2025.11.10(月)
箇所:ルカ2:15
御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
イエスキリストは、私にとって既に「成し遂げられた事実」であられます。聖書はすべて、語られ、成される構造でできており、その全ての御言葉はイエス様を示しています。従って、イエスキリストは「成し遂げられた事実」です。御言葉を「成し遂げられた事実」として信じることは、イエスキリストを信じることです。私がイエスキリストを信じるということは、私の人生の全てが唯一の神様の御言葉によって成し遂げられるということを信じることです。イエスキリストの御名によって祈るということは、約束の御言葉を信じる信仰の祈りです。このことを「成し遂げられた事実」として望みを抱いて喜びながら生きる時、確かな祈りの答えがなされます。
御言葉を信じることは、イエス様が肉の体を持って来られたことを信じることです。言い換えるなら、イエス様が天の父なる神様の御子であられることを信じることです。肉の体を持って来られたイエスキリストは天の父なる神様の愛であられます。日頃から唯一の神様の御言葉を事実として信じ、私の人生にその愛が満ち溢れるように祈ります。
イエスキリストは律法を完成されました。だからイエスキリストを信じる人は、御言葉を成し遂げられるイエスキリストを信じるのです。ただ御言葉を成就されたイエスキリストによって喜び、楽しむだけです。全ての聖徒が、律法を完成され私のうちに来られたイエスキリストを主として崇めながら生きることができるよう祈ります。
御言葉を信じて祈りを捧げれば、その御言葉を「成し遂げられた事実」として信じることになります。私の経験と知識に依存せず、聖霊様の恵みを求め、「成し遂げられた事実」として唯一の神様の御言葉を信じ、答えが与えられる人生を生きるように祈ります。
2025.10.17(金)
箇所:ローマ10:4
律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者全てに与えられるのです。
イエスキリストは律法を完成されました。律法の完成者として、律法の成就となられました。イエス様は、私が自らの力で律法を守らなければならなかった律法的な生き方から解き放ち、私のうちにいらして、律法を完全に成就される主となられました。その結果、私のうちに生きておられるイエスキリストの心が現れました。それが愛です。愛はイエス様に集約される全ての御言葉の感性です。イエスキリストは罪人のために、十字架においては生命を与えられるまで愛され、全ての約束の御言葉を成就されました。
2025.10.15(水)
箇所:ヨハネ1:1
旧約の全ての御言葉はイエスキリストの到来を予言し、伝えています。その御言葉が実態とな理、この地に来られた方がイエスキリストです。この偉大な受肉という出来事は、約束の御言葉が実態となって私に成し遂げられることを伝えています。従って、受肉を信仰によって告白することは、私が御言葉を信じる時、その約束の御言葉が現実となることを意味します。聖書に記されている最高の奇跡は、言が肉となった受肉です。この受肉の御言葉は、神であられるイエス様が低く、いやしく、暗いこの地に臨まれた愛を伝えています。
言が肉となられたということは、唯一の神様の御言葉が事実となって現れることを示す代表的な御言葉です。御言葉を信頼する信仰がイエスキリストを信じる信仰です。偉大な信仰を与えて下さるように祈ります。私が聖書を読み、黙想する時、その御言葉にアーメンと同意することは、私のうちに真理の御言葉として生きておられるイエスキリストを認めることです。イエス様が主であられることをはっきりさせます。御言葉を信じる信仰によって、イエス様が私のうちに主として現れますように祈ります。
2025.10.14(火)
箇所:ヤコブ1:22
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけのものとなってはいけません。
御言葉を論理的に理科することは、しんんじることとは異なります。御言葉を信じて実行することが信じるということです。なぜなら信じることは、御言葉と一つになることだからです。御言葉を信じる信仰によって行うことは、「言が肉」となって私たちに来られたイエスキリストを信じることと同じです。この心理は立法的な傾向が強い私たちに偉大な可能性を示します。御言葉を信じて行う時、私の人生に奇跡的な変化が現れます。
御言葉を信じる信仰を持って行うことができますように求めます。この祈りが、日本のキリスト者が生き返る根拠と力になると信じます。信仰と行いの幸いが私から始まりますように祈り求めます。
人生最高の祝福は、生きておられるイエスキリストを崇めながら生きてゆくことです。イエスキリストを崇めて生きることは、御言葉を真剣に信じている状態です。御言葉として私のうちに来られたイエスキリストによって満ち足りるように祈ります。
2025.10.13(月)
