過去の研究会履歴

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■第18回(2021年3月20日)

<オンライン開催で参加者は54名と今までにない盛況のうちに終えることができました。次回はこの夏中の開催を計画しており、詳細が決まり次第、お知らせする予定です。2021年5月1日>

日時:2021年3 月20日(土) 午後1時半~5時半

形式:Zoomを利用したオンライン開催

共催:日本発達心理学会ナラティヴと質的研究分科会

【演者1 】やまだようこ(京都大学名誉教授・立命館大学OIC総合研究機構 上席研究員/生涯発達心理学)「この世とあの世のイメージ」

文化や宗教を超えた死生観の共通性と多様性、亡くなった人や死後の世界を語るものがたり(ナラティヴ)の重要性について議論したい。日本、フランス、イギリス、ベトナムの大学生が描いたイメージ画「この世の人とあの世の人の関係」「たましいの形と生死の移行プロセス」を紹介し、社会的表象やビジュアル・ナラティヴの方法論についても議論する。(参考文献 やまだようこ編『この世とあの世のイメージ-描画のフォーク心理学』新曜社、やまだようこ『喪失の語り-生成のライフストーリー』新曜社)

【演者2】和田信(大阪国際がんセンター・心療・緩和科部長/精神医学)「がんを患う人の精神的支援に携わって— 死生観と実践」

申込方法:終了しました。

前日までにZoomのミーティングID等を登録されたメールアドレスへ送信いたします。

申込締切:2021年3月16日(火)

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人文死生学研究会 世話人
渡辺恒夫(サイト責任者) 東邦大学(心理学/現象学)psychotw[atmark]env.sci.toho.u.ac.jp
蛭川立 明治大学情報コミュニケーション学科(人類学)
新山喜嗣 秋田大学医学部(精神医学)
浦田悠(サイト担当) 大阪大学(死生心理学)urata.yu[atmark]gmail.com
三浦俊彦 東京大学文学部(美学/分析哲学)
重久俊夫 (事務局)著述家/教育職(思想史)ts-mh-shimakaze[atmark]yacht.ocn.ne.jp

■番外編「涼宮ハルヒ」(2019年8月4日)

日時:2019年8 月4日(日) 午後1時~5時 (+ 8月5日(月)聖地巡礼)

場所:西宮市夙川公民館第2会議室

(阪急電車「夙川」駅から、南へ徒歩3分程度。JR「さくら夙川」駅または、阪神電車「香櫨園」駅から、夙川に沿って北へ徒歩10分程度。)

【趣旨】2018年2月の『エンドレスエイトの驚愕』(三浦俊彦、春秋社)出版。2018年10月の『涼宮ハルヒシリーズ』7年ぶり新作発表(『ザ・スニーカーLegend』)。そして、2019年2月からの『涼宮ハルヒシリーズ』角川文庫新装版発刊。これらを記念して表記の研究会を、「聖地」西宮市で決行します。アニメ、ライトノベル、ファンタジーには、永劫回帰、異世界転生、平行世界など、現代の「標準的」な死生観とは一線を画すような、多様にしてオルタナティブな死生観が見られます。本研究会では、特に奥深い死生観の展開への手がかりが散りばめられているハルヒシリーズの研究を通じて、オタク時代にふさわしい死生観の構築をめざします。会の進行は、まず『ハルキとハルヒー村上春樹と涼宮ハルヒを解読する』(大学教育出版、2012)の著者の土居が、ライトノベル全般の考察を通して「涼宮ハルヒ」を位置づけます。次に現象学的心理学の渡辺が、ハルヒ関係の二次創作には多様な死生観への手がかりが散りばめられていることを、事例を通して明らかにします。最後に分析哲学・美学の三浦が、ハルヒに含まれる人間原理やアンドロイドの自我などの哲学的問題を取り上げて、フロアとの討論の促しとします。

【話題提供1】土居豊(作家/文芸ソムリエ)「涼宮ハルヒとランサム・サガ ー ライトノベルと児童文学の遠くて近い関係 」

【話題提供2】渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)「二次創作がひらくオタク時代の死生観 ー 長門有希とは誰のことか」

ーーーーー休憩-----

【話題提供3】三浦俊彦(東京大学文学部/分析美学)「涼宮ハルヒ、人間原理、バートランド・ラッセル」

--------フロアを含む全体討論ーーーーー

・8月5日

【聖地巡礼】 2019年版「訪れてみたい日本のアニメ聖地88」に即した散策・適宜討論

https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/201907/0012494320.shtml

https://haruhi.info/

・詳細は、決まり次第、掲載します。

・参加無料。事前登録不要。

緊急アピール:京都アニメーションを支援します! 本研究会でテーマとしている「涼宮ハルヒ」は、京都アニメーションの制作で、『涼宮ハルヒの憂鬱』(TV版第1期、2006;第2期、2009)、『涼宮ハルヒの消失』(劇場版、2010)として上映されたものです。先月の放火事件には深い悲しみを覚えると同時に、亡くなられた方には心よりの哀悼の意を表し、負傷された方には一刻も早い回復を祈っております。このような非常時にあたって私ども研究者にできることは、今まで以上に京都アニメーション制作の作品を鑑賞し享受し、かつその深い意義を各々の専門分野から論じあうことだと思われ、そのためにも本研究会を意義あるものにしたいと考えております。(文責:サイト責任者)

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人文死生学研究会 世話人
三浦俊彦 東京大学文学部(美学/分析哲学)
渡辺恒夫(サイト責任者) 東邦大学(心理学/現象学) psychotw[atmark]env.sci.toho.u.ac.jp
蛭川立 明治大学情報コミュニケーション学科(人類学)
新山喜嗣 秋田大学医学部(精神医学)
浦田悠 大阪大学(死生心理学)urata.yu[atmark]gmail.com
重久俊夫 (事務局)著述家/教育職(思想史)ts-mh-shimakaze[atmark]yacht.ocn.ne.jp

■第17回(2019年3月30日)

日時:2019年3 月30日(土) 午後1時半~5時半

場所:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階212教室

1【発表 】吉沢文武(秋田大学教育推進総合センター 講師)

【題】「死によって何が剥奪されるのか」

【要旨】「死の害悪」をめぐる(主に英語圏の)哲学的議論において標準的とされているのは、「剥奪説」と呼ばれる考え方である。剥奪説によれば、死が死ぬ当人にとって悪いのは、その人が生きていれば得られたはずのさまざまな良いことを死が奪うからである。ある人物におとずれる死について、もしその時に死なずにその後も生き続けていれば、幸せな生活を送り続けることができたとする。あるいは、ずっと取り組んできた仕事を成し遂げることができたとする。そのような場合に、その人の死は、死ななければ得られたはずの幸せな未来の分だけ悪い、というわけである。

死を剥奪として理解する考えは、私たちが死を悪いものと見なす理由をたしかに捉えていると思われる。ただしそれは、死がもつ害悪のあくまで一側面かもしれない。というのも、死には、そのように指摘されるのとは異なる「悪さ」あるいは「恐ろしさ」があると言われることがあるからである。それは、死によって当人の存在そのものが完全に無になることの悪さや、その恐ろしさだと言われる。そうした考えは、死の害悪をめぐる文献のなかで、ときに言及されながらも十分明確にはされておらず、それが私たちに対してもつ価値について、どう考えればよいのかがはっきりしない。

本発表の目的は、「無になることの悪さ」という考えについて、死の害悪に関する標準的な議論と照らし合わせながら、明確化の作業をすこし前に進めることである。とくに、そうした「悪さ」もまた、一種の剥奪として捉えられるという見解を検討するつもりである。

2【発表 】雨宮徹(大阪河﨑 リハビリティーション大学)

【題】「フランクルの意味の思想における死の位置付け」

【要旨】ナチスの強制収容所の体験記『夜と霧』で有名なフランクル(V.E. Frankl, 1905-1997) は、フロイトの精神分析、アードラーの個人心理学によって形成された精神医学の流れに位置付けられる精神科医であり、哲学的にはシェーラーから大きく影響を受けている人物である。

彼の関心は一貫して人生の意味の問題に向けられている。したがって精神科医として療法を対象とする場合でも、その療法を支える世界観について哲学的に考察する場合でも、彼の考察は常に人生の意味との関連で展開される。したがって、自己の死という事態も、人生の意味にどのような影響を与えるか、という観点から論じられている。

今回の話題提供では、まずフランクルの基本的な意味の理論と時間論を紹介する。次に彼が人間の本質として規定する精神的人格と死との関係がどのように理解されているかを確認し、そのことと人生の意味がどのように関係づけられているかを考察したい。

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*お願い!研究会は互いに学び合う場です。相手から学ぶ気がなく自説のみを延々と主張して他の参加者の発言機会を奪ったり、ゲスト講師に対して攻撃的な批判を浴びせる等の行為は固くお断りします。また本会は学際的な研究会なので、死生学と直接関係のない専門的(たとえば分析哲学のような)議論をしたがる方にはそれ専門の研究会に移ることをお勧めします。

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人文死生学研究会 世話人
三浦俊彦 東京大学文学部(美学/分析哲学)
渡辺恒夫(サイト責任者) 東邦大学(心理学/現象学) psychotw[atmark]env.sci.toho.u.ac.jp
蛭川立 明治大学情報コミュニケーション学科(人類学)
新山喜嗣 秋田大学医学部(精神医学)
浦田悠 大阪大学(死生心理学)←2019年4月より
重久俊夫 (事務局)著述家/教育職(思想史)ts-mh-shimakaze[atmark]yacht.ocn.ne.jp

■番外編(2018年11月24日)

日本質的心理学会第15回大会(沖縄、名桜大学、2018年11月24日(土)http://www.shitsushin15.jp/

会員企画シンポジウム(15:45~17:45 講義棟110)

【精神医学と現象学的心理学から死と他者の形而上学へ(第2報):『人文死生学宣言』の誕生】

【企画代表者】渡辺恒夫(東邦大学)

【企画者】小島康次(札幌保健医療大学)・浦田悠(大阪大学)

【話題提供者】浦田悠・新山喜嗣(秋田大学医学部)・三浦俊彦(東京大学文学部)

【指定討論者】小島康次・やまだようこ(立命館大学)

