理論の開発
W.コーン教授との議論
理論開発に関する主な研究業績
常田は、化学を網羅的に再現する究極の化学理論の開発を目標とし、化学のための密度汎関数法(DFT)の開発に取り組んできた。[「密度汎関数法の基礎」(講談社、2012)]
1. 物理的に正しい最少パラメータの交換・相関汎関数と自己相互作用補正法の開発
従来の密度汎関数法の汎関数開発においては、物性値の再現性のみに主眼が置かれ、大量の経験的パラメータが使われていた。パラメータの存在が汎関数の物理的な意味を失わせるのみならず、大規模分子計算において偽の安定構造を与える原因になると考え、パラメータを極限まで抑えた交換・相関汎関数を開発した。また、その際得られた知識をもとに電子の分類法を提案し、それをもとにした自己相互作用補正法を開発した。
図.OP相関孔の形状.
パラメータを1つに抑えた一変数(OP)相関汎関数を開発した。この汎関数は、電子間のスピン分極相関カスプ条件を満足する相関波動関数から、自然な物理近似のみを使って導出された。相関孔の形状を併用する交換汎関数で決定し、相関孔の大きさを1つのパラメータで決めた。求められたOP汎関数は、精密に電子相関を与えることが確かめられた。そして、驚いたことに、基本的物理条件を全く考慮していないにもかかわらず、もっとも物理条件を満足する相関汎関数であることが分かっている。[J. Chem. Phys., 110, 10664 - 10678, 1999; ibid. 111, 5656 - 5667, 1999; Chem. Phys. Lett., 268, 510-520, 1997]
図.密度行列展開関数の電子間距離への依存性 .
パラメータを一切使わずに、無変数(PF)交換汎関数を開発した。この汎関数は、Fermi運動量まわりでの密度行列展開から直接導かれた交換エネルギー表現であり、展開中心点であるFermi運動量を各空間点での運動エネルギー密度で決定することが最大の特徴である。OP相関汎関数同様、この交換汎関数も、ほとんどの基本的物理的条件を満足することが分かった。また、パラメータを含まないにもかかわらず、交換エネルギーの精密再現も確かめられた。 [Phys. Rev. B, 62, 15527 - 15531, 2000]
図.運動・交換・相関エネルギーの間の横断的物理関係と自己相互作用関係.
開発した無変数交換・一変数相関汎関数にもとづき、運動・交換・相関エネルギーに対する基本的物理条件の間に存在する横断的な物理関係を明らかにした。また同時に、電子が自由電子的か自己相互作用しているか長距離相互作用しているかを分類する方法も提案した。[J. Chem. Phys., 114, 6505 - 6513, 2001;「密度汎関数法の基礎」]
図.ホルムアルデヒド中の電子の自己相互作用領域(白).
横断的物理関係が成り立たないのは、電子間の自己相互作用が支配的な場合である。その場合、自己相互作用密度行列を中心とする異なる関係性が存在する。この関係性を利用し、領域的自己相互作用補正(RSIC)を開発した。補正法を用いた密度汎関数法による計算の結果、過小評価が報告されてきた一部反応障壁について、大幅な改善を確認した。[J. Comput. Chem., 24, 1592 - 1598, 2003]
CO2分子とN2分子の内殻電子の吸収スペクトルのLC-PRSIC-BOP、B3LYP計算結果と実験結果との比較
RSICは1s軌道の自己相互作用で置換したが、適用性に著しく欠けていた。この問題を解決するため、 2s以上の軌道の自己相互作用で置換する修正(m)RSIC、およびHartree-Fock交換自己相互作用で置換する擬スペクトル(PS)RSICを開発した。PSRSICはのちにLC-DFTに適用され、内殻電子の軌道エネルギー・イオン化ポテンシャル・励起エネルギーをすべて劇的に改善することに成功している。[J. Comput. Chem., 30, 2583 - 2593, 2009;J. Phys. Chem. A, 114, 8521 - 8528, 2010]
2. DFTの問題の多くを一気に解決した長距離補正
90年代にDFTが量子化学計算で使われ始めると、化学物性や反応の計算において多種多様な問題が指摘され始めていた。これらの問題を一気に解決に導いたのが長距離補正である。現在は、領域分割(range-separation)汎関数などとも呼ばれる様々な汎関数に導入され、長距離補正は量子化学計算において無意識的に利用されている。
図.文科省「サイエンスマップ2008」 で長距離補正から広がった研究分野が高被引用数1%以内の研究領域を形成する化学の新分野として紹介.
