研究室ブログ

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樋口円香に花束を 2023/10/27

私事で恐縮だが、私の父は恐ろしく趣味のない人間である。しかし、何年かに一度の頻度で、何かに異常なほどにのめり込むことがある。一時期はコーヒーを挽くのにハマり、寝ても覚めても豆を挽いていた。

「アイドルマスターシャイニーカラーズ」(以下シャニマス)の、樋口円香の過去の物語であるS.T.E.P編が実装された時、初めて公開された円香の部屋を見て、私は真っ先に父のことを思い出した。

このシナリオのテキスト内ではほとんど触れられなかったが、円香の部屋には異常な量のドライフラワーが飾られている。

円香は、ゲームに実装された当初のプロフィールでは、趣味の欄に「別にないです」と記述していた。その後に実装されたコミュ(シナリオ)で、ドライフラワーに興味を持った過程が描かれた(このように、キャラクターの時間経過による変化がストーリーの前提とされているにも関わらず、その変化を示すコミュがしばしば限定ガチャなどでしか入手できないことが、シャニマスのゲームとしての構造的欠点であろう)。

私の父然り、もともと趣味を持っていなかった人間が新たに趣味を持つと、えてして過剰に走るものである。

円香の場合は、このドライフラワーの量的な過剰には、更に別の意味があるように思われる。今回はそれを考察してみたい。


「問題」と「解答」の間に常に存在するギャップとどう向き合うかが、「アイドルマスター」シリーズで一貫して描かれているテーマである。

初期のシリーズにおいては、このテーマは「自分のやりたいこと」と「自分が実際にできること」の間のギャップとどう向き合うのか、という形で描かれてきた。

シャニマスにおいては、この問題―解答の形式が、今まで以上に多様な形で描かれている。

それがもっとも深刻な問題として描かれているキャラクターが七草にちかである。私は以前の記事(天然知能で考えるSHHis 2022/5/24)で、にちかにおいては「解こうとしている問題」と「得ようとしている解答」が一致していないことが大きなテーマとなっていることを指摘した。

これは、郡司幸夫が「天然知能」(注1)で指摘した、人工知能が抱える問題と同じ構造である。

このギャップと向き合うためには、にちかは自分で設定した問題―解答の系の中に収まらず、外部からの一撃を受け入れることが必要であった。そして、実際にその後にちかの物語はそのように描かれた。


ところで、「解こうとしている問題」と「得ようとしている解答」のズレと向き合う方法はいくつかある。一つは、にちかのように、外部からの一撃を待つ方法。これは受動的な態度であるとも言える。

それに対して、問題と解答のズレを自ら認識した上で、それにより積極的な立場で向き合っていくという道もありうる。

「シャニマス」に登場する別のアイドル、風野灯織は、「思っていることをすぐに口にしてしまう」アイドルである。そして、しばしば、それを後から後悔し反省する。

灯織にとって、何かを口にしたその時点では、それは問題に対する自明な唯一の解答である。しかし、その後で、彼女は「本当にこれが正しい解答なのだろうか?」と悩むのだ。

すなわち、一度は一致したかに見えた問題―解答が、その後大きく揺らぎ、その間に生じた裂け目が彼女を飲み込もうとする。それに対して、やはり灯織はその都度解答を考えていく。

すなわち、間断なく問題と解答を一致させようとしていく――それでも不一致からは逃れられない――のが灯織の態度である。


さて、では樋口円香はどうか。

円香の特徴は、「自分が解くべき問題」を予め設定していることである。

円香の幼馴染である浅倉透は、無意識に周囲の人間を引き付けるカリスマ性を持ったアイドルとして描かれている。周囲の誰からも「特別」な存在として見られている透に対して、円香は「透にできることで、私にできないことはない」と言い、自分だけは透を特別視しないと宣言している。これが、彼女が自分に課している問題である。

そして、少なくともシナリオ初期の彼女は、この問題からなる系の外部に出ようとはしない。

「透がアイドルを始めたから」という理由でアイドルを始めた円香だが、透と離れて彼女自身がアイドルとして評価される立場に立たされそうになった時に、「自分のレベルなんか試されたくない」「必死になんて生きたくない」と、強い拒絶を見せる。

自分が解こうとはしていなかった問題に向き合った時、彼女はそこで立ち尽くしそうになった。

ここではにちかでも見られた「問題と解答の不一致」が、姿を変えて描かれている。が、大きく違うのは、円香は「自分の問題の系の外部にも世界がある」ことを最初から知っていることである。