【企画趣旨】

3年前のシンポジウムでは、死にゆく他者を支援する技術ではない一人称的死生観を確立する必要を唱え、科学的唯物論か伝統的宗教的二元論以外により洗練された形而上学的な死生観があるのではないかという問題提起をした。その後この企画は、『人文死生学宣言』(渡辺・三浦・新山編、春秋社、2017)として形を成したので、今回はこの書が本学会会員にとってどのような意味があるかを、編者が一堂に会する場で論じあう。まず、この書の編者らの死生観が、1)いかなる体験もしくは直観に基づくか。2)それは普遍化できるものか。3)死は生に比べて無限に悪いという現代における「死の害」論に対してどう答えるか。4)対人支援従事者を含む本学会員に対するアドヴァイスは可能か。以上に編者として答えるべく試みる。さらに、死生心理学の立場からも、浦田がこれらについて論評する。指定討論は、新山を渡辺に紹介してこの書成立の陰の功労者となった発達心理学の小島と、死のイメージの調査研究を行っている質的心理学のやまだが担当する。

【話題提供1】 浦田悠

要旨:一見何でもない当然なことにも見え,かつ,とてつもない謎にも思えるのが,死の問題,とりわけ「ほかならぬ私が死ぬ」という一人称の死の問題である。従来の心理学では,一人称の死については,死に対する態度についての量的研究が,二人称の死については,死別の悲嘆に関する量的・質的研究が,三人称あるいは無人称の死については,死に対する一般的な不安や恐怖およびその管理についての研究がなされてきたと言えるだろう。しかし,これらの研究は,死そのものというよりも,死が刺激となって引き出された認知的・感情的・行動的反応についての研究であった。『人文死生学宣言』の著者らは,このような従来の死へのアプローチとは一線を画し,①一人称の死こそが最も根源的である,②従来の日常的世界観,科学的世界観あるいは死生学では,一人称の死の謎には迫れない,③死を考える上では,同一性の問題をどう捉えるかがクリティカルな問題である,というようなテーマをめぐって,(それぞれかなり色合いの異なる切り口からではあるが)その「捉えがたさ」の核心に迫ろうとしている。このような試みは,死生心理学や質的心理学にとっていかなるインパクトを持ちうるのだろうか。また,いかなる視座や方法をもって,その核心へアプローチすることが可能なのだろうか。さらには,そのような研究は,周辺領域の研究や死の臨床現場での実践とどのようにつながりうるのだろうか。

それらの問いを踏まえ,ここでは『人文死生学宣言』の各章の主張を背景としつつ,まずは,死の意味が,従来の心理学やその周辺領域でどのように捉えられてきたかを整理する。続いて,人が死を考える際のある種の心理的傾向や心理的制約について,近年の興味深い心理学的な知見を確認する。人文死生学やこれらの心理学的見解は,そもそもなぜ私達が死そのものは語り得ないと感じつつ,それでもなお,自己の死や他者の死について語ろうとするのか,ということへの新たな示唆を含んでいる。話題提供では,これらの考察から,本書のような死の形而上学が持つ可能性や課題を提示したい。

【話題提供2】新山喜嗣「自分の死はいかなる非在か─ソシアの錯覚からの眺望」

要旨:自分の死を現在形で語る「私はいない」という発話は、発話の主体が存せぬゆえ、語用論的には端的な誤りとなるしかない。しかし、このような発話は、一見われわれにとって有意味な発話であるように見えてしまう。それはなぜであろうか。 ここにおいて、ソシアの錯覚の名をもつ精神病理現象に注目してみたい。ソシアの錯覚では、他者が全くそっくりのにせものに入れ替わったと患者は訴える。このとき、患者においては、他者の属性はすべて同一でありながら、比類のない「このもの性」のみが入れ替わっていることになる。今、ソシアの錯覚の臨床的特徴として刮目すべきは、にせものとされる他者は、日常生活でもっとも間近にいる一人か数人に限定されるという特徴である。このことは、日頃から対話的相互性をもつ‘唯一のあなた’としての二人称的他者にのみ、比類のない「このもの性」が付与されており、一方、周囲にいる多くの‘一般的あなた’としての二人称的他者には、「このもの性」は付与されていないことを示唆する。ここに示した二人称の両義性は、先の「私はいない」が有意味に見える謎を解く鍵になるかもしれない。なぜなら、二人称の他者に対する「あなたはいない」という発話は、‘唯一のあなた’については自分のときと同様に成り立たないものの、‘一般的あなた’については三人称と同様に成り立つからである。すなわち、‘唯一のあなた’が蝶番となり、非在の対象が、‘私’と‘一般的あなた’の間で絶えず交代する錯視を生み、これが「私はいない」という発話の見掛け上の成立を促すことになる。このことは、われわれにおける自分の死に関する語りは、いったん二人称的他者の死を迂回することによって、錯視を通してのみ可能となることを意味する。ここに、〈完全な非在〉としての自分の死は、偽装された二人称的他者の死である疑いが浮上する。

当日の発表では次のステップに進み、自分の死が〈不完全な非在〉であるという道筋も探る予定である。すなわち、生きている時代に身につけていた全ての属性が死によって剥ぎ取られても、なおも「このもの性」として自分が残存する可能性について論を進めたい。

【話題提供3】三浦俊彦「生死に関するカテゴリ違和の諸相」

要旨:「aはいない(生者のメンバーではない)」という言明は、de dicto解釈とde re解釈の二通りに読むことができる。Fを「と感じられる」という演算子として、それぞれ次のような表記に対応する。 F(∀x(x≠a)) ∀x(F(x≠a))

Fの主体をa自身とするならば、どちらも「私はいない」と読まれるが、de dicto解釈は「〈私は生きていない〉と私は感じる」ということであり、自分の死後や生前の状態をありありと想像する、自分が無生物である状況をありありと思い描くといった場合の自然な解釈となる。F世界の中に、aが存在しないのである。対してde re解釈は、「私は〈生きていないものと感じられる〉」ということであり、自分について「これは自己同一性を持たぬ者だ」と感じているのである。後者はいわゆる「コタール症候群」であり、死者もしくは無生物を自認することだ。この状態を、トランスジェンダリズムにおける「性自認」「性別違和」に倣って「生存自認」「生存違和」と呼ぼう。

性同一性障害が脱病理化され、トランスジェンダーに対する承認と理解が進む近年の風潮に合わせて、生存違和の状態に承認を与えることはできるだろうか。すなわち、生理的には生者なのだが(当事者自身が知的にはその現実を認めていながら)、死者や無生物として扱われたい、と当事者が主張する場合、周囲が実際にそのように扱う、ということである。MtFを「トランス女性」と呼び、FtMを「トランス男性」と呼び、条件を満たせば戸籍変更もできる現状と論理的には整合するので、「トランス死者」認定、除籍謄本発行といった措置は当事者の違和を減少させるはずだが、現実に効力を持ちうるだろうか。

コタール症候群以外にも、乖離性同一性障害のいくつかの人格が自らを「死者である」「無生物である」「胎児である」などと主張する症例があるかもしれない。さまざまな症例の関係を思考実験で吟味することにより、性別違和に対する扱いとの統一性を実現することにどれほどの倫理的・法的・医療的意義と可能性があるか、分析的に考察する。

■第16回(2018年3月18日)

『人文死生学宣言:私の死の謎』(渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣/編、春秋社、2017年11月刊)出版記念シンポジウム■

日時:2018年3 月18日(日) 午後1時半~6時

場所:明治大学 駿河台キャンパス 研究棟3階第10会議室

1【合評会 】書評担当「一人称の死の意味とは何か?——心理学の観点から」 浦田悠 (大阪大学/死生心理学)

【概要】一見何でもない当然なことにも見え,かつ,とてつもない謎にも思えるのが,死の問題,とりわけ「ほかならぬ私が死ぬ」という一人称の死の問題である。本書の著者らは,この問題が何より重要かつ深淵な謎であるという立場から,その捉えがたさの核心に迫ろうとしている。そして,渡辺らが続けてきた自我体験の研究は,実は一般の(もしかするとほとんどの)人々も,著者らと同型の問いを鮮烈に抱く機会があることを示している。とすれば,各章を読み解くことにより,読者は,私が死ぬということへの根源的な気付きを(再)確認し,死への向き合い方のラディカルな転換へと誘われるかもしれない。この書評では,そのような本書の特徴を踏まえつつ,心理学の観点から,一人称の死の意味を考察してみたい。

2【講演】 「死後の同一性と単純説」鈴木生郎(鳥取大学/分析哲学)

【概要】死についての現代の哲学的議論において、「終焉テーゼ」――死はわれわれの終焉であり、われわれは死後に存続することはないというテーゼ――はしばしば議論なく前提される。このことにはもちろん一定の理由がある。終焉テーゼは、死後の魂の存続を信じるのでもない限り自然に感じられるだけでなく、現代のわれわれが死を恐れるときに前提されている――その意味で死についての常識的理解の一部である――ように思われるからである。/『人文死生学宣言』(渡辺恒夫、三浦俊彦、新山喜嗣編、春秋社、2017年)は、こうした常識的な死に関する理解を、人文学的な知見に基づいて問い直す野心的な試みである。特に第Ⅱ部では異なる理論的背景(心理学/現象学、仏教哲学、現代形而上学)に基づいて、「終焉テーゼ」を否定する多様な立場が擁護されており、非常に興味深い。本発表の目的は、この第Ⅱ部の議論を、現代形而上学の知見を背景に批判的に検討し、そのことによって議論に一定の貢献を果たすことである。/具体的には、本発表では以下の三つの作業を行なう。第一に、第Ⅱ部の中心となる諸論文(第四章、第五章、第六章)で提示されている議論を個別に整理し、検討する。第二に、各論文で展開されるどの立場も人の同一性に関する「単純説」と呼ばれる立場の一種とみなせることを指摘し、この立場が直面する一般的な問題を指摘する。第三に、死の悪さ、ないし死に対する恐怖の観点からも、それぞれの立場について考察する。

・参加資格:特になし。【お願い!】研究会は互いに学び合う場です。自説のみを声高に一方的に主張し続けることは迷惑行為に当たりますので、ご遠慮ください。

・参加費: 一般1000円、学生500円。通常は無料ですが、今回は日曜開催で会場費がかかっているため、特にお願いします。(後記:当日、会場費が値下げされたと判明したため、急遽、カンパに切り替えました。ご協力いただいた方には心より御礼申し上げます。)

・心の科学の基礎論研究会(第82回)と合同で開催します。詳細は、電子ジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」HPをご参照ください。

■第15回(心の科学の基礎論研究会(第79回)と合同)(2017年3月25日)

日時:2017年3月25日(土) 午後1時半~6時(午後1時開場)

場所:明治大学 駿河台キャンパス 研究棟

1「人文死生学の原理と方法(1)―自他の死の認識論的峻別から自他の自明性の裂け目へ」

【話題提供】渡辺恒夫 (東邦大学/明治大学)