箇所:ローマ1:2−4
2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
イエス様を信じるキリスト者にとって最高の祝福は、『言が肉となって』この地に来られたイエスキリストが私のもとに来られることです。聖なる創造主が私と共におられる(インマヌエル)という事実は驚くべきことです。このような偉大な事実に対し、キリスト者はいかに実感を持って生きているかを常に顧みるべきです。
思考のあり方が根底から変わるような瞬間こそ、私がインマヌエルの神様を知る始まりとなります。イエス様が私の人生にインマヌエルされたのは、概念や思想ではなく実体を持って来られたからです。
私の人生に臨まれたイエス様は、ただ静観されるような方ではありません。私の人生の全てを司り、働かれ、作り替え、奇跡を成される方です。御言葉を実態へと成し遂げられます。イエス様が私の人生の中心に座されるように席を明け渡すことが、私の人生のクライマックスです。私の人生にイエス様が来られ、共に生きることは間違いなく人生最高の祝福です。主のうちに知恵と知識の宝庫があり、万物はその御心のママに用いられるため準備しています。
イエスキリストが『言が肉となった』奇跡は、唯一の神様の約束の御言葉が実体となる御業を代表する出来事です。御言葉を信じるということはすなわち、その御言葉が肉となるように『実体化』するということです。なぜなら、約束の御言葉通りに来られたイエスキリストは、あらゆる御言葉を実現されるからです。私自身が、約束の御言葉が実態となる御業を経験しなければなりません。
私のうちに生きておられるイエスキリストを、知識のみの理解ではなく、心から信じ、主を尊び、喜び、共に歩む人生を求めます。
イエス様が私のうちに生きておられる確かな証拠は、御言葉が事実となることです。御言葉事実になる働きは、私のうちに生きておられるイエス様が現される御業です。信仰生活において、御言葉を論理的に理解する段階で満足し、留まってはいけません。それは御言葉を信じているかのように自らを騙すようなことです。御言葉を信じ、御言葉が事実として現れ、生活信仰を持って生きることができますように祈ります。
2025.10.10(金)
箇所:詩篇103:19−22
19 主は天に御座を固く据え/主権をもってすべてを統治される。
20 御使いたちよ、主をたたえよ/主の語られる声を聞き/御言葉を成し遂げるものよ/力ある勇士たちよ。
21 主の万軍よ、主をたたえよ/御もとに仕え、御旨を果たすものよ。
22 主に造られたものはすべて、主をたたえよ/主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。
実生活の中で、御言葉を成し遂げられた事実と信じる信仰を生活信仰を言います。詩篇103編では、御言葉を信じる者たちに、祈りの答えを実現させる存在が御使いであると伝えています。御使いたちは常に主なる神様の御声を聞いており、聖徒の暮らしの中で共におられる聖霊様の御心を敏感に捉えようと耳を傾けています。ヤハウエの神様は御使いたちに、その御心を実際に成し遂げる力をお与えになりました。御使いたちが備えている力は、信じる者が持っている神の子としての特権とは異なる者です。聖霊様は、私が御言葉を信じて捧げる祈りを聞き届けてくださいます。御使いたちは聖霊様の命令を聞いて、それに従うだけの存在です。御使いは信者に使えるために主なる神様が遣わされた霊です。
唯一の神様の御言葉を実現させる御使いをしっかり認識することは、唯一の神様の御言葉を信じる信仰が理論だけに傾くことを防ぎます。御使いを実際の存在として認識しなければ、その霊的な領域を悪霊が占有してしまいます。聖徒たちが唯一の神様の御言葉を信じることで、御言葉の力が日々の暮らしの中に現れ、実際に働く具体的な信仰を求めます。
日本人は優れた霊的感覚を持っています。聖霊様に対して鋭敏に反応して、方々に霊的要塞を築いている神道と仏教の霊が力を発揮できないように、聖霊様の満たしを求めます。
2025.10.8(水)
タイトル:
箇所:ヨハネ1:12
12しかし、このかたを受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供となる特権をお与えになった。
唯一の神様の御言葉を『成し遂げられた事実』として信じれば、唯一の神様の知恵と知識が臨みます。唯一の神様は御言葉を信じる者を通してご自分の統治を成されます。悪魔は人を唯一の神様と断絶させ、自らの奴隷として生涯縛り付けました。しかし、イエス様は悪魔のわざを滅ぼし、信じる者たちに『父なる神様の子としての特権』を回復してくださいました。父なる神様の子としての特権とは、唯一の神様の御言葉を『成し遂げられた事実』として信じ生きることです。
唯一の神様の御言葉を信じれば死の力に打ち勝ちます。恐れが消え去ります。罪に打ち勝ちます。唯一の神様の御言葉を信じることは、私の人生のあらゆる問題を解決する鍵です。唯一の神様の御言葉を信じ、人生のことあえを探すことができるように祈ります。
