧。
……
吴敏属于东京票房第四代票友,这一代大都是工薪阶层,经济不如老票友宽裕。2009年,票房为举行公演,让吴敏当总负责。要联系剧场,要想办法筹经费,借道具和衣服。她说:“那时我母亲刚过世不久,我根本不想搞公演,也不想当会长,但后来还是干了,不是为了这个职务,而是一份责任,有着深厚历史的票房不能毁在我们手里。”
2009年,东京票房成立60周年,为了筹备诞辰60周年的公演,吴敏除了拉赞助外,还当起了宣传员,“以前,我从来不会参加跟自己没关系的学会的,为了宣传我们票房的公演,只要有学会举行,我就去付费参加,发我们演出的宣传单。”
公演那天,观众很热情,连前来捧场的中国驻日大使馆的工作人员都有些惊讶,天下着毛毛雨,居然还有那么多观众前来排队买票观看。公演的压台戏是《红灯记·痛说革命家史》。由于这是一出“抗日戏”,不可能出现在访日京剧团的节目单上,因此这出戏以前从未在日本舞台上亮相过。但东京票房大胆地将之搬上舞台,自然吸引了不少中国观众,以及一些搞中国文化研究的日本老师。票友在排练时也曾担心,但从演出反馈看,效果非常好,连日本观众也看得非常入神,不仅没有对“抗日戏”反感,还说很打动人。尤其李奶奶的“痛说”,不仅让一些中国观众看了唏嘘不已,也让一些日本观众情不自禁地流下眼泪。当然也有个别的日本观众对《红灯记》里提及鸠山表示不解,认为鸠山是民主党政权的首相,和中国很友好。戏里的日本宪兵不该取名叫鸠山的。其实在排演时,中国票友曾提出是否要将鸠山改成秋山,但因日本票友反对,认为艺术就是艺术,不要去跟政治挂钩,主张“原汁原味”,所以最终没有改。可见,对艺术的推崇,能跨越政见、国别。海外京剧票房不仅宣传了京剧,宣传了中国的传统文化,还在各国友好交流方面起到积极的作用。
(文中登载了紀念票房成立六十周年公演的《霸王别姬》和《红灯记》剧照)