【討論】参加者による自由討論

2 「時間と自我の再考察~インド仏教からの視点」4時ごろから。

【話題提供】重久俊夫

【討論】参加者による自由討論

■(発表要旨1)「人文死生学の原理と方法(1)―自他の死の認識論的峻別から自他の自明性の裂け目へ」

死生学が日本に導入されて久しいが、死にゆく他者を支援する技術(臨床死生学)としてもっぱら展開しており、肝心の自己の死という問題は置き去りにされた観がある。人文死生学は、自己の死について人文系諸学の成果を参照しつつ考え抜くための場として提唱され、今世紀初めから研究会活動を続けている。人文死生学を専門領域として確立するには二つの方法論的柱が必要となる。第一は他者の死と自己の死の認識論的な峻別による固有の領域の確保であり、第二は直接経験を超えた自己の死について思索するための方法論的工夫の開拓である。本発表では第一の柱に焦点を当て、一見たやすい他者の死と自己の死の認識論的峻別の困難は、他者と自己を峻別することの困難に根源があることを、明治大学での「認知科学」講義中の実験例を踏まえて明らかにする。自他の認識論的峻別への努力は自他の自明性に裂け目をもたらし、人間的世界経験の根源的パラドックス構造の自覚に至るが、そこから認知科学と現象学にとっての広大な探求領野もひらける。

■(発表要旨2)「時間と自我の再考察~インド仏教からの視点~」

我々の経験する世界が経験通りに成り立つための形而上学的条件は何か。この問いに対して、西田幾多郎は、すべてが汎神論的絶対者(絶対無の場所)に包まれてあることだと主張した。そして、さらに、それが成り立つためには、「矛盾」が許容されなければならないことも喝破した。しかし、矛盾を許容することには、さまざまな難点が存する。それでは、矛盾を許容しなければどうなるか。そうした立場で、「一人称の死」を考察することが、本発表の目的である。結果として、「流れる時間」と「“私”の自己同一性」とは、文字通りには成立しないことが示されるだろう。こうした考えの導きの糸になったのは、インド仏教・中観派の思想である。本発表は、中観派(ナーガールジュナ)に対する“可能”な一つの解釈論でもある。

・世話人会:

渡辺恒夫・三浦俊彦・蛭川 立・新山喜嗣

重久俊夫(事務局) ts-mh-shimakaze[アットマーク]yacht.ocn.ne.jp

・心の科学の基礎論研究会HP:https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro

■第14回(心の科学の基礎論研究会(第76回)と合同)(2016年3月27日)

日時:2016年3月27日(日) 午後1:30~6:00(午後1時開場)

場所:明治大学 駿河台キャンパス 研究棟2階 第8会議室

(内容)

1 死後の非在と生誕前の非在を較べることは可能か~時間と世界の形而上学からの検討

【話題提供】新山嘉嗣(秋田大学)

【発表要旨】 かつてルクレティウスは、われわれは生誕前にも永遠の非在があったのにそれに 恐怖をもつものはいないのだから、死後の永遠の非在も同様に恐怖に足るものではな いと唱えた。しかし、現代の論者達はこの「ルクレティウスの対称説」にそろって異 を唱え、両方の非在は非対称であり死後にのみわれわれにとっての害悪は発生すると した。今回の発表では、仮にわれわれが二つの非在に対して非対称を支持しているの だとすれば、時間や世界に関わる形而上学についてはどのような立場をとっているこ とになるかを明確にしたい。すなわち、英米圏の現代時間論と可能世界意味論におけ る諸説に照らして、非対称とする立場はどのような主張をしているのかを見てゆきた い。そして、発表の最終的な到達点では、そこにおいて非対称性の根拠が示されるの ではなく、対称や非対称を問うことの困難が示される予定である。

2 生物進化・文化進化のカオス性と人間原理

【話題提供】蛭川 立(明治大学)

【発表要旨】 人間原理についての科学の側からの考察は、もっぱら物理学や天文学の分野で行わ れており、生物学や人類学の知見は軽視されてきた。物理定数が生命の存在に好適な ように「微調整」されているということから「強い人間原理」に議論を進めるのは飛 躍である。進化のプロセスはカオス的であり、進化生物学の知見は、単純な生物から 人間のような「知的な」生物が進化するのは場当たり的なプロセスだったことを示し ており、また文化人類学の知見は、知的な人間が必ずしも天文学的宇宙論に関心を持 つとはかぎらないことを示している。この宇宙とは別の宇宙は観測不能かもしれない が、系外惑星の発見が今では当たり前であるように、いずれは地球外生命も当たり前 のように研究されるようになり、宇宙は微生物とその化石に満ち溢れていることが明 からになれば、自己言及的な観測者が進化する必然性のなさが改めて認識されるだろ う。それまでは、オーストラリアのような、地理的に隔離された大陸で起こった進化 のプロセスが地球外進化の近似的なモデルになる。以上の議論を踏まえれば、むしろ 「弱い人間原理」、つまるところ観測選択効果で話を収めるのが穏当な結論であろ う。

(参加資格)趣旨に関心のある方は、どなたでも参加できます。

(世話人)渡辺恒夫
(世話人)
三浦俊彦
(世話人)蛭川 立
(世話人・事務局)重久俊夫 ts-mh-shimakaze[アットマーク]yacht.ocn.ne.jp

■第13回(心の科学の基礎論研究会(第74回)と合同)(2015年3月27日)

日時:2015年3月27日(金) 午後2:00~6:00(午後1時半開場)

場所:明治大学 駿河台キャンパス 研究棟3階 第10会議室

(内容)

1 『他者問題で解く心の科学史』(渡辺恒夫、北大路書房、2014)の合評会

【書評発表】鈴木聡志(東京農業大学、心理学)

【書評発表要旨】「社会構成主義による他者の内面理解の可能性とその試み」

著者はオリジナルの二次元平面モデルをつくり、過去の科学的心理学の諸潮流の 認識論を各象限に位置づける。その後、質的心理学の諸認識論を次のように特徴づける。 解釈学的転回は〈他者への視点/自己への視点〉という対立軸への中途半端な、 言語論的転回は同じ対立軸への、もの語り論的転回は〈意味理解/法則的説明〉 というスタンスの対立軸への無効化攻撃である、と。

評者の関心から2つの問題を提起し、参加者と討論したい。

1)社会構成主義のまま人間の内面にアプローチすることの可能性。著者は言語論的転回に 大きな影響を与えたウィトゲンシュタインに批判的であるが、評者は彼の言語ゲームの考え に基づいても、人間の内面や主観性、経験を研究することが可能と考えている。

2)他者の痛みを感じないこと、感じるようになること。非行少年や発達障害児の中には 他者の痛みを感じない子どもがいる。他者の痛み、広く言うなら他者の気持ちが わからないとはどのようなことなのか、またどのような経験が他者の痛みを感じるように 成長させるのだろうか。この問題について、あるマンガ作品を資料にして考えたい。

【指定討論者】渡辺恒夫(明治大学、心理学)

2 「高次思考理論(HOT理論)のメタ哲学的含意について」

【話題提供】三浦俊彦(和洋女子大学、哲学)

【討論】参加者による自由討論

(参加資格)趣旨に関心のある方は、どなたでも参加できます。

(世話人)三浦俊彦
(世話人)渡辺恒夫
(世話人)蛭川 立
(世話人・事務局)重久俊夫 ts-mh-shimakaze[アットマーク]yacht.ocn.ne.jp

■第12回(心の科学の基礎論研究会(第71回)との合同)(2014年3月29日)

日時:2014年3月29日(土) 午後1:30~5:30

場所:明治大学 駿河台キャンパス 研究棟4階 第3会議室

(内容)

1 「思考実験の陥穽と心身問題」

三浦俊彦 (和洋女子大学、哲学) 1時30分から

【要旨】一人称の死を論じるさい、ほぼ全面的に思考実験に頼らねばならないのは当然のことである。 そこでまず「思考実験」の本質を、「シミュレーション」「フィクション」との対比において検討する。 次に、思考実験が陥りやすい罠を、いくつかの事例に即して分類する。 思考実験と称しながら方法的にシミュレーションに偏った場合、フィクションに堕してしまった場合、 作業仮説が間違っていた場合、物理的現物実験に頼るべきケースを無理に扱っている場合、などを個別に吟味する。 とりわけ、以上の諸パターンと誤謬推論とが組み合わさって多重の誤りに膨れあがった重篤な事例として、 「2封筒問題」と「点滅論法」をとりあげる。方法論的・論理的な批判が主となるが、合わせて、 この二例の誤謬を、心身問題と観測問題の新たな展望へと生かす方途を探りたい。

なお、当日使用する資料は、以下に公表してある。

〈「点滅論法」なる誤謬推論について〉 http://green.ap.teacup.com/miurat/html/t.pdf

〈思考実験リアルゲーム〉 http://green.ap.teacup.com/miurat/html/shi.pdf

2 「価値原理としての功利主義」

重久俊夫 (西田哲学研究会、西洋史・哲学) 3時45分ごろから

【要旨】死生学を論じる上で、価値の問題は避けがたい課題だといえる。 そして、価値とは何かを解明しようとする時、功利主義はきわめて有力な考え方であり、 ミクロ経済学や裁判実務などでも日常的に応用されている。 本発表の目的も、価値原理としての功利主義の有効性を立証することである。 一方、功利主義がさまざまな批判にさらされてきたことも事実>である。 しかし、そうした批判が生じる原因は、功利主義という語が、互いに異なるさまざまな意味で使われてきたからではなかろうか。 そこで、功利主義を「価値原理」「行動動機」「社会規範」の三つに分類し、それらの関係を明確にしたい。 そうした概念の交通整理を通じて、功利主義にまつわる誤解を払拭し、 ひいては、「人口問題」「格差問題」「倫理的ハードケース」等の課題にも回答を試みる。

(参加資格)趣旨に関心のある方は、どなたでも参加できます。

(世話人)三浦俊彦
(世話人)渡辺恒夫
(世話人)蛭川 立
(世話人・事務局)重久俊夫 ts-mh-shimakaze[アットマーク]yacht.ocn.ne.jp

■第11回(心の科学の基礎論第68回研究会との合同研究会)(2013年3月23日)

日時:2013年3月23日(土) 1:30~5:45

場所:明治大学 駿河台キャンパス 研究棟3階 第10会議室

(趣旨)かって死はタブーでしたが、近年は死生学の研究も盛んになっており、その多くは臨床死生学です。しかし、自分自身の死についての洞察が臨床死生学の基礎には必要と思われます。人文死生学研究会は、そうした一人称の死に焦点を当て、哲学、倫理学、宗教学、心理学、人類学、精神医学から宇宙論にまで及ぶ、学際的な思索と研究の場として発足しました。今年で11回目になりますが、これまで「刹那滅」「輪廻転生」「死の非在証明」「人間原理」などがテーマとして取り上げられました。