2025.9.29(月)
箇所:エゼ24:14
14 主なるわたしが語ったのだ。それは実現する。わたしがそれを行う。わたしはそれをやめず、惜しまず、憐れみもしない。お前の道と行いに従って、お前は裁かれる」と主なる神は言われる。
ヤハウエの神様は語られ、成されます。御言葉が人格化しておられます。その証拠に、旧約の全ての御言葉とおりにイエス様が受肉されました。これは超越的な神秘です。約束の御言葉が実体となったのです。唯一の神様の約束の御言葉通りに求めたものは、必ず成し遂げられます。「イエスキリストを信じる」ということは、「御言葉であられるイエス様」を信じて従うということです。これは、唯一の神様が与えてくださった聖書の約束の御言葉を信じるということと同じ意味です。
唯一の神様の御言葉は理詰めの知識ではありません。生きて働く御言葉です。御言葉を信じることは、理解に留まるのではなく、御言葉と一つとなってその御言葉に掌握されることです。御言葉が事実となる霊の力が現れることを祈ります。
語られ、成される唯一の神様は全能なる方です。私の頭で十分に理解して信じることができる方ではありません。聖霊様が信仰をくださる時、私の理解できる世界が新たに開きます。唯一の神様の御言葉を信じて祈る、祈りの霊を注いでくださるよう求めます。
2025.9.25(木)
タイトル:御言葉を信じる生き方
箇所:ルカ1:45
45主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。
約束の御言葉に依り頼んで祈りを捧げる時、義なる唯一の神様はその約束を守られます。御言葉を唯一の神様の約束として確かに信じる信仰が実体となるのです。実体となって現れた答えこそ、「成し遂げられた事実」です。
これは語られ、成される御言葉の理法に則た具体的な内容です。私たちはただ、御言葉を信じる信仰と、それに基づき捧げる祈りを求められます。
御言葉を信じる時、それは『成し遂げられた事実』となります。唯一の神様の御言葉を信じ、具体的に生きる生き方は、イエスキリストを信じて生きる時に成し遂げられます。なぜならイエスキリストこそ「成し遂げられた事実」そのものであられるからです。だからイエス様を信じることは、唯一の神様の御言葉を『成し遂げられた事実』として信じて生きることです。イエスキリストに従う生き方は、私に与えられた約束の御言葉が既に与えられたということを信じて生きることです。御言葉を信じる時、既に成されているのです。その実体はすぐに現れる場合も、後に現れる場合もあります。御言葉はそのまま実現すると信じることが幸いです。聖書が私たちに伝える祝福は、御言葉を『成し遂げられた事実』として信じて生きることです。
祝福を願い求めることは、天の父なる神様の子として当然の権利です。私の必要なものすべてが、主なる神様の統治の元供給されます。唯一の神様の御言葉を事実として信じる時、私は御言葉の統治に入ります。御言葉を事実として信じることは最も大きな祝福です。主なる神様の祝福が望むように、唯一の神様の御言葉を暮らしの現場で『成し遂げられた事実』だと信じ生きてゆく信仰を求め、祈ります。
2025.9.22(月)
タイトル:イエスキリストを見る霊的な目が開かれるように2
箇所:使徒26:18
18 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」
全ての万物は見えない神様の御言葉によって治められています。これを”力の御言葉によって万物を握りしめられた”と言います。信仰の目が開くと、神様が御言葉によってこの世を治められるのを悟られます。御言葉が”叶えられた事実”で信じられるのは、霊的な目が開かれることです。霊的な目が開かれた人は、現象裏面から全ての万物を治められる霊的な背景である神様の御言葉を見るようになります。これこそ神様の御言葉で生まれ変わった、信じる者たちの世界観です。御言葉を信じる信仰を持って、世を見る目が霊的な目です。神様がこの世を治められる事実が目に映されるのです。
霊的な目が開かれた人は、神様の中心の世界観を持つようになります。聖霊様が満たされ、私自身と、日本人と、全ての人々が聖書中心で見る世界観が開かれるように祈ります。
2025.9.19(金)
タイトル:イエスキリストを見る霊的な目が開かれるように
箇所:ヘブ11:3
3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
目に見えるこの世の全ては、目に見えない唯一の神様の御言葉によって造られたものです。心の割礼を受けた人は、世が唯一の神様の御言葉によって造られたという事実を、信仰の目によって見ることができます。現実の世界と、霊的な世界は、まるで共存している世界のように感じられます。しかし、唯一の神様がおられる天の御国と、人が住む世界ははっきりと分かれています。天の御国はただ信仰によっていくことができます。
