帯刀先生と本町3丁目タウンモビリティ 水戸下市かえるタウン交流の会 新井均
1997年、前年に出来たばかりの水戸本町3丁目(商振)に茨城新聞・小田部さんからタウンモビリティの話が舞い込み、茨城大の帯刀先生と筑波大の蓮見先生を紹介いただきました。そして県工業技術センターで第1号がつくられた電動スクーター・ベルメを主役とした“すべてのひとにやさしい街づくり”本町3丁目ふれあいロード・タウンモビリティが、茨城NPO研究会の横田さんを中心に様々なグループの皆さんの協力で、商店街を舞台に始まったのが97年です。以来帯刀先生には5年間連続でお世話になりましたが、お礼が出来たのは一度きりでした。ただ何度か商店街の役員たちと、留学生を雇ってくれている大工町のスナックへ連れていかれたこともありました。以下パソコンからの古いデータを…
・旧市内の高齢化に対応した水戸市本町3丁目商店街・ひとにやさしい商店街、まちづくり
・平成9年9月から茨城NPOセンターや茨城大学、筑波大学、地元の有志で「タウンモビリティによるまちづくり講座開催」講師:筑波大学芸術学群・蓮見孝助教授
・平成10年11月、「時代まつり」歩行者天国でタウンモビリティの試行、電動カートの試乗会開催、ダイヤル・ア・ライドによる高齢者の送迎も実施
・平成11年7月~「水戸下市タウンモビリティ実行委員会(代表・帯刀治茨大教授)」結成 月1回の試乗会、周辺道路のバリアーチェック(NPOライフサポート水戸など専門家や身障者と共に)、水戸市・県の道路管理課に陳情を行い、本町周辺の歩車道間の段差の解消、ハミングロードの改修時のチェックも行う。
・平成13年3月にタウンモビリティ・ステーション(本町3丁目「ふれあいひろば」内)を常設し、「かえるタウンモビリティのまちづくり宣言」~水戸下市タウンモビリティの会に改称 電動カート(ハンドル式電動車椅子・セニアカ-)のレンタルや電動カートのバッテリー相談開始。
「治さん、夜これ火曜オサムちゃん」
元茨城放送「若者通り22時!夜はこれから」ディレクター 大内庸次
中・高生を意識した深夜放送的な「若者通り22時!夜はこれから」という番組を担当していました。歌手、タレント、落語家、アナウンサーなどが日替わりで、いわゆるパーソナリティを務めていました。1983年の秋だったと思います。報道セクションの先輩が「俺の友達の大学の先生にディスクジョッキーを任せてみる気はないか?」と訊ねてきました。他局でも大学教授がパーソナリティの人気番組があり興味を持ち会ってみることにしました。その報道の先輩はどちらかといえば細かいことには無頓着な、言葉を変えればデリカシーのないタイプで、その友達ということは「類は友を呼ぶ」と云う諺があるように、どちらかと言えば豪快な人物であろうと想像しながら会社の会議室のドアを開けると、そこには小柄で細身でナーバスな感じの人物が座っていました。それが帯刀先生でした。終始にこやかに話をしてくれましたが、時に眼鏡の奥に光る眼差しにこちらの心を見透かされているようでたじろいだ記憶があります。その中で印象的だったのは、番組の内容に話が及んだ時に「ビートルズを全部かけたいんだよ」と嬉しそうにされたことです。余談ですが、私が放送という仕事に就いた大きな要因はビートルズでした。そして数か月後の1984年4月、番組はスタートしました。基本、リスナーからの手紙・はがき(メールというツールは無かった)を読んでリクエスト曲をかけることと「ビートルズ・フォーエバー」というビートルズの曲を解説を加えて数曲紹介する90分です。前半は比較的淡々と進むのですが後半になると一変します。中には深刻な内容の手紙があり、どうしてもそういった類のものは終わり近くに紹介することになります。特に帯刀先生には多くの悩みが寄せられたと思います。リスナーはパーソナリティの言葉をジャッジします。先生がリスナーに向き合っていた故です。そんな中、突然の降板の申し出がありました。通常、番組は6か月か1年で変わるのですが帯刀先生の場合は10ヶ月余りで迎えた最終回。先生は多くの理由を語りませんでしたが、制作者としては今までにない手応えみたいなものを感じていて非常に残念な気持ちでした。それは私以上にリスナーの多くが感じたことだと思います。
「ビートルズを全部かけたいんだよ」と言っていた「ビートルズ・フォーエバー」は全213曲のうち141曲で終了してしまいました。
そんなに長くはない時間でしたが、一緒に番組を送り出せたことを幸運に思います。
ありがとうございました。
この文章を書いていて思い出したことがありました。その後先生に会う機会があり、たまたま私がその頃知ったこと「アカデミックの対義語ってジャーナリスティックだったんですね!」と言うと「ニヤッ」とされた笑顔がチャーミングだったことを思い出しました。
元茨城放送「若者通り22時!夜はこれから」ディレクター 大内庸次
帯刀先生から学んだ教え
認定NPO法人 茨城NPOセンター・コモンズ常務理事・事務局長 大野 覚
私が帯刀先生にお世話になったのは、私がコモンズに入職した2009年頃からですので、長いような短いような、そんな感覚です。いばらき未来基金が2012年に設立され、先生には初代運営委員長として多大なるご支援、ご協力をいただきました。そのエピソードなどを、いくつかご紹介したいと思います。
地域の重要な利害関係者を意識すること
どういう経緯だったかあまり詳しく覚えていないのですが(いばらき未来基金運営委員や寄付募集先の選定、または助成テーマの選定だったかもしれません)、「なぜ農業がこの中に入っていないのか」と大変怒られた記憶があります。(皆さんが持つ印象同様、私も大変怖い先生というイメージがあります)農業大県・茨城において、市民活動分野で新たな取り組みを行う際、地域の重要な利害関係者(ステークホルダー)である農業関係者が関わることのできる余白をしっかり確保しなさい、というお考えだったと理解しています。先生のテーマである地域福祉を考えたとき、またそのコーディネーションに取り組む際、まずはその地域でどのような存在がいて、それぞれどのような影響力を持ち、どのような関係性があるのか、しっかり認識し、それに基づいて行動しなければ良い仕事ができない、ということを教えていただいたものと理解しています。
安易に他者の真似をするな
これもまた怒られたエピソードです。(怒られた話ばかりで恐縮ですが、やはり怒られるとしっかり記憶に定着します)いばらき未来基金設立の際の記念式典で、当時、また現在も全国のモデルとして活躍している公益財団法人京都地域創造基金の深尾理事長(当時)をお招きした後の委員会でのことです。「茨城と地域性が全く異なるかっこいい話を聞いてもしょうがないだろ」と大変怒られていたのを強く覚えています。これも上記のエピソードと共通するところがあります。各地域独特の地域性をしっかり理解しないまま、他地域の先進事例をそのまま取り入れようと試みても決して上手くはいかない、ということをお伝えいただいたのだと理解しています。四方を山に囲まれ、狭い地域に人口が集積し、大学などもあってリベラルな雰囲気がある、歴史ある京都の土地柄と、平地が多く、農業が盛んで、人口が一か所にほぼ固まっていない茨城では、寄付社会づくりという同じ目標を掲げつつも、その達成に向けたアプローチは違ってしかるべきだ、ということなのだと思います。その土地のステークホルダーを理解し、その土地の住民の目線で考え、理解できる言葉でコミュニケーションを試みなければならない。そうでなければ先生が何度も口にした「衆思を集め群力を宣べ、以て国家無窮の恩に報いなば」という弘道館記にある教えを実践することができない、ということなのでしょう。
この先生のメッセージは、私自身への戒めとも解釈しています。アメリカの大学院でNPOの経営を学んだ経験から、他国の先進事例をできるだけ学び、生まれ故郷の茨城の市民活動の活性化につなげたい、と勢い勇んでコモンズに入職した私にとって、盲目的に他地域の事例導入を試みるのは危険だぞと、先生にコツンと頭を叩かれたようにも感じます。
広報をとにかく意識しろ
私がいばらき未来基金という、茨城の寄付文化醸成をミッションとした事業に関わっているからかもしれませんが、先生からはとにかく広報を大事にしろ、マス・メディアを意識しろと言われ続けた印象があります。どんなに頑張っても市民活動団体による広報には限界があり、新聞社やテレビなどマス・メディアとしっかりつながり、情報提供し、メディアを通じて多くの県民に情報を届けて、活動に参加してもらうように働きかけることの重要性を説いてくださったのだと思います。その課題や取り組みを知らなければ、多くの人の参画にもつながらない。それも上記の講道館の教えにもつながります。
また先生には、低姿勢でいること、率先して自ら動くことの大事さも背中で伝えてくれたと思います。「俺は出雲大社前の料亭もがみ(?)の若旦那なんだぞ」という先生のセリフは、何十回と聞きましたが、コミュニティレストランとらいで率先して皿洗い、後片付けなど身軽に動かれていたお姿は、とても印象に残っています。その姿だけ見れば、茨城大学名誉教授だとは誰も想像がつかないと思います。市民活動支援組織で働くものとしては、支援する立場という、上から目線になりがちだったり、また他者から「NPOの取りまとめ」と思われがちな立ち位置にいる私にとっては(決してそのようなことはないのですが)、その先生のとらいでのきびきびとお皿を運ぶ姿を見て、自らもそのように率先して低姿勢で動くことの大切さを学びました。
「コモンズで活動しています」と割と年配の地域の方にお話しすると、「帯刀先生が確かつくったんだよね。今でも元気?」と言われることが年に数回、今でもあります。帯刀先生はそれだけ地域に広く知られたお方だったのだと、私はある意味誰よりも肌身で感じる立場にいるのかもしれません。
この文章を整理しながら、私のスマートフォンに残っている、これまでに撮りためたコモンズの活動の写真を眺め、先生の写真を探していました。いばらき未来基金運営委員長として、例えば助成金贈呈式で贈呈書を授与したり、集合写真を撮ったり、そんな写真がいくつか見つかりましたが、むしろ多くあったのは、コモンズ主催の様々なセミナーに一参加者として他の参加者と交わり、講師の話を聞き、他者と真剣に対話する先生のお姿が映った写真たちでした。そうやって陰ながらいつもコモンズの活動に参加し、じっと我々の取り組みを見守ってくださった存在だったのだと、改めて感じました。
先生の教えを十分実践できているとは今でも思いませんし、雲の上から、先生の少し鼻にかかった声、間を置いた、威厳のある怒り声が聞こえてくる気がします。そうやって先生の怖い存在を意識しながら、教えていただいたことを時々振り返り、噛みしめながら、茨城の地域福祉、市民活動を一歩でも前に進めていけたらと心に誓うのでした。
帯刀先生、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
帯刀治先生の思い出 茨城新聞社代表取締役会長 小田部 卓
1,998
年に特定非営利活動(NPO)法が施行される5年前、つくば市や牛久市など県南地域で、都内から移り住んだ新たな市民によるまちづくりが行われており、その取材中に帯刀治先生と出会った。先生は「新住民による地域づくり」というテーマに興味を持たれ、記事の中で談話をいただいたこともある。
「行政や企業には制約があって、できないことがある。そこを担うのが地域の市民。地域づくりを進めるには組織化された特定非営利活動法人(NPO)の力が不可欠だ。いろいろな分野で
NPOが必要とされる時代が間違いなく来る」。確信をもってそう話されていた先生が「新住民による地域づくり」に関心を持ったのは当たり前だった。
その後も高齢や障害などで肢体不自由になった人たちに電動カートを無料で貸し出し、買い物や散策など自由に街を移動するサポートを「タウンモビリティー」というが、紙面でその必要性を訴えるキャンペーンを張った時、「水戸市内のどこか商店街で試験はできないか」と助言してくれたのも先生だった英国で始まった「タウンモビリティー」の普及には、自宅からサービス拠点までの移動手段確保など交通サービス整備が課題だったが、街のバリアフリー化促進効果や生活の質の向上には大きな意義があった。
「タウンモビリティー」は水戸市内の下市地区で、商店街や地元スーパーのほか、障害を持つ人たちの自立支援団体の協力得て試行することになった。その時、運営を全面的バックアップしてくださったのが、先生のゼミ生と現NPOセンターコモンズ代表の横田能洋さんだった。この取り組みは広島市や久留米
市、高知市などでNPO法人が事務局を運営し、地域ボランティアや学生、商店街の人たちを巻き込んで行われている。行政も企業もできない取り組みである。
1,999年には県内すべてのNPO法人をめ、「NPOの可能性を
探る」というテーマでシンポジウムを開き、先生と横田さんたちとともにNPOの普及に取り組んだ。NPOがあるところには必ず先生の姿があった、といっても過言ではない。早くから「街づくりには地域住民の力が不可欠」と唱え、NPOの普及に心血を注いできたのが帯刀治先生だった。鹿島市や神栖市では、鹿島アントラーズ誕生を第2の鹿島開発と断言し、地元の人たちや臨海工業地帯進出企業のOBを加えて鹿島未来研究会を立ち上げ、将来の鹿島地域のあるべき姿を議論したことも鮮明に記憶に残る。先生からは「市民の力」の想像を超える大きさを学ばせていただいた。
帯刀治先生を偲んで 大韓民国 国立忠北大学校 名誉教授 姜 瑩基
私にとって日本は帯刀先生から始まりました。日本学術振興会の招請によって日本を訪問したのも、茨城大学人文学部助教授として就任したのも、全て帯刀治先生がいらっしゃったから始まったものでした。
水戸での私の暮らしは文字通り帯刀城下町における生活でした。帯刀先生の奥様の「線を越えないご配慮」によって私たち家族は他国での生活にもつつがなく、帯刀先生の「干渉しない結束力」によって帯刀学堂のファミリーになりました。
帯刀先生は既に準備されているお膳に箸をもって参加しようとする楽な人生よりは、世の中のために新しいお膳を準備しようとする学者でした。帯刀先生の地域社会研究は新しいお膳を用意して、より多くの人びとに提供しようとするものでした。このような先生の情熱は国境を越え、その熱気は韓国人である私にも伝わってきました。私にとって第二の故郷である水戸はこうして始まりました。
帯刀先生の研究テーマであるソーシャルは私にとってネットワークとして迫ってきました。私のネットワークは茨城大学人文学部の研究室よりも大工町の夜の研究室で一層活発になり、そして茨城県全域に研究室をひろげることができました。
私は2年間の水戸での準備期間を経て韓国に帰国して以降、学者として、そして社会指導者として業務に邁進しました。水戸で帯刀先生に約束していた「帰国したら3冊の著書を出す」ことをやり遂げました。私は18冊の著書を上梓し、大統領諮問委員を5代にわたり歴任し、さらに韓国地方自治学会の会長も歴任しました。こうした私の成就には帯刀先生のご助言が大きな助けとなりました。
私は今まさに人生五楽章の内で第三楽章を始めました。若さや老いというものは体や年齢の老化ではなく夢があるか否かで判断できると言ったベンジャミン・フランクリンによるなら、私はまだ青年です。これもまた帯刀先生の青年精神をならったものなのでしょう。
私は今、韓国の西南方にある美しい無人島に私の好きな人びとと新たなソーシャルをひらいていく人生村をつくっています。私の島によく手入れがされたら誰よりも先生ご夫妻をお招きしたかったのですが…。そのむなしさを表現することも難儀です。何らの予告信号の1つもなく忽然と逝かれるとは。あまりにも惜しまれます。
嗚呼!帯刀先生!先生の澄んだ明るい品性は天国でも幸せなソーシャルを創造することだろうと信じます。つつしんで哀悼と追想の念を込め、天国にお便りをさし上げます。
大韓民国 国立 忠北大学校
名誉教授 姜 瑩基 拝上
帯刀先生のこと 茨城NPOセンター・コモンズ常務理事・事務局長 小鷹美代子
私は、勤務していた市役所で行われた「水戸市の未来について」を学ぶ研修会に参加した。研修終了後「自分が考える水戸の未来像」を提案することが課されていた。退庁後に受講生がそれぞれの職場からやってきて、帯刀先生の講義を聞きながら、みんなと様々な観点から意見を交わした。手振りなど体全体を使う先生の独特の話し方に魅了されるとともに、未来を見据えての大きな話は「気づき」の連続で「夢のような時間」だった記憶がある。私が提出した水戸の未来図は「『海を制する者は世界を制する』という言葉があるが、海を有する大洗町と広い土地を有する茨城町と水戸市の合併」を盛り込んだ内容に仕上がった。その手書きのレポートが先生から評価を受けたことで、自己肯定感が低かった自分が少しだけ自分に自信を持てた瞬間だったような気がする。講師は帯刀先生おひとりだったどうかも定かでないが、帯刀先生の記憶だけが鮮明に残っている。身振り手振りはもちろん、細い体全身を使ってみんなにご自身の考えを伝えよう・伝えたいとする気持ちが伝わり、先生にのめり込んでしまい気がついたら数多くいる帯刀ファンの一人になっていた。
その後、「地域リーダー研修会」を主宰する立場になり、帯刀先生を中心に講座は長い間続いた。当時は、事業終了後の打ち上げでお酒に飲み行くこともあったが、「大工町の帝王」と自らを標榜していた先生と、参加した職員たちが「水戸の未来」「地域コミュニティ」などについて、お酒を飲みながら熱く語りあったことは何ものにも代え難い宝である。また、鹿島開発を熱く語る先生の目はまるで少年のまなざしのようだった。スナックでの先生は、みんなに自ら水割りをつくり手慣れた様子でホストしてくれたが、板についたその様を今思い出し懐かしく思う。
帯刀先生を中心に、1996年秋から県内団体、市民の自立とネットワークに寄与する広場をつくという目的で「茨城NPO研究会」を設立し活動を開始。NPO法が施行後、人々が仕事や立場、居住地等を超えて、ひとりの人間、あるいは地球市民として共に活動できる機会を拡大することを使命に、「茨城NPOセンター・コモンズ」を立ち上げ、初代代表が帯刀先生が就任。私も理事になりご一緒に活動する中で、先生から教わることが多々あった。現在、コモンズがあるのは先生なくして語れない。私も、「NPOってなに?」と題した寸劇をしながら県内を周るなど、NPOの普及啓発に取り組むなど先生との関わりが続いた…。この時の経験が、私が今行っているひきこもり支援「グッジョブセンターみと」を運営する上での素地になっていると感謝している。