今年は、昨年出版された『仏教心理学キーワード事典』に関して、編者を迎えて合評会を行います。

(内容)『仏教心理学キーワード事典』(井上ウィマラ・加藤博己・葛西賢太編、春秋社)合評会

1 渡辺恒夫(明治大学/東邦大学): 司会者挨拶

2 葛西賢太(宗教情報センター): 編者を代表して、事典編纂の趣旨など。

3 蛭川立(明治大学): 『トランスパーソナル心理学/精神医学誌』書評に書いた件などについての批判。

4 加藤博己(駒澤大学)・葛西賢太(宗教情報センター):批判に対する回答。

5 岩崎美香(明治大学): 臨死体験研究などの視点からの感想。

6 葛西賢太(宗教情報センター): 岩崎発表へのコメント。

7 加藤博己(駒澤大学): 最後に編者からの回答。

8 全員: 全体討論。

(参加資格)趣旨に関心のある方は、どなたでも参加できます。

(世話人)三浦俊彦
(世話人)渡辺恒夫
(世話人)蛭川 立
(世話人・事務局)重久俊夫 ts-mh-shimakaze[アットマーク]yacht.ocn.ne.jp

■第10回(心の科学の基礎論研究会との合同研究会)(2012年3月31日) 報告

第10回人文死生学研究会は、2012年3月31日(土)、お茶の水の明治大学で開かれました。
今年は、「現象学と心理学」、および西田哲学に関して話題提供が行われました。内容の要旨は以下の通りです。

第一部 独我論への/独我論からの現象学と心理学。話題提供・渡辺恒夫

「独我論への現象学と心理学」とは、私が、元来は独我論的世界に誕生したことを発見するにいたるまでの、時間を遡る経験的探究である。この探究は、自我体験、独我論的体験の心理学を、ブランケンブルグ、木村敏、シュピーゲルベルグらの現象学(的精神医学)にヒントを得て、現象学的心理学として辿り直すことであった。

自我体験は最初、現象学者シュピーゲルベルグによって1964年に研究報告されたが、その後は日本の心理学者によって、質的心理学ではあっても現象学的ではない方法で研究されてきた。しかし、そうした過去の自我体験研究をいかにして現象学的研究へと読み替え、作り変えていったらよいか。私は、フッサールの方法を質的研究の系譜に位置づけて修正したジオルジの方法を学びつつ、まず、6歳にして自我を自覚することで自分が神であることに気付いたという、鮮烈な自我体験事例の現象学的分析を行った。次に、精神医学における現象学的分析として、自己の自明性の喪失を主訴とする木村敏の統合失調症事例を検討した。さらに、自我体験の類縁事例である独我論体験と、統合失調症および自閉症スペクトラム中の独我論的事例を、現象学的に比較分析した。最後に、レンプによる発達モデルを参考にし、ブランケンブルグのいう「統合失調症性のエポケー」の考察に基づき、自我体験も独我論体験も「発達性エポケー」に源泉があると結論づけた。すなわち、現象学的エポケーを企てる哲学者でなくても、また、精神病理学的エポケーに苦しむ統合失調症患者や自閉症患者でなくても、「正常」な精神発達過程の途中で、とりわけ幼児期に、私たちは、自己の自明性の破れを経験しうるのである。それは、自然発生的なエポケー(現象学的還元)であり、フッサール的世界への第二の誕生である。一方、「独我論からの現象学と心理学」とは、自明性の世界のただなかに、自明性の世界に裂け目を入れながら、私が第二の誕生を遂げてからの、「可能な」物語である。現象学的反省によっては決して「構成」されえないという意味で、私の絶対に理解できない自明性の世界、相互主観性の世界を、いかにして、納得しうる世界として再構成してきたか。そして将来も、どのような再構成の可能性が展望されるかの、現象学的解明である。そのような再構成の企てを「現象学的反抗」と呼ぼう。その結果、構成されうる世界観・死生観として、純粋独我論の他に、キリスト教的化身教義、プロチノス的「一者」、転生輪廻などが、神秘主義という扱いとは異なる現象学的観点から分析できる。

第二部 「自己」と「時間」の解釈をめぐる哲学思想の再検討・西田哲学の場合。話題提供・重久俊夫

西田幾多郎(1870~1945)の哲学は、往々にして禅仏教と結び付けられ、神秘的なイメージで語られやすい。しかし、その実態は、古今東西の古典哲学を再構成し、20世紀的な合理性のもとに体系化したものであり、扱われるテーマの広さと、「論理」への徹底したこだわりが特徴である。

西田の哲学的世界観は1930年代に到ってほぼ完成するが、そこに結実する論点の一つが、個物(実際には「意識現象」)と個物を包み、それらの間に相互関係をあらしめる「絶対無の場所」である。これは、スピノザ的な汎神論的絶対者と見なすことができるが、「形ある世界全体」でもあり「無」でもあるという矛盾した両面を持たざるをえない。かくして、「一即多、無即有の絶対矛盾的自己同一」という神秘的存在が、世界が、経験されるままの世界でありうるための条件として、合理的に説明される。また、そうした汎神論(あるいは「万有在神論」)を前提にした上で、無限の過去・現在・未来が、今ここの一瞬の中に現れているという時間論(永遠の今の自己限定)も導かれる。一方、西田は、「物そのもの」も「心そのもの」も実在視せず、すべては意識現象であり、物体もまた知覚の可能性の束であると考える。こうした現象一元論は、W・ジェイムズやB・ラッセルなどの英米思潮にも頻繁に現れる思想である。

今日、哲学に関心を持つ研究者や読書人の間で、西田哲学と英米系現代哲学(いわゆる「分析哲学」)とは二つの流行をなしている。しかし、両者は互いに背中合わせに無視し合っており、両者の論点を突き合わせ、架橋することは今後の重要な課題である。その点で、20世紀の数学や自然科学、記号論理学にも造詣が深く、英米哲学にも関心の深かった西田の思想は、またとない「たたき台」になることが期待される。

(文責・重久俊夫)


■第9回(心の科学の基礎論研究会との合同研究会)(2011年7月23日)報告

第9回人文死生学研究会は、2011年7月23日(土)、お茶の水の明治大学で開かれました。冒頭で、本会におけるこれまでの経緯を重久がブリーフィングし、その上で、古典哲学における時間論として、⑴現在の中に無限の過去と無限の未来とが何らかの意味で含まれるタイプと、⑵現在だけが非連続的に継起するタイプとの二種類があることを指摘しました。その後、左金武氏と三浦俊彦氏から以下のような話題提供がありました。

第一部 時間の経過について・現在主義の立場から。話題提供・左金武

時間を説明する哲学理論には、時制理論(A系列主義)と無時制理論(B系列主義)とがある。前者は、過去・現在・未来という時制的区別からなる(「現在」を中心とした)時間論であり、時制的区別に存在論的根拠があると考える。一方、後者は、出来事の前後関係によって構成される(「現在」がどこかを問題にしない)時間論であり、時制表現に存在論的意義を認めない。「存在するものは全て現在にあり、現在にないものは存在しない」という現在主義は、過去・現在・未来の間に「存在する・しない」という存在論的区別を設ける点で、時制理論の一種といえる。

時間が実在するとは、何らかの変化が実在することであり、それゆえ、「変化の表象の変化」(すなわち、「言明の真理値における変化」)を伴わなければならない。「今、雨が降っている」という時制的表現は「今」の位置によって真にも偽にもなりうるが、「2011年7月3日は雨である」という無時制的表現は、(それが真であれば)常に真であり続け、「言明の真理値」は変化しない。従って、「言明の真理値の変化」は時制理論を要請しているといえる。

一方、そうした変化の実体としては、「もの(の性質)の変化」と「出来事の変化」とが考えられる。前者は、「ある対象Xが、かつては性質Fを持ったが、今は(Fではなく)Gを持っている」というものであり、後者は、「ある(瞬間的な)出来事Eが、かつては未来であり、今は現在であり、やがて過去になるだろう」というものである。

ラッセルは、「ものの変化」を前提とした無時制理論(すなわち、時制的系列の実質的否定)を唱えた。ラッセルに対するマクタガートの無時制理論批判は妥当だが、マクタガート自身が立脚する「出来事の変化」説には問題がある。なぜなら、「出来事の変化」とは擬似的表現に過ぎず、実態はあくまでも「ものの変化」であり、しかも、「出来事の変化」説は「変化のパラドクス」と呼ばれる解決不能の困難を招くからである。(実際、マクタガートは、最終的に時間非在論に陥っている。)一方、「ものの変化」説でも、無時制理論ではパラドクスを免れず、「時間の変化」を否定せざるをえない。

従って、「ものの変化」を前提にした(時制理論の一種である)現在主義こそ、「時間が経過する」という否定しがたい常識と整合する唯一可能な選択肢なのである。

第二部 量子自殺の可能性・「私」の存在の客観的価値について。話題提供・三浦俊彦

量子の観測がなされるたびに波束の収縮が起きるが、それは、一つの世界でそのつど一つの状態が選ばれていることなのか(コペンハーゲン解釈)、それとも、あらゆる状態が実現して、世界が分かれてゆくことなのか(多世界解釈)。現象的には区別のつかない対立に決着をつけるには、量子ロシアン・ルーレットに頼るしかない。

引き金を引くたびに確率50%で粒子が放出される非決定論的電子銃を自分の頭に向け、百回続けて引き金を引く。弾丸が発射されない確率は50%だが、百回続けてそれが起きる確率は極小であり、自分はほぼ確実に死ぬ。もっとも、ごく小さな確率ではあるが、百回続けて弾丸が出ない可能性もある。しかし、世界が一つだけであれば、そうしたケースが起きることはほとんど考えられない。一方、この世界が多重世界であれば、引き金が引かれた後の可能な結果は、(確率0でない限り)どこかで必ず生起している。つまり、引き金を引くごとに自分は全体の1/2の世界で生き延び、百回終えた後には、全体の「1/2の百乗」という極小の部分集合においてではあるが、依然として生き延びている。自己の主観的本質が意識である以上、生きている自分と死んでいる自分とが分かれた場合、「私が存在している」といえるのは生きている分岐だけである。つまり、「主観的な自己」は、常に弾丸が発射されない方の諸世界へカテゴライズされてゆき、1/2の百乗という難関をクリアして、必ずや実験結果を生きて見届けることになる。

多世界解釈が正しいとすれば、われわれは量子ロシアン・ルーレットにおいて、確率的にはありえない「生存」を達成し、多世界解釈が正しいことを証明できるわけだ。コペンハーゲン解釈では、そのような証明はできない。ただし、こうした証明にはさまざまな制約条件があることも事実である。

(文責・重久俊夫)