交換汎関数に対する長距離補正 (LC)を開発した。電子密度やその勾配あるいはそのHartree-Fock交換との混成で表現された従来の交換汎関数は、化学のDFT計算に多種多様な問題を抱えていた。LCは、二電子演算子を短距離部分と長距離部分に分割し、交換汎関数の長距離部分をあらわに長距離相互作用を含むHartree-Fock交換で補正する、物理的裏づけのある補正である。応用計算の結果、LCは汎関数由来のDFTの問題のほとんどを解決に導くことを確認した。LCは適用性の高さによって幅広い分野で利用され、科学界全体での高被引用論文1%に入る化学分野の研究領域を形成するに至っている(サイエンスマップ2008、文科省)。結果的に、LCはGaussian16など世界の汎用量子化学計算ソフトウェアの公式版のほとんどで利用可能である。また、ωB97XDやCAM-B3LYPなどのLC汎関数が多く開発され、現在DFT計算の一大勢力となっている。[J. Chem. Phys., 115, 3540 - 3544, 2001]
図.分散力錯体(1~8)、スタッキング錯体(9~15)、双極子・誘起双極子錯体(16~20)、双極子・双極子錯体(21~25)、水素結合錯体(26~32)の結合エネルギーの%誤差.
従来のDFTは大規模分子の構造決定要因であるファンデルワールス結合を全く再現できなかった。問題の原因は、相関汎関数のファンデルワールス相関の欠如のみならず、交換汎関数の長距離交換の不足にもあると考え、LC+ファンデルワールス(vdW)法により、網羅的に弱い結合の計算を行なった。その結果、弱い結合のDFTによる網羅的な精密再現に成功した。[J. Chem. Phys., 117, 6010 - 6015, 2002; ibid. 123, 124307(1-10), 2005; Mol. Phys. (Handy special issue), 103, 1151 - 1164, 2005; J. Chem. Phys., 126, 234114(1-12), 2007; 'π-Stacked Polymers and Molecules' (Springer, 2013)]
図.p-quinodimethaneモデルの超分極率のジラジカルy依存性の計算結果の比較 (x102 a.u.) .
従来のDFTは高次応答物性について著しく実験値と食い違う結果を与えてきた。LC-DFTにもとづくCoupled perturbed Kohn-Sham法を開発して応答物性計算に応用した結果、それまで実験結果とかけ離れていた1次・2次超分極率など非線形光学応答物性をきわめて高精度に再現することが分かった。特に、長鎖ポリエンやジラジカルの超分極率など高次応答物性については、高精度ab initio法の結果に近づく劇的な改善が見られた。[J. Chem. Phys., 122, 234111(1-10), 2005; J. Chem. Phys., 132, 094107(1 - 11), 2010]
3. 世界最高精度の時間依存DFTとそれにもとづく光化学反応シミュレーション理論の開発
長距離補正の解決した問題のうち最もインパクトがあったのはTDDFTによる電荷移動励起エネルギー過小評価の問題である。電荷移動はほとんどの主要な光化学反応において先駆的に起こるため、電荷移動を精密に再現できない理論はほとんどの光化学反応を取り扱えない。長距離補正はこの問題を完全に解決した。
図.Ethylene-tetrafluoroethyleneの結合距離に対する電荷移動励起エネルギーの変化の計算値.
時間依存DFT(TDDFT)は、分子から大規模系までの励起エネルギー高速かつ簡便な計算法として、現在広く利用されている。しかし、従来のTDDFTには電子移動励起、Rydberg励起、そして振動子強度を大きく過小評価するという重大な問題があった。これらの問題も長距離交換の不足に起因していると考え、長距離補正にもとづくTDDFT (LC-TDDFT) を開発した。その結果、TDDFTによるすべての過小評価が劇的に改善することを確認した。 [J. Chem. Phys. 120, 8425 - 8433, 2004]
図.(a) 4-1-pyrroryl-pyridineと(b) 4-cyano-4-methylthiodiphenylacetyleneの励起状態構造最適化前後の構造.
光化学反応の多くは長距離電荷移動を先駆とする。TDDFTは大規模分子の励起状態計算法として期待されているが、長距離電荷移動を取り扱えなかった。この問題に取り組むため、LC-TDDFTにもとづく励起状態分子動力学計算法を開発した。最初の試みとして、励起状態構造と断熱励起エネルギーの計算を行なった結果、小分子の励起状態構造計算においてすら、長距離補正は必須であることが分かった。これにより、大規模系の励起状態分子動力学シミュレーションも可能になった。[J. Chem. Phys., 123, 144106(1-11), 2006]
図.希ガス原子のKoopmans P3/2、P1/2 イオン化エネルギー計算値.