最初から知っているからこそ、それと向き合わされそうになった時に、「それは私が解くべき問題ではない」と拒絶するのである。

そして、あくまでも、自分の系の中の問題――問題と解答が一致する問題のみを解こうとする。

しかし、実際には、彼女は自分には解けない問題があることを最初から知っていたのだ。


円香は、とある店で見たドライフラワーに強く興味を引かれる。


「だからこのお店のドライフラワーを見て、驚いたんです。花の色がちゃんと残っていて」


それまで円香は、花の美しさは枯れれば終わりであり、だからこそ美しいと思っていたという。

それ故に、ドライフラワーになりながらも美しさを残している花を見て強く心を動かされた。

ここで『花』『ドライフラワー』が、『アイドル』のメタファーであることは明白だろう。

なのでここで彼女は、アイドルとしての自分の未来に関わる問題と出会ったことになる。

生花の美しさを残すために枯れるか、美しさを残したドライフラワーとなるか。

すでにアイドルとしてのキャリアをそれなりに積んでいる彼女には、もはや「それは自分の解くべき問題ではない」と拒絶することはできなかった。

しかし彼女はまだ、自分の中で出した『アイドル』に対する解答を、別の解答に転換させることはできなかった。

故に選んだのが、質の問題を量の問題に読み替えること、すなわち部屋中をドライフラワーで一杯にすることではなかったか。


ここで私は、フランスのアウトサイダーアーティストであるジョゼフ・フェルディナン・シュヴァルを想起する。

郵便配達員だった彼は、33年間にも渡って石を拾い集め、たった一人で「シュヴァルの理想宮」と呼ばれる城を作った(注2)。

33年間拾い集められた石の存在感は、圧倒的な量の過剰である。

そしてそれを積み上げて作られたシュヴァルの理想宮は、他に類を見ない異様な建築物となった。量の過剰が質の転換をもたらしたのである。

果たして円香のドライフラワーは、円香にとってのシュヴァルの理想宮になるだろうか。


注1・郡司ペギオ幸夫「天然知能」講談社(2019)

注2・岡谷公二「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」河出文庫(2001)

文中のセリフは、「アイドルマスターシャイニーカラーズ」からの引用である



大津市のサバンナモニター脱走事件によせて 2023/8/28

滋賀県大津市で、大型トカゲの「サバンナモニター」が脱走したというニュースが流れた。

ニュース記事によると、この個体はケージに入れず、室内で放し飼いにしていたらしい。

私もサバンナモニターを飼育しているが、サバンナモニターは要求する温度と紫外線量が大きい種である。

我が家では三種類の保温器具(バスキングライト、パネルヒーター、暖突)で保温し、紫外線ライトも我が家では最も強いものを使用して、もちろんケージで飼育している。

このニュースの飼い主は、部屋での放し飼いで、どうやってサバンナモニターが必要とする温度と紫外線量を確保していたのだろうか。

そもそも、爬虫類で放し飼いに向いているのは、一部のリクガメとカメレオンくらいであろう。


近年、一部の爬虫類飼育者は、爬虫類を哺乳類と同じように扱おうとする傾向があるという。

特にサバンナモニターは、ほどよく大型でかつ大人しいことからか、そのような扱いをされる爬虫類の筆頭となっているようだ。

私は見たことが無いが、イベンドなどでサバンナモニターに服を着せて来る飼い主もいるという。まさに犬・猫と同じ扱いだ。


ヒューマンエージェントインタラクション(HAI)では「他者モデル」という概念がある。私たちが、他者(人間や動物)の内面を想像する時に使っているモデルだ。

例えば、道の往来できょろきょろとしている人を見れば、「あの人は何か困っているらしい」と想像する。

餌に飛びつく犬を見れば、「この犬はお腹が空いていたんだなあ」と思う。

このように、他者の内面を推定するのに使っている私たちの心の働きが他者モデルだ。


どうも、動物に対しては、この他者モデルを一種類しか持っていない人がいるような気がしてならない。

犬も猫も爬虫類も、全く同じように考え、感じると考えて、全く同じように扱ってしまうのだ。

私も爬虫類を多数飼育しているので、彼らの表情から何らかの内面を読み取ってしまいそうになることは多々ある。とくにモニターやフトアゴヒゲトカゲ、テグーは表情が豊かだ。