■第8回(心の科学の基礎論研究会との合同研究会)(2010年3月29日)報告

第8回人文死生学研究会は、2010年3月29日(月)、お茶の水の明治大学で開かれました。冒頭で、本会におけるこれまでの経緯を重久がブリーフィングし、その後、水本正晴氏と岩崎美香氏のお二人から話題提供がありました。要旨は以下の通りです。

人文死生学研究会は、2003年の発足以来、「一人称の死」について多角的に考察してきたが、そこに見られる特徴の一つは、「輪廻転生」に対する関心である。本会世話人の渡辺恒夫は、心理学的観察にもとづき、「私がなぜ『この私』であり、他の人格ではないのか?」という疑問を「自我体験」と名づけ、「『私』という主観が生じているのは『この私』だけであり、他者には生じていないのではないか」という思いを「独我論的体験」と名づける。そして、こうした“疑問”を論理的に克服しうる世界観を、輪廻転生と捉えて類型化する。(『輪廻転生を考える』1996年、『〈私の死〉の謎』2004年)これに対し、重久は、時間の非連続性を強調する「現在主義」の立場に立ち、瞬間と瞬間の間には位置関係がありえないことを指摘して、輪廻転生を証明しようと試みる。(『夢幻論』2002年、『時間幻想』2009年)一方、三浦俊彦は、この宇宙の物理定数が知的生命体の発生に対して絶妙な値に“調整されている”という「ファインチューニング問題」を取り上げ、その“謎”の唯一可能な解釈として、多宇宙実在論を採用する。そして、そうした解釈が要請する「私」の定義を分析することにより、輪廻転生が証明されると考える。(『多宇宙と輪廻転生』2007年)渡辺の議論は、特殊な心理現象から触発される一つの“エレガントな”仮説だが、重久と三浦は、それを実在論的に証明しようとする。一方、渡辺と重久が唯心論(現象主義)を許容するのに対し、自然科学的観点を堅持する三浦は唯心論に否定的であり、三者三様の輪廻転生観には、ほどよい距離感があるといわざるをえない。

輪廻転生が実践哲学において功利主義に結びつくことは、三浦と重久がともに指摘するところだが、功利主義を歴史の価値判断に適用したケース・スタディーが、三浦の『戦争論理学~あの原爆投下を考える62問~』(2008年)である。同書は、第二次大戦末期の広島・長崎への原爆投下を「やむをえないものであった」と考える原爆肯定論を擁護し、「避けるべきであった」と考える原爆否定論を論理的に論駁するものである。昨年度の人文死生学研究会でも同書に対する書評討論を行ったが、今年もそれに続き、哲学者の水本正晴による新たな批評が行われた。

水本は、三浦の原爆肯定論が強い説得力を持つことを認めつつ、それにもかかわらず、原爆投下が誤りであったと主張する。ただ、多くの原爆否定論者がヒューマニスティックな立場から議論を展開するのに対し、水本の主張は、むしろアンチ・ヒューマニスティックで冷酷ともいえる「歴史の理不尽性」にもとづくものである。それは、「たとえ主体が置かれた状況において他の選択肢が与えられておらず、行為論的には非がなくとも、あるいは通常の裁判であれば無罪となるような行為に対しても、歴史は時に有罪判決を言い渡すことがある」というものである。その論証は多岐にわたり多くの論争点を孕んでいるが、三浦が立脚する行為論的枠組み自体を相対化し、歴史の価値判断とはそもそも何なのかを深く考えさせるものであることは間違いない。

一方、岩崎美香の発表は、臨死体験を経験した12名(13例)の日本人の、死生観の変化を調査したものである。臨死体験とは、典型的には、「死に近づいた人、もしくは生理学的または情緒的な強い危機状態にある人に起きる、超越的で神秘的な要素を帯びた体験」(Greyson) と定義される。その原因はさまざまに解釈しうるが、岩崎が関心を持つのは原因ではなく、体験そのものの内容である。その結果、臨死体験が、「日常の領域からの分離・異世界への過渡・日常への再統合」という過程であり、異世界へのある種の“旅”であることが明らかになる。それはまた、「一人称的な死」の受容の物語ともいえるが、癌からの快復者などが、(人生の有限性の認識や他者への感謝など)死のこちら側で人生を完成させる物語を得るのに対し、臨死体験者の物語は、死のあちら側での大きな枠組みにおける、自然・宇宙・魂の行方についての物語である。

さらに岩崎は、日本人の死生観の歴史的変化を考察し、生と死が連続する「原・神道的死生観」や、生と死が二極化する「仏教・キリスト教的死生観」でもなく、また、高度成長期以後の唯物論的死生観でもない、ポストモダン的死生観が広まりつつあることを指摘する。それは、特定の宗教は信じないが、霊魂や死後の世界の存在を信じるスピリチュアリティー志向型の心性である。世論調査でも、死後の世界や輪廻転生を認める者が40%を超える場合があり、個人化した社会の中で、個を超えた生命のつながりや生と死の連続性が模索されつつあることを窺わせている。

(文責・重久俊夫)


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乞掲示

第8回人文死生学研究会を、心の科学の基礎論研究会との合同

研究会として、下記の通り実施いたします。今回は、明治大学意識情報学研究所 とも共催です。 ふるってご参加下さい。

・(日時) 2010年3月29日(月) 午後1時30分~5時45分

・(会場) 明治大学 駿河台研究棟3階、第10会議室

(研究棟はリバティータワーの裏手の12階建ての建物です。次の地図をご参照下さい。)

http://www.meiji.ac.jp/campus/suruga.html

・(趣旨) 略

・(内容)

1 「人文死生学研究会」の従来の議論の経緯

重久俊夫 (人文死生学研究会世話人・西洋史、哲学)1時30分から

2 原爆投下は正しかったか ~戦争・論理学から歴史・認識論へ~

水本正晴 (哲学・北見工業大学) 2時15分ごろから

本発表は、私が今年度行ってきた認識論の授業の試みを紹介しながら、原爆投下の是非について私なりの見解を論じる。その際、授業でも行ったように、アメリカ人による原爆否定派の意見として、ジョン・ロールズ、日本人による原爆肯定派の意見として三浦俊彦の議論を取り上げ、その食い違いの分析から歴史についての認識論、一般に歴史の哲学のあり方を問う。時間に余裕があれば、最近の議論として野家啓一の「物語としての歴史」の哲学を批判した中山康雄の議論を考察したい。

3.旅としての臨死体験と死生観の変容 ~日本人の事例を中心に~

岩崎美香 (明治大学大学院修士課程) 4時ごろから

・(参加資格) 趣旨に関心のある方はどなたでも参加できます。申し込みは特に必要ありませんが、会場準備のため、できれば事務局(重久)までご一報下さい。

(世話人・代表) 渡辺恒夫 psychotw[at]env.sci.toho-u.ac.jp
(世話人・事務局) 重久俊夫 ts-mh-shimakaze[at]yacht.ocn.ne.jp

■第7回(心の科学の基礎論研究会との合同研究会)(2009年3月30日)報告

第7回人文死生学研究会は、2009年3月30日(月)、お茶の水の明治大学で開かれました。今年は、心理学からの話題提供と、三浦俊彦氏の『戦争論理学』の書評討論が行われました。内容の要旨は以下の通りです。

第一部 自我体験・独我論体験研究から考察したアスペルガー障害者のテクスト 話題提供・渡辺恒夫

「私はなぜ『この私』であり、他の人格ではないのか」という疑問が自我体験であり、「『私』という主観が生じているのは『この私』だけであって、他者には生じていないのではないか」という思いが独我論体験である。前者は「個別的自己の自明性の破れ」であり、後者は「類的自己の自明性の破れ」である。いずれの経験者も、多数派とはいえないが広範に存在し、8~10歳ごろに初発体験のピークが認められる。

一方、自閉性障害圏(自閉症スペクトラム)の軽症型とされるアスペルガー症候群に属する自伝的記述には、独我論体験の典型と思われるものが少なくない。たとえば、「見えないものは、存在しない」「クラスメートは教室の備品だと思っていた」「『社長』は終業時間がきたらパッと消える」というようなものである。しかし、「私はなぜこの私なのか」という自我体験から自己の特別視が生じる場合とは異なり、自閉性障害圏の独我論的世界は、明確な内省的自己意識の成立以前のものである。また、他者や世界は「作り物」だが、それらの間にいる自分を、超越的な何ものかが見ているという「入れ子細工的構造」も、この種の体験にしばしば現れる。

自分中心の世界から客観的で他者と共感し合える世界へと進むことで、自明性の世界を獲得することが「定型発達」だといえるが、自閉性障害圏の独我論的世界は、そうした自明性の世界への参入の失敗、あるいは、自明性の世界の非成立を意味しているといえよう。こうしてみると、自明性の世界は決して堅牢ではなく、意外と脆いところがあるのかも知れない。

討論では、主に心理学の専門的見地からさまざまな論評が行われ、考えて思い至る独我論と、感覚的に直観される独我論との区別なども指摘された。

第二部 三浦俊彦著『戦争論理学~あの原爆投下を考える62問~』(二見書房、2008年)合評会 書評発表・佐藤壮広、重久俊夫

三浦俊彦による『戦争論理学』は、第二次大戦末期の広島・長崎への原爆投下を「やむをえないものであった」と考える原爆肯定論を擁護し、「避けるべきであった」と考える原爆否定論を論理的に論駁するものである。議論は、否定論と肯定論の仮想ディベートの形をとり、全体が、著者の推奨する批判的思考 critical thinking の実践となっている。また、悲惨な現実を前にして冷静に議論すること自体が、犠牲者に対する冒涜であるという情緒的な主張に対し、詳細かつ徹底的に反論する箇所は、本書の白眉であるといってよい。

昨年度の「人文死生学研究会」では、同じ著者による『多宇宙と輪廻転生』を話題にとりあげたが、同書では、輪廻転生観が功利主義と親和的であることが指摘されていた。本書の議論は、政治問題に対する功利主義の適用例でもあり、昨年に引き続いて本書を取り上げた理由の一部もそこにあるといえる。

三浦の議論は、原爆投下による「現実の被害」と、それをせずに戦争を長期化させた場合の「仮想の被害」との比較衡量を基本とする。その上で、他の選択肢もありえたのではないかという疑問に対し、当時の政治状況を多角的に検討し、与えられた条件のもとでは原爆投下が最善の可能な選択肢であったことを証明しようとするものである。