先生は、笠間などを拠点にした新しい事業のことを生き生きとお話されていました。
その矢先の突然の訃報にただただ驚くばかりでした。私はその事業を楽しみにしていたので残念でしたが、ご本人は本当に無念だったでしょう。先生とお酒を飲みかわすことがもうないのかと思うと寂しい気持ちでいっぱいです。(合掌)
帯刀 治先生との思い出 茨城大学名誉教授 斎藤義則
茨城大学名誉教授
帯刀先生と初めてお会いしたのは、1982年の人文学部社会科学科の行政計画論担当教員採用人事の面接でした。当時の新規採用人事は学科の「七人委員会」が担当しており,委員長は行政法担当の今橋盛勝先生で、ほかに大江志乃夫先生(社会史)、中野実先生(行政学)、田中重博先生(財政学)、斎藤典生先生(地域経済論)、井上英夫先生(社会福祉法)の先生方だったと記憶しています。帯刀先生は面接の途中に面接室に入られ、いきなり「英語できる?外書講読手伝うから」と言われて、また出て行かれました。まだ採用が決まっていたわけではないので、「面白い先生だなあ」というのが最初の印象でした。幸い行政計画論担当教員として採用されることになる、5月1日に専任講師として赴任しました。普通なら4月1日採用なのですが、私の書類不備などがあり、1月延びたようです。赴任後は、専門が異なることを先生が大変気遣って下さって、研究器具や研究費などの研究環境と学科の先生方との人間関係にまで配慮して頂きました。
私の専門が都市工学でしたので、最初のころは「言葉が通じない」外国に来ているようで大変居心地の良いものでした。それでも、せっかくだから学際的な共同研究ができないかと考えていると、「地域」を「総合的」に「研究」する地域総合研究所があることを知り、早速、所員にして頂きました。当時は小林三衛先生(法学)が所長を務めておられ、先生とほぼ同世代の先生方が中心になって研究活動を実施されていました。若い先生は社会科学科の長谷川幸介先生だけでした。1991年の所長選挙で、帯刀先生には事前の了解もとらず、所長に就任して頂きました。地域総合研究所での共同研究は、楽しく、まちづくりを考える上で刺激的で参考になる活動でした。毎月行われる定例研究例会とその後の懇親会での議論は忘れがたい思い出の一つになっています。
地域総合研究所での共同研究で思い出深いのは、財団法人常陽産業開発センターと共同で行った「地域ビジョン研究会」(1990〜1992年)です。その成果は、二つの報告書にまとめられています。『新産業基盤の創造と社会システム』(財団法人常陽地域研究センター、1996年)と『新環境基盤の創造と社会システム』(財団法人常陽地域研究センター、1998年)です。この研究会は、専門家が中心になって、すべての事象を「区分」して「特化」させ「効率」を追求することで豊かな社会をつくるという理念が機能不全に陥っているとの認識から、自然環境とする共生する新たな産業基盤と技術、都市の土地利用、ライフスタイル、ワークスタイルを支える新たな社会システムを構築する必要があることを指摘し、構想したものである。それを実現する主体の変更をあわせて検討しており、その後の認定NPO法人いばらきNPOセンター・コモンズの設立につながりました。
帯刀先生の研究の特徴は、E・デュルケム、M・ウエーバー、L・ワースなどの欧米の都市論・都市研究をベースにしつつ、荻生徂徠、弘道館記などいわゆる儒学の伝統を合わせて、日本における地域社会の問題を解明する方法論を構築されようとしていたように思えます。
特に地域社会における多様なステークホルダー、とりわけ企業と行政、地域組織、市民団体、市民が有する様々なレベルでの諸問題と目標、解決方法において共通認識が形成されず分裂している場合に、相互の関係構造(権力構造)がどのようになっているのかを解明しようとされていました。それを国家との関係をも分析しなければならないことも再三指摘されておられました。その問題意識にもとづいて、素材型コンビナート地域である鹿嶋の研究、企業城下町である日立の研究において全面的に展開されたことがわかります。
今も「たこつぼ型」の研究者が多い中で、1970年代から地域社会の問題を多面的・複眼的に捉えようとされていたことは高く評価されて良い。当時の大学では、学外に飛び出し市民や行政や企業の調査を行い、共同して活動すると「サボっている」と思われがちでありました。現在では大学の地域貢献活動や地域との連携活動が推奨される時代になったことは隔世の感があります。
帯刀先生は、研究者としてはもとより、市民としても地域の問題を多面的かつ複眼的に理解し、その解決には生活者の立場、市民の立場で、個人でも共同でも、今できることを実践し、積み重ねてこられました。「諦めずに、今できることを一つ一つ、愉しみながら、積み重ねていくことで、新たな風景が見えてくる」と言い続けられているように思います。
地域に生きる企業像を求めて 清水賢一
「地域に生きる企業像を求めて~経営意識刷新のための提言」、これは、茨城県経営者協会(茨城経協)が平成4年4月に発行した書籍です。当時、茨城経協の会長は、常陽銀行の青鹿明司会長でした。同氏は、昭和50年に同行の頭取に就任した際、「地域の繁栄の中に当行の発展の源泉がある」と行員に伝え、「地域への創造的参画」を経営方針の第一に掲げたと伺っています。後年、広く求められるようになった「法人市民」という経営哲学をこのとき既にお持ちになっていたようで、茨城経協の会長就任後すぐに、地域と企業との良好な関係をいかに築いていくべきかを研究する「地域関係委員会」を設置し、企業は地域社会の主体的な担い手として、より良い地域社会づくりに貢献すべきであることを企業経営者に訴えてきました。
そして、10年余りが経過した平成2年、青鹿会長から、「茨城県の本当に望ましい将来像を明らかにしながら、それを実現するために、経営者は、従業員は、どういう行動をすべきかについて考え方をまとめよ」との指示があり、地域関係委員会の中に「地域活性化研究会」を新設し、その年の6月から2年を期間とする研究活動を開始したのですが、この研究会のアドバイザー、実質の“まとめ役”をお願いしたのが帯刀先生でした。もちろん、執筆を担当するワーキンググループ(作業部会)のトップも帯刀先生です。
県内企業、従業員、主婦、大学生を対象にした4種類のアンケート調査を実施する一方、研究会をほぼ毎月開催し、各界の有識者8名からお話を伺い、また、8社から地域活動事例をヒアリングするなど、平成4年3月、報告書案文の最終検討を行った第16回目の研究会まで、作業部会を含めると実に24回もの会合にご出席いただき、ご指導賜りました。本当にありがとうございました。
冒頭の提言書は、後にも先にも、茨城経協が、定価を付けて書店で販売した唯一の刊行物となった訳ですが、そのことに自分が関わることができたことは、その後、経済団体の職員として働いていく上で大いなる自信となりました。
当時、日本経済はバブルの真っ只中で軍資金もあり、研究会や作業部会の終了後、カラオケ・スナックで疲れを癒すことも度々ありました。そう言えば、“オサムちゃん”は、アルコールが入ると、体のあちこちを掻き毟っておられました。酒は強くないけど、飲み屋の雰囲気が好きだ、というタイプのようでしたね。
年賀状が途絶えたので、「あれ。どうかしたのかな」と思っていたら、新聞で先生が亡くなられたのを知り、本当にびっくりしました。
いまは、ご家族のいらっしゃる水戸と、ふるさとの出雲とを、自由に行き来されているのでしょうか。帯刀先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
地域に種を蒔き育てた帶刀先生へ 茨城大学人文社会科学部 教授 清山 玲
茨城大学へ赴任することが決まったとき、ほんとうに多くの方から、「茨城大学には帶刀先生がいる」と言われました。帶刀先生のご研究は注目されていましたし、筑波大学の教員をしている夫からも、帶刀先生たちの日立や鹿島の調査研究報告書を分けてもらえないか頼んでくれと、強く依頼されたのを覚えています。
帶刀先生がより良い住民が幸せに住める地域社会の構想についてお話しされるなかで、常陽銀行から茨城大学地域総合研究所に常陽亀山記念館を寄贈していただいたときのことや、高齢者や障がいのある方など自立して生活することが難しい人たちにも目を向けて、「茨城NPOセンター・コモンズをつくったんだよ!」と嬉しそうに自慢気におっしゃっていたのを、よく覚えています。斎藤義則先生に代表理事の座を譲られた後も、斎藤先生と横田能洋さん(現代表理事)が頑張って立派に活動を続けていらっしゃるのを、温かな目で見守っていらっしゃいました。
専門分野の知見を活かしながら、地域に種を蒔き、育てるのが上手だった先生のこと、心から尊敬しています。
出雲大社のご縁に導かれて~治叔父様へ 帯刀美晴
前略、
先日は、メールいただきまして、そして皆様の原稿を拝見させていただきまして
本当にありがとうございました。
突然の問いかけにもかかわらずご返信いただき、このご縁に感謝申し上げます。
お手紙にて私の自己紹介をさせていただきます。
私は治おじさまのいとこ姪であります。
治叔父様とは祖父の葬儀の時の記憶しかございませんが、父からはよく話を聞いていました。
毎年イモ版の年賀状が届くのも【粋】だな~と思っていましたし、NPOを立ち上げて茨城の街づくりをしていることもHPで拝見し、尊敬しておりました。
3年半前に父が亡くなりました時に茨城の叔父様のところにご挨拶に伺ったのが最近の出来事のようです。
そこでは、私の知らない学生時代の父の思い出話をしてくださって、本当に心が癒されたことでした。
そしてつくば学園都市開発にご尽力された時の話を目を輝かせながらお話してくださいました。
そしてまだまだやることはあるんだ。とおっしゃっていたのをみて私もまだまだがんばらなくては・・と思ったものです。
当時私は、生活のため、子育てのため、と働いておりましたが、常にこれでよいのか・・と悩む日々を過ごしておりまして時間をつくって、大学に入りなおして勉強したり、キャリアカウンセラーの資格を取ったりと模索しておりました。
叔父様のお話を伺って、これから自分が何ができるか、何をしたいのかをしっかり考えようとおもいました。
今やっと、これからの道がうっすらと見えてきた矢先に叔父様が亡くなってしまったことを知ってなんだかとっても寂しい限りです。
私は、バブル崩壊直後世代です。当時東京で帯刀の祖父の家から学校に通って勉学に励んでいたはずが・・・
卒業間際になって、結婚という道を選び、両親や祖父母に多大な心配をかけ我が道を行きました。
が、しかし心配をよそに、結婚・出産・離婚とトントン拍子にイベントをこなし静岡の実家に子供をつれて出戻りまして
だから帯刀なのです。
そこから20年間は、第一はわが子のために・・そして生活のために・・とサラリーマンとして働いてきました。
たまたま友人の紹介で入社できた重電メーカーで二十数年になります。
私は学生のころは航空会社に勤めたいと思い就活をしておりましたので、製造メーカーでものづくり・・というものには興味もなく・・・
でも働かせていただくことだけでもありがたい。と思って色々とその中で面白さを見出しながら仕事をしてまいりましたが
どんな仕事でも自分が情熱を注いで取り組んでいれば楽しいし、苦しくても乗り越えられるのですが
人間関係や風土がそぐわない時は非常につらいものです。
今後ろを振り返ると、色々な時代がありました。
今でこそ、パワハラ・〇〇ハラ・男女平等・と言われてますが、当時はそんな言葉もなく、「なんて不条理なんだ!」で終わってしまう。そんな時代でした。
人間関係で苦しんでも、結局は他の人間関係で助かる。良い出会いが助けてくれる。そんなこんなを繰り返してきたような気がします。
だから、人と関わることは面白い。そして自分を成長させる。と悟ったわけで・・
そんなことに関わる仕事をしていきたいと思うようになりました。
だから、今叔父様にお話をたくさん聞きたかった。色々学びたかった。と思う今日この頃であります。
もっと早くに訪ねるべきだった・・・と・・・
昔、帯刀の由来を話してくださったことがあります。
帶刀とは、天皇の警護をする武士であり、後鳥羽上皇が承久の乱の戦いで負けて島根半島に島流しにあった際
一緒に護衛としてついていったので、島根には帶刀が多いのである。と・・・
でも、その話にはオチがあって、当時韓国から日本へ渡り名買いをするものたちがおったので、本物の皇宮武士と韓国の名買い人かはわからない。うちは、後者かね・・・あっはっは・・・と・・・
子供ごころにすごいことだ!と感銘し一生懸命調べたことを思い出します。
この前、急にそんな昔話を思い出し、思い立って島根の本家に行ってみたいと、車で静岡からはるばると旅してみました。
何年ぶりかの息子と2人旅です。(遠かったぁ~~)
父からは、島根の本家のお墓は日本海に面したところにあって、とっても眺めの良い場所だと聞いておりました。私は島根には一度も行ったことがなく、何の情報もないまま向かってみたのです。
島根の石原旅館さんが親戚だと聞いていたので、ネットで調べて電話してみましたがつながらず。
まずは石原旅館さんの住所に行けば何かわかるか・・と思い出発したのです。チャレンジャーですよね・・・(笑)
まずは出雲大社でお参りをし、石原旅館の住所に伺ったところ更地になっておりました。
お隣の床屋さんに伺ったところ、ご主人様がお亡くなりになって子供さんたちは皆島根を出てしまっているようでした。
そこで事情を話すと、帶刀のことを知っているではないかと思われるお宅を紹介していただき、そちらを訪ねましたらなんと、昔祖父が経営していた東京のホテルの名前が・・・懐かしい名前に思わず感激し実家の場所を尋ねるも・・そこまでは・・わからず・・・・でも帶刀ではないがたぶん身内と思われる方が〇〇に住んでるから・・・と場所を教えていただきたずねましたら、なんと80才をすぎたおばあさまが1人で暮らしておりました。
その方は、治叔父様のお姉さまでした。
出雲大社は本当にご縁の神様がおられるのだ!と思った瞬間でした。
私の父の名前と、祖父と写っている昔の写真をみせると、感激して涙してくださり、帶刀家のお墓参りをすることができたのです。父が言っていたとおり、目の前の海と夕日がすごく綺麗な最高な場所でした。
島根は働く場所がないので、若者が出て行ってしまうのでしょうか・・・
海沿いを走りましたが、本当に何もなく・・・海沿いの旅館も閑散としておりました。
おばあさまの子供さんたちも皆他県にでてお仕事をされており、今はお一人で暮らしているとのことでした。
このコロナ時代を、逆手にとって島根に活力を・・・ワーケーションで海辺の職場・・・
治叔父様、そして皆様、何とかならないものでしょうか・・・ねっ・・
今回、皆様の寄稿文を拝見させていただきまして本当にありがたく思います。
こんな私ですが、これも出雲大社の神様のご縁かと思います。
何かお手伝いできることがございましたら、またお声かけいただいたらと思います。
そして、これからもよろしくお願いいたします。
かしこ
帯刀美晴
地域や周りの皆様に支えられて
帯刀 厚
私にとっての帯刀治は、子供の頃は「お父さん」、大人になってからは「親父」と呼ぶ、単純に父親であり、好むと好まざるとに関わらず人生の師でもあり、また古くからの友人のような存在でもありました。
父が地元国立大学の大学教員であり、新聞やラジオ等のメディアにたまに掲載されていたことや、水戸市内に2軒しかいない「帯刀(たてわき)」という珍しい苗字でもあったことなどから、自分の身元がすぐに分かってしまうのが、少々煩わしいと感じることも少なくはありませんでした。
家での父も、多分に強烈な個性と思考の持ち主で、喜怒哀楽が激しく、多弁で、パワフルで、せっかちで、情熱的な人でした。また、賑やかなことや場面が大好きで、いつも周りに人がいたイメージです。
たまにしか一緒にならない夕食時などに、子供のことはお構いなしに、大学のことや、地域のこと、社会のことを熱く語り、意見を求められたり、意見を言い合うのが、今思えばあれが我が家の一家団欒だったのだと懐かしく思います。
大学進学を機に上京して家を出てからは、地元の水戸で就職したものの、家には戻らず一人で暮らしており、転勤や結婚で住まいを土浦に移していたので、近年は年に数回顔を合わせるような生活で、毎年、夏に大洗で魚介料理、年末30日に土浦で中華料理の食事会で、両親と私達夫婦と妹家族が集まることが恒例となっていました。
年末の食事会から3日後、昨年(令和2年)の新年早々の1月2日の朝、父が自宅の居間で吐血して倒れたと、救急車に同乗の母親から電話を受けました。
急ぎ茨城町の水戸医療センターに向かい、到着した時にはもう帰らぬ人となっていました。わずか3~4時間のことでした。加齢による衰えが見られていましたが、特に持病や通院などはなく、家族としてはあまりに突然のことに、驚いたというのが率直な気持ちでした。
一方で、せっかちで、嵐のような人だったので、人生の最後も鮮やかで潔く天に召されていったのかとも感じました。
父は1944年(昭和19年)年に島根県出雲市に生まれ、高校卒業後、上京し、大学院時代の鹿島開発の研究がきっかけで、1969年(昭和44年)に、茨城大学で助手の職を拝命したご縁で、水戸に来て、50年が過ぎた所でした。
父は大学教員として、地域社会論を専攻し、この茨城をフィールドに、約50年、地域社会の研究や市民活動・NPO活動等に勤しんで参りました。享年75歳で、少し短い生涯であったかもしれませんが、自分自身のやりたいことをやり、突き詰め、嵐のように去っていきましたが、本人の人生を悔いなく、天命を全うしたんだと家族は考えております。
また、半世紀に渡り、縁もゆかりもなかった茨城で、地域社会の研究に携わり過ごすことが出来たのは、大学関係者の皆様、学生の皆様、県や市町村等の自治体関係者の方々、またNPO団体や地域住民の方々など、多くの方々に支えて頂いたお陰とあらためて感じています。
地域社会を研究してきた父は、逆に地域や周りの皆様方に支えられてここまでやってこられたのだと思います。
この場をお借りして、故人とともに、あらためて皆様にご感謝を申し上げたいと思います。
最後に、元気であった父が急逝したことにより、人は突然いつ何が起こるのか分からないと感じたので、あらためて毎日を一生懸命生き、悔いのない人生を過ごしていかなくてはならないということが、父の最後の教えであったと考えるのでした。
在りし日の帯刀治と帯刀ファミリー(2014年夏大洗にて・長女の夫 力丸裕史撮影)
茨城大学地域総合研究所鹿嶋センター開所当時の思い出
(元)客員研究員 西岡邦彦
