標高400mにある尾首の池は、江戸時代より地区の水瓶として農業を支えてきました。
尾首地区には、大小合わせて40を超えるため池が確認されており、そのうち約半分が今でも水を湛えています。
旧小田地区の中心部が一望でき、晴れた日には遠く石鎚山をも望むことができる絶景の地でもあります。
最近では、地元の有志によって、尾首地区の素朴な美しい農村景観を生かしながら、池の畔で春祭りなどのイベントが行われています。
立石八ッ松・相野にある枝垂れ桜は樹齢60年。地主の竹崎氏が息子さんの誕生を祝い植えられたものです。
枝振りが非常によく、池の水面に映る様は見応えがあります。
見頃は、3月下旬。見頃になるとライトアップも行われます。 写真は、鏡のような池の水面に映った相野の花。日の出の時間にしか出会えない風景です。
祭神 菅穂積神・少彦名命
河内神社と飛天神社とを合祀した神社。河内神社は仁和のころ、菅原道真公の来駕の遺跡に建保2年太宰府から菅公の御神霊を勧請して河内宮と称したものです。
永禄年間、大除城主大野山城守直昌は、その臣船草・鳥越の2氏をして社殿を補修させました。宝永6年(1709)本殿を改築し、祭事を振興し、文化7年(1810)官号を止め、天満大神宮と改め、天満宮と改称し、明治12年(1879)天満社と称しました。
明治41年9月に天神社(飛天神社)と合併して立石神社と改称。
例祭日は10月20日で御輿渡御も行われます。
境内には末社豊玖美神社があり、天津狐命ほか17座が祭られています。
願成寺は曹洞宗のお寺で、本尊は聖観世音菩薩。開基は、尾首城主大野加賀守直義の子孫にあたる、立石初代の庄屋嘉左衛門(寛永11年(1634年)没)であろうといわれています。
寺の裏山に墓があり、「願成寺殿通山休意大居士」とあり、寺の名称はこの法名からとったものと思われます。開山以後約300年余り経つこの寺には、33体の珍しい木造の仏像があります。
境内は広く、社の大きなものが建てられていた様子がうかがわれます。また、社の入り口には数百年生きていた大きな木の株が残っています。縁日は8月12日で、梅の木(上成)の人々が社の世話をし念仏をあげています。
明治41年(1908)、立石神社に合祀しましたが、その年梅の木が大火にあい、そこで小さな社を建て再び祀りました。
根まわり1.2m、高さ15mの藤の古木で、樹齢は約200年と推定されます。今でも樹勢は衰えず、 春には美しい花を咲かせています。
藤の下には、文政年間(1818~1829)の頃に建てられた多くの石碑があり、この藤もおそらくその頃に植えられたものと思われます。
明治41年(1908年)に天満社と合祀され立石神社となった天神社は、もとは上組にあり(現在の「上のお宮」)、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っていました。文永元年(1264年)に火災がおこり、その時火の玉となって飛び出した少彦名命の像をまつったものだといわれています。里人たちは、一晩のうちに祠を建て、拝んだといわれています。火の玉となって空を飛んだので「飛天神宮」、または「日天神宮」と呼ばれました。
お祭りは、8月24日と25日の両日で、昔は2日間にわたる大相撲大会が行われ、遠くは大洲・宇和島・松山方面からも力士が集まりました。また、地元出身力士の働きかけにより、中央からも十両クラスの力士が訪れたと伝えられています。
愛宕山の土俵は、喜多郡の長浜より上では一番格式の高い4本柱に屋根のある二重土俵が許され、その上での大相撲は大変なもので、多くの出店が建ち並び、大観衆をわかせていました。今では土俵の形はなく、その跡に「忠光院土俵跡」という記念碑が建てられているほか、大相撲は、自治会主催の「子ども相撲大会」として続けられています。
愛宕山忠光院の境内には「更生の鐘」と呼ばれる大きなつり鐘があります。
鐘の大きさは、直径62.7㎝、高さ92㎝もあり、正徳3年(1713年)につくられており、この鐘には次のような言い伝えがあります。
『 立石地区が石山村だった当時、養蚕がさかんでしたが、昭和の初期に繭の価格が暴落し、石山村は税金も払えないほどの貧乏な村になりました。そこで、当時の宮城菊丸村長を中心に協議を重ね、「早起きをして仕事に励むこと」「節約に努めること」が取り決められ、それを実行するために、毎日夜明け前に愛宕山に登り、「ハ・ヤ・ク・オ・キ・ヨ」と3回続けて鐘をならしました。また、節約に努めるため、「更生徳利」がつくられました。宴会では、必ずこの徳利を使い、お酒は1人1本までという決まりをつくりました。』
このような先人たちの努力により、村はよみがえり笑顔が絶えない豊かで平和な里に生まれ変わったと伝えられています。
忠光院の境内にひときわ高くそびえ立つ2本の大杉は、平成19年5月16日に内子町指定天然記念物に指定された愛宕山の二本杉です。
本堂に向かって左にある2本のうちの左側の杉は、地上約2mで幹が二分しています。樹勢は旺盛で、胸高幹周470cm、樹高30m、推定樹齢300~400年。内子町内には胸高幹周3m以上の杉の大木が10本知られていますが、その中で最大であり、県内で報告されている109本の杉大木の中でも44位です。また、右側の杉も樹勢は旺盛で、胸高幹周400cm、樹高30m、樹齢は300~400年と推定され、町内では上記のものに次ぐ杉の大木です。県内でも60位の大きさを誇っています。