書評発表では、佐藤が同書の論旨と意義を整理し、その後、重久が、価値基準としての功利主義を整理しつつ、本書における具体的な問題点を指摘した。その趣旨は、原爆投下を正当化するという場合の「正当化」の意味が多義的なまま混在していることである。一つは、原爆投下による犠牲者数と本土決戦による犠牲者数とを帰結主義的に比較した場合の正当化であり、もう一つは、アメリカ政府当局者が、原爆投下による自己の政治的利害と戦争継続による政治的利害とを自ら比較した場合の、合理的利得追求としての正当化である。両者は明らかに異質なものだが、たまたま「原爆投下肯定」という同じ結論になるため、相違が不明瞭になっている。

その他、会場参加者との討論では、一般の人々に対して十分な合理性や想像力を期待できるかどうかが問題になった。そして、外国(中国)における体験なども紹介され、政治問題に対する情緒的反応の根強さが改めて指摘された。

(文責・重久俊夫)

■第6回(心の科学の基礎論研究会との合同研究会)(2008年3月29日)報告

第6回人文死生学研究会は、2008年3月29日(土)、お茶の水の明治大学で開かれました。今年は、宗教人類学からの二つの話題提供と、三浦俊彦氏の『多宇宙と輪廻転生』の紹介と討論が行われました。内容の要旨は以下の通りです。

第一部 宗教人類学からの話題提供

1 一人称的実験心理学としてのフィールドワーク ~~臨死体験と過去生記憶体験を例 に~~ 蛭川立

心霊研究は、(臨死体験のような)死後生存の検証を目指し、一人称的な「私の意識」の問題として探究されてきた。しかし、死後の霊魂が引き起こすとされる現象の多くが、生者の特異能力によっても生じると考えられるようになり、心霊研究は、ESPのような超心理現象を三人称的視点から研究する超心理学に移行してしまった。例えば、ある人の過去生の記憶が客観的に裏付けられたとしても、死者から子どもに(テレパシーのような形で)情報が伝わったと考えれば、意識の流れが死を超えて持続する必要はない。他者の意識が外部からは観察できないことが、こうした問題を引き起こしていると考えられる。これに対し、研究対象の内部に一人称的に参入し、かつ、それを観察することが、参与観察(フィールドワーク)である。瞑想体験の参与観察などが実践されている。それは、主観的ではあるが再現性があり、一人称的実験心理学と呼ぶことができる。

一例を挙げれば、臨死の自己実験はリスクが大きいが、サイケデリック体験(アヤワスカ茶による体験など)は十分可能である。また、「過去生」体験催眠は、一つの生から次の生への移行も体験できるが、リアリティーはかなり希薄である。蛭川立『彼岸の時間』(春秋社、二○○二年)

2 シャーマニズム、死、沖縄、平和学 佐藤壮広

第二次大戦の戦場となった沖縄で、公的な記憶から漏れる抑圧された記憶がある。記録の中で死者は黙し、「生者による記憶」という形で過去化され、「生者と死者との現在におけるかかわり」という視点は抜け落ちる。しかし、民間巫者(沖縄本島では「ユタ」)は、霊的感受性によって戦死者の声を聞き、その姿を見る。また、戦死者霊を死の現場から墓や仏壇に届ける儀礼(ヌジファ)を行うこともある。彼らにとって、死者は現前し、過去化することなくさまよっているのである。

生者と死者の実践的関係から「平和の知」の芽を読み取ることもできよう。まず、民間巫者は、公的式典において均質な語りの中に囲い込まれてきた死者を個別に、生きたものとして、すくいあげる儀礼の実行者である。また、彼らは、「島の痛み」を自身の痛みとして感受する身体を持ち、痛みの表現の可能性を示唆してもいる。

死者の言葉が生者に大きな影響を与える社会もある。生きた人間の間の倫理を超え、死者と直面することで、生者の弱さを自覚することが必要だという考えもある。平和を作る知を立ち上げるために、巫者の霊的感受性とその実践は意義を持つといえる。

第二部 三浦俊彦著『多宇宙と輪廻転生』(青土社、二○○七年) 書評発表・重久俊夫

1 要旨

人類のような知的生命体が誕生するためには、この宇宙のいくつかの物理定数はきわめて限定された範囲に収まっていなければならない。宇宙がそうした微調整(ファインチューニング)された状態にある確率は極小である。こうした事態を自然に説明するためには多宇宙実在論が有効である。つまり、さまざまな物理定数を持った多数の宇宙が実在していれば、それらの中に、知的生命体を発生させるようなファインチューニングされた宇宙もほぼ確実に存在するだろうからである。

多宇宙が存在すれば「知的生命体もほぼ確実に存在する」という三人称命題は、「こうして宇宙を考察している知的生命体である私が存在する」という一人称命題に拡張することができる。つまり、「高度な自意識を持った私がこうして存在する」ことから、多宇宙が実在することを確率的に推論することができるわけである。

ただし、多宇宙論証が成立するためには、「私」というものを、多宇宙世界にいくつも生息するであろう知的生命体の中の「誰でもよい」と定義しなければならい。「私」の定義には、知的生命体であれば誰でもよいという自我説(SSA)と、世界全体の中の特定の一点である「個体」でなければならないという個体説(SIA)とがある。しかし、個体説であれば、たとえ多宇宙が存在し、知的生命体が発生していても、特定の一点であるその個体がたまたまそうした知的生命体に合致している確率は極小である。こうして個体説は否定され、自我説が肯定される。

自我説を取れば、「私」は誰でもよいわけだから、この私が死んでも別の私として生きてゆくことができる。これが、確率論的に証明された輪廻転生に他ならない。

2 批評

著者は、多宇宙か一宇宙かの問題と、自我説か個体説かの問題を、明確には関連づけていないが、上記の要約から分かるように、多宇宙説が自我説に先行することは明らかである。多宇宙が存在しなければ知的生命体の発生する確率は極小になるわけだから、自我説の前提自体がそもそも成り立たない。

また、著者は、輪廻転生は時間的な先後関係に従って起きると考えている。それゆえ、同時刻に存在する他者や過去の人間には転生しない。これは、著者の輪廻転生論がファインチューニング問題のような自然科学的視点から出発しているため、常識的な自然観を完全には無視できないためである。しかしながら、ニュートン的な絶対時間が否定されている中で、宇宙論的スケールにおいて(まして、多宇宙を前提にして)果して先後関係が必ず定義できるのか、疑問は残るといわざるをえない。

個人と個人は輪廻転生によって結びついて、超個人的な「人格」を構成する。人格の数は、最も人口の増えた時点での個人の数と少なくとも同じである。しかし、人口は絶えず変動し、それよりはるかに少ない場合もある。そうした場合、著者は、同一の個的身体の中に複数の人格が同居していると考える。しかし、アメーバが分裂するように人格も分裂してゆくと考えれば、必ずしもこうした解釈を取る必要はないのではないか。

多宇宙論証の前提は、多宇宙であれば、その中にファインチューニングされた宇宙が存在する確率はほぼ1であり、一方、一宇宙であれば、それがファインチューニングされた宇宙である確率はほぼ0であるということである。しかし後者の場合、ただ一つしかない宇宙に対してどうやって確率を定義するのか、問題になる。「ファインチューニングされている可能宇宙」/「すべての可能宇宙」と定義したとしても、単なる可能性でしかない宇宙の数をどうやって判定するのか。

こうした点が、批評として指摘された問題であった。

(文責:重久俊夫)

■第5回(心の科学の基礎論研究会との合同研究会)(2007年3月31日)報告

第5回人文死生学研究会は、2007年3月31日(土)、お茶の水の明治大学で開かれました。今年は、宗教人類学からの話題提供が予定されていましたが、発表者が急病で欠席されたため、渡辺恒夫氏による「化身教義の心理的根源としての自我体験・独我論体験」、および三浦俊彦氏による「終末論法へのさまざまな反論」という二つの話題提供と質疑応答が行われました。次に、「終末論法へのさまざまな反論」の発表要旨を簡単に紹介します。

(参考・『現代思想』三月号~五月号)


終末論法とは、次のような議論を指す。

前提・「私」は全ての人類(または知的生命体)からのランダムなサンプルである。

データE・歴史上、この世に出現した人間の総計がほぼ六百億人の時点で「私」は生まれた。

(かつ、世界の人口は最近になって急増している。)

仮説A・人類は今後短期間で滅亡する。

仮説B・人類は今後相当長期にわたって繁栄する。

「前提」のもとで、データEだけから仮説Aの妥当性(人類の早期終末)を確率論的に推定することができる。なぜならば、近代になって人口が急増している人類が、今後も長期にわたって繁栄する場合(仮説B)、ほぼ六百億人目の人間である「私」は「例外的に初期の人間」であったことになり、その確率は低いといわざるをえないから。(終末論法)

こうした終末論法に、どのような反論が可能かを次に検討する。

(1)終末論法は、データEを得た後の仮説Aと仮説Bの事後確率の比が、事前確率の比よりも顕著に高まることから、Aの正しさを結論づけている。それが成り立つためには、仮説Aと仮説Bの事前確率がほぼ同等でなければならない。しかし、例えばA(早期終末仮説)を「一万人目の人間が生まれた時点で人類が滅亡する」と定めた場合、データEが得られた時点でAは反証されてしまい、比較の意味をなさない。意味をなすためには──私が何人目の人間かは事前には分からないので──人類滅亡の時点は遅い方がよく、Bの事前確率がAよりも高くなってしまう。それは、終末論法の否定である。

結局、終末論法は、「私が六百億人目の人間である」ことを知った上で、それに矛盾しないように恣意的に仮説Aを設定した点が問題である。それゆえ、仮説A、Bの設定が最初から客観的に決まっているような場合(例えば、人類が早期に滅亡するかどうかの分枝は、歴史上のある時点でのみ起きるような場合)には、終末論法は否定されない。

(2)「私」でありえた者の集合を準拠集団と呼び、次のような二種類の可能性がある。

SSA・「私」は意識主体からのランダムなサンプルである。

SIA・「私」は(石ころなども含めた)全てのモノ(時空点)からのランダムなサンプルである。

終末論法の「前提」はSSAに立脚しているが、SIAならば終末論法は否定される。「私は(全てのモノの中から選ばれた)人間として生まれた」というデータは、人口が多いほど人間として生まれやすいために仮説Bの確率を高める。その結果、終末論法を無効化するからである。しかし、現に意識を持って生まれてきていることからすれば、SIAは不合理であるともいえる。

(3)SSAの範囲内でも、地球外知的生命体を考慮に入れれば、終末論法は否定される。「私は(全ての知的生命体の中から選ばれた)地球人類として生まれた」というデータは、地球人類の数が多い仮説Bの確率を高め、終末論法を無効化するからである。もっとも、地球外知的生命体が少なければこの反論は成り立たず、地球外知的生命体の数という偶然の要素に左右される点が難点である。