帯刀治先生との出会いは、2004年10月、地域の知的財産を活かして新しい文化創造の拠点を育みたいとの期待を込めて、鹿嶋市まちづくり市民センター内に茨城大学地域総合研究所鹿嶋研究センターが開所されたときに始まります。この研究センターの開所に先立って、私たち客員研究員8名が市民募集により任用され、帯刀治センター長と斎藤義則教授のもとで“地域に密着したまちづくり”活動のご指導を受けました。当初、集まった研究員は同じ鹿嶋市民というだけで、お互い面識はなく年齢も履歴も異なる烏合の衆でした。しかし帯刀・斎藤両先生の熱心な指導の下、月1回の定例研究会を通じて気心も知れ、お互い意見を交わすことで次第に鹿嶋市が抱える課題(産業、農業、教育・文化、福祉など)が浮き彫りになり、まちづくりの目指す方向が絞られてきました。
懐かしく思い出されるのは、両先生とも酒宴の席には率先して参加され、酔うほどに楽しくなる帯刀先生のお人柄で、客員研究員だけでなく事務局女性スタッフも分け隔てなく融合を図られたことです。それは烏合の衆の市民をまちづくり活動の目標に向けて、お互い支え合う(共助)集団に変える重要なステップであったように思えます。
こうしてお互いが肩の力を抜き、得意とする分野で研究テーマを見つけ、活動を開始する多士済々の人材集団へと変わりました。主な取り組み事例は下記のとおりで、その後の鹿嶋市にとって極めて大きな財産となり、まち活性化への貢献は計り知れません。
①高速バス利用実態調査と鹿嶋―東京間の直行便開設
②鹿島神宮門前町再生のチャレンジショップ開設
③一大文化拠点となる生涯学習の場「かしま灘楽習塾」開設④郷土を慈しみ、誇りに思う“鹿嶋っ子”育成の教材づくり
⑤遊休農地を活用した田園スポーツタウンづくり
⑥自然と歴史探訪のウォーキングコース「鹿嶋神の道」開設
この寄稿文をまとめるに当たり、帯刀センター長から授かった市民活動の原点、”共助の精神で楽しみながらまちづくり”を改めて思い起こし、心より感謝申し上げる次第です。
塙山のまちづくりの羅針盤
日立市塙山町 西村ミチ江
先生との出会いは、昭和60年3月30日、塙山学区住みよいまちをつくる会が、会発足5周年と、自治省昭和59年度コミュニティ推進地区指定記念として、みんなでまちづくりを考える『塙山進歩住夢』を開催した時でした。
このシンポジウムで帯刀先生に記念講演の講師を引き受けていただきました。「これからのまちづくり」と題した講演では、まちづくりの原点は「自分が将来どんな暮らし方がしたいか」であり、住民との話し合いを通じて「塙山行動計画」を創るよう示唆されました。
当時、私は住みよいまちをつくる会に関わって、ようやく3年が過ぎようとしている時で、コミュニティ活動の“何”かもわからないような時でした。
しかし、先生が島根県出雲市のご出身だと分かり、松江市出身の私たち夫婦は、同郷ということで大いに親しみを感じ、島根県の話ができることも楽しい時間でした。その後、塙山コミュニティ活動の先輩である伊藤智毅さんを通して、様々な機会にお会いすることができました。
塙山のコミュニティ活動の節目には必ず講演をいただき、今、塙山が目指す方向を示してくださいました。お返しに先生の授業をお手伝いさせていただいたこともありますが、それは、私の学びの機会でもありました。
平成23年9月24日(土)~25日(日)1泊2日の、塙山コミュニティクラブ主催の出羽三山「月山ハイキング」と世界遺産「平泉中尊寺」の旅に参加された時は、出発が午前5時と早いため、我が家に泊まられての参加でした。この日の月山の天候は霧が立ち込め、雨と風で気温が下がり、登山は中止となりましたが、宿泊地は秋保温泉「佐勘」、楽しい思い出になっています。
長い間、塙山のまちづくりを応援いただき有難うございました。
帯刀治先生と地域関係活動について『地域に生きる企業像を求めて』~経営意識刷新のための提言
一般社団法人茨城県経営者協会 元専務理事 野口芳男
茨城経協(茨城県経営者協会の通称)の活動は、昭和50年代、経済社会の変化の中で、戦後復興、高度成長の後、①人に関する諸問題について情報交換、相互啓発、協働を図り「経営力・企業力」の強化に努めた。そして②主要な構成員として「豊かな地域社会づくり」への参加をめざしていくこととし、その運営は「会員参加のPlan.Do.See」基本とすることを確認しながらすすめられた。
昭和53年には、会長はじめ主要役員が参加する「経営者懇談会」が各支部で開かれ、労働力不足、後継者養成、行政との関係、地域社会との関わりなどの諸問題が提起された。
翌54年には、地域関係研究委員会を組織し「地域関係実態調査」「行政に対する企業のニーズ調査」を行った。その結果分析、事例研究などを行い、『企業行動の在り方』『行政への要望』をまとめ、啓発活動、要望活動を行ってきた。
高度成長期に発生した公害問題、オイルショック後の諸問題に対する企業不信感を払拭するため、企業倫理の確立と「法人市民」としての行動が期待された。
労働力の不足が深刻になり、企業経営の先行きに不安が高まっていた。茨城経協では、帯刀治先生にアドバイザーをお願いし、この課題について、組織をあげて取組むことを決め、平成2年2月に研究会を組織した。
若者が生涯をすごすことができる職場づくり・地域社会づくりを調査研究する「地域活性化研究会」は会員会社22社から33名委員とワーキンググループ6名が参加し、アンケート調査とその結果分析、事例研究、有識者の後援会などを毎月2回のペースで調査研究がすすめられた。
これまで地域開発の成果や課題を検討しながら、豊かさをどう考えたらよいか、企業・従業員・住民求める地域社会像を求めながら、『地域に生きる企業像を求めて経営意識刷新のための提言』を平成4年4月にまとめあげた。
地域社会の主要な構成員である企業・従業員に対して、以下の3つの経営姿勢の推進を提唱した。
人にやさしい企業経営
人を大切する経営をすすめ、家庭生活・職場生活・地域とのかかわりのバランスある調和をはかり、豊かな地域社会の構築に貢献する。
地域にやさしい企業経営
「企業市民」としての経営理念を内外に明らかにし、地域社会の理解を得ながら、従業員とともに地域活動、ボランティア活動を推進する。
環境に優しい企業経営
常に環境と調和のとれた事業活動を心がけ、環境に優しい経営として、よりよい地域環境づくりに貢献する。
平成9年は、豊かで生き甲斐ある地域社会づくりと産業活動との共生に視点をおき、「交流型社会」「循環型社会」「共生型社会」を展望した政策提言『いばらきプラン21 21世紀への羅針盤』を発表した。
その間、各方面と意見交換会を行いながら、事例発表会や地域関係団体との交流会の開催、環境問題、防災・簿違反問題についても取り組んできた。
帯刀先生には、長い間、その時々貴重なアドバイスでご指導をいただきました。インフォーマルな集まりでも、いろいろとお世話になりました。ほんとうにありがとうございました。
合掌
帯刀先生との出会い・思い出
茨城大学名誉教授、(公社)茨城県地方自治研究センター副理事長
(株)ペガシス代表取締役社長 堀良通
帯刀先生と初めて言葉を交わしたのは、私が地域総合研究所の理学部の運営委員で出席した1993年の会議でした。会議終了後に先生から研究所の所員にならないかとのお誘いを受けました。理学部教員で活動していた所員がいなかったのが主な理由だったと思います。
少なからず地域の問題に関心がありましたので、快諾し所員になりました。所員になったことが、その後の私の教育人生に望外の結果をもたらしてくれました。
地域研の活動を通して人文学部の斎藤義則先生、斎藤典生先生、雨宮昭一先生をはじめとして多くの他学部の先生方と知己になりました。人文学部の社会科学系のほとんどの先生方とは縁ができました。その縁で、学外の茨城県地方自治研究センター、常陽地域研究センターなどのいろいろな団体との関係を持つことができました。常陸大宮市の“おがわふれあいの森”の調査・研究を人文学部の先生方と一緒に行う事ができたのは得がたい経験でした。
その関係で、山形県西川市と群馬県川場村に帯刀先生をはじめとした人文学部の先生方と視察に行く機会を得ました。また、斎藤義則さんと斎藤典生さんと一緒に屋久島、大分県宇佐市、熊本県小国町でグリーンツーリズムとアグリビジネス関連の調査を行いました。主に植物を対象として研究してきた者には、人間を相手にした聞き取り調査は全てが新鮮であり、かけがえのない経験でした。特に、茨城県地方自治研究センターで、理事(研究員)として副理事長である帯刀先生と一緒に地域の多様な課題について調査・研究を行えたことは、私にとって大きな成果でした。その縁で、退職後も先生がご逝去されるまで、会議、フィールドワーク、懇親会等を一緒に過ごすことが出来ました。帯刀先生からの地域総合研究所への勧誘によって、私の大学での活動が地域へと大きく広がり、現在も続いています。帯刀先生と公私にわたって親交を深められたことは今でも大変光栄に思っています。
茨城県地方自治研究センターが発行している「自治権いばらき」には、先生は創刊号(1983年12月発行)より執筆されています。2021年1月発行の139号は、先生ご自身が歩まれた地域社会・地方自治調査研究の歴史が書かれた遺稿集になっています。
帯刀先生、いろいろお世話になりました。本当にありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り致します。
我が師 帯刀 治先生を思う 松本治郎
七つの顔
地域社会論研究者の顔
文献研究と合わせフィールド調査を重視していました。ゼミ生も実態をよく調査して議論をしててきました。出島村(かすみがうら市)の調査では私も調査に参加。ひねたゼミ生でした。
地域連携を推進し協力・指導者の顔
私が所属した常陽産業開発センター(1995年から常陽地域研究センター)は県・自治体から調査を受託。県計画の前段となる県民選好度調査の受託もその一つ。帯刀先生を始め茨城大学の先生から、調査結果の解析等で協力・指導を受けてきました。
忘れがたいのは,常陽地域研究センターと茨城大学地域総合研究所との共同研究です。茨城の新しい産業基盤・生活基盤・環境基盤とは何かを探る地域システムの応用的研究を1995年〜98年の4年に亘り研究員総参加で行ってきました。
学内連携を推進した顔
茨城大学地域総合研究所長(1991年4月〜1999年3月)として、学部学科横断的に集まり・連携し議論し研究成果をあげてきました
地域の学識者・指導者としての顔
学外の委員会等に学識委員代表として参画。楽しい鹿島のまちづくり懇談会もその一つで、県立カシマサッカースタジアム(15000人収容)の建設や鹿島アントラーズの設立・そのホームタウンづくりにつながりました。先生の自慢の一つでした。
茨城放送のディスクジョッキーとしての顔
茨城放送の「若者通り夜はこれから」という1時間30分番組のパーソナリティを1年間(1984年〜85年)続けました。ビートルズ・フォーエバーのディスクジョッキーが自慢でしたが、私たちは、とちったりしないかなどハラハラしながらラジオにかじりついていました。
郷土史家としての顔
郷土史の造詣も深く水戸藩について「常陽アーク1997年9・10・11・12月号」に連載してもらいました。水戸藩は徳川御三家筆頭の地位にあり、福将軍としての職務を遂行するため、藩主が江戸屋敷に常駐する事が義務づけられていました「常府制」。常府制廃止後、水戸藩江戸上屋敷から水戸城下に帰住する約200名の武士たちに今の水戸市新荘に「新屋敷地」を用意。これを今の住宅団地・ニュータウン開発と称したのはけだし名言でした。
出雲の料亭の息子としての顔
スナック等に行った時カウンターの中に入り、酒・料理の振舞をしていました。ママさんから時間が来ると、「先生勉強の時間ですよ」と言われていました。
また、当時よく斎藤義則先生のお宅に入り込んでいましたが、帯刀先生がお手製のカツオのたたきを運んできてくれました。出雲の料亭の息子が作った、博多美人の奥さん(のろけ)にも出せない味と自慢するだけあって絶品でした。
全身社会学者、または歩く熱帯モンスーン
福島大学人間発達文化学類教授
認定特定非営利活動法人ふくしまNPOネットワークセンター理事長 牧田 実
1984(昭和59)年3月 人文学部地域社会学ゼミ卒業
福島大学人間発達文化学類 教授
認定特定非営利活動法人ふくしまNPOネットワークセンター 理事長
全身社会学者
1961年生まれの私は今年還暦を迎えることになります。帯刀先生との年齢差は17歳。私が先生のゼミに入ったのが20歳の頃だから、先生は37歳。研究者としての経験を重ね、しかしまだバリバリに元気だった頃なのだろうと思います。夏のゼミ合宿と称して、先生のご家族とともに、先生の実家(出雲!)にまで押しかけたのだから、その弾けっぷりは想像にかたくないでしょう。
「輪読と調査と外書、そんで卒論はまた別口ね」という帯刀ゼミは、当時からキツイという評判だったようですが、8mm映画(!)づくりにかまけて1,2年を学外で過ごすことの多かった私はよく知りませんでした(同学年のゼミ生5人ともゼミでほぼ初対面)。ところが、このゼミというもの、私には居心地が良く、半分は就職延期のモラトリアムにせよ、徐々に大学という場への執着が強まっていきました。進学するには外へ出るしかない時代。その先に道があるとも知れない不安。思いあまって3年の終わりに先生に相談してみたところ、大学院という選択もある、その気があるならまずは外書を1冊自分で選んで自力で読んでみろという力強いというかアバウトというか、そんなアドバイス。そこで私が選んだのが東京の本屋でたまたま見かけたギデンズ(!)の赤い本(!?)。ちびちび訳しては、毎週できたところまでを先生に届け、半年ほどでなんとかコンプリート。大きい英和辞典にも載ってない言葉を適当にごまかそうとすると、きちんと他の文献に当たって調べろとたしなめられたものです。そうこれは先生流の適性検査でもあったのです。学問は厳しいと教えられました。
私はひとまず筑波の修士に進み、その後、先生の先生である北川隆吉先生(故人)のいらっしゃった名古屋大学の博士課程に拾っていただきました。帯刀先生との出会いがなければ、私がこの道に足を踏み入れることはなかったでしょう。この意味で先生は私の恩人です。そして、なによりこの道で生きていくうえでもっとも大切な心のありよう、「社会学魂」とでもいうしかないもののタネを私に植えつけてくださいました。科学的な理論をベースに現実と切り結び、けっしてぶれず、逃げないこと―それはまさに先生の生きざまそのもの。先生は「全身社会学者」でありました。そのコアにある「魂」がいまも私の導きの糸となってくれているように思います。
歩く熱帯モンスーン
運良く関西の女子大に職を得て5年間務めた後、私は公募に拾われ、福島大学に来ました。1995年、阪神・淡路大震災の混乱のさなかのことでした。2011年には東日本大震災と原発事故災害。この四半世紀のうちに大学も大きく変わりました。「改革のための改革」に追われ、仕事は増え、予算は削られ、研究と教育のための環境は劣化するばかり。しかし、どんな環境にあっても、教室には、研究室には、教員と学生しかいません。そこは昔と変わらない。そして大学はそこにしかない。そういう思いで過ごしてきました。私の研究室の卒業生も130名ほどになるようです。先生と違って私はクールとみられることが多く(心は熱いのだが)、また同窓会的なことも好きではないので、卒業生たちも「塊」として組織化されているわけではありません。ただ、一人ひとりに一生ひっかかるような「なにか」(社会学的な問い)を残せていたらよいと考えて、ゼミに臨んでいます。
私は、2015年から特定非営利活動法人ふくしまNPOネットワークセンターの理事長を務めています。NPO を支援するNPO、いわゆる中間支援組織です。帯刀先生が設立時の代表理事を務め、地域社会論ゼミの卒業生でもある横田さんが現在の代表理事を務めている特定非営利活動法人茨城NPOセンター・コモンズも同じように中間支援組織からスタートしていますが、いまは多くの自主事業メニューをそろえる強力な事業体へと成長しているようです。創立20周年を迎え、職員40名、年間予算1億円とそれなりの規模ではありながら、いまだ福島県や福島市の委託・指定管理事業に依存した体質から脱却できずにいる自団体。彼我の差に愕然とする思いですが、現実と切り結ぶ社会学者の矜持として、理事長を務めているという次第です(青息吐息)。
私にとって、全身社会学者・帯刀先生は熱帯モンスーンのような人でした。存在自体が熱を帯び、休むことなく動き、周囲に旋風を巻き起こす―私はこの「歩く熱帯モンスーン」に吹き寄せられ、風を与えられて、いまここに着地したのだと思っています。
寄稿 渡邊美宏
「地域」のフレームを変えず、時代・社会のアクチュアルな課題に継続的に取り組まれたこと、そして何より「教育者」であったこと。私にとっての帯刀先生は、その2つに尽きる。
1984年3月茨城大学人文学部社会科学科卒業の帯刀ゼミ生は、上田満美子、大塚正、菊岡理恵、田所強、牧田実(以上敬称略)と渡邊美宏の計6名であった。
それから時を経て2009年9月、私達の在学時にはなかったキャンパス内の真新しい「地域総合研究所」の建物で、私は帯刀先生の退官記念の最終講義を聴いていた。
後日、短時間しか居られなかった非礼に手紙を書き、「講義の最後の方はいつもの先生のように“尻切れとんぼ”になってしまいましたね」などと軽口をたたいたが、そのご返事には「(他大学への再就職をお断りしたのは)私はやはり、あの、教室での多数の学生相手の講義の終わり方に、自分自身でも納得できずにいて、あれがイヤで再度教壇に立つことを嫌ったのだ、ということが改めてわかったような気がする」と予想外の内容がしたためてあった。私の本意は、先生の講義は大きなパースペクティブを提示しながら、学生に興味を持たせるための時事ネタや政策批判、音楽や映画の話を織り交ぜるため、最後には時間がなくなって尻切れとんぼとなるが、次の講義への期待と自らの考えや意見を深めるよい機会でもあったのです、と言い訳をしたかったのだが、今はそれもかなわない。
私が先生から学んだものは、単に「学問」というものではなくて、もっと広く、生活やふるまい、姿勢といったものも多かったように思う。
確か、大学3年生の夏、ゼミ生皆で(4年生には、伊藤幸浩、池田勇一、平野修、渡辺聡(以上敬称略)の4名がいらした)合宿と称して先生の出雲のご実家におじゃましたことがあった。表向きは集中学習であるが、実態は遊びに近い。まだその頃は先生の小さなお子さん達も一緒に行かれたため、すぐ目の前の海で一緒に釣りや泳ぎをしたり、観光地を巡ったり、はては隠岐の島まで足を延ばしたりした。今にして想えば、先生が自らのルーツを学生に見せることで、学生に「地域」というものを肌で感じさせようとしたのだと思う。
