聖書は天国について何と言っているのですか?
聖書によれば天国はこの世とは全く違うところです。どれほど違うかといえば、りんごの種と、りんごの木ほど違います。りんごの種はほんのちっぽけなものです。しかしりんごの木は人が登れるのです。
この世においては人間はりんごの種、天国においてはりんごの木であり、実である、ということです。
こんなに違いますが種と木にはもちろん連続性があります。不思議です。
天国は完壁なところなので、人は永遠に生きます。天国には死や悲しみ、苦しみはありません(聖書)。罪がある人は入れないので人間の醜さや、罪もありません。みんな完全に良い人たちなのです。
「それでは毎日、退届してしまう」と考えるのは、この世の考えです。天国とこの世は「種と木」ほどに違うのです。
天国では永遠のいのちを持っていますから、若くて健康そのもの。老眼鏡も不要。そして優しくて、思いやりがあって、人格もイエス・キリストのように完壁なのです。
いい大人が本気で天国を信じているのですか?
私も初めて天国の話を聞いた時「この科学技術の時代に何を言っているのか」と笑ったものです。
しかし、仏教でも、地獄と極楽を言っています。輸廻転生(生まれ代わり)も言っています。
最近では400年前のイギリスの詩人が作った「千の風」が日本で大流行でした。「千の風」は、私は死なない
、風になり、雪になり、星になってあなたを見守っています、という歌です。どれも天国と言うことぱこそ使っていませんが、人は死んでも死なないのです。
このように、聖書は天国があるなどと、子ども騙ましのようなことを言いますが、その他の宗教も言って
いることが分かります。
そして、私たちはどれかを信じているのです。
聖書には「創造主は人に永遠への思いを与えられた」と記しています。人間は創造主に造られたのです
。だから永遠に生きることを、心のどこかで知っているのです。
(よくある質問の「人間はだれが創ったのか」、をご参照ください)
だれでも天国に行くことができるのでしょうか、
人間はすべて創造主の作品ですから、創造主がおられる天国で永遠に生きることができます。しかし、問題は私たちの側にあります。
私の場合、27歳でイエス様の話を聞くまで、自分を造ってくださった創造主の存在を知りませんでした。
創造主は私たちが生きることができるために太陽の光、水、空気を与え、両親、先祖を与えてくださった方です。
私たちは、先祖に感謝をしなければ「だれのおかげで今、生きていると思っているのか、この恩知らず」と言われます。これは当然でしょう。
親や先祖は苦労して私たちを産み育ててくれたからです。
そうであるなら、私たちの目や鼻や耳、そして内臓を造ってくださった創造主に感謝をしないなら、どれほど恩知らずの罪でしょうか。
そればかりか、私たちは木や石の神を拝み、それらに「私たちを養ってくださり感謝します」と言ってきたのではないでしょうか。
私は毎年、初詣に行ってそうして来ました。
しかし、よく考えてください。もし、自分の子どもが木や石でご両親の人形を作り、これからはこのお人形がぼくのお父さんであり、お母さんだと決めて
「お父さん、お母さん、ぼくを今まで守り育ててくださり感謝します」と言ったらどうでしょう。
初めは「何てこの子は信心深い子だ」と喜んだとしても、そのうちご両親は「お前を育てたのは私たちだ!感謝するなら私たちにだろう。どうして木や石がお前を守り育てることができるのか。頭がおかしくなったのではないか」と怒るのではないでしょうか。
しかし、私たちは近所の神社に行って、あるいは京都や奈良に行って石や木の神を拝んでいるのではな
いでしようか。
私たち人間は自分を木や石に例えたら「バカにしている」と怒ります。私たち人間はそんなものではないからです。
そうであるなら、私たちを母の胎の内で組み立てて下さつた創造主、太陽、星、地球を創られた創造主を木や石にすることはどれほど創造主をバカにしていることにならないでしょうか。
(よくある質問「本当に神は存在するのか」、をご参照ください)。
私は、少なくとも27歳まで、木や石の神、有名な神社を拝んでいました。でも、それらを神としていたかと言えばそうではなく、自分のやりたいことをやり、人を傷つけ、自分を傷つけて生きてきました。結局、自分自身を神としてきたのです。
こうして、創造主を無視してきた私たちは、創造主の支配される天国に入ることはできないのです。
(よくある質問「どうしたら天国に行くことができるのですか」、をご参照ください)。