人文死生学研究会

  Thanatology as Humanities

研究会趣旨

人はだれでも死ぬ。

 だからこそ死は、この世で最も重要で、最も多くの人類の英知をつぎ込まねばならない謎(エニグマ)のはずである。

 にもかかわらず、私たちの文明にあって、死の英知が日陰に追いやられて久しい。

 なるほど死生学が、20世紀の末に、アルフォンス・デーケンの手で海外から日本へと移植されてはいる。けれどもその後の死生学の展開は、もっぱら臨床死生学・医療死生学としての、つまり死にゆく当事者を他者として見守り支援する側の、対人援助の技術の学としての発展が中心になっているように見える。さもなければ古代や中世の民衆や、主な思想家、宗教家の死生観を、学問として客観的に研究する思想史としての展開か。そのどちらかにほぼ限定されているのではないだろうか。

 けれども、死ぬのは「患者」や「クライアント」や古今の思想家・宗教家だけではない。この私も死ぬのである。ほかならぬ私が死ぬということにこそ、死の謎(エニグマ)の核心があるのである。それゆえ、これらの死生学の書物や論文に接して、ある疑問が起こるのを禁じえないのだ。これら死生学の研究者や、対人支援従事者自身の死生観が見えてこないという、根本的な疑問が。‥‥

本書の著者たちは、このような死生学の、隔靴搔痒(靴底を隔てて痒い足裏を掻く)という言葉にぴったりの現状に飽き足らず、死を定められた当事者として自己の死を徹底的に思索しぬく場として、人文死生学研究会という研究会を設けるにいたった(第Ⅱ部の「コラム 人文死生学研究会創生のころ」参照)。人文死生学とは、元々、臨床死生学に対比させた名称であるが、自己の死を思索するために、現象学、分析哲学、論理学、宗教学など、人文学もしくは人文科学と称されている諸学の成果を、徹底的に活用しようという意図が込められている。本書はその最初の成果である。‥‥(『人文死生学宣言』「まえがき」より抜粋)

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『人文死生学宣言』(渡辺恒夫他/編、2017)春秋社サイト    

  表紙はデューラー「騎士と死と悪魔」(右図)

■人文死生学研究会(第22回)共催:心の科学の基礎論研究会(第91回)

日時:2024年3月23日() 午後1時半~5時半

形式:Zoomを利用したオンライン開催

 @Zoomホスト:浦田悠
 ◎司会:渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)
    ;浦田悠(大阪大学/死生心理学)

第1部 合評会:

オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』Vol.5(2023中の「特集人文死生学」(原著論文「「なぜ私が死ななくてはならないのですか?」:科学としての医療が崩れるとき」、最近研究事情瞥見「反出生主義の精緻化と〈生まれてこない方がよかった〉という嘆きのケアを考える」など6篇 読んでくることが望ましい)の合評会

担当1榛葉豊(理論物理学/元静岡理工科大学)

担当2:小島和男(哲学/学習院大学)

部 講演+討論

【演者 】冲永隆子倫理学帝京大学)「終末期の意思決定と尊厳死をめぐる諸問題
【要旨】

私が終末期の事前指示や意思決定支援についての研究を30年余り進めてきた中で(拙書『終末期の意思決定 コロナ禍の人生会議に向けて』晃洋書房2022)わかったことがある。それは、私たちが人生最期に何を望んで何を拒むのか、複数ある選択肢の中からどれか一つを決めること、尊厳ある安らかな最期を迎えるにはどうしたら良いのか、一つの答えを出すのは容易ではなく、むしろ答えが出ないというのが正解のようだ。

ここ最近、医学哲学、生命倫理関連の所属学会・研究会で複数の研究協力者との哲学対話を経て「正解がないこと」や「ネガティブケイパビリティ―」(帚木蓬生)、つまり、答えの出ない事態に耐える力、徹底的に議論し思考することの大切さを痛感してきた。今回は、一般的にはまだ馴染みのないACP(人生会議)議論の一歩手前の、「尊厳死」や死の自己決定をめぐる諸問題について、参加者と共に考えたい。