唯一の神様は、天国への唯一の道はイエスキリストだと言われました。その道を見ることができる霊的な目を、唯一の神様の御言葉によって教えてくださいますように祈ります。
2025.9.18(木)
タイトル:空気を読む
箇所:
山本七平(1921−1991)は、「空気の研究」において、日本人は空気に支配されていると述べています。空気をうまく読めない人がいた場合、ばの雰囲気が気まずくなったり、いじめを受ける可能性さえあります。誰かに何を言われようとお構いなしに行動するよりは、その場の雰囲気に従って行動すること、つまり空気を読むことが、日本においては人間関係を円滑に保つ方法です。このことは日本人の内面と他人に対する繊細さを示しています。
人々が読むこの空気が聖霊様が導かれる共同体の空気となるならば、日本のリバイバルは、満開の桜が咲くように日本の全地域を覆うことでしょう。
2025.9.17(水)
タイトル:自己中心から教会中心に
箇所:ルカ19:9
9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
ザアカイはユダヤ人です。ユダヤ人の伝統に則(のっと)るなら、彼は生まれて八日目に割礼を受けた者です。しかし、彼は心の割礼を受けなかったために、御言葉と信仰を結びつけられない人生を送りました。だから実生活に御言葉の実りがありませんでした。彼には唯一の神様の御言葉が人の言葉として聞こえていました。そのようなザアカイがイエス様に出会いました。イエス様が彼の家で、彼と共に食事をされました。ザアカイはイエス様と触れ合うことで心の割礼を受け、御言葉の実りが現れました。律法が命じる通おりに貧しい者たちに財産の半分を分け、騙し取ったものは四倍にして返すと告白しました。イエス様がザアカイにこのようなことをしなさいと命令された訳ではありません。これはザアカイがイエス様と交わりを持つ中で自ら告白した内容です。
心の割礼は聖なる影響力によって与えられます。ザアカイの家を訪問されたイエスキリストの働きを、今は主の体である教会が担います。私が教会の頭なるイエスキリストの体となることを「チャーチシップ」と言います。チャーチシップを成すとき、聖さの影響力によって唯一の神様の御言葉が信仰と結びつき、御言葉の実りが現れるのです。ザアカイがイエス様と食事の交わりを交わしたように、聖徒たちとよく触れ合いチャーチシップを得ることが、御言葉への信仰を与える聖さの影響力を得ることです。
ザアカイは、肉体の割礼を受けましたが、心の割礼は受けませんでした。彼はイエス様に出会い、交わりの中で自らが約束の子であることを、自然に信じるようになりました。ザアカイのように、教会に通っていても約束の御言葉を信じることができない場合もあります。御言葉を聞けば信仰が自ずと生まれる、心の割礼を求めます。
私がイエスキリストの体なる教会として生きていく時、聖さの影響力によって、唯一の神様の御言葉が信仰と結びつきますように祈ります。私が仕える教会の中で聖なる影響力が強まりますように、聖霊様が充満に臨まれ、教会共同体の雰囲気を導いてくださいますように求めます。
使徒の働きに記されたエルサレム教会の共同体は、聖なる雰囲気を備えていました。その証拠が、聖徒たちが財産や、持ち物を互いに分かち合い共有していたことです。これは自己中心的な律法主義が崩れ去り、教会に主なる神様中心の雰囲気が満ちた結果です。私が仕える教会の中で聖霊様の聖さの影響力と強い霊的雰囲気が満ちて、聖徒たちのうちにある人間中心の価値観が主なる神様中心の価値観へと変わるように祈ります。
2025.9.11(木)
タイトル:本当の救いは私からではありません。
箇所:
日本語を学ぶ時に夏目漱石が書いた、「こころ」を接することができました。その当時日本語を始めたばかりだったので、左の方には日本語、右の方には韓国語になっている本を手に入れて、ほぼ韓国語で読ませてもらったかすみかな記憶があります。
そのタイトルが示すように人の心、良心とその呵責に悩む姿を描き出しました。主人公は大切な友人を自殺に追い込んでしまい、その過ちによって苦悩に満ちた人生を送りますが、結局自ら命を絶ってしまいます。「救いはない、罪の代価は死である」と結んでいるこの物語は、人間がいくらもがいても、自らの罪を自分の力で解決することができないということを私たちに教えてくれます。この小説は日本を代表する小説です。でも、日本人だけではなく、普通の人ならば小説人物のその心に共感できる、普遍的な小説だと思います。
本当の救いは私たちの外から、救い主イエスキリストによって与えられます。信仰とは私の意志と理解ではなく、聖霊様が与えてくださる信仰です。心を守ることは、罪と死を打ち破られた復活の救い主イエス様を受け入れる時のみ可能なことです。私の力で心を守ることの終着点は死なのです。
私の力ではなく、イエス様を信じる聖霊様の力によって、生きる日々と、人生と、神様の国を歩むように祈ります。
2025.9.10(水)
タイトル:主の愛が私の心に