ゼミで赴いた各地域の社会調査活動にしても、単にヒヤリングやデータ分析をするだけではなく、学生のアイデアをあえて強調したりすることで、地域と学生との間で何らかの相互作用が起きることを狙っていたように思う。また調査の打ち上げなどでは、水戸市大工町にあった「つがる」という小料理屋によく連れていっていただいた。学生にとってみれば、ありていの居酒屋チェーンの方が正直居心地はよいはずだが、黙々と魚をさばく主人とつがる弁のおかみさんが醸し出す「地域性」を学生に感じさせるとともに、「大人の飲み方」を教えたいという「親ごころ」もあったのではないだろうか。
私は、大学卒業時に先生の助言もあり地元の新聞社の入社試験を受けたが落ちて、日刊工業新聞社に入社した。8年後、トヨタ自動車グループの担当になったときに「トヨタが日本を変える」(にっかん書房、1992年)を上梓した。ビジネス書ではあったが、そこにどうしても入れたい一章があった。企業と地域との関係である。当時はやっと「企業市民」という言葉が定着しはじめたところで、トヨタ自動車と愛知県豊田市との関係性は強固であったが、「企業が街づくりに関して協力できることは多いが、その街が魅力的になるかどうかは、その従業員が『一市民』としての意識を持って、どう地域と関わるかによっている。企業は、従業員の『自由の王国』にまで手を出さず、『市民』になるための環境づくりを行うだけでいいのである」と締めくくった。
その背景には、ゼミで習った考え方があった。
在学当時、松下圭一(法政大学名誉教授、2015年没、以下松下)の著作をよく読んでいた私は、なぜ政治学者の松下が、都市型生活様式や文化行政へと論考を変遷させてきたのかがわからなかった。ただ、ちょうど担当したマルクスのリーディングで、「利害関係、生活様式、文化の3つが意識を規定する」というような表記があり、この私なりの松下のマルクス理解をゼミで発表したときに、帯刀先生の“やっと気づいたか!”という微笑みを忘れることはできない。
私も還暦を迎える歳となり、これまでの人生を振り返ることも多くなった。
若き頃、茨城大学で特にお世話になり影響を受けた先生は、帯刀先生を含め3名いらっしゃるが、まさしく「恩師」と呼べる先生に出会えた幸せを今かみしめている。
「衆思を集め、群力を宣べよ」 水戸市議会議員 萩谷慎一
先生は、風のように逝ってしまいました。
令和2年の年明け早々、同期の後藤竹志君から連絡があり、二人で無言の先生と対面しました。
年末の21日に、ご自宅にお伺いしたばかりでした。
先生お一人でしたが、応接間にお通しいただき30分ほど歓談させていただきました。
「ちょっと待ってろ」
先生自ら珈琲を淹れてくださいました。砂糖が入った甘い珈琲でした。
「来年は一緒に政策を考えていこう」
そんなご提案もいただいた矢先でした。
先生と初めてお会いしたのは、私が大学1年の1981年。
当時の先生は30代後半のバリバリの時期。
カミソリ帶刀の異名を持ち、学内でも1、2を争う厳しい指導で有名な先生でした。
それでも、普通のキャンパスライフに飽き足らなかった自分は、3年進級時のゼミ選択の時、帶刀先生から直々に御指導いただける「地域社会論ゼミ」を選択させていただきました。
社会学の古典、都市・環境・コミュニティに関する専門書、最新の外書などの読解を毎週1冊のペースで行った上に、年に数本の地域課題をテーマとしたフィールドワークと、学部生の私たちに、容赦なく大学院レベルの厳しい教育を授けてくださいました。
鈍なところがある私は、しょっちゅう先生に怒鳴られて育ちましたが、その中で、叩き込んでいただいたことは、
「地域社会において主体的に行動する人間になること」
「生涯学び続け、学んだことを世のために活かしていく人間になること」
でした。
つまり、今日の私があるのは、多感な時期に先生に師事した結果なのです。
卒業後も何かと気にかけていただき、母校に地域政策専攻の大学院が出来た際に再びご指導いただいたほか、茨城NPOセンター・コモンズの立ち上げにもお声かけいただきました。
また、水戸市役所就職時の推薦人、結婚時の仲人、そして水戸市議選立候補時の後援会長と、常に私の後見役を引き受けてくださいました。
世間的にはまだまだお若い75歳で旅立たれましたが、晩年の先生は老いとの闘いでもありました。
それでも最後の1年余りを、私の政治家としてのスタートアップにエネルギーを注いでくださいました。
また、先生は水戸藩の学問にも造詣が深く、徳川斉昭公の教えを現代風に解釈され、私たちに御教示くださいました。
その中でも、私が座右の銘とさせていただいている言葉が、
「衆思を集め、群力を宣べよ」
という弘道館記の教えです。
様々な組織や立場を超えて市民の皆さんの知恵や共感を集め、ムーブメントを起こして地域社会を変革していくことが、水戸のまちを元気にしていくために必要と考えています。
これまで先生からいただいた過分なご恩に報いるためにも、先生の御遺志を継いで、変革者としての道を歩んで行くことを、祭壇にて誓わせていただきました。
帯刀先生の思い出 エピソードそして帯刀語録 西田英実
0 帯刀治先生とは、1年次の時、私が所属したカヌー部の渡辺先輩がゼミ生であったことをきっかけに、現代社会論か何かの講義をきっかけに面白そうだと思い、2年次に聴講生?として関わらせていただいたことからお世話になりました。
1 ゼミの思い出1 毎週のように分厚い文献講読とのたたかいに辟易していた時、今回は自分たち3年生だけの出番。割り当てていただいたのは、「都市」(R.E.パーク)。
やったー! 薄くて「こんなのヘッチャらだ」と高をくくっていたら、結局サマリーが終わらなかった。私西田も同級の川本も、言葉がない始末。
帯刀先生「お前らは、多ければ多いでできない、少なくしたらしたで中途半端でやりきれない。 一体どうしたらよいのか!!」と嘆きの渇を入れられたほろ苦いデビュー戦。6階ゼミ室でのできごと。
2 ゼミの思い出2 「普通」について
私たち学生がなにげに「普通(の人生)がいいよね」とけらけらしていると、
帯刀先生「君たちは、『普通の家庭 普通の人生』って言うけど、そんなものがはたして本当にあるのか!?」と。
もっと深く考えよ、もっと、1人1人に寄り添ってみなさい、という大人としての一言。地域社会に生きる人間の多様性、多面性に気づくべきこと、軽々しく表面的にものごとを見ないで人間を深く洞察すべきこと、そして何よりも人間の尊厳について考えるきっかけとなった一言です。これは、今でも私自身の基本的なスタンスの1つになっています。
3 人生について1
大学4年の夏、とある企業の内定をとってきたときに
帯刀先生「おまえは教師になりたくないのか!?」と冷や水。
この一言がなければ、今、私は教師をしていません。結局私はその内定を蹴って、1年留年(卒業論文ができあがらなかったというのが真相か、、、)。教員採用試験を受け直し今に至っています。
4 教員という職業について
私がまだかけ出しの教員だったとき。生徒への指導に行き詰まり、教職員との関係にも悩んで「言葉を失っています」と弱音を吐いた時、年賀状の答えは、、、
帯刀先生「教師は、ものを言わなければならない。たとえあとで訂正したとしても。」
しっかりせい!という帯刀先生らしい檄でした。次への一歩を踏み出すきっかけになったのはもちろんです。
5 人生、そして学ぶということについて2
帯刀先生「学ぶのに遅いということはあっても、遅すぎると言うことはない」
私たちのプライドと意欲をうまくくすぐる一言。それに乗せられてか、ずいぶんゼミでの勉強には力を入れました。やっぱり、乗せられた?
しかし、この言葉はやはり普遍性があると思います。私たち大人も、中学生のような子どもも、その時々で、気づいた時が学びはじめる最高のチャンスです。ちなみに、Mr.Childrenの最新作「Bland new planet」(2019年)の一節に「消えかけの可能星を見つけに行こう でも今なら遅くはない」 やっと時代が追いついてきたか!
6 帯刀先生のふるさと島根県多儀町での真夏のゼミ合宿 最終日の夕食は、、、
すみません。バーベキューをやらないと言ったのは、サプライズで帯刀先生を驚かせ楽しませようとしてのことでした。ところが、先生は、やらないならばと、ご馳走をたくさん私たちに用意してくださっていたのです。先生がお怒りになるのはごもっとも、、、。でもさすが帯刀先生。浜辺へ降りてきて、私たちゼミ生と一緒にたき火を囲んでくださいました。ありがとうございます。準備に奔走してくださったご実家の皆様にも、改めて、すみませんでした。
それから、ゼミ合宿ではこんなこともありました。
買い出しか何かの移動の途中、一斉検問か何かで警察に停められ、「ゼミの合宿です」と言っても「どんなスポーツの合宿なのか?」と問い詰められ、うまく説明できず四苦八苦。帯刀先生からは「過疎の調査に来ました、とでも言ってやれば良かっただろう」 うーむ、そんな直で言えるような勇気と機転はその頃の私にはありませんでした(泣)。「それは合宿違いです!!」「運動部だけが合宿をするのではありません。もっとも、うちは体育会系ゼミですから!」と言っておけば良かったのか。(もっとわかりづらくなるだろう!)
8月6日の広島。せっかく未明のうちに出発したのに、式典には間に合いませんでした(反省)。車がひどく渋滞したこと。暑かったこと。この2つだけ覚えています。幹事(私たち)何やっとるねん。
このほかにも、帯刀先生から学んだ言葉や考え方、コンセプトはたくさんあり、今にも通じるものばかりです。
1 パラダイム、フレームワークという考え方
パラダイムは、ある時代に支配的なものの見方や考え方、フレームワークとは、「分析枠組み」のこと(間違ってたらごめんなさい)。「フレームワークをしっかり持て」「新しいパラダイムへの転換期」。
帯刀先生のこの言葉、声かけを何度聞いたことでしょう。自分たちは今、時代の転換期にいる。そんな実感を強く感じ、未来への様々な可能性を感じさせていただいた言葉、考え方です。
とにかく学生に対する動機付けがうまいですねえ。
2 宇宙船地球号(バックミンスター・フラー)
「地域社会」の範囲・範疇に若干せま苦しさや限界性を感じていた折、「宇宙船地球号」の視点、視座に出会えたことは 私の一生の宝、帯刀先生からの贈りものとなりました。
その後「ボーダレス社会」、「グローバル化、グローバル社会」、などと様々な言われ方をしていますが(企業や大国、学者の都合が反映しているでしょう)、地球を1つの社会として見る見方は今やしごく当然のこととなりました。向こう三軒両隣から全世界までを地域社会として見ることができるズーム感覚は実に楽しいものでした。
3 社会的相互作用
皆さんはよくご存じの通り、社会学の基本中の基本ともいえる概念ですね。これは、人(集団)と人(集団)とのダイナミックな関係を指しています。社会関係を考える上で一見「当たり前」のことをロジカルに分析してみせるという点で、社会学的であり、帯刀先生がよくおっしゃっていた「社交学」に通じるものです。
人と人との「かかわり」、互いへの作用がもたらす面白さ。コロナ禍で人と人とのコミュニケーション、人間的なふれあいの大切さを社会の人々が改めて身に沁みているであろう現代社会。「世の中は人と人とのつながりでできている」こと、そのすばらしさを強く感じずにはいられません。
帯刀先生には公私ともにひとかたならずお世話になりました。私的には、帯刀先生ご夫婦に、私の結婚にあたってご媒酌人をおつとめいただきました。
1人1人の人間の生き様のすばらしさをたくさんの学びの機会やご自身の生き方そのもので体現し、私たちに教えてくださった帯刀治先生にこの場をお借りして深く感謝申し上げます。そして、残された私たちがそれぞれの立場でそのご遺志を引継ぎ、発展させていきたいと存じます。感謝。 そして、思いを新たに 次の時代へ。
僕の人生における帯刀先生との出会い ビフォー/アフター
NPO法人ぐんま子どもセーフネット活動委員会 技術支援・インストラクター
社会情報分析士[群馬大学社会情報学部 波呂啓介
NPO法人ぐんま子どもセーフネット活動委員会
技術支援・インストラクター
社会情報分析士[群馬大学社会情報学部]
本来3年生からしか入れない「ゼミ」に憧れた僕は、2年生の時に、ある先生がお戻りになるのを研究室前の薄暗い廊下で待っていました。そこへ、通りがかった別の先生が話しかけてくださって、ご自分の研究室へ招き入れコーヒーを淹れ話しを聞いてくださいました。それが、帯刀先生との出会いです。その帯刀ゼミへ、おまけとして参加させていただくことになりました。僕は知らなかったのですが、「どうして一番厳しいゼミを選んだのか」と周りの人に言われたものです。
確かに厳しいゼミでした。「鼻血が出るほど本を読め」といわれ、かつ、理論的な研究だけではなくフィールドワークもありました。それは、学生の机上の論理ではまったく太刀打ちできない、現実社会の課題解決へ実践・実戦的に向き合う営みでした。また、「国立大学で血税をいただいて学んだ成果を、地域社会に返さなければならない」を、体現する行為でした。
僕はパソコンが使えたので、とりわけアンケート調査の集計や分析で鍛えられました。今思えば冷や汗ものですが、当時はソフトもツールもない中で手作りプログラムによる怪しげなものでした。
青臭く「学歴を武器にしたくない」と考え大学を辞めた後、パソコンスキルを手にSEとして就職しました。やがて結婚して家を建てたのは不動産屋に紹介された縁もゆかりもない地です。その「地域社会」に根を張れたのは、自分の子どもたちのおかげでした。保護者会やPTAにて子ども経由で知り合いができ、ボランティア活動を続けました。
・帯刀先生が重用してくださったコンピューターの技術で「アルバイト」を得て、
・「ベルーフ」としてボランティア活動で地域の子どもたちに寄り添い、
・教育委員会からの委託事業である社会調査をより高度に行うために「群馬大学 履修証明プログラム『社会人のためのデータ解析』」にて3年間学び、生涯イチ社会学徒であり続けようとしている
こうして、「土日の方が忙しい」充実した生活を送っているのは、帯刀先生からいただいた学びや情熱や期待のおかげです。
数年前に上野でプチ同窓会があった折に、僕の「社会調査の報告書」をついにお渡しすることができました。「ついに」というのは、四捨五入すれば還暦になるこの年になってもなお、「波呂のレポートは『文学的』だなぁ」と言われたあの頃を思い出しながら書いているからです。
できの悪い生徒だったので、在学中はたくさんご苦労をさせてしまいました。せめて、地域社会にわずかでも貢献することをもって恩返しをしたい、そう願っています。
ただ、地域でも会社でも、まだまだ途上です。僕の人生にこれだけの影響を与え、しかし僕はまだこんなところをうろうろしているのに、帯刀先生は逝ってしまいました。帯刀先生の背中をむんずと掴み、「まだまだっ! 先生、このレポート見てくださいよ!」と、申し上げたいところです。
タイ旅行の思い出 小学校教員 石井彩子
平成元年2月。
なぜ、ゼミでタイに行くことになったのか?先生がタイのスリチャイ先生とコンタクトを取るためだったか…。35年前のことを詳しく思い出せないのですが、「卒業旅行」というのか、大学4年の卒業時、先生とゼミの仲間6名とバンコク・チェンマイへ初めての海外旅行をする機会に恵まれました。
旅の最中、「卒業・就職が決まり、まだ仕事が始まらない時期に皆で旅行しているこの時間は、後々『人生で最もいい時だった』と思うのではないか」との思いが漠然とありましたが、まさしくタイ旅行は、その後の35年の人生の中でキラキラと輝く宝石のような時間でした。
チェンマイの寺院へ行った時の事。バンコクで見た極彩色の寺院と違い、渋い木造の建物が何棟か並んでいました。屋根のところに鈴か鐘のようなものがついていて、静かにその音がし、とても静謐な空間だった記憶があります。先生は、「このような美しいものをこれからたくさん見ておくといい」というようなことを仰っていました。正直、その寺院の良さは当時、よく分かりませんでしたが、「いつか分かる時が来るかもしれない」と思い、いろんなアングルから写真を撮りまくりました。
今回、タイ旅行のアルバムを探したのですが、いくら探しても見つからず、こちらでその寺院の写真を紹介できないのが残念です。
また、寺院の前では、子供が鳥の入った籠を並べてお金を出すと籠の鳥を逃がすことができる、という商売をしていました。仲間の一人がお金を払って鳥を逃がすと、先生が「それは本当の優しさではない!」と怒っていたことも、印象に残っています。
チェンマイのナイト・バザールにも行きました。それぞれ単独の自由行動で、私も一人でドライフルーツの出店を眺めていました。すると、そのお店の年配の女性が何種類か試食をさせてくれました。お互い身振り手振りでやり取りをし、では買いましょう、と私が1枚お札を出すと、その女性の顔色が一瞬にして変わったのが分かりました。不覚にも私が出したのは、一番高額な紙幣でした。その紙幣の金額がどれほどの価値があったのか分かりませんが、おそらくタイで若者が持つような金額ではなかったと思います。現地の人と言葉が通じなくても和やかに交流したという楽しい思いや、お店の女性の好意をぶち壊してしまったことがショックでした。
チェンマイからバンコクへ一晩かけて戻る列車の中で、ナイト・バザールでの出来事を先生に話すと、「今回の旅で、観光もしたが、キミたちお勉強もしたね」とちょっと満足そうに思えました。
列車の中で続けて、「今こうして海外旅行をしているが、キミたちが10年後、20年後に海外旅行できるような水準にいられるかどうか分からないよ」というようなことも仰っていました。
私も自分の来し方を振り返ってみる。「先生、ああ言っていましたけれど、何とか頑張れば海外旅行に行けるようになれましたよ」そう言って、いつか先生やゼミの仲間と再び海外に行けないものか…。そんな思いはずっと抱いていました。
平成30年6月。
年代の近いゼミ生で、卒業以来、初めてミニ同窓会を開きました。その同窓会での挨拶にと、先生は「帯刀治の来し方・行く末」というタイトルで原稿を用意してくださいました。そして、お願いしてその原稿と何稿もの下書きを頂くことができました。その何稿目かの最後に、「私たちの〈行く末〉の一つとして、例えば、根本真嗣さんのところ(韓国忠北大学)でこのゼミ同窓会というのはどうかしら?」という一文を見つけました。
実現させたかった!!!
