もともとは「分木」と書く。用水を分岐するための堰や、分岐点に立っている標木の事。「分水」「分水場」「くいの木」の地名があったため、標木の杭の木の事と推測される。新海池造成以前に「真池」があり、その用水を宿地方面と裏田圃方面へ分岐した。南部の旧字は「嶋海戸(しまかいと)」。田圃の中の島状の地の事。「嶋」は内陸中の高地を意味する。東西に長い矩形状だった。古くは人が住み周囲の水田を耕していたと思われる。
また、文木、矢切、白山にまたがる「平等寺」という地名もあった。平等寺の存在については江戸時代初期の時点で既に名前のみが伝わっている状態で、現存しなかった。
【鳴海球場】
昭和2年に愛知電気鉄道(現名古屋鉄道)によって建設された球場。中等学校の野球、大相撲の巡業、花火大会、鳴海小学校の運動会などで愛知県民に親しまれた。昭和33年閉鎖。昭和34年以降名鉄自動車学校となり、一部の建物は取り壊さず利用されているため、球場の面影を見る事ができる。