箇所:ローマ5:5
5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
心の割礼を受ければ、唯一の神様を愛するようになります。唯一の神様はカナンの地に入るイスエルの民に恵みを与え、ご自分を愛するようにしてくださると約束されます。心の割礼を受け、唯一の神様の御言葉を信じること自体が唯一の神様を愛することです。なぜなら、これは聖霊様が与えられる信仰によって成される御業であるからです。
聖霊様に満たされて天の父なる神様の御言葉を信じることは、その愛が心に注がれたということです。なぜなら、御言葉を信じることは、天の父なる神様の愛の現れであられるイエス様が私のうちに現れることだからです。心の割礼を受けることは、天の父なる神様を愛することです。だから心の割礼を受けた人にとって、天の父なる神様の御言葉を守ることは、難しい掟を実践するような困難な道ではありません。むしろ喜びと感謝の道になります。
主が私の心に割礼を施し、柔らかい心を与えられますように祈ります。御言葉通りに生きていくことが、重荷ではなく喜びとなりますように、主なる神様を深く愛することができますように求めます。
2025.9.9(火)
タイトル:心の割礼を施されるには、
箇所:申30:6
6 あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。
肉体の割礼は、主なる神様の律法に従って私の体に刻まれた契約です。石炭を塗り、その上に記された律法のように私の体に刻まれた永遠の契約です。この契約をイエス様が完成されました。誰でもイエス様を救い主、主と受け入れれば、ヤハウエの神様の契約が心に書き記されます。
私の心に割礼を施され、心と思いに御言葉を書き記してくださいました。私が、記された御言葉の約束通りに生きることができるように祈ります。
2025.9.8(月)
タイトル:内村艦三の回心
アマースト大学留学時代、内村は信仰の危機に陥ちっていました。自分は偽善者であるという罪悪感に苛まれていたのです。しかし、シーリー総長との対話の中で、内村は第二の回心を経験しました。『鉢植えの根を抜いて成長を確かめることを繰り返していては木が枯れてしまう、成長は主に委ねることが必要だ。』と語ったシーリー総長の言葉から、内村は救いが自らのうちから起こるのではなく、外から、つまり救い主イエスキリストによって与えられることを悟ったのです。
心の割礼を受け、聖書の知識と理解が豊かな力として現れることを求めます。主が私をへりくだらせる恵みを与え、唯一の神様の御言葉と信仰を結びつける心の割礼を受けることができるように祈ります。
2025.9.4(木)
タイトル:心の割礼を受けるには
箇所:エゼ36:25-27
25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。
26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
心の割礼を受けるということは、肉の割礼が包皮を切り取るように、固い心を取り除くことです。固い心とは、唯一の神様の御言葉に対して頑なな心を持つことです。愛の神様は私の弱さを憐れんでくださいますが、頑なな心に対してはお叱りになります。愛の神様は私の固い心を取り除かれ、御言葉を信じる柔らかい心をくださいます。この過程で辛い苦難を通ることもあります。柔らかい心とは、聖霊様に対して鋭敏に反応する心です。経験と知識によって自分の考えが強まれば、唯一の神様の御言葉を信じることはできません。これは、唯一の神様の力が至らないからではなく、主が人格を持って私たちに接してくださるからです。唯一の神様を尊び敬う時に、その御言葉を信じ語ることができます。自らの考えが強まり心が頑なになると、唯一の神様の聖なる御心でさえも、愚かでつたないものに感じます。だから主なる神様は私に苦難を与え、私の限界と弱さを教えてくださるのです。上記のエゼキエルの御言葉は、捕虜として捕らえられたユダの民に主なる神様が与えて下さった約束です。バビロンに捕虜として連行されたユダの民は、そこで数々の苦難に苛まれたことで、へりくだった心と悔い改める霊を得ることができました。愛の神様は、このような苦難を通して心の割礼を授けられます。
人々はよく、御言葉を理解できれば信じることができると考えます。しかし、論理的知識によって得る理解と、霊的な知識を持って唯一の神様の御言葉を信じることは本質的に全く異なります。心の割礼なしに御言葉を学ぶことは、知識だけに偏り、自我が強まり、結局自分の考えがより頑なになります。現代の人の多くが、知性の罠にはまって論理的知識を信仰だと考えています。論理と知識だけを信じていた罪を悔い改めます。
2025.9.3(水)
タイトル:神様の約束は、生命です。
箇所:コロ2:11-12
11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、