きっと彼らには彼らなりの内面世界があるに違いない。

しかし、それは私たちが容易に想像できるものではないはずだ。

いや、正確に想像することは不可能だろう。

全く違う進化の道筋を辿り、異なった身体構造を持ち、異なる環境の中で生きてきた動物の内面は、人間には決して想像できない。

もちろん、その内面は犬や猫のそれとも全く異なる筈だ。

「犬や猫ならこうすれば喜ぶから」という予測を、爬虫類に適応してしまうのは危険である。

例えば、人間に慣れた犬や猫は頭を撫でられると嬉しそうにするが、多くの爬虫類は頭に触られるのを嫌う。

イベントなどでは、不用意に爬虫類の頭を撫でようとしてトラブルになる人が後を絶たないという。

「動物は頭を撫でられると喜ぶ」という、哺乳類にしか適応できない他者モデルを、爬虫類にも無意識に適応してしまうから起きることだろう。


爬虫類を放し飼いにしている人は、「狭いケージに入れっぱなしだとかわいそうだから」という理由でそうしているのかもしれない。

しかし、これも哺乳類の場合を爬虫類に適応してしまっている。

爬虫類はむしろ、暗くて狭い場所を好む。特にヘビやヤモリは、広すぎる場所に入れられるとむしろストレスで状態を崩すとされる。

さらに前述のように、爬虫類を飼育するには保温器具や紫外線ライトを用いて、温度・湿度・紫外線量をうまくセッティングしないといけない。

こう考えれば、ケージの中で飼うのが最適であることがわかるだろう。


「それでも、狭くてかわいそう」と感じてしまうのは、彼らと自分たちが全く異なった生態を持ち、全く異なった感じ方をする動物であるということを忘れているからである。

それは愛護心があるどころか、その動物本来の特性を理解しようとしない傲慢な態度である。

爬虫類は人間とも犬とも猫とも違う動物である。爬虫類を飼うということは、我々哺乳類とは全く違う存在である彼らのことを尊重するということである。

それは、爬虫類を犬や猫と同じように扱うということでは断じてない。

動物愛護問題における他者モデルと「宣王のジレンマ」 2023/8/4

HAI分野の一部には、ロボット・エージェントが他者とインタラクションする他者を「他者モデル」によって実現しようとする一派がいる。

他者モデルとは、「単純化・理想化された他者」であり、我々が他者と関わり合うことができるのは、この「他者モデル」を持っているからだ、と、この一派は説明しようとする。

私はこの研究姿勢には一貫して批判的立場である。このことは、青土社から上梓した「ロボット工学者が考える『嫌なロボット』の作り方」の中でも述べた。

なぜ他者モデルが不要なのか、それを知るには孟子の梁惠王章句上にある「以羊易牛」の逸話を見ればいい。

これは以下のような話である。


『斉の宣王が、祭りの生贄にするために引かれていく牛を見かけた。牛が恐れおののいているのを見て哀れに思った宣王は、生贄は羊に変えて、牛は助けてやれと命じた。それを聞いた人民は、『王は牛が惜しいから、安い羊に変えさせたのだ』と言った』


人民は、宣王は「経済性」という変数によって行動を決定したと解釈したのであるが、実際には宣王は「仁」という変数によって自分の行動を決めたのである。

つまり、人民は彼らの「他者モデル」によって宣王の行動を解釈しようとし、そして上手く解釈できたと思い込んでいるのであるが、実際の宣王の心中を全く理解できていない。それは、人民が「仁」という変数を知らないからである。

どんな他者モデルを考えようと、あらかじめその中に用意されていない変数は入力することができない。

最近書いた論文で、私はこれを「宣王のジレンマ」と呼んだ。



最近、ディスカウントストアの店頭に水槽を設置して、その中で魚を展示することについて、魚への虐待だとしてやめさせようという運動をしている人々がいる。

その主張自体は理解できる。

だが、その一人がSNSで「魚を靴下などと並べて見世物にしていたら、魚も嫌な気持ちになるはずだ」という旨のことを主張していたのを見て、これは「他者モデルの誤用」の好例であると感じた。

