石について

1.石の歴史

管玉で作った装飾品(写真:小松市埋蔵文化財センター)




2000万年前 地殻変動に伴い火山活動が活発化

 噴出物は凝結し、良質な凝灰岩や、

金、銅、水晶、ヒスイ、メノウ、九谷焼原石の陶石など、さまざまな鉱物が生み出されました。



ー弥生時代 小松の八日市地方の碧玉(へきぎょく)が人気に


 弥生人は自然や生命の神秘を思わせる美しい緑色の石を求めていました。良質かつ豊富な「碧玉」が採集できた地は小松滝ケ原を含めて全国で4か所。小松の碧玉はきめ細やかさと埋蔵量に秀でていました。

 ほかの地域でも緑色の石は採掘されましたが、小松でとれた碧石は、加工に適していたために大変重宝されました。当時の最先端技術を使用して管玉などに加工され、首飾りや腕輪として王様、貴族に大人気であったと言われています。



古墳時代  小松の石を古墳の建築に


 小松の良質な凝灰岩を切り出し加工する技術が導入され、建築部材として、特に横穴式石室の古墳づくりに使用されました。河田山古墳群(小松市)では、石積みのズレを防止する鍵手積みなど国内最先端の石室構築技術を用いて作られた、飛鳥時代の、国内で唯一アーチ状天井を持つ石室が発見されています。

 


ー中世(鎌倉~)


 鉄製の石工道具の進化・普及により生活道具や信仰具、石塔など細かい細工を施す石造彫刻品の製作が活発になりました。生活・信仰・文化に密着した石の利用が浸透してゆきます。堅牢さ、耐火性、錆びない、腐らない石の素材特性は庶民に広く受け入れられ、素材の調達も手軽なので小松に凝灰岩文化が花開きました。


ー寛永16年(江戸時代) 三代前田利常の隠居地 小松城 整備開始


明治維新後も残った本丸櫓台(やぐらだい)石垣 。当時の最新工法「切り込み接(は)ぎ」(割石を丁寧に面取り加工し、細かく敷き詰める方法)で積み上げられました。材料に金沢の「戸室石」と小松の凝灰岩「鵜川石」 を組み合わせ、さまざまな色の石がパッチワークのように組み合わさった、美しい仕上がりとなっています。

このころから、建築部材としての需要が高まり、市内25ヶ所以上の石切り場の多くが、当代に開かれたと言われています。

また、安宅湊では北前船を利用して「鵜川石」 の藩外への移出も 行われるようになりました。文久3年には出荷商品の約四割が石製品 であったといわれています。


ー江戸後期 200年前  九谷焼の素となる石を発見


 陶工・本多貞吉が小松市花坂地区で陶石を発掘しました。「花坂陶石」と呼ばれ九谷焼の素となる石です。



ー明治期  石の力で経済が活性化


  日本有数の銅生産量を誇った尾小屋鉱山や遊泉寺銅山明治期以降には特に産出が拡大しました。明治期以降の小松の文化・経済をも支えることになりました。

また、菩堤・那谷のメロウ・オパール 、遊泉寺の紫水晶「加賀紫」 は、海外への献上品、宝飾品として高く取引され、宝石の文化も育まれました。


江戸後期から現在まで少なくとも365年以上の歴史を持つ九谷焼は1867年に兵庫が開港され九谷焼の貿易が開始、海外では「ジャパンクタニ」と呼ばれ人気を集めました。


アーチ型の橋が建設されました。 



ー大正から昭和初期  石のブランド化、観音下石の登場


 「観音下(かながそ)石」別名「日華石(にっかせき)」が登場しました。湿気に強く丈夫で温かみのある黄色の観音下石は、国会議事堂や甲子園会館など、多くの建築物に使用 されています。



ー現在


 「滝ケ原石切場 本山丁場」 は現在も稼働している石切場です。

 地元の石をつかったアーチ状の橋や、石蔵など、2300万年も前から紡がれた様々な石の文化が今も滝ケ原に息づいています。

 