12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
主は御言葉を信じることを、「割礼」になぞらえて教えられました。主なる神様はアブラハムとその子孫に割礼を命じられました。それは肉体の命によるものではありません。唯一の神様の「約束」によって与えられる「生命」です。御言葉を信じることによって霊的に義と認められ、生きるために与えて下さった御言葉です。従って、割礼とは、キリストと結びついて自ら主なる神様の御言葉を信じ生きていくことを意味します。キリストに結びついたということは、御言葉を聞く時に自然と信じることができるということです。心の割礼を受けたということです。
私の心に割礼を施し、御言葉を聞けば信じることができる恵みを求めます。キリストと結びつき、御言葉を聞くときに信じることができる生命を与えてください。私に、御言葉を信じさせてくださるキリストとの結びつきを祈り求めます。
2025.9.2(火)
タイトル:御言葉が信仰と結び付けられるように
箇所:ヘブ4:2
2 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
御言葉が益とならなかったということは、御言葉を受け取った者たちが適用できなかったということです。唯一の神様は、イスラエルの民にカナンの地をお与えになると約束されました。しかし、彼らはカナンの頑丈な城と鉄の戦車を見て心がくじかれ、約束の御言葉を忘れてしまいました。実際は、約束の御言葉を与えて下さった唯一の神様を忘れたのです。それは唯一の神様の力が弱いわけではなく、御言葉を受け取った者たちが信仰と結び付けることができなかった結果です。御言葉が生きておられる唯一の神様の力であることを信じられなかったということです。御言葉を知り、悟ることは大事です。しかし、その御言葉が知識にとどまる限り、どのような力も現れることはありません。御言葉を信仰と結びつけなければなりません。御言葉を受けた私たちがその御言葉を信じ、唯一の神様の力が私たちに臨み、聖霊様がその御言葉を成し遂げられます。御言葉が事実となります。
御言葉を信じることは、私たちに生まれつき備わっている罪の性質とは反対にあたることです。従って、御言葉が信じられない時は、私の頑なな心と疑いの心を悔い改めて祈るべきです。へりくだって聖霊様に信仰を求め、切実に祈ります。
唯一の神様の御言葉を聞くと、度々心が頑なになるのを感じます。栄光が照らされると私の心の暗闇があらわになるからです。キリストの生命を与えられた聖徒は、顕になった頑なな心をそのまま主の御前に告白します。そして、それを悔い改めることで闇に打ち勝ちます。私が唯一の神様の御言葉を聞く時、心に生まれる頑固な不従順に打ち勝つことができるように、イエス様の血潮の力で宣言し、祈ります。
2025.9.1(月)
タイトル:人間の言葉としてではなく、
箇所:第一テサロ2:13
13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。
テサロニケ教会の聖徒たちは、使徒パウロの言葉を人間の言葉としてではなく、唯一の神様の御言葉として受け入れました。教会の権威を通して与えられる御言葉を唯一の神様を中心とした信仰を持って聞くことで、その御言葉が実際に働きました。聞く者の信仰が大切です。講壇で宣べ伝えられる御言葉が真理から離れない限り、その御言葉を唯一の神様のご言葉として受け入れるのが、唯一の神様中心の信仰です。その御言葉を唯一の神様の御言葉として聞く時、聞く者暮らしの現場で働く「生ける御言葉」となります。この「生ける御言葉」は、全地に鳴り響く「天の声」です。
講壇で宣べ伝えられる御言葉を人の教えとして聞くなら、その御言葉は生きている唯一の神様の御言葉ではなく、人が自ら悟り、行う人の教えにとどまります。説教を人の言葉として聞くことは、人間中心の信仰のあり方です。唯一の神様はこのような信仰を『口先では私を敬うが、心は遠く離れている信仰だ』と警告されます。心が離れている限り、唯一の神様の力を体験することはできません。
講壇で宣べ伝えられる御言葉は、生きておられる唯一の神様の御言葉です。この事実を信じることが、イエス様が教会の頭であられることを信じることです。説教を人の言葉として聞くことは教会の頭を人と見なすことであり、教会の主であられるイエスキリストを無視する深刻な罪です。私が属する教会で唯一の神様中心の観点が開かれ、講壇で伝えられる御言葉を唯一の神様の御言葉として聞くことができる信仰を与えられるように祈ります。そして私が生きてゆく現場で、唯一の神様の御言葉が働かれる力を体験できるように切に祈ります。
教会を通して与えられる御言葉が、唯一の神様の御言葉として権威を得るためには、何よりもまず、教会の牧会者たちが唯一の神様中心の説教をすべきです。イエス様が教会の主であることを信じ、実際そのように生きてゆくべきです。「牧会は辛く苦しい」という間違った考えを捨て、全能なる唯一の神様に牧会を委ね、平安をくださる唯一の神様中心の牧会になるように祈ります。