相対論的なスピン・軌道相互作用は重原子を含む系の励起スペクトルや励起状態反応に大きな影響を与える。その影響を調べるため、LC-TDDFTに2成分スピン・軌道相対論を導入した相対論的スピン・軌道LC-TDDFTを開発した。スピン・軌道遷移では電子分布の大きく異なる軌道間の遷移が重要であるため、長距離補正はきわめて重要である。計算の結果、第6周期より重い原子では長距離補正がスピン・軌道相互作用に与える影響が大きいこと、軌道のスピノル化が比較的軽い原子でも重要なことが確認された。[J. Chem. Phys. 135, 224106(1-9), 2011;日本コンピュータ化学会誌:特集号「相対論的量子化学とその周辺」]
図.水クラスタの全CPU計算時間とその計算オーダー.
大規模系計算に向け、TDDFT計算効率化アルゴリズムとして、状態選択TDDFTアルゴリズムを開発した。このアルゴリズムは、摂動選択により注目する励起に寄与する遷移のみをピックアップすることによって計算時間を劇的に減らす。このアルゴリズムを使えば、DFT計算が線形スケーリング化されれば、TDDFT計算も線形スケーリング化することができる。このアルゴリズムはLC-TDDFT計算にも適用され、電子移動計算の高速化に成功している。[J. Theor. Comp. Chem. (APCTCC Special Issue), 4, 265 - 280, 2005;Chem. Phys. Lett., 420, 391 - 396, 2006;J. Comput. Chem., 29, 1187 - 1197, 2008]
図.線形オリゴアセンの励起エネルギー計算値のユニット数依存性.
1次元拡張系の長鎖分子であるポリアセチレンとオリゴアセンについて、2電子励起効果を簡便に取り込むspin-flip(SF)法を導入したLC-TDDFTを開発し、励起エネルギー計算を行なった。その結果、SF-LC-TDDFTは多参照理論並の高精度で励起エネルギーを再現することが分かった。SF-LC-TDDFTは現時点でも世界最高精度のTDDFTである。[J. Comput. Chem., 37, 1451-1462, 2016.]
4. 史上初の定量的占有・非占有軌道エネルギー再現と網羅的な軌道エネルギー再現
長距離補正の解決した問題のうち最大の驚きは歴史上初の占有・非占有軌道エネルギーの同時精密再現である。量子化学では長年、軌道エネルギーは再現できない量であり、それ自体意味がないとされてきた。最近になり、きわめて高精度な交換・相関ポテンシャル汎関数が開発され、価電子占有軌道エネルギーの精密再現が実現した。しかし、そのきわめて高精度なポテンシャル汎関数を使っても、非占有軌道エネルギーを符号すら正しく与えることはできない。驚くべきことに、長距離補正はこの問題を解決した。
図.He原子の2電子積分核の核からの距離に関するプロット.
一電子SCF方程式のHartree-Fock方程式が開発されて以来80年近く、軌道エネルギーを定量的に再現できる理論は存在していなかった。驚くべきことに、長距離補正は、Kohn-Sham方程式による占有・非占有の価電子軌道エネルギーの同時精密再現を史上初めて可能にした。交換積分核(汎関数の電子密度に関する2次導関数)を介した自己相互作用の誤差が長距離補正すると劇的に減ることが原因であることを明らかにした。LC-DFTは絶縁体のバンドギャップを軌道エネルギーギャップによって定量的に与えられる唯一の理論としても受け入れられている。[J. Chem. Phys., 133, 174101(1-9), 2010]
図.典型分子の第2列原子の内殻1s軌道エネルギー計算値の誤差.
LC-DFTは価電子軌道エネルギーをきわめて高精度に与える一方で、内殻軌道エネルギーを過小評価する問題があった。水素・希ガス原子のHOMOエネルギーも同様に過小評価される。PSRSICをLC-DFTに適用したLC-PRSIC汎関数を開発し、価電子軌道エネルギーを維持または改善しながら内殻軌道エネルギーや水素・希ガス原子のHOMOエネルギーを劇的に改善することに成功した。 [J. Chem. Phys. 139, 064102(1-10), 2013]
5. 軌道エネルギー変化にもとづく反応電子論と反応理論統合への道筋
長距離補正DFTにより初めて得られた定量的軌道エネルギーをフロンティア軌道論など反応電子論に導入すれば、定量的な反応電子論の開発が可能になる。定量的なHOMO-LUMOギャップがDiels-Alder反応初期で変化しないという発見にもとづき、軌道エネルギー変化で反応を議論する反応性軌道エネルギー論を開発した。その結果、反応性軌道と反応経路との一対一対応関係の発見につながった。また、反応性軌道エネルギー論解析の結果、反応初期の結果が有機電子論と完全に一致することも分かった。
図.Ethylene+butadieneのDiels-Alder反応の順反応過程におけるグローバルハードネスの変化.