なお、ACPは万が一の時、どんな医療やケアを受けたいか、受けたくないかを当事者がその家族と医療関係者らと繰り返し話し合っておくことであり、直接、延命医療の差し控えや中止、尊厳死の意思を表明するものではない。ACPはACP反対派がその根拠としている「ACP=死に方会議」でも、死への誘導、尊厳死の勧めでもない。とくに高齢者で問題とされる過剰医療への苦悩からの脱却として、医療選択や尊厳死(平穏死)がある。もっと言えば、高齢者への医療措置と難病や障碍者への医療措置の議論とは分けて考えないといけない。つまり、高齢者の胃瘻とALS患者の呼吸器の違いについて、高齢者は生物学的にみても寿命を生き尽くして、終末に差し掛かった状況であり、医療措置がかえって本人を苦しめたり尊厳を損ねたりする場合があるのに対し、難病や障碍をもった人たちは「終末期とはいえない状況なので、彼らにとって人工呼吸器や胃瘻の装着は生きる道具として活用されるものだからである」(拙書81頁)。さらに、当日は患者の意思確認の課題として2019年3月「死の誘導」報道で物議を醸した、腎臓病患者(44歳女性)の透析中止問題(拙書191頁)を事例に皆さんと検討していきたい。

申込方法 (終了)

こちらのフォームからお申込ください。

申込み締切

3/21(木)

※申込みいただいた方は、3/22(金)までにオンライン参加のための情報をお送りします。

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【News! 2023/06/2オンラインジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」最新号(Vol.5)では、特集「人文死生学」に原著論文を含む5編の記事が掲載になりました続くVol.6/Vol.7でも特集を続ける予定です。詳しくは https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/

カンパのお願い! 2023/04/23ジャーナルはJstage搭載を外注しているため出版費用ます。本研究会でも、これまでの参加者を中心にカンパを募って出版援助金とすることになりました。カンパしていただける方は、こころの科学とエピステモロジー」の投稿窓口epistemologiems@gmail.com に件名「カンパ希望」でご連絡いただければ、折り返し「こころの科学とエピステモロジー」編集委員会より、ゆうちょ口座情報をお送りしますので、一口1000円より御振り込みをお願いします。

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■人文死生学研究会(第21回)

日時:2023年3月12日(日) 午後1時半~6時

形式:Zoomを利用したオンライン開催

 @Zoomホスト・総合司会 :渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)

第1部

【演者 】蛭川立(明治大学/文化人類学)「自殺からの解脱ー京都相思(アヤワスカ)茶会事件:第
【要旨】2019年7月に、希死念慮に悩まされていた京都の男子大学生が自己治療のためにDMTを含む相思樹(アカシア・コンフサ)の樹皮を茶にして服用した。大学生は主客合一の再帰的無限ループに陥り、隣で見ていた友人が救急車を呼んだ。大学生は救急車の中で無限の光と一体化し、抑うつ症状は消失した。彼は麻薬所持の疑いをかけられたが、未成年であったために不処分となった。
 DMTやLSDなどのサイケデリックス(精神展開薬)は「自我の死」体験を引き起こすが、これによって自殺念慮が消失するという逆説的な作用があり、うつ病や依存症の治療薬としての研究が進められている。
 2020年3月には、相思樹の樹皮を譲渡した青井硝子(筆名)が逮捕され、起訴された。京都地裁で行われた初公判で青井被告は自らの行いを菩薩行であるとして罪状を否認。証人として召喚された大学生は法廷で自らの体験をショーペンハウエルとヴェーダーンタ哲学によって説明した。
 京都地裁は2022年9月に青井被告に対し懲役3年、執行猶予5年の判決を言い渡した。青井被告は控訴し、裁判は2023年4月から再開される。

第2部 合評会:『死~生命はなぜ死を受け入れたのか、また私は死ねばただ無になるのか』(新山喜嗣著、春秋社、2022)について

書評担当1:
 久場政博(地域精神医学/今村病院)「新山喜嗣著「死」―についての論評」
  【要旨第Ⅰ部および第Ⅱ部は医学的見地からほぼ異論はない。第Ⅲ部の「死は完全な無ではない」に関して、特異点、〈私〉〈今〉〈ここ〉、無内包性の現実、主観的体験としてのクオリア、貫世界同一性、について論じる。