2025.8.29(金)
タイトル:教会の頭となるイエスキリストを通して、
箇所:使徒20:28
28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。
今日、唯一の神様は教会を通して私たちに語られます。イエス様は教会の頭となり、教会の秩序を通して天の父なる神様の御心を聞かせてくださいます。ですから、教会の秩序から離れてしまっては唯一の神様の御言葉を聞くことはできません。教会の秩序とは、教会に仕えるため主なる神様が立てて下さった教会の指導者たちです。教会の秩序に則って、宣べ伝えられる指導者の言葉は、人の言葉ではなく唯一の神様の御言葉として受け取るべきです。教会の秩序に従って唯一の神様の御言葉を聞き続ける時、聖霊様が信仰を与えてくださいます。現代の風潮は、自ら御言葉を悟ることに重きを置きます。しかしこれは、人間中心の信仰であり、律法主義者の道を歩ませる恐れがあります。聖書は教会の指導者を通して御言葉を聞くことを強調しています。
教会での礼拝と、小グループ・コミュニティーの集いは、唯一の神様の御言葉を聞く現場です。唯一の神様の御言葉を聞くにあたって、最も大きな割合を占めるのが礼拝の説教です。その次に、小グループコミュニティのリーダーを通して御言葉を聞きます。三つ目に、家庭礼拝を通して御言葉を聞き、最後に、個人の霊性のための時間にデイボーションを通して主の御言葉を聞きます。この優先順位を守れば、唯一の神様の御言葉を確実に、安全に聞くことができます。私が属する教会での礼拝の説教と、小グループコミュニティーのリーダーを通して唯一の神様の御言葉を存分に聞き、信仰が育っていきますように祈ります。
この時代は個人を強調します。個人の悟りだけを強調していくと、御言葉を信じる信仰が知識だけのものへと偏ってしまいます。だから、教会の秩序に従って主なる神様の御言葉を聞くことが、知識に偏った信仰から身を守り、充分に御言葉を体験する正しい道となるのです。自分だけを愛するこの時代の風潮にならざず、使徒ペテロが主を慕い求めたように、教会の秩序と権威に従って主なる神様の御言葉を聞き、御言葉の力を経験するように祈ります。
2025.8.28( 木)
タイトル:信仰が与えられるように
箇所:ローマ10:17
17ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについての言葉を通して実現するのです。
一般的に、信仰は経験や信頼できる知識によって形成されます。しかし、御言葉を信じる信仰は、私の経験や、知識によってもたらされるものではありません。御言葉を信じる信仰は、聖霊様が与えてくださるものです。この信仰がなければ御言葉を信じることはできません。もちろん信仰を与えるために、人の知識や経験を用いられることもあります。しかし、本質的には私がイエス様のうちにいるという信仰によって御言葉を信じることができます。この信仰は、ただ聖霊様が恵みによって与えてくださいます。聖霊様は、私たちが繰り返し御言葉を聞く時、その信仰を与えてくださいます。だから、御言葉を繰り返し聞けば、御言葉を自然と信じられるようになるのです。私がキリストの御言葉を聞く時、聖霊様は私に信仰を与えられます。その信仰を持って望めば、必ず御言葉は実体となります。約束の御言葉が実体となり現れた最高の奇跡が「イエスキリスト」です。今日も御言葉を信じる信仰を通して、聖霊様が私の人生に奇跡を成されます。
信仰は私たちが自ら生み出せるものではありません。御言葉を繰り返し聞く時、聖霊様はイエスキリストにあって信仰を与えてくださいます。御言葉を繰り返し聞くことができる恵みを求め、祈ります。
約束の御言葉を信じれば、望んでいることは実際に成就します。祈りを通して、聖霊様が約束の御言葉を実体として成されますように祈ります。
2025.8.27(水)
タイトル:世に打ち勝つ勝利は、私の信仰です。
箇所:第一ヨハネ5:4−8
4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。
7 証しするのは三者で、
8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。
悪魔は主なる神様の統制下に置かれるしかありません。だから法的に許された隙間だけを狙って利用し、攻撃してきます。律法は彼らの武器です。律法を突きつけられれば、どんな人もそれを完全に守れたと言い張ることができないからです。
イエス様が主であられる世の権威を、サタンはまるで自らのもののように偽ります。そんなサタンの嘘に打ち勝つものは、ただイエスキリストを信じる信仰です。イエスキリストは水と、血によって臨まれ、それを聖霊様が証言してくださいます。またこの三つはイエス様によって、一つになります。水と血はイエス様に直接関わるものであり、聖霊様はイエスキリストの御霊として来られた方だからです。この三つが一つになる御業は、信者の人生に驚くべき影響を及ぼします。イエスキリストを信じる者のうちにはこの三つが共存し、その人生に偉大な御業が起こります。