帯刀治先生への御礼
株式会社日本評論社勤務 三角敏哉
『ビートルズ フォー セール』のジャケットフォトのポスターが入口扉に張られ(EMIの企業ロゴはシールで隠されていた)、先輩方が淹れてくれるコーヒーの香りが漂い、先生自身が活発に動き、喋る帯刀研究室は、自由な空気に満ちているように感じた。ここでなら自分で選んだテーマで勉強させてくれるのではないかと考え、帯刀ゼミの門をたたいた。それまで社会学の自主ゼミに参加させてもらったりしたこともあり、社会学に興味を持っていたこともあるが、正直に言えば、大学二年の終わりを迎えても研究したいテーマ、将来の仕事のビジョンがぼんやりとして定まらない身にとっては、もう数か月テーマについて考えるモラトリアム期間を与えてもらえるかもしれないと期待したのかもしれない。帯刀ゼミは人気が高く!
、私たちはゼミの選択方法について議論が起こった学年でもあったが幸運にも入ることができた。
帯刀ゼミは“厳しい”との評判だったので不安もあった。最初の洗礼は大型連休近くで開催された鬼怒川温泉でのゼミ合宿。長時間のゼミのあと、宴席でも議論を続け、飲んだくれてお開きになったのか何かわからないまま議論を続け、最後は露天風呂で空が白んでくるまで語り合っていた記憶がある。誰も寝ようとせず、翌日朦朧としたままゼミを再開するスタイルは最後まで続いた。「こんな何も頭に残らない状態でゼミを続けて何の意味があるんだろう…」口には出せない疑問が頭をよぎったが、徹底的に議論しあうことで自分の独りよがりに気づかせてもらえたし、視野もどんどん広がった。先生は若いうちのぶつかり合いの大切さをご存じでその機会を最大限に与えてくれていたのだろうと思う。
もちろん“厳しさ”の本質は体力面ではなく、文献購読の量の多さだった。マックスウェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』は、結論にたどり着くまでの長い過程に学問というものの厳密さを感じた。大学の勉強とはこういうものかと高みに登った気分になった。しかし、デュルケームの『自殺論』では、分析は見事だがその長さに比して、特に提言を行うわけでもないということに物足りなさを感じたりもした。社会学では状況を分析して示すだけと、何度も先生に指摘されていたが、社会の問題に対して学問のお墨付きを得て何らかの方針を与えたいとはやる気持ちもあって葛藤した。まだまだアカデミズムというものの厳しさが本当には理解できていなかった。
私は原発問題への関心から、“中央”の犠牲になる“地方”の問題や、科学の発展のスピードに社会の制度が追いつかない状況などから、適切な科学技術の進展、利用の在り方とは何か、といったことに関心を持ち始めていた。そして理学工学分野まで幅広い知識がなければ到底なしえない科学社会学をテーマとして扱いたいと思うようになってしまったが、そんな私を先生は止めることはなかった。ものにはならないがどこまでやれるか見届けてやるかといったお気持ちだったのではと思う。卒論は、外書購読の訳よりもひどい惨憺たるものだったがなんとか受理していただけた。
当時のゼミ生のテーマは地域社会のコミュニティを扱う王道のものから教育問題や音楽社会学までと幅広くさまざまだったが、先生はなんなくそれらをコントロールされていた。先生は高い業績をあげる社会学者としてのほか、政治的手腕や、事業を立ち上げ軌道に乗せる経営的才覚もお持ちで、かと思えば飲み屋のカウンターに入ってカクテルを作ってしまったり、私たちの時代には放送は終わっていたがラジオのDJをこなしたり(これまたThe BeatlesのI'll be backを流した放送回の録音を聞かせていただいたことがある)と、多彩なお顔をお持ちだったが、私たちが一番接したのは教育者としての顔だった。学生のやりたいことを否定せずすべて受け止める度量をお持ちだった。私たちは二十歳なったばかりの子どもで、それぞれ!
の関心の赴くまま自由に走りまわった。先生はさしずめライ麦畑の崖に立つホールデン君のように私たちを見守ってくれていた。
帯刀ゼミのもう一つの代名詞である旺盛なフィールドワークも経験させていただいた。結城、出島村など県内を縦横無尽に動き回った。(私は車も無く、パソコンも扱えず役に立たなかったが。)1980年台後半は先生が体力がみなぎっていた時期(その後もずっと?)に当たられたのか、北海道小樽へのゼミ合宿、タイ国へのツアーなど、多くの時間をご一緒させていただくことができて幸せな年代だったと思う。バンコクからチェンマイへの夜行列車の往復までツアーに組み込まれていた。チェンマイで、100ccのレンタルバイクで先生をニケツ(二人乗り)でお乗せして、砂の出ている道をノーヘルで走り回ったことは今思うと冷や汗ものだが、素晴らしい思い出だ。
ゼミ生時代は、先生の気さくなお人柄に甘えすぎて好き勝手な発言ばかりしてしまって汗顔の至りである。ご自宅にまで上がり込んでご家族にもお世話になりっぱなしだった。「八方美人は八方不美人」「お前のカラーは灰色」「(タイの観光者向け民芸品工房で余計なもの買う私を見て)お前は働く女性に弱い」など、時折、鋭く発せられる批評や警句はいまも心に残っている。そんなにも濃密に深くかかわらせていただいて感謝の念しかない。
先生の呪文のことば
広島大学ハラスメント相談室准教授
NPO法人全国女性シェルターネット共同代表 北仲千里
大学に入る前から、社会学を学びたいと思っていた。初めて帯刀先生の講義に行った時、講義室は履修生でいっぱいで座る席がなく、後ろで立って聴いたことを思い出す。先生は全総についての話をしていた。講義をしている先生は、いつも、とても「カリスマ的」だった。ふっかけるというか、ドラマチックな講義といえばいいのか。そして、帯刀ゼミに入り、ゼミ生(先輩、同級生、後輩)との交流の中で、私は社会学の扉を開いた。一応大学教員をやっている今になって思うのは、学生一人一人にちゃんと向き合ってくれる先生だったなあ、ということだ。ゼミもしかり、飲み会も、ゼミ合宿もしかり。自分は、いい講義をするように心がけてはいても、あそこまで学生を引き受けられる自信は、ない。それに、振り返ってみれば、あの研究室で生意気に先生と喋っていた私たちはまだとても子どもだった。研究についてちょっとは深い会話ができる大学院生ですらなかった。私に対しても、先生の専門外の「ジェンダー」「フェミニズム」について、よくもまあ相手してくれたものだと思う。
「私たちはみな、この時代の子なんだよ。」と語る先生のもとでのあのゼミで、私はしっかり社会学徒になったのだと思う。あなたはこの社会や時代とどうかかわるのかと先生は問いかけ、ゼミ生一人一人、生活者として、会社員として、社会活動者として、研究者や教育者として、様々な形でその問いを受け取って巣立っていったのだなと思う。最近は地域社会研究とは接点が無くなっているけれど、人々が実際に生き、人のつながりや社会資源がある場としての地域社会への興味は、ずっと私の中にある。
先生との出会いは、私のその後に大きな影響を与えた。「あなたは、もっと勉強しなさい。」とある日先生から言われたことがきっかけで、その言葉の魔法にかかって大学院に進学することを突然考え始めるようになった。バブル真っ盛りの時代で、「フリーター(プー太郎)」という言葉も出てきたあの頃は、進路の選択も少々軽いノリだった。そして、時間はかかったけれど帯刀先生の「師匠」のところに行くことになり、結局は社会学研究者になってしまった。
大学院生時代、帯刀先生が名古屋に来られることがあり、連れていってもらった飲食店で先生は私に「とにかく、うっまくやりなさい。」といつもの強い調子で仰った。「はい・・」と返事しながら、私はどうふるまうことがこの大学院生活でうまくやることなのか、わからないままだった。先生は本当のところは何を期待(心配)してくださっていたのだろうか・・。先生は、そういう呪文のような、なぞかけのような、独特な言葉をよく使われた。先生の言葉や言い方をまねした人は、私だけではないと思う。「あいつは、毛が三本足りない」は、今でもちょっと使ってみたりする。
数年前、研究書ではないが、自分たちがやっていることについて書いた本を贈呈したところ、とても丁寧な感想を葉書でいただいた。あそこまで真面目に読んでいただけるとは。本当にありがたかった。あの書かれた文字の感じとともに、ずっと心にある。ありがとうございました、先生。
私とNPOコモンズが帯刀先生から学び受け継いだもの
認定NPO法人 茨城NPOセンター・コモンズ代表理事 横田能洋
1 帯刀ゼミとの出会い 卒論の結論がNPO起業につながった
時に1986年、福祉を学ぼうと茨城大に入ったものの、2年生の演習で入った福祉のゼミは制度の学習が中心で興味が湧かなかった。当時自分は学内外のボランティア団体に入り、様々な障がい者の方と共に活動する中で、こんな障がい者福祉でいいのかと疑問を持っていた。そんな時に出会ったのが帯刀先生の授業であり社会学だった。制度そのものより、なぜ先進国の日本でそのような制度に留まっているのか、より深い社会の仕組みが社会学なら学べると感じ、帯刀ゼミを希望した。
それから読書嫌いだった自分が本の面白さを感じるようになった。ゼミの同期は6名、ジェンダー、基地問題、家族などテーマはバラバラだが、社会現象や問題の構造を学ぶという点では共に学べた。私は障がい者問題を卒論で書こうとしたが論文を組み立てることができず1年留年した。帯刀先生から社会構造論、階級論、教育社会学などを学んだらとアドバイスを受け、教育社会学をベースに日本の学歴社会形成の過程で障がい児教育が分離されていく経過をまとめることにした。
教育社会学ではフランスのブルデューなどの再生産論がとても興味深かった。教育システムが能力別に子どもを選別する装置として機能する中で異質性が排除されるようになる、ではどうすればいいのか。社会構造は自覚的な実践によって作り替えることもできると学んだ自分は、障がいがあっても支援学校ではなく敢えて普通学校で学ぶ統合教育に学校教育というシステムを変えたり分断を克服する可能性があると感じ、違いを理解しながら共に関わり変化を起こすことを共感的実践と定義した。この卒論を書いたことが今の自分のNPO活動につながっている。NPOとは常識を打ち破るような共感的実践を通して社会を変える道具だからだ。
2 先生から教わった社会学と社会との向き合い方
帯刀先生の教えは学問を通じて社会を深く知り、状況を理解した上で社会との向き合い方を一人一人に「あなたは何をする人ですか」と問い、考えさせるものだったと思う。私が忘れられない先生の言葉は、「社会学の役割は市民にわかりやすく状況を伝え、それを変える選択肢を示すこと」というもの。条約や憲法に照らしてこうあるべきとの主張をしようとすると「社会学の名でこうすべきとは言うな」と教わった。政府や政策を安易に批判すると「正論を100万回唱えても現実は変わらない、なぜ社会問題と言われる状況が変わらないのか、どうしたら変えられるのか、もっと現実をみて深く考えなさい」と諭された。
私が大学にいた頃、障がい者運動も部落解放運動も平和運動も2つのながれに分断されていた。どちらの主張が正しいのかと考えたりもしたが、その頃に先生からウェーバーの「職業としての政治」で責任倫理と心情倫理を学んだことも大きな意味を持った。「熱い心と冷たい頭」つまり冷静に社会を見る眼、社会学的思考の仕方、自らのなすべきことや態度をどう決めるか、などを学生時代に先生に教わった。
帯刀ゼミではとにかくよく叱られた。文献の考察に関して理解が浅いといった学問的なこともあれば、コンパ担当なのにゼミ行きつけの小料理屋「つがる」の予約が取れなかった時も酷く怒られたものだった。
3 大学卒業後の先生との関わり 人をつなぐ役割を教わった
私の場合、大学卒業後も帯刀先生と共に活動することができた。バブル経済の末期、学生が企業から内定をいくつももらえる時代だったが自分は企業に勤めることも公務員になることも考えられなかった。まだ学びたいと言う気持ちもあり福祉作業所かどこかで働くかと思っていた時に、先生から紹介いただいたのが茨城県経営者協会だった。大学を卒業した1991年は企業の社会貢献が脚光を浴びた時で、先生は協会の地域貢献を検討する委員会の座長をしていた。先生から社会貢献を推進することもできると言われ、私は、民間企業が変われば障がい者雇用とか福祉も変わるかもしれないと考えた。そして人生で1度だけの就職面接に行った。当時の協会の局長さんに聞かれたことは「酒は飲めるか、将棋は打てるか」で驚いたが、先生から縁を頂いたのは間違いない。実際、協会の事務局の仕事は企業向け研修や懇親会の裏方が多く、酒はかなり鍛えられた。時々帯刀先生と大工町の飲み屋街で遭遇し、連れて行かれたスナックで先生に置いていかれたことは何度もあったが、今思えば、社交場での振る舞いや人付き合いを上手くなれという社会勉強だったのかもしれない。帯刀先生は酒は弱く、飲むとすぐ真っ赤になる。それでいてサービス精神旺盛で、飲む場で様々な立場の人を引き合わせることをしていた。面白い先生だと多くの人が心を開いて時を過ごしていた。帯刀先生は、学生に対しては教師であり、行政や企業の人に対しては研究者、アドバイザーとして接し、地域の団体の方にとっては相談役、夜の繁華街では陽気なセンセー、といったように型にはまらないというか、いくつもの顔を持った人だった。多種多様な人と同じ目線で付き合い、話をし、人と人をつなぐ、ということを一人の人間として常に行っていた。
自分が何かで悩んでいた時は、「わからないことはわかる人に聞きなさい」、「困った時は人の力をかりなさい」と。そんなことを車で自宅に送迎した時や、ご自宅に伺ってコーヒーをいただいた時によく話してくれた。デュルケムの研究を長くされていた先生の中には有機的連帯というイメージがあり、その実践として人や組織をつなぐことをしていたのではないだろうか。
4 社会をよくするとはどういうことか、市民としての実践の原点を学んだ
先生は評論家ではなかった。社会の事象に関する評価に関しては「もっと思慮深く」とよく言われた。学生時代、新聞記者が研究室にきて県庁舎移転の審議会に関して先生に取材する場に居合わせたこともあった。先生は自分の考えをはっきり話し翌日の新聞には帯刀委員がクレームとの記事が載った。先生は権力に阿るようなことは決してしなかった。その一方であらゆる立場の人と必要があればきちんと話す、立場を超えて協力して状況をよくする、という運動論というか行動学を見せていただいた。
そんな態度と重なるのが、先生の講演で度々聞いた水戸藩の藩校である弘道館の教えだ。先生は、弘道館記に記された徳川斉昭の言葉「衆思を集め群力をのべ、以て国家無窮の恩に報い」のフレーズを紹介することが多かった。学問と実践を相乗させ、党派に偏らず、みんなで考え、力を合わせ国家の恩に報いる、これが水戸の教えだと。そのことを多くの人に伝えようとしていた。
帯刀先生は常陽銀行の支援を得て地域総合研究所の再建を果たし、その所長も務められた。研究所には様々な人が相談に来ていた。先生の活動の特徴はテーマを限定しないこと。地域社会論ゼミのとき、地球上で人が関わって起きている事象、問題なら全て考察の対象になる、地域の最大の範囲は地球だとも話していた。実際、タイや韓国との関わりは深くグローバルな視点を重視していた。まちづくり、社会運動、都市と農村、環境、教育、福祉、看護、防災、災害復興など幅広い分野で研究や執筆や実践をされてきた。大学の中でも外でも人の交流を意識的に行い、豊富な人脈があったことで多種多様なテーマに応えられたのだと思う。分野縦割りの発想をせず大学の枠を超えて地域レベルで考え行動するというスタイルも市民活動の発想に近い。もう一つ市民活動で大切なのが人権、差別、マイノリティ、貧困といったテーマだ。先生はこれらの問題にも、研究者としてではなく市民として目を向け多くの人の悩みを受けとめ実践もしていた。困窮している学生や留学生がいたらサポートしてくれる人やバイト先を紹介したり、人身売買やDVで苦しんでいる海外出身の女性を陰ながら支援することもしていた。困っている人を放っておかない、できるだけのことはする、そういうボランタリーな精神を持っていた。私やコモンズというNPOが、ブレずに筋は通すことや、あらゆる人や組織と連携しようとすること、分野横断的に考える、相談ごとが来たら断らない、と言う考えで行動しているのもこのような帯刀先生の影響だと思う。
5 先生と共に立ち上げたNPOセンター・コモンズの志
経営者協会では7年間と半年、多くの企業の方から学ばせていただいた。企業の社会貢献について自主的に情報収集していく中で出会ったのがアメリカのNPOだった。アメリカでは多くの企業が専門性を持った市民団体と連携して社会貢献を行っていた。NPOは法人格を持ち寄付を集め専門スタッフを雇用していた。その人たちが仕事として社会貢献をしながらボランティアの機会を作り、ボランティアの力がアメリカの社会を動かしている。それを知った時、自分がしたいことはこれだと思った。日本でも専門性をもった市民団体が育ったら企業の社会貢献をより引き出すことができると考えた。市民が自由に活動でき法人格も持てるNPO制度はどうすれば実現するか、それを検討するため1996年に茨城NPO研究会を作り、帯刀先生に代表になっていただいた。その後2年間の立法運動を経てNPO法が国会で成立し、この法を生かして茨城の地にNPOを広めようと茨城NPOセンターコモンズを設立した。帯刀先生は引き続き代表を引き受けてくださり、NPO法を普及するためのフォーラムなどで共に県内各地に出向いた。
コモンズを法人化する際、それまで年間50万円にも満たない事業規模だったのに500万円の予算を立て事務所を借りる事業計画案を作った。すると現実味がないとかリスクが高いという指摘が相次いだ。そんな時、帯刀先生はやってみたらと背中を押してくれた。当時、市民団体で雇用されている人は殆どいない中、私は経営者協会を退職してコモンズの事務局長となり、NPOで生活していけるか自ら実験をすることにした。その後のコモンズの経営も全く前例のないチャレンジの連続だったが、実質的な経営を私に委ねてくださり帯刀先生はいつも黙って背中を支えてくれていた。それがあって私たちは必要と思ったことにチャレンジし、それを重ねることを通じて徐々に事業や組織が拡大していった。何度も危機に直面したが、それでも進めたのは、とにかく諦めずにやってみる、助けてくれる人や応援してくれる人は社会にはいる、失敗も教訓になるという先生の教えがあったからだと思う。
帯刀先生は、市民活動に社会を変える可能性を感じていた。社会は人々の意識や関係性によって変わりうるという社会学的視点と、社会は人で成り立っているという信念のようなものがあったように思えてならない。どんなに困難な状況があっても人が諦めずに知恵を出すことで状況を変えることは不可能ではない、上述の弘道館の教えにも通じる思想、そしてアノミー状態の処方箋としての有機的連帯への期待をもっていたと思う。
これらの先生の教えは今も私たちの中に生きている。今後もコモンズというNPOでの実践を通して、また先生の足跡を辿るといった活動を通してその教えを引き継ぎ広めていきたいと思う。
問い続ける自由 金子美里
2000年卒
1998年3月から2000年3月まで、茨城大学人文学部の地域社会論ゼミで帯刀先生に教わっていました。
先生のゼミに入って強く思ったのは、私は「考える」とか「分かる」という言葉の本当の意味を知らなかったなということです。それまで自分の見えていた世界がいかに狭く、「考えた」「分かった」と表現していたことが本当には考えていなかったこと、分かっていなかったことばかりだったと実感させられました。卒業して20年近く経ちましたが、いまだに「考える」や「分かる」という言葉を使うには躊躇があります。自分の見える以上に世界が広くて、さまざまな価値観があるという前提で、物事を見、自分なりに整理・判断をする「考える」という行為は特に、この先の一生体現することはできないんじゃないかなとさえ思って、悲しく情けなくなります。
先生のゼミで学んだこと、先生に教わったことは、それくらい私の思考を変えました。そのことで、自分の感じたことや思うことに対して自信を失って、辛くなることもありますが、それでも、先生に会う前の自分よりはまだ、ずっとマシだと思っています。
「人間が自由になれるのは、問い続けているとき」なのだそうです。
単に考えているつもり、分かっているつもりになっているだけじゃないのか、と自分に問い続けることは確かに苦しいことですが、それでももしかして少しは自由になれているのかもしれません。
そういう私の自由の原点を作ってくれた先生に、心から感謝しています。本当にどうもありがとうございました。
「まちは町長がつくるんじゃない!町民だ!」 下天广浩
帯刀先生との出会い、開口一番このとおり言われた(と勝手に認識している。何かの映画のようだが・・・)。
大学2年生当時、ゼミ選考理由として私は「将来、地元(岩手県葛巻町)の町長になり、より良いまちづくりをしたい。だからこのゼミで学びたい。」と先生に説明したところ、一喝。「おまえは何も分かっていない。明日から大学に来なくていい(しかし、ゼミにだけは来い!)。フィールドを紹介するから地域で学んで来い。」ガッツリ怒られた感だったが、生意気にもその時の私は至って本気。これまで見聞してきた町長こそが、まちづくりの主役だと思っていた。
その後は・・・先生の指示どおり“ほどほど”大学に通いながら、水戸市大町商店街のイベントや日立市塙山学区でのフィールド調査、先生が立ち上げたNPOの事務手伝い等、地域の方々・住民の方々の活動に触れ手伝いをさせてもらいながら、その目を借り、多くの事を感じ、学ばせていただいた。貴重な財産、糧となったことは言うまでもなく、先生の眼力にはただただ感服している(当り前だが)。
卒業後は、卒論のテーマに取り上げた地元の役場へ。先生には大学院進学の相談もしたものの「おまえは来なくていい。まず地元に帰れ。」と一言。しかし、そのおかげでめぐり合わせもよく、上司にも恵まれ、再生可能エネルギーの担当として住民との協働活動を実現、全国や世界を飛び回る充実した日々からスタートした役場人生を歩んでいる。数年後には「東海村での講演(町の取組紹介)」や「茨城大学フィールド調査」にも先生のリクエストにより対応、少しは恩返しができたかな、と思っていた。
その後、年賀状のやり取りのみだった中での突然の訃報。当然のことのように馳せ参じ、手を合わせたが、悲しみというより心の奥底に先生の熱い魂が生きていることがうれしく、感謝、気持ちは充実している。
「地域に学べ」。町内会の事務局や地元消防団・PTAの活動、野球の審判員をしながら岩手県や葛巻町の野球協会事務局を兼務する等、地域にどっぷりつかった日々を送っている・・・先生、まちづくりに貢献できているでしょうか。
もう一度、退官記念に作成した「くずまきワイン~帯刀治オリジナルラベル~」で先生と乾杯したかった・・・唯一の心残りかな。
なぜか日本をはみ出て21年、いつ燃え尽きるか?