この発言者の主張内容は以下のようなものだ。


『人間は、靴下などと並べて陳列されたら嫌な気持ちになる。よって、魚も嫌な気持ちになるに違いない』


すなわち、「魚」という、本来人間と全く違うエージェントを理解するために、人間と全く同じ内部モデルを適応してしまっているのである。

言うまでもないが、魚と人間は全く異なった動物である。魚の気持ちを、人間が正確に理解することなど不可能だ。

よって、本来必要なことは「完全に理解しよう」という姿勢は捨て(そんなことは絶対にできないのだから)、理解不能な存在として尊重するという態度であろう。

本来人間にしか使えないモデルを、他の動物に適応しようとすることは、その動物のことを理解しようという態度からは最も遠いものであろう。

しかし、魚に限らず、あらゆる動物を相手に、この過ちを犯してしまっている人は多いように思う(正直言って、他の人間の気持ちさえもほとんど想像ができない私は、安直に他の動物の気持ちを決めつけてしまえる人のことは全く理解できない)。


爬虫類は即売会イベントでは、プリンカップなどと呼ばれるような小型の透明の容器に入れられて展示・販売されている。

現在、この展示・販売方法をやめさせるための法規制を求めている動物愛護団体がいる。

現在、環境省では爬虫類の飼育管理基準の制定に向けた検討が行われているが、一部の団体はこの中で小さな容器での展示・販売の禁止を盛り込もうと要望している。

その理由は、「狭い所に入れられてかわいそうだから」というものである。

これもまた、他者モデルの誤用の一例であろう。

この思考は、以下のように形成されていると予想できる。


『人間は狭い所に入れられたら苦痛を感じる。よって、爬虫類も狭い所に入れられたら苦痛を感じる』


しかしこれもまた、人間と爬虫類を安易に混同したものだと言うべきだろう。

爬虫類の多くは、狭い所に入ると安心する。野生下でも、ほとんどの時間を狭い巣穴や岩の隙間などに入って過ごしているのだ。

自然界では被捕食者である彼らにとって、身を隠してじっとできる状態のほうが安心できるのは当たり前だろう。

爬虫類を飼い始める時には、身体にぴったり合うサイズのシェルターを入れると落ち着く、またヘビやヤモリなどは大きすぎるケージで飼うとむしろストレスで状態を崩す、というのは、爬虫類飼育者にとっては常識である。

さらに、小さな容器で展示することで、動きすぎて体力を無駄に消耗する危険が無くなるという利点もある。

このように、爬虫類への配慮を込めて定められている展示・販売方法に対して、「一見して狭そうでかわいそうだから」という理由でやめさせようとするのは、自分の感覚を一方的に他者に押し付けようという、傲慢な暴論である。