書評担当
 重久俊夫(哲学・思想史/所属なし「死んだ後も私はあるのだろうか?」
【要旨】『死』の第Ⅲ部では、死んだ後もただ無になるわけではないという驚くべき思想が語られている。永井均氏の形而上学を踏まえたその論拠を明らかにし、批評したい。合わせて、この思想の持つ意義を考える。

申込方法こちらの申込フォームよりお申し込みください。

↑締め切りました。参加者45名に達しています。

申込締め切り3/9。申込者には3/10までにzoom情報が送られます。

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■人文死生学研究会(第20回)

日時:2022327日(日) 午後1時半~6

形式:Zoomを利用したオンライン開催

 @Zoomホスト・総合司会 :渡辺恒夫(東邦大学)

【演者1 】小島和男学習院大学/哲学)「反出生主義と自殺について

 要旨:一口に「反出生主義」と言ってもその内容は発言者によって様々である。有名な2006年のディビット・ベネターの著書は、邦題として『生まれてこないほうが良かった』と訳されてしまったため(原題は、Better Never To Have Beenであり「決して存在してしまわないほうが良い」)、自身の誕生を嘆くような反出生主義の印象を受けがちなものとなってしまった。しかし、その本でのベネターの主たる倫理的な主張は「子どもを作るのは倫理的ではない」ということであり、生まれてきてしまった私たちがどう良く生きるべきか(つまり子どもを作らないようにしようということ)についてその本では書かれていると考えるべきである。しかし、単純にその題名を誤解した人以外にも、幾人かの専門の研究者は、ベネターの理論から「生まれてこないほうが良かったんだから生まれてきた私たちは早く死んだほうが良い」という所謂「死促進主義」が導かれるといった主張をしている。本発表ではその状況を踏まえて、「始める価値と続ける価値の違い」の発見とそれを生命の誕生と維持に当てはめたということが、実はベネターの重要で注目すべき発見であり、所謂「非対称性の議論」よりも優先順位が高いということを主張したうえで(ベネター氏はどうしても「非対称性の議論」が好きそうなのだけれども)、「死促進主義」に向かわない「反出生主義」が非常に倫理的かつ合理的であるということを示したい。

【演者2】新山喜嗣秋田大学/精神医学「人は死ぬと本当に無になるのか:自分という特異点の残存

 要旨:死後は無となってそれが永遠に続くという死生観を検討する目的で、自分が体験するクオリアの内容とは区別される、ある一定の人間のクオリアが偶然にも自分のものであるという契機に注目した。この契機は、現実世界では〈私〉、〈今〉、〈ここ〉からなる自分の特異点を世界のどこかに形成するが、そのこと自体は、自然的世界の中で生起するあらゆる事象と無関係な偶然的な事実である。ところで、自分の死は、自己の身体や脳の崩壊であり、その限りで自然的世界の中で生起する事象の一つである。だとすれば、自然的世界と無関係な特異点の形成は、死という自然的世界の事象から何らの影響も受けず、死後もそのまま残存するものと考えられる。そして、死後における自分の特異点は、性質を全く纏わない裸の個体ではなく、どこかが偶然にも自分の特異点であるというアポステリオリな性質を生前の特異点から引き継ぐことから、存在者としての資格をかろうじて保持するものと考えられた。当日は、死後は孤独であるのか、死後には永遠が待ち受けているのかといった問題にも焦点を当て、検討する予定である。

【演者3】蛭川立明治大学/文化人類学)「自殺からの解脱ー京都相思(アヤワスカ)茶会事件:第一報

 要旨:2019年7月、京都の男子大学生AとBが、引きこもり、抑うつ状態を悪化させ、心中を計画していた。しかし大学生Aは、うつ病に対するサイケデリック療法を知り、DMTを含む相思樹の樹皮を入手、茶にして二人で服用した。/Aは主客の合一と再構成という無限ループに陥った。Aが「世界の構造には再帰性がある」と叫び、Bが救急車を呼んだ。救急車の中でAは無限に身をゆだねた。ただ存在する世界を、ただ観察していた。病院に到着したときにはすでに生死の区別が消えていた。DMTは規制薬物であり、Aは身柄を拘束されたが、未成年ゆえ不処分に終わった。/Aは、ショーペンハウエルを引用し、自らの体験をヴェーダーンタ哲学によって解釈している。言語の意味は分節によって規定されていると考え、理学部数学科に再入学した。/Aに相思樹を譲渡した青井硝子も逮捕されたが、自らの行為を菩薩行だとして罪状を否認。京都地裁での求刑は4年。判決は2022年5月9日。