韓国 忠北大学国際開発研究所 研究教授 根本 真嗣
茨城大学 人文学部 社会科学科 地域社会論ゼミナール 2000年 卒業
(茨城大学 大学院 人文科学研究科 地域政策専攻 2003年 卒業)
韓国 忠北大学 国際開発研究所 研究教授
私は現在、韓国にある忠北大学の国際開発研究所に勤めながら、社会的経済、国際開発協力、地域政策等に関する研究をしておりますが、その淵源ともいえる契機は、同大学名誉教授の姜瑩基(カン・ヒョンギ)先生と帯刀治先生との友情に端を発しています。1990年代当時、茨城大学助教授として務められた姜先生は、帯刀先生との思い出が沢山あるそうですが、その辺りの出来事は私の茨城大学入学前のことなので、詳しく存じるところがありません。ここでは私が地域社会論ゼミナールを通して韓国に渡ることになった前後の出来事や、帯刀先生に対する在韓中の私淑、そしてご逝去後の現在の決意といった内容をまとめてみたいと思います。これらの経験から、帯刀先生の薫陶の一部でも、その輪郭を描ければと存じます。
さて、私が韓国に渡ることになったきっかけは、直接的には当時、茨城大と忠北大に交換留学制度があり、同制度で既に留学中だった地域社会論ゼミナール院生の森下渡先輩を応援するために、2000年12月下旬に帯刀先生とゼミ生らで訪韓、忠北大では姜先生の特別講義を聴き、その講義棟で、日本では困難な学びの可能性を感じ、私も同制度で留学しよう、と決意したことでした。一方で間接的には、前年の夏に約1か月間、米国のNPO(非営利民間団体)でインターンを行い、その時に偶然韓国人学生にも会い、それまで関心をもつ機会のほとんど無かった韓国の存在が新鮮に意識されたこともありました。
その後、森下先輩と同様に、忠北大で1年間交換留学し、帰国後に茨城大学を卒業しました。それに飽き足らず2004年から2009年まで忠北大学大学院行政学科博士課程を修め、2009年から2018年まで同大学社会科学研究所専任研究員、2019年から現在に至るまで同大学国際開発研究所研究教授として務めています。特に両研究所では崔永出(チェ・ヨンチュル)所長(行政学科教授)に大変お世話になっており、私事ながら社会科学研究所で配偶者に巡り合ったのも、崔所長のおかげだといっても過言ではありません。
次に、韓国に渡って以降、帯刀先生が韓国にいらっしゃったのは、私が忠北大在学中の確か3回程だったか、そして2010年に社会科学研究所の主催した国際シンポジウムで発表してくださったのが最後になるのではないかと思います。他方、私が帯刀先生にお会いするため水戸に参上したのは、忠北大学大学院を卒業した時と(この時、既に国際開発協力に関する日韓比較研究の重要性を提示され、それは今なお私の勤める国際開発研究所のプロジェクトにも重要な示唆を与えています)、帯刀先生定年退職のお祝いの時、私が家族を連れてご挨拶に上がった時(2017年)と、忠北大学世宗国家政策大学院社会的経済リーダー課程のインターン生と共にコミュニティ・レストランとらいを訪問した時(2018年)の合計4回になるかと記憶しています。なお年賀状のやりとりはありましたが、それ以外では電話やメール等で近況をご報告することもなく、『社会運動研究入門』、『常陽アーク』や『自治権いばらき』等々で発表される先生の著作や報告書をその時々に読んだり、また検索で見つけた特別講義の公開映像を見たり、といった私淑にほとんど徹していました。私に自負できる程の研究成果が足りない、という自己評価が、地理的な距離だけでなく、心理的な距離感を取らせていたのではないか、しかし、帯刀先生にとって幾ばくかの寂しさを感じさせてしまっていたかもしれない、と思い返されます。せめて、私に掛けてくださったご生前の期待に応え、その結実を捧げたい所存です。
最後に、先生ご逝去後の現在における私の決意をまとめておきたいと思います。
第1に、仕事の任用期間も、人生も、当然今日という1日もまた有限である訳で、私の在韓も1つひとつの区切りを決めて、それぞれの時点での集大成なり、始末を付けておくべきだと再認識しました。それは最初の訪韓で感じた何らかの可能性を明確に説明することであり、関係の皆様からの翻訳、そして研究体系を論文、発表や講義等において具現化することです。これらの取り組みは日本にも寄与する内容を含み、再構成されるものです。
第2に、先に紹介した帯刀先生を含む3名の先生方を始めとして、日本(特にゼミ生や関係の皆様にも大変お世話をおかけしました)、韓国等のさまざまな人たちとの出会いや直接的、間接的なお力添えのおかげで、そして家族のおかげで、何とか私が存立しているのであり、研究の領域でいえば、それは韓国、大学内に止まらず、海外、特に日本や発展途上国、その中でも市民活動の動向に注意を払い、何よりも帯刀先生の研究成果と研究課題を未来に継承していこうとしている、という私の姿勢なり内実を、目には見えないけれども、韓国社会が懐深く評価してくれている、というのが、これまで約18年に及ぶ私の在韓経験から、そこはかとなく、しかし確からしく感じられるのです。
第3に、したがって、お世話になりながらも、決して甘くはない韓国社会において、その厳しい競争的な部分を避けるのではなく、むしろそれに正面からうって出るべく力を発揮する、そのように真価を発揮しなければならないような状況、機会までも提供してもらっている、と理解しています。どのような理由付けであろうと、それはさらに努力すべき、という結論が導き出されはしても、手を抜いてもよい、という根拠には決してなり得ないのです。
なお、帯刀先生の研究成果と研究課題に関する私なりの整理は別の機会に期するとして、その重要性について一言だけ付け加えるなら、先生の教えを韓国や海外(南米ペルー等)での私の講義を通して紹介した時、韓国の学生、公務員、社会人院生、更にはペルーの社会人学生(ウェブ講義)の反応には、大きく響いているようだという手応えがありました。そういったほんの一瞬一瞬の実感だけでも、帯刀先生が国際的にも通用する、学問的価値の高い業績を積み重ねてこられた証左と思われるのです。
『ロール』 帯刀治氏の生意気な息子のひとり 日影多加志
今年で、44になる。
帯刀ゼミを巣立ったときは22歳だったわけだから、ちょうど2倍の歳月を重ねることになる。その卒業後の22年間の道筋を常に照らし続けていたのは、間違いなく恩師・帯刀治さんの珠玉の言葉の数々であり、『自らの知らなさを知る』という叡知を授けてくださったからこその今だと、強く感じている。
私は参考文献をまったく読まないきわめて怠慢な学生だった。おまけに、ゼミのある火曜夕方を前にして昼間の飲み会があろうものなら顔を赤らめつつゼミに出席し、怒られた。あたりまえである。それでも、デュルケムやウェーバーの文献を読むより、アパートで酔っぱらい寝てしまうよりもはるかに、帯刀教授の力に満ちあふれた言葉や問いに触れる時間が宝物だった。恩師が何度も問うていたことを痛烈に覚えている。
「君たちがこの社会で果たすべきロール(役割)はなんなのだ!」、と。
我々は10年前、あの3・11に直面した。
社会人になっていた私は報道記者として、FUKUSHIMAから世界に向けて連日、ほぼ24時間にわたってニュースを伝え続けていた。そんなある日、津波で被災し、原発事故の風評被害に遭った福島県いわき市平豊間(たいら・とよま)の現場で、被災地でのNPOに尽力なさっていた恩師と偶然再会する。
「おぅ、げんきか」「はい、先生もお元気そうですね」
発災からまだ8ヶ月。言葉を交わせる時間がその程度しかないほどの混迷と慌ただしさが、当時のFUKUSHIMAと日本にはあった。恩師の表情は好々爺のていで、すっかり柔らかなご様子だった。それでも、両眼の鋭さは健在で『君はこの悲惨な現状を、どのように伝えるロールを背負っているのだ?』そう問われたように、私はひしと感じた。
帯刀治さんが、逝った。道標を失ってしまったような喪失感がある。
しかし、その恩師の急逝から1年を経た今年1月8日。初めての子どもが、私の元にやってきた。この世界、これからの社会に生きる人として、かけがえのないロールを授けられたことになる。
心から深い感謝。それしかない。
それは、この両の手に抱く我が娘のぬくもり、そのぬくもりを感じさせてくれた最愛の妻、そして我々をこれまで支え続けてくれた家族や社会に対して・・・いや違う、そうではない。社会に生きる人として、こうしたあらゆる気づきを与えてくださった、最高の恩師・帯刀治さんにこそ。
そう実感する今、あの言葉がつくづくと思い返されてならない。合掌。
※当時の写真(別段):被災地の現場にて帯刀治さんとノーネクタイスーツ姿の生意気な息子
第2の人生がそのときからスタート 株式会社ソノリテ 代表取締役 江崎礼子
2021年2月26日
先生にお話ししたことは無かったように思うのですが、私は離婚をしたとき、一度還暦を迎えたようなもの、第2の人生がそのときからスタートした、とのちに占い師さんに言われました。離婚をしたのは28歳、今51歳なので還暦というのはおかしいかもしれませんが、それくらい私の人生の大きな転機でした。その時にたまたま受けた授業が、帯刀先生の「まちづくり論」です。市民が暮らしの中で困難な場面があったときに、国に頼れない、お金もない、そういうときに市民が力を合わせて自ら行動をすることができる、それがまちづくりになる、という話だったと思います。特定非営利活動促進法が議員立法で成立をした年です。
雷に打たれたような帯刀先生との出会い、放送大学の客員教授だった先生に頼み込んで押しかけゼミ生として茨城大学に通う日々。そして茨城NPOセンター・コモンズの横田さんを訪ねなさい、と言われてNPOの世界に飛び込みました。放送大学では教養学部、教育社会学を専攻していたのに、放送大学の講義で聞く内容はなんだか地域社会について感覚が違うことに違和感を感じていたので、帯刀ゼミにお邪魔しては、こういうことなんですか??こうじゃないんですか??っていう質問を投げかけると、けしてわかりやすくはないのですがものすごく理論的に説明をしてくださいます。古典的な社会学から理論を説明いただいたような気がします(身についてないんですが)それで、自信をもって自分の考えを話したり、興味のあることを調べたり、やりたいことをやる、知らないことは教えてください、と言える今の人生がスタートしたように思います。
そのご縁で、私は世界の子どもにワクチンを日本委員会で7年半働き、シーズ・市民活動を支える制度をつくる会でNPO法改正に携わり、2010年に株式会社ソノリテを設立しました。先生や横田さんのおかげで、それはもうNPOエリート街道まっしぐらです。ソノリテは11年目に入り、20人ほどの社員を雇用する会社になりました。これから、先生にご恩返しができることを少しずつ始められたらと思っていた矢先。間に合わなくてごめんなさい。笠間に政策研究所をつくって、政策づくりや調査などを受けるシンクタンクとして活動をしていきたかったです。やっぱり笠間がいいよね~とふたりでクラインガルテンや陶芸美術館に行きましたね。小さい研究所なら、空き家を借りてソノリテで改修して、遠くから来た方は宿泊もできるような、そんな場所にしたいなと思っていました。先生のたくさんある蔵書もおけるような書斎を用意できれば。ご自宅から笠間へ通っていただく足はどうしようかな、なんて考えていました。もうちょっと急がないといけなかったですね。でも、あきらめが悪いので時間がかかっても何かしらの形で笠間に研究所を、横田さん、根本真嗣さん、斎藤義則先生をはじめ、諸先輩方のお力を借りて形にしていこうと思います。市民が主役になれる社会づくりのために、これからも私が信じる道を進んでいきます。感謝を込めて。
学問ってすごい、社会学ってすごい 草間多佳子(旧姓)
茨城大学地域社会論ゼミ2001年度卒業
帯刀先生との初めての出会いは、ゼミに所属するより前に学科で選択した授業でした。“人間は社会的な生き物である”“自己実現は他の人の期待を理解しそれに応えることによって実現されるのだ”という講義に、「そういうことか!」と感動し、もやがかかっていた視界が一気に晴れたような気持ちになりました。学問ってすごい、社会学ってすごい、と感銘を受けた当時の私は、地域社会論が何を学問するところかも深く考えず、帯刀先生のゼミを選んで入りました。
ゼミに入ってから、帯刀先生は私たちに「大人にならなければだめなんだ」とよく仰いました。何がどうなると大人になるのか正直意味がよくわからず、いつも戸惑い気味だったのを覚えています。
そういう私たちを、先生は地域社会の様々な課題に取り組む人たちのところへ連れて行き、聞いて、見て、感じ、考える機会をたくさん与えてくださいました。その中で私が多く関わらせていただいたのは、神栖のNPO法人ゼロ・ワンの郷の菅谷さんと、アートタワー・マーケットの岩田さんはじめスタッフの皆さんでした。
ゼロ・ワンの郷の菅谷さんは鹿島開発の前から鹿島地域のことをよく知る地元の方で、帯刀先生が研究活動をされる中でキーパーソンだった方と聞いています。帯刀先生は皆で集まって賑やかに楽しむイベント事を好まれて、ゼミでもバーベキューや芋煮会、タイ旅行などを企画して行いました。そういう時に菅谷さんをお招きすると、遠い神栖から喜んで駆けつけてくださり、先生と菅谷さんの信頼関係の深さを学生ながらに感じました。先生は、私たちに菅谷さんから貴重なお話を聞く機会を作ってくださったのだと思いますが、当時それを理解して機会を生かせたのかというと、できていなかった気がします。
アートタワー・マーケットは、地域社会論ゼミの大先輩方が活躍する茨城NPOセンター・コモンズの事業の一つとして、地元のみとスターライトファンタジーと水戸芸術館との協働で開催されていたフリーマーケットです。お手伝いに行って芸術館の広場の賑わいを初めて見た時は、これがボランティアで運営されているのかと、とても驚きました。先生もその時私たちにこの事業のことを説明しながら、とても楽しそうな、誇らしい表情をされていたのがとても印象的でした。私はそれから数年間、卒業後もボランティアとして参加させていただいたのですが、人や物の流れが変化してきたことやボランティアスタッフのメンバーのライフステージが移り変わり、なにより当時事務局だった私自身も出産で継続が困難となって、運営を他団体に受け渡すことになりました。ボランティアという自発的な個人の集まりが事業を継続することの難しさを身をもって経験しました。その報告をした時、先生は、それも一つの判断ではないか、と思いのほか静かに受け止めてくださいました。
時期が前後しますが、私は卒業後約3年ほど先生が代表理事をされていたコモンズで働かせていただきお世話になりました。新卒で何もわからずスキルもない私は、何か役に立たないと!という思いだけで実際は迷惑をかけるばかりでしたが、広い心で見守っていただきました。学生時代はいつも子ども扱いだったのが(実際子どもでした)、一転、社会人扱いになり、ゼミの時のように「そうじゃない!こうだろう!」と言われることもなくなって、心細い気もしました。(当時常務理事で事務局長の横田さん、副代表理事の朝川さんには、本当にお世話になりました。)
NPOで活躍する方々は、それこそ様々な課題を抱えてはいても、使命感と希望に溢れ、進むべき方向に迷いがなく、本当に格好いい方たちばかりでした。先生はいつもそういった方々に敬意をもって接し、講演などでその活動を盛り上げ、皆さんを勇気づけていらっしゃったと思います。
今私は二児の母になりました。二人とも軽度ですが発達障害の傾向が見られ、トラブルやつまづきの多い子です。この子たちを社会に貢献できる一人前の大人に育てることが今の私の一番の課題であり生きがいなのですが、意外なことに、子育てをしていて、先生の教えが生きていると感じることがたくさんあります。「多様なもの同士が認め合わなければならない」「合理的配慮」「多数派の考えが正しいとは限らない」「わからないことはわかる人に聞け」...先生の言葉が私に方向を示し、支えになってくれます。ボランティア、NPOでの仕事から行政の中での仕事への転職、子育て、いろいろな経験を経て、本当に私が大人になったと思えた時、先生ともっと深く楽しく話せる時が来るだろうかと思っていましたが、実現できなくなってしまったのはとても残念としか言えません。でも、自分は何ができるのか、何をすべきなのかを考えて生きていくことをあきらめないでいたい、そう思っています。
帯刀治先生を偲び
公務員ランナーより
「ちょい厳しそうだけど、この先生なら、研究テーマは自由にさせてくれる」
こう判断し、帯刀先生に教えを乞うことに決めたのは、大学2年時の確か「基礎演習」(ゼミの真似事のようなもの)の時だったと思う。
いざ3年次!テーマは自由でも、毎週のゼミはそれ相応に厳しいものだったと振り返る。合宿研究では、地域の方のお話を聴くのは楽しかったが、これといった功績は残せなかった。
ある週は、書籍の読み解きの番が当たり、ゼミの際に要約書を配らなければならなかったのだが、これが要約の前段階、そもそも理解に至らないのだ!夜通しガストで打ち込んだにもかかわらず(笑)
と、自分の好きなようにやりたいのが理由で門をたたいた帯刀ゼミは、意外にも(というよりは当然)、甘いものではなく、これといった成績も残せなかった。
仕上げた論文『街路空間の再構築の可能性』は、ヒアリング調査と自分なりの考察を入れ込むも、卒業評価は「その可能性をどう具体的に示すのかが、あなたの課題」。学生の限界を感じた。