それは、『仁』を知らずに宣王の心を決めつけようとした人民と同じ態度なのだ。


人間と、他の動物とは違う存在である。それは優劣の問題ではなく、そもそも比較しようが無いほどに違うということである。

なので、動物福祉は客観的なデータに基づいて行われないといけない。

「かわいそう」などといった主観的な印象に基づいてそれを行おうとするのは、その動物を尊重する態度からは最も遠いものである。

猫と爬虫類:human-reptiles interactionの可能性 2023/7/18

私は50匹ほどの動物を飼っている。猫とウサギとモルモット以外は、爬虫類・両生類・節足動物だ。

爬虫類好きの人間は、かなりの確率で猫好きでもあると言われる。私は、飼育動物としての猫と爬虫類には重大な共通点があると考えている。

それは、「モデル化できない」ということだ。

モデル化できないとは、簡単に言い換えれば「予想できない」ということである。

「こちらがこのように行動すれば、こういう反応を返す」という法則付けがほとんど出来ないといってもいい。

犬やインコは、このようなモデル化がかなりやりやすい飼育動物だろう。

対して、猫と爬虫類は、モデル化が非常に困難である。

こちらの意志・行動と全く関係なく行動する、と言ってもいい。


犬やインコの時間と、飼い主である人間の時間は密接につながっている。

飼い主のアクションに対して、彼らは即座に反応を返し、それを受け手飼い主は次のアクションをし……といった、通時的・同期的なインタラクションがそこでは想定できる。

対して、猫と爬虫類と飼い主とのインタラクションは非同期的なものになる。

猫に声をかけても、すぐに反応があるとは限らない。しかし、忘れたころになって駆け寄ってきて膝の上に乗ってきたりする。

トカゲやヘビなどの爬虫類の場合はこの非同期性が更に顕著で、飼い主の存在は明らかに認識しているにも関わらず、彼らは飼い主のアクションとはまったく関係なく動く。

猫と爬虫類とインタラクションをすると、時間的な連続が断ち切られ、全く別の時間に迷い込んでしまうような気がする。

モデル化できず、予想ができない存在であるという意味で、猫と爬虫類は「他者」である。


それでも猫は完全に家畜化された動物であり、ある程度は彼らのほうから人間の間合いに合わせてきたという歴史があるのだろう。

爬虫類は、それよりもさらに強い意味で「他者」である。

他の動物と触れあっている時の方法論は、そこでは全く通用しない。

かといって、彼らにとって最適なインタラクションが何かということが、事前にわかるわけもない。

予断を持たずに、その場・その時で即応的にインタラクションをするしか無いのである。


個人的な印象論だが、爬虫類好きな人には、他者に寛容な人が多いような気がする。

他人とすぐに打ち解ける、という意味ではない。

自分とは考え方の異なる人間にあった場合に、「そういうもの」として受け入れ、それ以上余計な干渉をしようとしない、という意味である。

爬虫類嫌いの人の中には、よく、「爬虫類のような野生動物を愛玩目的で飼うべきではない」などと主張する人がいるが、これはおかしい。

触れあいを楽しむのがメインになる愛玩動物とは異なり、爬虫類は「飼育すること」自体が飼育の主目的になる。

その種にとって最適な環境を考えて再現し、少しでも健康で長生きができるように、持てる知識と技術を全て費やして、飼い主側が完全に動物に奉仕するのが爬虫類飼育である。

それは、全く内部状態のわからない「他者」と接し続けるということである。

上記のような主張をする人は、「最初から最適な飼育方法がわからない動物を飼うべきではない」と言いたいのだろうが、爬虫類飼育とは、わからない「最適な飼育方法」を探し続けることである。その探求は、決して終わることは無い。

爬虫類は、そもそも愛玩動物ではないのである。


HAI分野では、犬と人とのインタラクションを研究したhuman-dog interactionや、馬と人とのインタラクションを対称とするhuman-horse interactionと呼びうる研究は既に存在する。

しかし、爬虫類と人とのインタラクションを扱った、human-reptiles interactionに属する研究はまだ無いようである。

私はこの領域を研究したいと考えている。

他の動物とのインタラクションとは、全く異なった現象が、そこには見出せるはずである。



天然知能で考えるSHHis 2022/5/24


 拙著「ロボット工学者が考える嫌なロボットの作り方」では、郡司[1]の「人工知能・自然知能・天然知能」モデルを援用している。だが、この前提となるモデルをわかりやすく伝えることは、なかなか難しい。そこで、このモデルを説明するのに、ゲームの「アイドルマスター シャイニーカラーズ」に登場するユニット・SHHisを例にするのがいいのではないかと思い立った。よって、本記事は拙著の補稿である。

 まず「人工知能・自然知能・天然知能」について簡単に説明しておくと、人工知能は世界を「私」を中心としたデータ構造とみなし、「私」の目的に従って、「私」の中で定義されたある効率を上げるためにのみ世界からデータを取捨選択する、問題と解答が一対一に対応している文脈にのみ対応できるシステムである。「自然知能」は、世界の見取り図、あるべき「私」というものを最初から用意していて、それを参照しながら世界を解釈するシステムである。天然知能と自然知能は、いずれも閉じた系の中における問題を解くことしかできない。HAI研究のほとんどがこのいずれかに陥ってしまっていることは、拙著の中でも繰り返し指摘した。

 対する天然知能は、「私」の依って立つ場が、常に揺らぐことを予期しながら世界を解釈している。人工知能や自然知能は、世界を「モデル化」して捉えようとするが、天然知能はモデル化を拒む――というより、モデルを作った途端に、それに当てはまらないものが常に「外部」から押し寄せてくるという予感を常に持っているのである。

 さて、ここまで説明すれば、シャニマスプレイヤーの方には、緋田美琴は「人工知能的アイドル」と言えることは納得していただけるだろうと思う。美琴は歌唱力・ダンスにおいて高い水準の能力を持っていることと、常にその能力を伸ばすための努力を行っていることは、作中で度々描写されている。しかし、彼女は(作中で)アイドルとして高く評価されているわけではない。その理由は、彼女が解こうとしている問題と解答が一致していないからである。すなわち、彼女は歌唱力・ダンス能力といった変数の値を上げることで、与えられた問題=トップアイドルになるという問題を解こうという、機械学習的な自己研鑽をしているのであるが、そのモデルが実際に求められる「アイドル」と対応していないのだ。その意味で、緋田美琴は解くべき問題を見つけられない人工知能なのである。私は、これまでのシャニマスのアイドルの中でも、園田智代子や大崎甘奈はこのような人工知能的傾向を持っていたと思うが、それが最も先鋭的な形で表現されたのが緋田美琴ではないかと思う。