その御業とは、
一、全ての罪が消え去り、
二、立法によって断罪してくる悪魔を全く寄せ付けず、
三、サタンによって断たれた天の父なる神様との関係が回復し、
四、父なる神様との関係が回復したことによって、力ある御業が嵐のように起こります。
最後に、父なる神様の似姿通りの正しい自我が回復し、他人との葛藤が治まり、周囲の環境(職場、家庭などで出会い関わる全て)に回復が起こります。
世に土勝つことは、自らが世の主人だと偽る悪魔に打ち勝つことです。その方法は揺るぎない贖罪の確信に立つことです。これは私の罪を贖われたイエスキリストの罪なき人格が現れることです。聖霊様に満たされ、罪が赦されたという確信を保ち、私の日々の暮らしの中で蘇られたイエスキリストの人格だけが現れるように祈ります。
私たちは普段、現実の問題について祈りを捧げます。大きく分けると自らの問題、他人との問題、万物との問題です。これらは、人が罪によって唯一の神様と分離した後に現れた問題です。まず信者はイエスキリストを信じることで、父なる神様との関係を回復するべきです。その時、健やかな自我を回復させ、全ての人と平和をなし、万物を満たす恵みを与えてくださいます。天の父なる神様との関係を回復する道を開いて下さったイエスキリストを信じることで、私にもその愛が注がれますように祈ります。
罪の赦しの確信を持って生きることで、天の父なる神様との関係が回復し、人生に途轍もない影響をもたらします。実生活の中に主なる神様の統治が効力を持って臨み、御言葉が事実となる力が現れます。この国の教会と聖徒たちが、唯一の神様の御言葉を「成し遂げられた事実」として信じ、聖なる影響力が力強く現れますように祈ります。
2025.8.26(火)
タイトル:イエス様は罪がない、完全な神様の御子です。
箇所:ヘブル7:26
6 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。
イエスキリストは完全な人として、私と同じ弱さを持って来られました。しかし、イエスキリストは罪のない父なる神様の御子であられます。罪のないイエス様だけが、罪の代価を払うことが可能であられます。イエスキリストは罪がないため、この世の如何なる影響も受けることができません。ただ真理によって生きられます。その真理がイエス様を自由にされます。罪がないイエス様の偉大な御業を信じる私たちも、その自由に預からせてくださいます。
御言葉を事実として信じるということは、イエス様の人格が私の人生の中で実際に現れるということです。そして、確かな贖罪の確信を持つことです。私のうちに罪のないイエスキリストの人格と、十字架の犠牲の影響力が現れます。罪のないイエス様が私の全ての罪を担われたことを信じ、この世のあらゆる影響力から自由になったことを、信仰によって宣言しながら祈りを捧げます。
罪の赦しの確信があって初めて、私のうちに生きておられるイエス様と人格的な関係を保つことができます。御言葉を信じて生きてゆけば、悔い改める恵みを与えてくださいます。罪の赦しの確信がある時、私は悔い改めながらイエスキリストをより深く知っていきます。私に悔い改めの霊を遣わしてくださり、イエスキリストをより愛することができますように祈ります。
2025.8.25(月)
タイトル:イエス様は私たちを罪から自由を与えるため、肉となられました。
箇所:イザヤ53:5
5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
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私の罪は父なる神様に背いたことです。父なる神様の恵みと保護に背を向け、自らが主人となり、父なる神様から離れた罪です。イエスキリストは、父なる神様に背き離れた人の罪を背負われ、代わりに罰を受けられました。イエスキリストの功労により、全ての信じる者が罪から自由になりました。
罪は私たちの人生の悪行です。しかし、イエスキリストの十字架の血潮は、その罪の痕跡までもきれいに消し去りました。全ての罪は、イエス様が十字架において刑罰を受けられた時に赦されました。愛の神様はその贖罪の御業を信じる者を義とされます。
イエスキリストの十字架の血潮は、私の全ての咎と罪を完全に解決しました。御言葉を事実と信じる信仰を求めます。主が私と全ての聖徒の罪悪感と、罪の意識さえも全て消されたことを信じます。イエス様の贖罪の恵みに感謝し、主に賛美を捧げます。
贖罪の確信をはっきりと持っている聖徒は、主なる神様に仕える聖なる良心が回復しています。真理は、 『イエス様が私の罪のために死なれ、私は義の奴隷となった』 という事実です。悪魔の干渉を防ぎ、ただ生きておられる主なる神様だけに仕える、聖なる良心を与えてくださるように祈ります。