1940年代頃は傳治山と書いていた。「田地山」「伝知山」「伝次山」「伝ち山」「田知山」など様々な表記があり、読み方は「でんちやま」とも。明治時代は「てんちやま」「てんじやま」と読んだ。かつて垣内(かいと)という地名もあり、かいとは大きな集落のこと。また、伝治山の一部の通称に「丹新田」があり、丹下から移って開いた新田を意味した。
参考文献
榊原邦彦(2021)『名古屋史跡巡り一 鳴海史跡巡り』 名古屋市 中日出版株式会社
谷 謙二(2017) 「今昔マップ旧版地形図タイル画像配信・閲覧サービス」の開発.GIS-理論と応用,25(1),1-10 2025年1月3日閲覧
榊原邦彦(2000)『緑区の史蹟』 名古屋市 鳴海土風会
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