 さて、七草にちかである。彼女の直面している問題は、美琴の場合よりも郡司の図式に当てはめやすい。言うまでもなく、初期のにちかの問題は、「アイドルになる」ことと「八雲なみ」になることとを混同していることにある。最初から「八雲なみ」という地図をもっていたにちかは、「自然知能的アイドル」であったといえるだろう(これは私の友人の指摘による)。だが、シャニP(プロデューサー)はおそらく最初から理解していただろうが、「アイドルになる」ことと「八雲なみ」になることは違う問題である。そのため、彼女の問題と解答は決して対応しないという宿命を持っている。これが自前の地図を離れて世界を理解することのできない自然知能の限界なのだ。

 では、彼女たちはどうすれば問題を解決できるだろうか。郡司のモデルでは、予測できない「外部」を受け入れる天然知能こそが、現実の問題に立ち向かえる唯一のシステムであると説かれる。天然知能になるとは、「私」が依って立つ場が揺らぐことを常に予期すること、その可能性を常に受け入れる姿勢を持つことである。にちかにとってのそれは、おそらく、「自己の才能の限界」では無かったか。これは一見するとネガティブな要素である。しかし、にちかがそれと向き合うことによって、自分が設定している問題と解答のズレに気が付くことができたのだとすれば、「自己の才能の限界」こそがにちかにとっての予期していなかった「外部」であり、閉じた系から外に開くための鍵だったのではないだろうか。その後、にちかは紆余曲折を経つつも、自然知能としての自分からは脱却しようとしているかのように思える。

 おそらく、にちかよりも解くのが難しい問題に直面しているのは美琴である。人工知能は、自己の中にもともとあるモデルで解釈できないもののことは、認識することすらできない。現時点での美琴は、おそらく自分が問題に直面していることすらも認識できていない。美琴を人工知能から天然知能に変えるには、にちかのそれよりもより大きな「外部」からの一撃が必要だろう。

 

[1]郡司ペギオ幸夫「天然知能」講談社、2019年


おばけ工学(HGI)宣言  2022/5/16


HCI(ヒューマンコンピュータインタラクション)、HRI(ヒューマンロボットインタラクション)と比較して、HAI(ヒューマンエージェントインタラクション)では、インタラクションの相手が実体を持っていなくてもいいという特色がある。

それでは、相手が実体どころか実在性すらも想定できないような対象とのインタラクションを考えることはできないか?

――そのような発想で始まったのが「おばけ工学」であり、これまでの流れに沿って名前を付けるならHGI(ヒューマンゴーストインタラクション)と呼ぶべきだろう。

この分野の提唱者は信州大学の小林一樹先生であり、共鳴した豊橋技術科学大学の大島直樹先生、大阪大学の高橋英之先生、そして私の4人で、2020年から毎年国際ワークショップ[1]を開催している。

この分野での研究成果の一部は拙著「ロボット工学者が考える嫌なロボットの作り方」(青土社)で紹介したが、そこには収まりきらなかった議論や、脱稿後に新たに着想したアイデアなどについて、一度ここでまとめておきたい。

不勉強ながら、私は前著の脱稿後にようやくアダム・カバットの「江戸滑稽化物尽くし」[2]と、高岡弘幸の「幽霊 近世都市が生み出した化物」[3]を読んだ。そして、拙著で「異類」としてひとくくりにしたエージェントの中でも、「妖怪」と「幽霊」の概念の違いをようやくにして理解することができた。

高岡は前掲書で、現在の我々がイメージするような存在としての「幽霊」の概念は近世(江戸時代)になってようやく確立したこと、そしてそれが「都市」と密接に結びついた異類であったことを指摘している。高岡によると、全く同じような怪異が起きた場合でも、江戸などの都市においては「幽霊」の仕業とされ、一方の農村部では狐狸や妖怪の仕業とされたことを、資料的に考証している。それも、この棲み分けは相当に厳密なものであったらしい。