LC-DFTで計算したHOMO-LUMOギャップは、多くの反応の初期段階では変化しない。これは電子移動で進行するからである。LC-DFTによるDiels-Alder反応計算の結果、順反応はほとんどの場合、初期過程でグローバルハードネス(HOMO-LUMOギャップの半分)をほとんど変化させないことが分かった。これは、Diels-Alder反応の初期過程が電子移動で進行していることを示唆している。 [J. Comput. Chem., 34, 379-386, 2013]
図.規格化反応ダイアグラム.反応初期の規格化反応性軌道エネルギーギャップの傾きで電子移動性を評価.
LC-DFTの定量的軌道エネルギーをもとに、軌道エネルギー変化にもとづく新しい反応電子論として、反応を駆動する反応性軌道と駆動要因を特定する電子論の反応性軌道エネルギー論を開発した。反応性軌道は、最も軌道エネルギーが変化する占有・非占有軌道とする。また、反応性軌道エネルギーギャップの反応初期での傾きで電子移動性を評価し、傾きが小さい場合はCT駆動、大きい場合は構造変化(ダイナミクス)駆動と判定する。[J. Comput. Chem., 35, 1093-1100, 2014; Computation, 4, 23 (1-13), 2016]
図.Diels-Alder反応のethylene+butadiene反応の反応性軌道エネルギーダイアグラム.
反応性軌道エネルギー論(ROET)にもとづく解析により得られた反応性軌道の反応過程における変化を見ると、反応を駆動する電子移動の様子を可視化できる。Conceptual DFTの大家であるChattaraj教授との共同研究で、この可視化を効果的に行なうための定量的な電子論的反応ダイアグラムを構築した。計算法のレベルへの依存性を調べるため、計算法をLC+LRD法に上げて軌道エネルギーの再現性を高めた。その結果、ROETダイアグラム解析は軌道エネルギー再現が必要なために計算法のレベルに強く依存するが、反応において電子がどのように動いて反応を進行させるかをより詳細に可視化できることが分かった。[Phys. Chem. Chem. Phys., 20, 14211-14222, 2018]
図.グリシン生成の反応経路と占有・非占有反応性軌道ペア.
反応性軌道エネルギー論により得られる占有・非占有反応性軌道ペアは反応経路ごとに一意的に得られる固有の属性であると解釈できる。反応経路自動探索のグローバル反応経路地図(GRRM)に反応性軌道エネルギー論を適用した。グリシン生成反応の30反応経路に適用した結果、グリシン側からの反応過程について、1つも重複しないこと、つまり反応性軌道と反応経路とが一対一対応することが分かった。これは、それぞれ独立に開発されてきた反応電子論とポテンシャルエネルギー論とが密接な関係をもつことを意味する。[J. Chem. Theory Comput., 17, 6901-6909, 2021]
図.反応性軌道エネルギー論と有機電子論との一致概念図.
反応性軌道エネルギー論は非経験的な反応電子論であり、ルールにもとづいて作成される有機電子論のダイアグラムを検証することができる。酸性・塩基性の両方で進行するC-C結合形成反応であるアルドール反応、マンニッヒ反応はその検証に最適である。検証の結果、反応性軌道エネルギー論の反応初期の反応性軌道は有機電子論の矢印の方向と官能基レベルでほぼ完全に一致することが分かった。このことは、反応性軌道エネルギー論が有機電子論の理論的基礎を与えられることを示す。[J. Comput. Chem., 44, 93-104, 2023.]
図.全電子密度と軌道密度における長距離交換効果とCCSD効果.
全電子密度と軌道密度における長距離交換効果とCCSD効果を明らかにし、高精度電子密度の再現には何が必要かを検証した。DFTは元来、電子密度からポテンシャルを得る理論であり、高精度電子密度の再現は本質的に重要である。結果的に、全電子密度については、長距離交換がπ軌道付近、CCSD効果が結合付近に電子を集める傾向があることが分かった。一方、Dyson軌道を使った軌道密度の比較においては、非占有軌道に対する効果は両者でかなり一致していることが分かった。[J. Comput. Chem., 44, 2391-2403, 2023.]
6. 汎用量子化学計算プログラムの開発と開発理論の導入
本グループで開発した理論はさまざまな量子化学計算プログラムに導入されている。最もよく利用される量子化学計算プログラムであるGaussian16の公式版では、長距離補正汎関数が標準で利用でき(たとえばLC-BLYPなど)、一大勢力となっている。GAMESSの公式版の密度汎関数法計算プログラムは常田、神谷、千葉、Fedorovらの開発したプログラムがベースとなっており、長距離補正汎関数、長距離補正TDDFTとそのエネルギー勾配計算、OP相関汎関数などが標準で導入されている。他にも、NWChem、Q-Chem、Amsterdam Density Functional (ADF)など主要な量子化学計算プログラムの公式版で長距離補正汎関数が利用できる。また、固体など周期系計算プログラムのDmol3の公式版においてはOP相関汎関数が利用できる。