卒業にあたり先生は、「アイツは地元(愛知)に帰るぞ」と誰かに話していたらしい。それは結局大当たりであったが。
地元愛知で始めた仕事は、いわゆる「物売り」。それも7年後にひょんなことから退職し、色々あって、今、縁もゆかりもない兵庫県明石市の地域社会と対峙することになろうとは、卒業時には考えも及ばなかった。
明石に来て11年になるが、2020年1月8日のお別れを振り返るとき、きっと、あのガストの夜のことや、同期ゼミ生に助けられたこと、論文の「残された課題」のことなど、「オマエは、まだ何も成し遂げてないだろう」と、常陽亀山記念館からの叱咤激励が聞こえてくるように感じる。私をこの地に呼び寄せたのは、先生なのかもしれない。
お別れの帰り、少しだけ今風になった大学図書館のサザコーヒーへ。しかし先生、このコーヒー美味しいですやん。お気に入りだったことが頷ける。
同月26日、学生時代に毎年出ていた勝田全国マラソンに出場(3時間50分26秒完走。大学4年時のタイムを上回る)したが、そのゴール直後でさえも、サザコーヒーの美味しさが恋しくなり、妻とともにすぐに本店へ。結局、茨城滞在中は毎日サザコーヒー。
今は新型コロナウイルス感染症による緊急事態やら何やらで世の中がかまびすしいが、落ち着いた時には必ず、第2の故郷・茨城へ飛びたい。そしてサザコーヒーの香りに、明石に呼び寄せたであろう(?)先生を思い返し、自分の原点に戻る時間を過ごしたい。時にはすごく苦く感じるだろうが。
先生、ちなみにどのコーヒーが好きですか。
コミュニティ、生涯学習、地方政治の導師
元日立市職員、塙山コミュニティ役員、日立市議会議員 伊藤智毅
「集衆思宣群力以報国家無窮之恩」は、弘道館記の一節で、日立市議会議員になった時から政治的リーダーに求められるものとして先生から絶えず指導されてきたものです。先生との出会いは、1975年、日立市役所市民活動課職員時代に遡り、「コミュニティ」に対して長期的にアドバイスを受け、庁内各課をはじめ職員研修でも数多く講師を務めていただきました。
居住地の塙山コミュニティでも1980年の会創立記念講演会講師に始まり、リーダー研修会や「まちづくり進歩住夢」などのコーディネーター、視察研修では出羽三山の月山にも講師として随行され、継続的に指導を受けてきました。
社会教育課職員時代の1986年からは、全国的に先導的でユニークな生涯学習となり、市民と行政の協働の基本型となった「百年塾」の推進計画策定から市民と行政一体型の推進本部立ち上げから具体的な事業展開まで一環して「integrated lifelong learning(統合的な生涯学習)」という理念を中心に、指導助言をいただきました。
お陰で百年塾は全国区となり、私は文部省(当時)の生涯学習関係委員にもなり、全国から視察者は年間50回以上、千人を超えました。北は北海道白老町から西は鳥取県まで30を超える県、市町村へ講演会講師として出かけました。
1999年からは、県内の市町村議員で構成する「政策フォーラム茨城」でも当時東海村長村上達也さんと共に政治スクールなどの講師としてご指導をいただき、軽井沢セミナーにはご夫妻で参加された思い出があります。
2001年には村上村長と親交があった当時水俣市長の吉井正澄さんの水俣市を村上村長と共に帯刀先生、斎藤先生、雨宮先生たちと調査で尋ね、翌年に日立市と鹿嶋市で吉井市長を招き、帯刀先生がコーディネーターを務め、村上村長との対談形式のフォーラムも開催しました。
2001年、茨城大学大学院(人文科学研究科)に社会人入学した2年間は、帯刀先生をはじめ斉藤先生、雨宮先生にもご指導を受け、1999年から4年間は私の自宅に併設した「交流サロンCOA」で開催した「ひたち未来研究会」のアドバイザーや講師として50回開催した研究例会に齋藤先生や雨宮先生と毎回のように出席していただきました。
2000年まで茨城大学工学部の「こうがく祭」で10回開催した「ひたち未来シンポジウム」でもコーディネーターとしてご協力いただきました。茨城大学地域総合研究所の年報をはじめ、「企業城下町日立のリストラ」「日立地域の現状と未来」「日立電鉄線存続問題と地域社会」など日立市関連の時機に合わせた出版事業も協働で進めてきました。
このように、先生からは、私が日立市役所職員時代の1975年の出会いから1995年に日立市議になってからも含め約44年間の長きにわたり知的交流をとおして多くのことを学ばせていただきました。
先生は、私にとってコミュニティ、生涯学習、地方政治など幅広い分野において、まさに導師であります。政治的リーダーに求められる「集衆思宣群力以報国家無窮之恩」を肝に銘じ、引き続き精進していきたいと思います。(感謝)
一ゼミ生としての責任 岡崎浩導
地域社会論ゼミでは、先生からは社会学それ自体はもとより、それを活かして実際に社会をどのように良くしていくかという実践とその姿勢を教室内外で学んだように思います。
あれから20年が経ち、今その期間を振り返ると、ゼミで学んだ事が、如何に自分のその後の人生に影響があったのか、という事を再認識させられました。
今年2月、日本製鉄鹿島製鉄所の高炉、2本あるうちの1本を数年以内に操業停止するという発表がなされました。このニュースの第一報を聞いた時、帯刀先生の事がまず初めに思い出されました。
私自身も仕事で実際に鹿島製鉄所と深く関わり、継続して訪問させて頂いていた身としては、その急な決定に驚きと共に残念な気持ちでいっぱいになりました。
先生にとって、茨城が研究対象地域となるきっかけとなった鹿島開発。そこでは先生は、当時住友金属を中心とした企業による開発を、地域社会に入り込み、その影響による変容を見定め、時には発言・提言をされ続けておられました。
今、この新しい状況に対し、先生ならどう考え、行動されるのか?それを意識しながら自分自身が行動する。それが一ゼミ生としての責任のように感じています。
岡崎浩導 (地域社会論ゼミ 2003年卒業)
わら半紙の匂いに誘われて Smell design park(偕楽園) を識る
南雲克雅
地域×社会というタグの掛け算で選んだ茨城大。大学2年の時に地域社会論の講義に潜入し、開始30分は配布されたモノクロのわら半紙を先生がひたすら読みながらの授業。これは眠い。教室の半分が寝ている。そして30分経過。いきなりブチ切れ出す帯刀教授。笑 「君たちはこの黒板と稼働性のない硬い椅子で授業させられているという環境、体制に立ち向かわないのか!」と。完全に心を持っていかれる。そして地域社会論ゼミを選択。2年間大変お世話になりました。
卒業後、高校の後輩の前で話をする機会が何度かあり、その都度「大学は、どんな教授がいるのかで卒業時の能力が決まる」「偏差値ではなく教授で大学を選べ」と助言しています。帯刀先生の存在は自分の学生生活に大きなインパクトを与えて下さいました。
ここで、帯刀先生から教わり、いまだに記憶に残る2つの事を紹介させて下さい。
① 社会的地位の不一致
どんなに社会的に役職が高く、地位のある人でも、人間的に素晴らしいかどうかとの相関関係はあまりない、というお話。学生時代に先生のコネで県庁・役場・商店街の方に様々お会いしました。その都度、この言葉を思い出し、真に人間的に本質的な動きをされている方なのか、単に肩書にぶらさがりながら地域社会に足突っ込んでるだけの方なのかどうかを見極める際の参考にしました。いま、出身の新潟県の関係人口を増やすための県人会を主催しています。企業の方、行政関係の方、様々な方が関わってこられますが、社会的地位の不一致を感じることが度々あります。常に地位・肩書関係なくフラットな場を継続するべく、今後も先生の教えを胸に貢献していければと思っています。
② PRの意味
卒論テーマを「地域情報」に設定し、水戸のコミュニティFMで2年程生番組を制作していた身分として、このPRの考えは最も記憶に残る先生の教えでした。単に一方方向の情報発信をすればよいという話ではなく、PR=Public Relations=公の関係構築であるということ。情報のやり取りだけではなく、「人」同士が交流し理解し受け入れ合うことをしなければ、真にPRではないということ。いま、企業や地域のPR・求人情報発信・採用活動のコンサルティングを本業としていますが、常に血を通わせる人と情報の発信と交流を大切にしていきたいものです。
最後に。私は、経産省の委託事業として福島の原発被災12市町村内にある企業約500社の人材採用支援プロジェクトに2016~2021年まで5年間参画しました。1999年に発生した東海村JCO臨界事故後にずっと被災地域の社会研究を続けてこられた帯刀先生が、今後の福島の復興においては何が課題であり何が必要なのかと考えていらっしゃったのか。是非、伺いたかったです。これについては、これまで先生から教わったことをもとに、自ら見つけていこうと思っています。本当にありがとうございました。
帯刀先生が生涯統合学習に果たした役割
宇野点子
私にとって一番印象に残る帯刀先生の言葉は、「生涯学習は、生涯と学習の間に『統合』がある」という言葉である。それ以上語らないが、この言葉を輝いた顔で熱く語る姿がまるで昨日のことのように鮮明に脳裏に浮かぶ。ご遺稿となってしまった「自治権いばらき」の中でも、生涯統合学習の推進が述べられているが、では生涯統合学習とは何なのかという疑問が残った。
ユネスコが出版した、生涯統合学習と大学の果たす役割についての報告書には次のような記載があった。
① 生涯統合学習は、多種多様なため、一言で言い切れない。
② 大学の果たす役割は、学生が学外で学ぶことを推進することと、労働者に大学設 備と学問を解放し、よりよい仕事ができるよう支援すること。
この観点で帯刀先生の行動を振り返ると、先生は地域社会に赴き、市民に適切な情報提供をして意思決定を促すという教授としての役割と、学外の人々との交流から学ぶというご自身の生涯統合学習の実践をしていたといえる。また、大学教授も労働者である。先生は、労働者として地域という学習の場から学び、その内容でよりよい学問を作り上げたと見ることもできるだろう。
これらのことから考えられるのは、帯刀先生の人生そのものが生涯統合学習であり、ご遺稿全体が生涯統合学習のテキストなのだということである。学問や交流から学び、人生と統合させることによって、課題を克服し、生き甲斐や喜びを創造していく。どんな困難にも批判にも負けず、信念をもって日々淡々と仕事をこなしていくことによって、言葉で語り尽くせない生涯統合学習を態度で示したのである。
態度で私たちに伝え続け、ご遺稿を読んだ人達に「広げよ」と託された生涯統合学習。最後に、もうひとつ私の心に残る言葉に「この世界では、どんなに完璧に真似ても偽物は最下位。自分の専門を確立せよ」がある。私たちそれぞれが専門を持ち、生涯統合学習の中に生きる。それが先生からの宿題であり願いなのだと思う。
「来し方・行く末」の由縁 石井彩子
「後ろを振り返るな」
卒業のときに先生から言われた言葉です。その際,大学の人間関係や思い出にしがみつくことなく,新しい環境へと羽ばたくように…。とも言われました。
また,先生と会うときには,「こんなことをしました!」「こんなことをしています!」と,ちょっとは胸を張って報告できる自分でありたい,という思いもありました。
そんなこともあり,卒業以来,ゼミの同窓会や同期会というものを,全くしてきませんでした。
卒業から30年経った頃,もうそろそろいいのではないか?という思いが湧きました。そして,ゼミの同期で集まる話がまとまったある日,水戸のまちなかで「とらい」のお弁当を自転車に乗って配達されている先生とばったりお会いしました。このチャンスを逃しては!と,東京での同期会にお誘いすると,先生は快く承諾してくださいました。
東京・上野での同期会は,偶然が重なり,数年上の先輩方との合同によるプチ同窓会になりました。先生はその席でのご挨拶用にと「帯刀治の来し方・行く末」というタイトルのメモを用意されていました。また,そのメモを完成させるまでの下書き原稿(手書きで何稿もの!)を見せてくださいました。図々しいと思いながらも,咄嗟に,「下書きの原稿も含めてメモを頂けませんか」とお願いし,その原稿は現在私の手元にあります。
原稿には,先生ご自身の「来し方」を様々な角度から振り返ってこれまでの業績をまとめたものもありました。読み返してみると,先生が「プチ同窓会」を心待ちにしてくださっていたことが分かりました。「同窓会」なんて後ろ向きなことやるんじゃない,先生にそうお叱りを受けるのではないか,と思っていました(そのようなお気持ちもあったかもれませんが)。
また,先生は,プチ同窓会に参加する教え子たちに「何か」を残したい,とお考えになったようです。水戸のまちなかで先生をお誘いしたときからプチ同窓会の前日までの約3か月かけて原稿を練り直し,ご挨拶を考えてくださった。そのことを思うと,本当に有難く,切なく,心に沁みる思いです。
この機会に,先生の「思い」を皆様と共有したく,プチ同窓会での先生の挨拶メモ・下書き原稿を収録させていただきました。なお,収録するにあたり,プチ同窓会に参加したメンバーが先生の手書きの原稿を分担して書き起こしました。
帯刀治の来し方・行く末 帯刀治
私の来し方・行く末
帯刀 治
はじめに
このような望外の機会に声をかけてもらって本当にありがとう。3月末の田川さんからのTel.以来,週2日のコミュニティ・レストラン「とらい」での弁当づくりの手伝ワーク,月1の茨城地方自治研究センターでの理事会,月例研究会等そっちのけで,6月16日(土),東京上野不忍池口をどれだけ想起したことか。
もう8年も前にのことになるのだが,2010.3末をもって25才から65才まで40年も在職した茨城大学人文学部大学院の教員を退職し,やっと故郷出雲に帰省して,過疎地域の振興を手がけるNPO法人を出身高校の同級生たちと立ち上げる準備中に,あの2011.3.11の東日本大震災・大津波・液状化被災,東電福島第一放射性物質流出事故が発生した。茨城大学・同大学院人文科学研究科地域政策専攻修士課程でも地域社会論研究担当教授だったし,東海村のJCO臨界事故に関する調査研究の結果をまとめた『原子力と地域社会――東海村JCO臨界事故からの再生』という本も出版していている学長だから…ということで,私が副理長に就任している「茨城県地方自治研究センター」を通じて,岩手・宮城・福島の同研究センターから,被災地域の現地調査,原発事故周辺地域の市町村からも,とにかく現地に来て調査なり,被災地域・住民へのアプローチのしかたについて指導してほしい旨の要請が繰り返し届けられ,それに応えざるを得なかった。
私にしてみれば
私の行く末――2018(平成30).6.6
帯刀 治
はじめに
2010(平成22)年3月末に茨大教員を定年退職して8年余,その間,2011.3.11の震災津波,液状化被災,東電福島原発事故等大災害があり,その被災地域・住民調査の最中に常磐大学コミュニティ振興学部のコミュニティ論担当特任教授に任用され,2016.3まで講義と演習を担当した。
被災地・被災住民の調査を続けながら,防災政策の立案を茨城地方自治研究センターの調査研究担当の副理事長と進めていた年度末,3月末に田川君からゼミの同窓会を6月頃に開催したいので,上野に出かけて来てほしいのだが,とのTel.があり,O.K.と返辞して3カ月半が経過した。この間地域社会論ゼミの活動を思い出したり,メンバーたちのことを想起したが,昔の指導教員だったとしても,何を今更何を?といった思いも皆無ではなかった。
ゼミのメンバーには,その当時から承知済みだが,教員として十分な振る舞いは何ひとつやらず,やれ日立だ,鹿島だ,つくばだとか,水郡線沿線の大子だ,大宮だといっては,夏休中に5日前後の地域社会・住民を対象とする調査に強制参加させられ,その報告Repotsを何度も書き直しさせられて…,こんなゼミ卒業生の(皆の)集まりに,昔の教員でしたとノンキに出かける立地ではないことを充分承知しているつもりです。
ただ,幾分言い分けがましくて,恐縮ですが,私の社会学・地域社会論の講義内容とゼミナール指導の成果は,茨大人社の中でも可成りユニークなもので,1974(昭和49).4(30才)から2010(平成22).3(65才)までの35年間のゼミナール生は訳250名位いとなるけれども,その殆どゼミ生は,その後に地域調査は面白かったし,勉強になったとの感想を届けてくれていた。
だから,ゼミでの古典講読も現地調査も,誰れが何と言おうとやり切ってきたのである。それによって日本社会学会という専門家集団というか,組織においても,帯刀の調査研究成果は高く評価され,何んと「帯刀の調査研究は,まだその緒に就いたばかりだが,実りある展開を予感させてくれる」(水野節夫(法大社会学部教授)『現代社会学辞典』⦅有信堂⦆1984)と高く評価されていた。(1977年に印刷・出版され
た私の論文が‘84年,つまり7年後にやっと日本社会学会で評価されたのだ。)
そのように“実りある展開」への「予感」に応えるべく,今しばらく,茨城地方自治研究センター副代表として,被災地再生projectsの担い手として,地域社会の調査・研究を続けてゆくつもりです。
本日は本当にありがとう。
私たちの〈行く末の〉一つとして,例えば,根本真嗣さんのところでこのゼミ同窓会というのはどうかしら?
