G.I.Gurdjieff :
・「ベルゼバブの孫への話―人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判」平河出版社/浅井 雅志 訳
All and Everything – Beelzebub’s Tales to his Grandson
・「注目すべき人々との出会い」めるくまーる社/星川 淳 訳
Meetings with Remarkable Men
・「生は<私が存在し>て初めて真実となる」平河出版社/浅井 雅志 訳
Life is Real Only Then When I Am
・「グルジェフ・弟子たちに語る」めるくまーる社/前田 樹子 訳
Views from the Real World
P.D.Ouspensky :
・奇蹟を求めて―グルジェフの神秘宇宙論 平河出版社/浅井 雅志 訳
In Search of the Miraculous (Fragments of an Unknown Teaching)
The Fourth Way
H.Lannes:
Inside a Question
This Fundamental Quest
Jeanne de Salzman :
‘The Reality of Being. The Fourth Way of Gurdjieff’
Gurdjieff & De Hartmann:
Music for the Piano available on CD:
Vol. I. Asian Songs and Rhythms(2 CDs)
Vol. II. Music of the Sayyids and the Dervishes (2 CDs)
Vol. III Hymns, Prayers and Rituals (2 CDs)
Vol. IV Hymns from a Great Temple and Other Selected Works (2 CDs)
Printed scores of Music for Piano is also available in four volumes published by Schott
マダム・ランの弟子達への講話の書き写し私がマダム・ド・サルツマンから、グルジェフの教えの概念について初めて聞いた時は、まだ何も出版されていませんでしたし、グルジェフという名前も私にとっては全く未知のものでした。その頃の私は、師を探し求めてはいませんでしたが、常に溢れんばかりの疑問を抱えていました。本当の教えや本物の師という考えは思いつきませんでした。そのようなことが、少なくとも今の時代にあるとは信じていませんでした。その考えを聞いた時、私は呆然としました。 それは頭から離れませんでした。昼も夜もつきまといました。 私はそれが真実であると感じました。グルジェフ 本人の前に連れていかれた時、私はまだそのようなショックを受けた状態にいました。私は すっかり困惑してそこに立っていました。 私は彼の迫力に衝撃を受けた。それは、とても静かで、落ち着いて、制御された、にもかかわらずほとんど恐ろしいほどで、しかし、何よりその存在全体の度合い、
それはまるで指先まで伸びていると感じるほどの存在に衝撃を受けたのです。それが、我々よりもはるかに生き生きとしているように思える彼のあらゆる動作に意義を持たせていました。猫か虎のように生き生きとしていました。 私はまた、彼の広大な寛容さをとても強く感じました。私なら超人的と呼べるような寛容さです。
しかし、これはまた、巨大な障壁、信じがたいほどの隔たりに気付かせるものでした。彼は、そこにいました。 彼のいる所と我々との間には、何もありませんでした。ただ越えがたい裂けめだけがありました。 私は、彼と私自身を、また彼の思想と彼を、どちらも関係付けることができませんでした。 全てはバラバラで、繋がっていないように見えました。ある法則がそこに確かに現れていましたが、その感じは、私にはほとんど耐えがたいものでした。それでも、この最初の夜から毎週毎週彼に会いに戻り、 マダム・ド・サルツマンに助けられて、彼とワークに取り組みました。彼女がいなかったら、私も、恐らくはパリにいた我々の誰一人として、何もできなかったでしょう。
それから、私にとって激しくて困難な時期が始まりました。グルジェフは時々その思想をほのめかしましたが、決して直接は与えませんでした。彼が与えたのは課題とエクササイズ、真のワークへと我々を導く手段でした。彼は我々を揺さぶり、あらゆるやり方で反応させた。少しずつ我々は、よりはっき りと進路を見はじめ、それに従おうと試みました、とは言っても、まだ始まったばかりという感じでした。この間、私は彼と関わることができないままでした、彼なしに続けることはできないとずっとわかっていながらも。
彼は、何を象徴していたのか。彼は何者だったのか。この存在、この力は何を意味していたのか。
私は、彼を見、耳を傾けている間、深く苦痛に満ちた問いが鳴り響いたのを覚えています。「あなたと私との間に何があるのか」
この問いかけをいつまでつづけていたのだろうか。正確には言えませんが、おそらく2年ほどでしょう。私は、あの並はずれた時期について説明しようとは思いません。食事、朗読、講話、ムーブメンツクラス、グループと、我々は、グルジェフのもとに、頻繁に集まりました。 それらは、私を内的な経験へと開きました。時にはとても強くすばらしく、時には耐え難いほどでした。はっきり分かっていることは、私の目が開き始めた時 に、本当にグルジェフを認識し始めたという事です。私が自分自身を見ることができる程度に、彼をありのままに見ることができました。その瞬間からすべての私の価値観、すべての内側の見せかけ、本当に私の外側の見せかけまでもが、ゆっくり、確実に変容し始め、いまだ届き難くはあるけれど 別の世界が私の中に現れ始め、その時、私は、彼がその原因だと気付きました。
私はまた、何も持たずに彼のもとにやってきたこと、そしてあらゆることに対して彼に感謝しなくてはならないということに気づきました。
同時に、このこと全てが真実であり、彼が明らかにした可能性は真の可能性であり、我々を驚かせたり夢見させるように仕組んだ言葉で飾られた特別な考えではないということを信じるのは、私には困難なことでした。
私が直面した奇跡とは、それらの可能性が現実になるということでした。この事実を前にして、あらゆる疑念にもかかわらず私はそれを否定する事はできませんでした。その時、私は、古くから伝わる、使い古され半ば忘れられていた ある言葉の意味を理解しました。「言葉は受肉した」。 また、ある他の言葉の意味も理解しました。「そして今、人間は、汝の顔の前に立つ」。 グルジェフは、そのような人でした。彼の教えと彼自身との間には、何の隔たりもなかった。彼と彼のアイデアは一つでした。
私には付け加える事が一つ残っています。それは、我々皆にとっての問いであり、一人ひとりが自分自身のために答えようとしなければなりません。我々は、自分の中に師を認識しなければなりません。我々は、死に直面してたった一人でいるのと同じように、これを前にしてもたった一人なのです。あなたは、「どうしたら、それは可能なのか。グルジェフは死んだのだ!」と言うにちがいない。彼がもはや「ここ」にいないというのは真実ですが、それでも、我々が、彼を認識できるようになることも同じように真実なのです。