では、幽霊と狐狸・妖怪とは具体的にはどのような違いがあるのか。私が前掲書でも論じたように、狐狸・妖怪は、我々の世界の論理から完全に隔絶された存在であり、人を化かすことにも特に強い理由を持たない。いわば、我々の世界の因果関係の外部に存在するのが彼らである。一方、幽霊は都市から生まれただけに、都市の論理=恋愛関係や経済に直接接続する存在だった。

実際、有名な幽霊譚を思い浮かべてみても、そのほとんどは恋愛感情の縺れか金銭関係の恨みが関係している(四谷怪談などは前者で、皿屋敷は後者だろう)。彼ら幽霊は、あくまでも都市世界の論理の中で、その恨みを果たそうとして行動する。その背景には、「都市」という空間の発達による人間関係の複雑化、そして貨幣経済の発展があるのだろう。

このように、同じ異類でも、都市の「幽霊」と農村部の「狐狸・妖怪」はまるで異なる論理の元で動くエージェントだった。ここで工学的視点を持ち込んで、HGI的に考えてみよう。「幽霊」においては、幽霊が人間に恨みを抱いて復讐をしようとする動機は、多くの場合はっきりしている。すなわち、幽霊では問題と解答が一対一に対応しているのだ。郡司の「天然知能」を援用すれば、幽霊の論理は人工知能的である。そのため、生者が幽霊に対して取る対応も明確に決めることができる。すなわち、お祓いや祈祷をしたり、幽霊の恨みを晴らしてあげればよかったのだ。これは当時の人々のエンジニアリング、問題解決のための工学的メソッドであった。

一方、農村部に出現する狐狸・妖怪は、都市の人間関係――恋愛感情や経済感覚などとは全く無縁の存在である。それらは都市の幽霊に見られた、問題と解答の一対一の対応という図式を否定し、そこからはみ出た「何か」として我々の前に向かってくるエージェントだ。なので、狐狸・妖怪には人工知能的な対処法が適応できない。

カバットによると、江戸時代には「野暮と妖怪は箱根の先にしかいない」という言い方があったらしい[2]。当時の人々も、都市=幽霊、農村部=妖怪という棲み分けを意識していたのだろう。そして、都市で語られる妖怪は、もはや恐ろしいものではなく、滑稽な存在として描かれた。これは先の言葉で、「妖怪」と「野暮」が対応するものとされていることからもわかる。カバットの紹介するところでは、江戸で読まれた妖怪譚は、妖怪が箱根の先から江戸にまでやってくるが、江戸の粋な文化に対応できずにすごすごと退散するというストーリーのものが多かったらしい。

しかしこれは逆説的に、江戸の人々が妖怪を解釈するための論理を持っていなかったことを示してはいないだろうか。幽霊のように人工知能的な対処ができない妖怪に対しては、彼らはせいぜい「茶化す」ことで、妖怪は都市の論理=人工知能的な論理の中に組み込まれないということを示すことしかできなかったように思われる。

というわけで、HGIの新たな課題が見えてきた。一つは幽霊=人工知能に対応したシステムを現在に再現すること、もう一つは妖怪=天然知能に対応したシステムを記述することである。

 ところで、このような課題に工学的に取り組に当たって、現在の私にはいくつかの疑問がある。一つは、日本では、江戸でも地方都市でも、都市とその周辺部との間には、ヨーロッパや中国における城壁のような明確な境界は築かれなかった。にもかかわらず、なぜ日本において、都市=幽霊と農村部=妖怪という明確な峻別が生まれたのだろうか。

もう一つは、「野暮と妖怪は箱根の先にしかいない」という言葉に出てくる「箱根」である。ここでは明らかに、箱根は「境界」として認識されている。だが一方で、箱根と言えば多くの妖怪が住み着くとされる「場所」でもあった。果たして箱根とは境界の「線」なのか、それとも面積を持った「場」なのか。インタラクション研究とは、ある面では他者と自己との「境界」を設定するという工学であり、またある面では他者とのインタラクションの「場」を考える工学でもある。なのでHGI研究を進めるに当たって、この疑問は避けては通れないような気がするのである。

 

 

[1]2020年および2021年に、国際会議IEEE International Conference on Robot & Human Interactive Communicationの併催ワークショップとして開催

[2] アダム・カバット「江戸滑稽化物尽くし」 講談社学術文庫、2011

[3] 高岡弘幸「幽霊 近世都市が生み出した化物」吉川弘文館、2016