ただし、SSAは、この宇宙のファインチューニングを根拠として多宇宙論証に結びつく。その場合、多宇宙が実在するならば、地球外知的生命体も多数存在することは十分予想される。

(4)終末論法において「私」が属する準拠集団は、単なる知的生命体ではなく、「終末論法を考えることができる(あるいは、現に考えている)知的生命体」である。これを準拠集団Mと呼ぶ。Mの中の「私」は、科学や哲学に知識と関心のある主体であり、そういう者の中で「私」は平凡な位置にいると考えられる。(限定されたSSA)

一方、(1)より、早期滅亡と長期繁栄の分枝点は、客観的に限定されていなければならない。地球文明の場合、それは、核兵器やロケットが開発されていながら宇宙への大規模植民がいまだ実現していない時代──つまり21世紀付近──である。従って、終末論法を考える集団Mは、21世紀付近にしか存在しえず、少なくともそれ以後ではありえない。それゆえ、「私はほぼ六百億人目の人間である」というデータEは必然であり、人類史の長さとは関係しない。こうして終末論法は無効化される。(強い観測選択効果)

科学の成立は、宗教や芸術よりも低確率である。「科学的探求に最も適した条件」(ST)は、知的生命体一般(あるいは文明一般)の成立に必要なファインチューニング(FT)を越えた過剰なファインチューニングであるように見える。しかしながら、STとFTとは一致することを示唆する例が多い。例えば、太陽と月が一定の関係にあることは生命進化の必要条件(FT)だが、一方で、皆既日食を生ずることによって科学の進歩を可能にしている(ST)。こうした一致の説明原理として、強い観測選択効果は有望である。

(文責:重久)

■第4回(心の科学の基礎論研究会との合同研究会)(2006年4月1日)報告

第4回人文死生学研究会は、2006年4月1日、東京、お茶の水の明治大学において開催されました。心の科学基礎論研究会との合同開催ということで、通常は人文系の人間と議論することのあまりない(数学や物理学などの)理数系の専門家にも大勢参加していただき、文理どちらの側にとっても貴重な経験になったと思います。私も、終了後の会食の際に、数学者と概念実在論の関係といった、普段は聞きたくても聞けないようなことを質問させていただき、異文化交流の妙味を堪能いたしました。

研究会の方は、渡辺先生の基調講演の後、重久から、これまでの会で話題提供されたインド哲学における刹那滅論証のことや、「現象相互間の断絶性(無関係性)による時間非在論」について報告しました。 その後、三浦先生から、輪廻転生に関する確率的論証について発表がありました。これは、「どこで生じたどんな内容の意識かにかかわりなく、意識が生じることが、「私」が存在するための必要十分条件である」という命題を確率論的に正当化することで、輪廻転生を証明しようとするものです。さらに、それが、ある程度常識にかなった輪廻説であるための制約条件も議論されました。三浦先生の説は、昨年は、多宇宙説が輪廻転生のオールタナティブになっているというものでしたので、今年は、輪廻説を積極的に支持する方向により一層接近されたことになります。

感想としては、確率についての理解の難しさが改めて実感されました。例えば、同じ経験的事実から理論Aと理論Bとが構想される場合、理論Aでは、所与の経験が「不可能ではないが実現確率のきわめて低い不思議なもの」となり、別の理論Bでは、「実現確率の高い一般的事実の任意の切片」となる、というような場合です。そのことから、それ以上の何かがいえるのでしょうか。「理論Aの世界は神秘にみちている」ということがいえるのか、あるいは、「われわれは理論Bだけを(正しいものとして)選ぶべきである」ということまでいえるのか。研究会の場でも、不思議さの意味について議論されましたが、どうも、奥の深い問題だといわざるをえません。

ともあれ、通常の哲学関係の学会では、哲学史の歴史研究が中心となりやすく、過去の思想家と自分自身の考えとがあいまいに混ざりあって議論されることが少なからずあります。今回は(いつもそうですが)、オリジナルな世界観を率直に披露する研究会としても、異文化交流の妙味がさらによく発揮されたと思います。「人文死生学研究会」としても、かなり「輪廻転生」の理解が深まってきたように思いますが、仏教関係の学会でさえ本気で主張するには勇気のいるテーマを、公然と(もちろん、論理的に)語り合えるということは、やはりすばらしいことだと思いました。

(文責・重久俊夫)


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乞掲示

第4回人文死生学研究会を、心の科学の基礎論研究会との合同研究会として、下記の通り実施いたします。ふるってご参加下さい。

・(日時) 2006年4月1日(土) 午後1時30分~5時45分

・(会場) 明治大学駿河台研究棟、4階・第2会議室
(研究棟はリバテイータワーの裏手の12階建ての建物です。次の地図をご参照ください。)
http://www.meiji.ac.jp/campus/suruga.html

・(内容)

(1) 開会挨拶・趣旨説明 1時30分より 渡辺恒夫 (東邦大学・心理学、科学基礎論)

(2) 前3回の要約 1時45分より 重久俊夫 (西洋史、哲学)
1 インド仏教における刹那滅(谷貞志発表より)
2 独我論と輪廻転生 (渡辺恒夫発表より)
3 死の非在論証 (重久俊夫発表より)
4 多宇宙論と人間原理 (三浦俊彦発表より)
5 質疑応答

(3) 話題提供 「輪廻転生と進化論・人間原理・主観確率論」 三浦俊彦 (和洋女子大学・論理学、分析哲学、形而上学)

(4) 総合討論 4時30分~5時45分

・(参加資格) 趣旨に関心のある方はどなたでも参加できます。

・申し込みは特に必要ありませんが、会場準備のため、できれば事務局(重久)までご一報下さい。

(世話人・代表) 渡辺恒夫 psychotw[at]c.sci.toho-u.ac.jp
(世話人・事務局)重久俊夫 ts-mh-shimakaze[at]yacht.ocn.ne.jp

■第3回(2005年3月27日)

・(日時) 2005年3月27日(日) 午後1時~4時30分
(会場は12時から開いています。)

・(場所) 阪急ターミナルビル 17階(阪急ターミナルスクエア 17) 「ばら」の間
阪急ターミナルビルは、JR大阪駅に隣接する阪急電車 梅田駅の構内にあります阪急梅田駅「2階中央口」を出た正面。「阪急17番街」の真上です。

・(内容)
1時~ 開会挨拶・趣旨説明 渡辺恒夫 (東邦大学 心理学。科学基礎論)

前二回の要約 重久俊夫 (西洋史・哲学)

2時~ 話題提供「人間原理から見た輪廻転生と多宇宙」 三浦俊彦 (和洋女子大学 論理学・分析哲学形而上学/作家)

3時15分~ 討論

・(趣旨) 今年で3回目になりますが、これまでに「刹那滅」「輪廻転生」「死の非在論証」「人間原理」などがテーマとして取り上げられています。今回は、昨年に続いて、論理学者の三浦俊彦氏から、「人間原理」と輪廻転生、多宇宙論の関係について話題提供が予定されています。

もとより、特定の宗教の公布活動とは完全に無関係です。

・(参加資格) 趣旨に関心があれば、どなたでも参加できます。特に申し込みは必要ありませんが、会場準備の都合上、なるべく事務局(重久)までご一報ください。

世話人(代表) 渡辺恒夫 psychotw[at]c.sci.toho-u.ac.jp
世話人(事務局) 重久俊夫 shigehisa[at]yacht.ocn.ne.jp

■第回(2004年3月27日)

--ラウンドテーブル:人文死生学と輪廻転生ーー

@2004年3月27日(土)午後1時30分ー5時45分

@会場:日本大学文理学部7号館7222教室 新宿より京王線15分下高井戸駅下車徒歩10分

大学の地図については、以下のサイトをご利用ください。

http://www.chs.nihon-u.ac.jp/index-con/info_f4.html

@開場:午後1時15分


<第1部:1時30分ー3時30分>

@@話題提供1:渡辺恒夫(心理学・科学基礎論)

■人文死生学で輪廻転生を考える

1 人文死生学とは何か。

(1) 人文死生学の対象:一人称の死(私の死)=人文死生学、二人称の死(親しい他 者の死)=臨床死生学、三人称の死(見知らぬ他者の死)=生命科学、と取りあえず対応づけた。しかし、他者の死も一人称的にその人の身になって感受できるので、この区分は対象の違いというより方法(=態度)の違いといえる。

(2) 人文死生学の方法:「解釈」という人文学(humanity)一般の方法をとる。人文死生学の方法とは、死にかかわる現象を解釈して、その隠れた意味・構造・論理を明らかにすること。心理学としては、「体験事例」を収集して解釈する。

2 自我体験(「第二の誕生」の体験)の収集・解釈

自己の「死」は直接体験できないので、「誕生」の体験について、それも、精神の 誕生(=第二の誕生)の瞬間の体験である「自我体験」について解釈することにする。「なぜ、今、ここにいるのか?」「なぜ私は私なのか?」などの思春期以前の体 験は、自我体験と呼ばれ調査研究が進められている。筆者は、調査を続けているうち に、自我体験の隠れた意味や論理構造を明らかにすることで、新たなる死生観が切り拓かれると考えるにいたった。たとえば自我体験中、何らかの形で輪廻転生に言及す る例は稀ではなく、偶然とは一度に限らず何度も起こるはずだ、という隠れた直観が そこに共通している。すなわちーー①私は偶然、「今・ここ」にいる。⇒ ②偶然というものは何度も生起する。⇒ ③ 故に、私はかつて別な「今・ここ」に生きていたし、今後も別な「今・ここ」に生き るだろう!

3 独我論的体験の収集・解釈

「もしかしたら自分にしか意識はないのではないか」という独我論的体験が、児童 期に生じることがあり、この体験も輪廻転生観に発展することがある。その隠れた論理は、①私にしか意識はない。⇒ ②私は宇宙の中心にちがいない。⇒ ③宇宙の中心が普通の人間なのはエレガントではない。⇒ ④宇宙の中心は宇宙のあらゆる知的生命体 をへ巡るだろう!

