とみぐすくデジタルアーカイブ

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最終更新日 2024.02.07

おきなわけん とみぐすくし
沖縄県 豊見城市 の歴史・文化資料を公開するデジタルアーカイブポータルサイトです

担当 豊見城市教育委員会文化課

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PICK UP  文化財

 この『口上覚』は、琉球王国時代の豊見城間切の地方役人である文子に任命されてから約40年間の履歴となっています。豊見城按司御守役を仰せ付けられたことや、お供して「江戸上り」に参加したこと、黍酒を玉城間切で稽古させ、御料理座へ納めさせたことなど地方役人の勤務昇進を知る貴重な資料となっています。※文子=書記



 「字与根大城家文書」は、土地の所有や開墾などを認めた19世紀の古文書群のことです。開墾地の権利関係を記した「仕明知行帳」1冊、「仕明請地帳」2冊のほか、墓地の売買契約に関する「墓敷譲手形」「墓敷村証拠」各1冊の計5冊です。

 首里王府から島尻方面に行くには国場川下流を渡るのが便利です。しかし、1522年以前は橋がありませんでした。王府は宿道の整備、屋良座森グスクへの軍事道路として木橋を架けました。木橋は風雨や害虫により修理・維持費がかかり農民は負担に苦しみました。1708年には両岸の田畑を取り除き、石橋に架けかえられました。その後、1836年にも改修が行われています。碑はその経緯を記述したものです。現在、石碑は1980年に台湾大学所蔵の拓本をもとに字真玉橋区民によって真玉橋公民館前に復元されました。

 真玉橋は1522年に首里城ならび軍事的要素である那覇港を防御する目的として、尚真王によって架けられた橋で、首里王府と島尻を結ぶ交通の要所でもありました。戦後埋められていた橋脚部分は、1995年の試掘調査によって埋もれていた真玉橋の石橋遺構が確認され、1996年に行われた調査では当時を忍ばせる石畳やアーチ部分が豊見城市、那覇市の両市で発掘されました。



 龕とはかつて葬儀の際に死者を乗せ墓まで運ぶために使われた「輿」のことで現在でいう霊柩車のようなものです。字饒波では長年使われてきましたが、火葬の普及により1967(昭和42)年頃を最後に使用されなくなりました。2014(平成26)年、長年の役目を終えたため龕屋を取り壊し整備が行われることに伴い、「龕」本体が市教育委員会へ寄贈されました。2015(平成27)年から2019(平成31)年にかけて劣化箇所の修復を行いました。龕は豊見城市の葬制や地域の関わりを知る上で貴重な資料です。

 印部石とは、1737年から1750に行われた元文検地の際に、測量の図根点(基準点)として用いられたものです。別名で「ハル石」とも呼ばれています。印部石は各間切(現在の市町村に相当)に約200~250基が設置されたといわれています。表面にはカタカナや平仮名で「い・ろ・は・・・」の文字と、小地名である原名(はるな)が刻まれています。刻まれた原名には現在の地名と一致しないものもあります。指定を受けた4点はいずれも細粒砂岩(ニービ)を加工したもので作られています。印部石は首里王府によって行われた元文検地の状況を知る上で貴重な歴史資料です。

 瀬長グスクは島内にかつてあり、瀬長按司が居住したグスクだったと伝えられている。これについては、琉球王府が1713年に編集した『琉球国由来記』の中で、「瀬長按司ハ王位ノ御婿ニテ・・・(巻8)」、「往古ハ瀬長按司居住ノ跡アリ・・・(巻12)」)と記述されている。これまでに中国製青磁や陶器・グスク系土器などが出土している。 



 トゥドゥルチガー(轟泉)は、琉球王府が1731年に編纂した『琉球国旧記』の中では「平良井(平良轟)」と記録され、およそ300年前から貴重な水源として大切にされてきた。 



 田頭に設置された2体のシーサーは、彼方からやってくるあらゆる災厄から集落を護るために置かれている。2体とも頭部のみの簡素な造りのシーサーで、伝承によれば200~300年前に造られたものと伝えられ、古くから集落の護り神として大切にされてきた。沖縄戦で戦車に危うく攻撃されそうになった状況から人々を救ったという逸話が残されている。 

 龕が安置されている建物で「龕屋(ガンヤー)」である。高安の龕がいつ頃から使われ始めたのかは記録がなく定かでないが、現在の龕は沖縄戦で破壊されたものを1952年(昭和27)に再建し、1968年(昭和43)まで実際に使用された。 

 ジョン万次郎(中浜万次郎)は1841年、14歳のとき出漁中に遭難。仲間とともに無人島に漂着後、アメリカの捕鯨船に救助され米国マサチューセッツ州フェアへブンに渡った。日本に帰国する際に琉球国摩文仁間切小渡海岸(現在の糸満市大度)に上陸し、豊見城間切翁長村(現在の豊見城市字翁長)の高安家に留め置かれることとなった。 

 通称「伊良波収容所」は、沖縄戦終盤、伊良波集落北側に米軍によって設置され、主に本島南部の激戦地でとらえられた人々が最初に送られた一時的な収容所であった。沖縄戦において生存者や捕虜等を収容する施設である収容所は、沖縄県内に数多く存在した。 

 この場所は、豊見城市の始めて校舎をもつ豊見城尋常小学校」が設置された場所である。校舎を番所内からここ「メーヌヒラ」へ移転したのは明治21~22年頃と記録されている。  



 字与根の塩田は、干潟を利用した入浜式塩田で、かつては泊潟原(那覇市)、泡瀬(沖縄市)などと並ぶ県内でも主要な製塩地となっており、そこで生産される塩は「与根マース」の名で知られた。その起源は、明治30年代中ごろ、おもに那覇・泊からの移住者らにより始められたものである。 

 嘉数バンタは、かつて豊見城グスクや瀬長島とともに「豊見城三景」に並び称された景勝地である。琉球王府時代、バンタに隣接する嘉数集落内には、王家の分家筋にあたる豊見城御殿の別荘が置かれ、別荘をおとずれた要人たちがくつろぐ憩いの場所でもあったと伝えられている。 

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