申込方法こちらの申込フォームよりお申込み下さい。←終了
 前日までにZoomのミーティングID等を登録されたメールアドレスへ送信いたします。

申込締切:20223月24日(←締切日を一日早めました。

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■人文死生学研究会(第19回)

日時:2021年81日() 午後1時半~5時半

形式:Zoomを利用したオンライン開催

共催:心の科学の基礎論研究会(第88回)

【演者1 】渡辺恒夫東邦大学/心理学・現象学)「アニメとフランス小説に見る自我体験からの死生観展開当日配布資料

 語り得ぬはずの一人称の死をいかに物語るかの工夫を物語る。科学的と見なされている終焉テーゼも、伝統的宗教の魂の不死説も、一人称の死と三人称の死の異種混交を暗黙の前提としているため、物語としては不満足。一人称的マッハ的体験世界から出発し直し、(1)私が死ねば世界が消えるという世界終末説と、(2)私の死後・生前にも生きる「他者とは誰か」に手掛かりがあるという説をとりあげる。〈方法〉学生の報告する自我体験調査事例と、アニメ、小説中の事例の比較考察(=現象学の方法としての想像的変更を通じた本質観取)。〈取り上げる作品〉近年のアニメより『神様になった日』(2020)『シャーロット』(2015)。フランスのカソリック作家ジュリアン・グリーン(1900-1998)の『わたしがあなたなら』(1947)『ヴァルーナ』(1940)。

【演者小久保秀之明治大学実験人間学)とJ-Stage working group「オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』のJ-Stage搭載について

先ごろ心の科学の基礎論研究会の機関誌がJ-Stage搭載になったhttps://www.jstage.jst.go.jp/browse/epstemindsci/-char/ja
その意義と苦労を演者と編集部長・荒川直哉、編集委員長・渡辺恒夫が論じあう。

【演者新山喜嗣秋田大学/精神医学)「死のバイオロジーとその周辺

 地球上に生命が誕生して37億年になるが、はじめの20億年間は原核生物だけで占められていたので、生命に死が伴うことがなかった。その後、真核生物の多細胞生物が出現するに至り、はじめて生物に個体死が伴うようになった。多細胞生物では、1つの生物種が種として存続するためには、不死であることは不都合であり、個体がある年齢になると死滅する必要が出てきたのである。実際に、現在まで地球上に存続している多細胞生物では、細胞の分裂増殖に終止点を与えるテロメアや、細胞の自殺を誘導するアポトーシスといった、死の装置が体内に埋め込まれている。
 それでは、将来の科学技術の進歩によって、多くの生物種の中で人類だけは、もしくは、この自分だけはこれらの死の装置を取り外してもかまわないだろうか。もっとも、取り外すための技術はだいぶ将来のものであり、少なくても現存する人類にはいつか死がやってくる。それでは、臨死期において生物個体としての人間はいつ死ぬのであろうか。あるいは、死の瞬間というものは存在するのであろうか。
 このような謎解きをしてゆくうちに、バイオロジーには収まりきれない、同一性、個体、時間といった古典的な形而上学の主題が炙り出されてくる。当日は、これらの主題のいくつかを死に関連づけながら取り上げる予定である。

申込方法:こちらの申込フォームよりお申込み下さい。←終了

前日までにZoomのミーティングID等を登録されたメールアドレスへ送信いたします。

申込締切:2021年29日(

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人文死生学研究会  世話人
渡辺恒夫(サイト責任者)東邦大学(心理学/現象学)  浦田悠 (サイト担当)大阪大学(死生心理学)urata.yu[atmark]gmail.com小島和男 学習院大学(ギリシャ哲学)新山喜嗣  秋田大学医学部(精神医学)蛭川立  明治大学情報コミュニケーション学(人類学)三浦俊彦 東京大学(美学/分析哲学)部重久俊夫 (事務局)著述家/教育職(思想史ts-mh-shimakaze[atmark]yacht.ocn.ne.jp





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