まとめ(というか)我が行く末
てな具合で,副理長として被災地再生,新たな地づくり事業をsuportしている茨城自治研センターでのReserch Worksは,今しばらく継続して,その実質的成果を挙げなければならない。代表を務めるNPO法人とらいは年内or2019.3で解体されその任を終えることになっている。
退職した先輩大学教員のその後の振舞いについては,私の指導教授北川先生を始め沢山の事例を承知しているつもりだが,私には私なりの展望なり,取り組みにTryしてゆくつもりだ。
それは2010.3or2016.3以降の私がやや大げさには第2の人生について,その後何年残されているか不明だが,その総括を納得できる形でやり遂げるというか,ここまでは何とか達成した―
―という点を解明すると同時に,尚,残される沢山の調査研究の課題については,茨大人文社会なり,大学院地域研究修士課程の教え子さん達に委ねることになる――を広く,正しく,深く認識して,この完全Free期を送ってきたつもりだし,そう願っていることをこの2カ月半余りの間,アレ・コレ考えながら過ごして来ました。
こんな出来そこないの私なんかに,皆の大事な青春期のひと時を,やれ“Reserch Works”だとか,“Text Critiq”だなどといってヤッカイな知的作業の返しでお付き合いいただのにもかかわらず,あれから数年あるいは数十年も経た今日,ここにご参集賜って,こんな望外な機会を提供してもらったことに,どうお礼すれば良いのでしょうか。
昨年度末から昨深夜まで,Rewrightを重ねたこのメモも,全々不出来のままに,でもこれが今の私なのだから,やはり以前と同様にその時の私を在りのままに…としか,我が考えや思いをお伝えするしかないのでした。ゴメンなさい。お礼のごあいさつより,おわびの方が先きでないと,それこそマズイわけで…その許しを得ない前に,自己都合だけの〈来し方〉をいかに振り返っても,また同じことを繰り返しているだけのこと――との思いが強い。
我が〈行く末〉について,まさにお礼を込めて,残された課題の幾分なりともクリヤできれば…といったところが正直な思いです。とか話してみても,しょせん成果というより課題ばかりが多く残された元教員の良し無し繰り言にすぎず,またおなじことの繰返えしだとしか聞けないでしょうか…それもまあ長いお付き合いの因果と思っていただいて,宜しくお付き合いの程,お願い申し上げます。
私の来し方&行く末
For 2018.6.16(土)
私が今ヤッテいるのは、NPO法人とらいの代表、茨城県地方自治センターの副理事長で、NPOとらいでは、月・水の週2日キッチンで弁当のおかず調理の手伝い。自治研センターは月1回理事研修の指導というか、被災地調査研究のcheck。
どれも以前からのworksで、マア気楽というか、これまでの私の調査研究の結果なり、成果から、気づいたことを話しているにすぎない。
ただ、2010.3に茨大教授を止めて、2011.3.11直後から、茨城県北・福島太平洋沿岸の震災・津波・液状化被災地、東電福島第1原発放射線物質流出地域・被災住民に関する自治研Cの調査。それは今も継続しているが…
それは結構大変で、時間も取られ、東海原研事故関連etc.など従来の調査不備を認識せざるを得ない多数の事項が存在し、東海原研のプロたちに、ヒヤリング調査をヤリなおす機会もある。
私は、茨大・人文の地域社会論ゼミで、皆の大切な青年期の学習時間の大半を、ソレ社会学古典のText Critigだ!、地域社会と住民のResearch Workだなどと言って、ケッタイな知的作業を強いただけだったにもかかわらず、ここにご参集いただいて、こんな機会を提供してもらったことに、どうお礼したら良いのか。
我がゼミは、茨大人社の数あるゼミの中でも、古典的文献の開設、E.Durkheim&Max.Weber,Chicago School Urban Research Studies etc. 日本の農村、都市社会学の批判とか結構ヤッカイな文献講読をさせられ、その上、春休み、夏季休業期間の大半は、ヤレ日立だ、鹿島だ、筑波研究開発都市だ、いや水郡線沿線の県北過疎地域等の現地調査とその報告書作成をやらされて、ほとんど休みはないみたいだゾーとの批判が他学部の教員などからも「先生、ゼミ生をシゴいているようですが、大丈夫ですか。そのうち、居なくなるのでは…」といった心配というか、余計なおせっかいを聞くこともあった。
私がゼミ生たちと茨大在住中に達成したOriginalな地域社会研究&地域社会論は、次の3点だ。
その第1は、「E・デュルケムにおける都市・地域社会研究の理論的方法論的基礎」。デュルケムは19C末から20C初頭のパリを中心とするヨーロッパ都市がいずれも深刻な都市問題・都市病理に直面して、”Anomie”状態に陥っており、その状態を克服するには社会分業の道徳的承認に基づく有機的連帯(Solidalite Organigue)の形成が不可避だとする都市論を構築していた。
第2には、企業城下町日立にせよ、コンビナート鹿島にしてもそれはどれも”Worker’s Community” (労働者地域)として存在しており、そのW.C 形成の内実を解明することなしに、その今後の発展を見直すことはできない。だから日立では塙山コミュニティのまちづくり活動を!また鹿島では、アントラーズのホームタウンづくりを担うインファイトがHome Game Farmerを育て、Tele Workerの結集を促すことが大切だとの見解を明らかにした。
第3には、私がM.E.R研究と略称している”Man &Environment Relation Studies”である。それは人間の労力と生活(Works&Life)、その環境(自然Natural社会Socio人工の物的都市環境Man made Physical Urban Environment)の相互規定性に関する調査研究の新たな概念、分析枠組の構成が必要で、その理論的方法論研究を家庭と近隣からなるHome Baseと都市空間(Urban space)における人間の空間認識と空間行動のパターン分析によって明らかにすべく、被災地域と住民組織の復興・再生事業に資するM.E.R研究というテーマで具体的に進めている。最中だ。
被災地のNPO法人リーダーや自治労・自治研センターのスタッフから、「先生の”M.E.R研究だとか、worker’s communityとか、Slidalite Organigue の英語やフランス語の専門用語は良くわからないけど、結局いままでのヤリ方ではダメで、新しい考え方を被災地の実情に合って再生方策を自前で実行しないと…どうにもならない!といっているワケだネ」
これが良かれ悪かれ私の2018.6半ばの自己・他者評価の実情で、被災地再生に資するMER研究の完成には、集中力が問われるので、NPO法人とらいは年内or年度内には解散し、自治研の副代表は、まだ被災地調査量確保のためにも、もうしばらく(といっても2020まで)だが、続けていると思います、
とにかく、今日はこんな㐂ばしいというか、嬉しい機会をありがとう。
帯刀治
そんなご多忙中のこの3月、田山さんから同窓会のTel.が入り,どうしたことかと思慮しつつ、昔のお教え子さんたちの現況を知る良い機会ではとか考え,この望外の機会に期待した。
おそらく、この年代あたりで定年を迎えられ,一息入れて、次の人生を!とお考えになる方たちもおいでになるだろう。その方たちの来し方&行く末について、一寸した思いもおありだろうから…と考えて,それではひとまずそのお相手位いは、とか思いながら本日に至った次第です。
感謝の辞
Thank your That yore support for my Research
My Original Research Plan and it Good Results.
1.E.Durkheim’s Sociological Studies of Urban.
2.Worker’s Community in HITACHI&KASHIMA.
3.Man Environment Relation Studies(M.E.R)
帯刀 治の来し方・行く末―2018.6
73.8才 帯刀 治
地域社会論ゼミ同窓会を開きたいので6月16日土曜午後を空けておいて!だか、来られますか?とのTel.があったのは3月末頃だったか。
2010.3に茨城大学人文学部、大学院人文科学研究科地域政策専攻修士課程、地域
社会論研究担当教授を定年退職。
その後、茨大人文、松戸と竜ヶ崎に立地する流通経済大学社会学部、常磐大コミュニティ振興学部等で非常勤講師や特任教授を勤めていた最中の、そうです、あの2011・3・11、東日本大震災・大津波・液状化被災・東電福島第一原発の放射性物質流出事故発生。直ちに私が副理事長を勤めていた「茨城地方自治研究センター」による被災地域及び関係市町村の行政・住民団体への調査を開始したのです。
それからは2016.3まで常磐大学コミュニティ振興学部、コミュニティ論・同ゼミナール担当の特任教授就任等々、それこそ目ま粉(ぐる)しい年月を送って、ひと息入れたい気分の折りに、今日の同窓会の働きかけがあった-という次第です。
ゼミ同窓会などといわれても、マスター終って伏任した茨大人文、社会では1969(昭和44)年4月25才で社会学教室助手(一応文部教官)で、マスコミ論の古田ゼミ・産業社会学の佐藤ゼミ生たちにも教育指導が必要だったから、それを5年ばかり続け、1974(昭和49)年4月30才で地域社会論担当の専任講師になって地域社会論ゼミナールの開設後のゼミ生からがそのメンバーとなり、それから65才(2010.3)になった35年間のゼミ生250名?位いがその会員となる?のでしょうか
茨大での調査・研究、教育指導の成果と課題といった観点からすると、先ず、私の理論的研究では、(K.Marx)、(M.Weber)、“E.Durkheim”の地域社会研究・都市論についての比較研究によって、デュルケムが19C末から20C初頭のヨーロッパ都市について、それが広範かつ深刻な都市問題や都市病理に直面して“Anomie”(無規制)状態に陥っており、そのアノミー状態を克服するには「社会分業」による「職業的専門分化」の「道徳的承認」に基づく「有機的連帯(社会)」の形成が不可避である!とする「E.デュルケームにおける都市・地域社会研究の理論的方法論基礎とその実証的成果」について発表した。
<これが私のoriginalな理論研究成果の第一!“as My original Research Results”>
<第二には>
「労働者のコミュニティ」の在りようが「労働者階級の社会的性格」を規定するという問題意識から「従来の研究において『会社町』(=企業城下町)と把握されてきた日立地域と『コンビナート』の立地する地域と捉えられている鹿島を『労働者地域(Worker’s Community)』 と理解しなおし、そこにおける労働者・住民の社会的性格の同異性について比較研究しよう」と試みている。この「コミュニティと接続させたかたちで社会的性格を位置づけようとする帯刀の調査研究は、まだその緒に就いたばかりだが、社会的性格論の実りある展開を予感させてくれる」。(水野節夫「社会的性格」『現代社会学辞典』1984有信堂)
これが、私33.4才の時、何と7年後だった。1977.8「機械工業労働者地域と化学工業労働者地域の比較研究―日立地域と鹿島地域における住民の社会的性格」(『(茨城大学)地域総合研究所年報』第10,11号)である。
<第三は、
“Man & Environment Relation Studies”(M.E.R研究)。これについては、まだ日本の分野別学(自然・人文・社会)のどの学界でも、また地域総研といったその統合を目的とす研究機関でも今いち反映がなく、「調査研究課題としては、相応の妥当性をもつ提規だと評価できるけれども、それの総合化なり、Integration(統合)には完成できていない!と判断せざるを得ない!」とのことである。
ただ私としては、Self-OtherとかI & me frame workなど、従来までの伝統的社会学理論に+(プラス)して、人間(Man)のWorks & Life(労働と生活)と環境(Environment)(つまり自然(Natural)・社会(Socio)・Man made Physical Urban Environment(人工の物的都市環境))の相互規定性に関する新たな分析枠組“New Frame work”が必要であり、それを欠く調査研究はもはや何等の結果も残せない!との見解を示していたのです。
p.5
以上が私の茨大在住中の研究成果ですが、茨大定年後の2010.4以降8年余りも経過しているが、この間における私自身の調査研究実績というか、結果は今から振り返ってみると、オフィシャルには(公益社団法人)「茨城県地方自治研究センター」の(調査)研究担当副理事としての役割であり、その中味は、2011.3.11〜の「東日本大震災・大津波・液状化被災および東電福島第1原発放射性物質流出事故の被災地域の調査・研究」がその大半であった。
それらの調査結果については、自治研センターでの月例研究会で報したレポートなり、小論文の形で小冊子に残されており、それはおよそ次のようになっている。
まず、震災直後の2011.4から被災地域・住民団体への現地ヒアリング調査を開始し、その中間報告というか、中間的取りまとめは、同年7月末の「(公開シンポジウム)大震災と防災*茨城からの発信」において主催者を代表して帯刀「茨城における大災害と復興の課題−大震災・大津波、液状化被災、東電福島第1原発放射性物質流出事故対応と新しい地域協働社会形成−」(2012.7.28)であり、その概要は以下のごとくであった。
Ⅰ. 茨城における大震災と復興の課題
1. はじめに既存「防災計画・避難訓練」の機能不全
2. Volunteer Group, Community, NPO, etc 住民団体との新たな関連・「協働」
3. 調査結果から提起された課題
1) 自治体防災政策・計画・体制の抜本的改革
2) ヴォランティア・コミュニティ・NPOとの連携・「協働」
まとめにかえて「集衆思、宣群力、以報地域(原文のママ、本当は「国家/國家」)無窮之恩」(『弘道館記』より)
Ⅱ. 都市再生に資するM.E.R研究からの課題提起と地域政策(2013.10)
はじめに
1. 水俣「環境モデル都市」づくりの取り組み
2. 神戸市の震災復興過程で争われた問題
3. 東海村におけるJ.C.O臨界事故からの再生
4. 震災復興・都市再生に資するM.E.R研究からの課題提起
1) 「ホーム・ベース」(Home Base = 「家庭」と「近隣」)での人間と環境
2) 「アーバン・スペース」("Urban Space" = 「都市空間」)での人間と環境
3) 人間の空間行動と都市環境
5. 震災復興・都市再生に必要な地域政策
まとめにかえて
Ⅲ. 「震災復興とまちづくり」(2015.3)
はじめに
1. 神戸の震災復興過程での争点
1) 復興政策・事業展開に対する行政と被災市民の「ズレ」
2) 「市街地再開発」と「土地区画整理事業」をめぐる「ジレンマ」
3) いわゆる「マイノリティ」(少数派)への視座
4) 都市開発の制御・成長管理の必要性
5) "Sustainability"サステナビリティ(= 「持続可能性」)についての
理解と認識
2. 東海村が教訓とした水俣「環境モデル都市」への取り組み
1) 水俣市の「環境モデル都市づくり」
(1) 「エコ・タウン」の形成
(2) 情報発信と「環境研修交流」機能の強化
2) 東海村におけるJ.C.O臨界事故からの再生
(1) 「地域イメージ」をめぐる問題
(2) 「リスク・コミュニケーション」と「地域一体化」
(3)新たな「地域課題」に先進的に取り組む「モデル地域」
・「持続可能性」(Sustainable)と「環境共生」
・自然環境の保全に関する世代間交流
・「歴史的誤り」を超えて
・水俣・神戸・東海からの学び
付 日立・塙山コミュニティの「総合防災計画」(概要)
むすびにかえて
−Life long Integrated Learning (生涯統合学習)の必要性−
まとめ(というか)我が行く末
てな具合で,副理長として被災地再生,新たな地づくり事業をsuportしている茨城自治研センターでのReserch Worksは,今しばらく継続して,その実質的成果を挙げなければならない。代表を務めるNPO法人とらいは年内or2019.3で解体されその任を終えることになっている。
退職した先輩大学教員のその後の振舞いについては,私の指導教授北川先生を始め沢山の事例を承知しているつもりだが,私には私なりの展望なり,取り組みにTryしてゆくつもりだ。
それは2010.3or2016.3以降の私がやや大げさには第2の人生について,その後何年残されているか不明だが,その総括を納得できる形でやり遂げるというか,ここまでは何とか達成した―
―という点を解明すると同時に,尚,残される沢山の調査研究の課題については,茨大人文社会なり,大学院地域研究修士課程の教え子さん達に委ねることになる――を広く,正しく,深く認識して,この完全Free期を送ってきたつもりだし,そう願っていることをこの2カ月半余りの間,アレ・コレ考えながら過ごして来ました。
こんな出来そこないの私なんかに,皆の大事な青春期のひと時を,やれ“Reserch Works”だとか,“Text Critiq”
だなどといってヤッカイな知的作業の返しでお付き合いいただのにもかかわらず,あれから数年あるいは数十年も経た今日,ここにご参集賜
って,こんな望外な機会を提供してもらったことに,どうお礼すれば良いのでしょうか。
昨年度末から昨深夜まで,Rewrightを重ねたこのメモも,全々不出来のままに,でもこれが今の私なのだから,やはり以前と同様にその時の私を在りのままに…としか,我が考えや思いをお伝えするしかないのでした。ゴメンなさい。お礼のごあいさつより,おわびの方が先きでないと,それこそマズイわけで…その許しを得ない前に,自己都合だけの〈来し方〉をいかに振り返っても,また同じことを繰り返しているだけのこと――との思いが強い。
我が〈行く末〉について,まさにお礼を込めて,残された課題の幾分なりともクリヤできれば…といったところが正直な思いです。とか話してみても,しょせん成果というより課題ばかりが多く残された元教員の良し無し繰り言にすぎず,またおなじことの繰返えしだとしか聞けないでしょうか…それもまあ長いお付き合いの因果と思っていただいて,宜しくお付き合いの程,お願い申し上げます。