2.現存する滝ケ原石切り場


滝ヶ原では、文化11年(1814年)から石の切り出しが始まり、主な石切り場として大滝石切丁場西山石切丁場 本山石切丁場の3ヶ所が確認されていますが、多数の石切り場が点在しています。現在も採掘が行なわれる現役の石切り場と石切り場跡があり、現役で稼働しているのが本山石切丁場。本山丁場では大型の電動鋸で掘削された約270m真っ直ぐに延びる採掘坑を、その他二か所の石切り場跡では藩政時代から明治時代に人力で掘削した採掘坑を見学することができます。建築や墓石、寺社石造物(地元では13世紀〜14世紀の滝ヶ原下村八幡神社遺跡、昭和19年建立の滝ヶ原八幡社大鳥居など)などに利用され、昭和20年代〜30年代が生産のピークでした。


小松市には他にも大正初期から採石が始まり、現在も掘削が行なわれる浮石質凝灰岩の石切り場、観音下石切り場、小松城の石垣などに使われた鵜川石切り場跡、第二次大戦末期には中島飛行機(現・富士重工業)が洞窟を利用して部品を製造した遊泉寺石切り場跡があります。

引用

・こまつ滝ケ原里山マップ

・ニッポン旅マガジン滝ヶ原石切り場 (tabi-mag.jp)


本山石切丁場

文政のころからの現在まで切り出しされ、当時の藩主の土蔵や墓碑を造るほど良質な石が産出されています。

西山石切場跡

大滝石切場跡、本山石切丁場に次いで採掘され、天保年間から昭和の中頃まで続きました。 滝ケ原町で3番目に歴史が古い石切丁場で、現在は使用されていません。


3.アーチ橋について


小松市滝ヶ原には現在、5つのアーチ橋があります。日本のアーチ石橋の95%は九州地方に存在しているため、北陸地方に石橋が存在するのは珍しく、またその構造は貫石構造という特異な特徴を持っており、滝ヶ原石橋群を含め全国でも15 橋しか存在しないめずらしいものです

滝ヶ原石橋群は文化的に価値が高いのですが、滝ヶ原石橋群は1900 年代初期に架設されたもので経年による橋の損傷が生じています。歴史的、構造的に価値のあるものを後世に残していくため、石橋群の構造解明と自然環境を含めた保全の方策が検討されています。

壁石が突出している部分の名称として貫石と名付けられていおり、正式名称が存在しないため、九州地方では染石とも呼ばれます。

滝ヶ原地区では当初木橋が架けられてましたが、 洪水の度に流されたため、頑丈な橋が求められていました。滝ヶ原地区は良質な石材の産地であったため、 木よりも頑丈な石に人々が注目し、滝ヶ原の石工が京都の石橋を視察して技術を学びそれを参考に滝ヶ原石橋を造ったものと考えられています。



参考:本田秀行 金沢工業大学「小松市滝ヶ原石橋群の構造解明都市全環境保全の方策に関する研究」


丸竹橋

―1935年架設。1969年補修工事を実施。

・現在は歩行橋として利用されている。

・橋全体は白い風合いだが、壁石の一部は黒くなっている。

西山橋

1903年架設。1950年拡幅工事を実施。

・切石の運搬のために造られた。

・現在も生活道路として利用されている。

我山橋

―1903年架設。

・以前は車の通行可能であったが現在は歩行のみに利用されている。

・滝ヶ原の石橋の中で最も橋の規模が小さい。

大門橋

―1903年架設。1969年補修工事を実施。

生活道路として利用されている。

・1963年に水害を受け、1964年左岸下流側の壁石の積み直しがされた。

・橋全体が円形。

東口橋

―1903年架設。

・近隣に集落が存在していたため、生活道路として利用されてい

参考:本田秀行 金沢工業大学「小松市滝ヶ原石橋群の構造解明都市全環境保全の方策に関する研究」