4 心理学的死生学から論理・哲学的死生学へ

解釈され明示化された転生輪廻の論理的正当性は、哲学的論理的に検討されねばな らない。検討課題①「偶然」の意味。② 記憶の連続性のない転生に意味があるか?など。

5 当日の発表形式

淑徳大の総合講座での講義で、マンガなどを取り込んだパソコンプレゼンテーショ ンを用いたので、それを活用したい。


@@話題提供2:重久俊夫(西洋史、哲学)

■死の非在の論証について

A 1 私にとっての「一人称の死の思索」とは、一人称の死について対象化して思策することである。いうまでもなく、一人称の死を体験することではない。従って、考察は、形而上学的なスペキュレーションとして行われる。

2 死の非在を含意する「現象間無関係」性について、次の点を検討する。

・ それはいかなる前提のもとに、どのように論証されるか。

・ 現象相互間が「無関係」であるということは、いかなることを含意しているか。

B 1 いわゆる「絶対者」を前提にする西田哲学との比較。西田幾多郎は、詩人テニスンからの引用ではあるが「死とは笑うべき不可能事」と述べている。

ある意味では死の非在論証を構築しようとした論者である。西田の形而上学的世界観を紹介し、私自身の考えと比較する。

2 西田哲学との対比において、「論理」に対する二通りの捉え方が指摘できる。

体験をありのままに受け入れるために矛盾を容認すべきか。矛盾を排除するため

に体験を再解釈すべきか。


<第2部:3時45分ー5時45分>

@@話題提供3(特別出演) 三浦俊彦(論理学、作家)

■パート1

輪廻転生論の前提となる「論理的基盤」を確認します。「自己選択」「ランダム条件」など、きわめて常識的な論理ですが、それだけに「これをふまえていることが不可欠」といった事柄の確認です。

「意識の超難問」は輪廻転生とは全く関係がないこと、つまり、輪廻転生を持ち出す以前に解決済み、正確には問題の体をなさない擬似問題であることを論じます。自我体験の「論理」そのものは、輪廻転生にかぎらず、いかなる問題にもつながらない擬似問題であるということです。(ただし、自我体験の「存在」そのものが、輪廻転生論への心理的動因になりうることを否定するものではありません)

■パート2

輪廻転生がなぜ必然的事実であるかを、宇宙物理学の一つのパラダイム「人間原理」「観測選択効果」に沿って論じます。

例題:次の二つの問答のうち、正しい方を選べ。

◆問い:実在する唯一の宇宙は観測者が一兆人いる宇宙であるという仮説と、一兆の百乗倍人いる宇宙であるという仮説と、(経験的データがいずれをも等しく確証していれば)どちらが正しそうか?

◆答え:一兆の百乗倍人という仮説である。

◆理由:私たちが住む世界が多くの知的生命に溢れた世界であればあるほど、私たちの起源を成す物質が生命を宿す確率が高くなる。意識の数が宇宙の多くの場所で実現すればするほど、私たちが生まれる確率がもともと高かったことになり、そしてそれは、私たちが現に生まれてきたという事実を説明するからだ。

◆問い:実在するただ二つの宇宙は、観測者が一兆人いる宇宙と、一兆の百乗倍人いる宇宙である。(経験的データがいずれをも等しく確証していれば)私たちはどちらの宇宙に住んでいそうか?

◆答え:一兆の百乗倍人いる宇宙である。

◆理由:一兆人プラス一兆の百乗倍人という実在する全人口のうち、私たちは多数派に属しているはずであるからだ。


@参加資格:考えることの好きな方ならどなたでも歓迎します。

*会場準備の都合上、出席の際はなるべく事務局(重久)か会場事務局(合田)までご一報下さい。


@世話人(代表)渡辺恒夫

@世話人(事務局)重久俊夫 shigehisa[at]yacht.ocn.ne.jp

@世話人(会場事務局)合田秀行

■第回(2003年3月29日)

2003年3月29日に大阪で行われた第一回人文死生学研究会の討論要旨を以下の通りご報告いたします。

1.開会挨拶要旨・渡辺恒夫氏(本会世話人・東邦大学教授・心理学)

・ かつては死はタブーだったが、最近は死生学の研究も盛んになっており、その多くは臨床死生学である。しかし、自分自身の死についての洞察が臨床死生学の基礎には必要と思われる。人文死生学は一人称の自己の死を考える営みである。

・ 自分自身の死は生きている間には体験できない。それを考えるためにはそれなりの工夫が必要である。例えば、自己の出生について考えてみる。一人称の出生には原因がない。完全な偶然によって生まれている。また、眠ることと目覚めることも死のモデルになりうるのではないか。すなわち、昨日の自分と今日の自分とが同じといえるかどうかは疑いうる。毎日別の自分として生まれ変わると考えることもできるのではないか。記憶も絶対確実とはいえない。一瞬前の自分は果たして本当に自分なのか。

2.話題提供者による講演と質疑応答の要旨・谷貞志氏(高知工業高等専門学校教授インド哲学)

・ 7世紀のインドの仏教論師ダルマキールティは、刹那滅(クシャナ・バンガ)の考えを哲学的に論証しようとした。それは以下のような世界観である。

・ すべての存在は瞬間的にのみ存在し、刹那に滅している。「私」というものは連続しているが、同一のものが持続しているわけではない。生死には時間が前提されているが、流れる時間というものはなく、「今」しか存在しない。その意味では、私は一瞬ごとに死んでいるともいえる。

・ 刹那滅は「変化」ではない。同一の人間が、「生まれ、生きて、死ぬ」というのは「変化」である。この場合、同一の基体がさまざまな性質をとりかえてゆくことになる。しかし、基体と性質とは区別できない。クシャナ(刹那)の原義は「瞬間的な存在」であって瞬間と存在とは一体不可分である。「今ある私」以外に、私そのもの(基体)というものがあるわけではない。一人称の死も、まさに私がいなくなることであって、生体から死体に「変化」することではない。

・ 消滅には原因がない。なぜならば、「原因」とは、「結果」という存在に対して成立するカテゴリーだからである。消滅の場合、「結果」というものがないので、消滅には「原因」もありえない。従って、すべての存在は、自発的に消滅しているといわざるをえない。いいかえれば、存在は消滅を自らの本質にしている。それゆえ、存在は一瞬たりとも自己同一性を保つことはない。

・ 消滅は、「非存在」というものが定立されることではなく、端的に、なくなることである。

文字盤の上を秒針が動いてゆくようなものではなく、文字盤そのものが「今」という瞬間だけで消滅する。

・ 私が消滅した後に何が生じるかは分からない。「今」しかないということは、前後関係を考えること自体を否定しており、底なしの虚無があるわけでもない。むしろ、消滅は、何らかの新しい存在が創発する瞬間でもある。

3.ディスカッションからの抄出

・ 生きることと体験することと真理の認識とは一体不可分であるはずだ。刹那滅は論証されても実感として体験することは難しい。実践に反映されてこそ、臨床死生学の基礎として役立てられるのではないか。

・ しかし、直観は不確実であり危険である。論理では到達できないという場合でも、そのことを論理的に示すべきだ。

・ 一人称の死も、哲学的に考える以上、ある程度客観化(三人称化)した上での思弁は不可欠である。

・ 普通は誰でも日常的世界で生きている。哲学的世界観は時には必要なものだが、常に実感している必要はない。哲学的世界観と日常的世界観とで二重生活になるのもやむをえないのではないか。

・ 「自己同一性を持つ個体などはじめからない」という考えも、あくまでも一つの仮説だが、しかし、それで死を突破して生きてゆくことは可能ではないか。

・ 私が一瞬の中で見た夕焼けは、他の誰が見るものでもない。一人一人違うものであり、各自が創作している。それを人々は、ことばでつなげ合って生きているのだ。こうした独我論的な見方につなげることもできるのではないか。

・ 独我論体験を、子どものころに経験している人は少なくない。

(付記)哲学的関心と社会学的(あるいは心理学的)関心。死生観の成り立ちを探求することと既成の死生観を解体すること。今回の参加者の関心は、多様な方向性を秘めていたようです。これらがいかに相互浸透してゆけるかは、今後の課題だと思われます。

(文責・重久俊夫・本会世話人)

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乞掲示

人文死生学研究会の発足のお知らせ

第1回人文死生学研究会

2003年3月29日(土)

@会場 大阪市立中ノ島中央公会堂 (地下一階の第一会議室)

地下鉄御堂筋線 または 京阪電車 淀屋橋駅(JR大阪駅からは、御堂筋線「梅田」で「なんば方面行き」に乗り1駅。新幹線からは、御堂筋線「新大阪」で「なんば方面行き」に乗り4駅目。)淀屋橋駅の1番出口を出て、橋を渡り、右に曲がってすぐ(隣が「大阪市立東洋陶磁美術館」で、美術ファンには必見です。)

@時間

午前11時30分 開場

11時45分 開会挨拶:渡辺恒夫

12時-1時 話題提供:谷貞志(インド哲学、高知工業高等専門学校教授)

1時15分-3時30分 昼食付きディスカッション「一人称的死生学の可能性」

@費用 昼食実費(1000円程度)。

@参加資格:以下の「趣旨」に共鳴していただければ、他には特にありません。

@趣旨(人文死生学とは?)

従来の死についての研究の間に位置づければ、だいたい以下のようになります。

生命科学の対象:三人称の死

臨床死生学の対象:ニ人称の死

人文死生学の対象:一人称の死

死一般というものは存在せず、三人称の死(=見知らぬ他者の死)か、ニ人称の死(=親しい他者の死)か、一人称の死(=自己の死)かによって、死へのアプローチがまったく異なってくることを説いたのは、フランスの哲学者ジャンケレヴィッチでした。最近、日本でも死についての議論や研究がさかんになってきていますが、今のところ臨床死生学が中心で、自己自身の死を正面からみすえた本格的な思索や研究を組織的に展開する機運にはいたっていないようです。人文死生学研究会は、一人称の死に焦点をあて、哲学、倫理学、宗教学、心理学、人類学、精神医学から宇宙論にまで及ぶ、学際的な思索と研究の場を創出していこうという、初めての試みです。

@話題提供者&世話人紹介

#谷貞志(話題提供者) 『無常の哲学:ダルマキールティと刹那滅』(春秋社、1999)の著者。ダルマキールティは7世紀インドの仏教論理学の最高峰で、「空」とは世界が絶えず瞬間的に生滅することである(=刹那滅)として、ひたすら論理のみによって刹那滅を証明しようとしました。日本人の仏教イメージとはかけ離れたこの刹那滅証明は、人文死生学に何をもたらすのでしょうか。

#渡辺恒夫(世話人) 東邦大学で心理学を教える傍ら、科学基礎論も研究。昨年、『<私の死>の謎:世界観の心理学で独我を超える』(ナカニシヤ出版)を出しました。

#重久俊夫(世話人) 研究機関に属さないフリーの哲学者。昨年、『夢幻論:永遠と無常の哲学』(中央公論事業出版)を出しました。

@会場準備の都合上、出席の際はなるべく事務局(重久)までご一報下さい。

*言うまでもないことですが、特定の宗教の公布活動を目的とする事はご遠慮ください。

@世話人(代表)渡辺恒夫 psychotw[atmark]env.sci.toho-u.ac.jp

世話人(事務局)重久俊夫 shigehisa[atmark]yacht.ocn.ne.jp