キリスト教では、信じるだけで天国に行けると聞いたのですが、そんな虫の良い話があるとは思えません。やはりキリスト教は変だと思います。

聖書では、天国には、イエス様の十字架を信じるだけでいける、よい行いは必要ないと記されています。


 私もこの話をはじめて聞いたとき時、「そんな旨い話があるわけがない、天国に行くには努力や良い行いが必要だ」と笑いました。


  でも、もし、努力で天国に行けるとすると、「どれだけ良いことをすればいいのか?」という疑問がわいてきます。つまり、基準がはっきりしないことです。


 でも私たちは自分で基準を持っているのではないでしょうか。たとえば、


 「私は善良な市民です。もちろん完璧ではありません。人に迷惑もかけてもきました。でも人殺しをしたわけではなく、大きなうそもついていません。新聞に出るようなことはしていません。一応、常識の範囲内だと思います。だから天国に入れると思います。」と、どこかで自分は天国に入れると決めていないでしょうか。


明確な基準がないのですから、自分で作るしかないし、それで納得するしかありません。


一方、聖書に「天国に行くのには行いは必要ない」という良い例があります。


 イエス様は十字架にかけられて殺されるのですが、その時に二人の囚人も一緒に架けられました。二人の囚人がイエス様の両側で十字架にかけられていました。

当時、十字架刑に処せられるという者は相当の悪事を働いた者でした。


 3人が十字架の上で苦しんでいました。はじめは二人とも、イエス様をののしっていましたが、一人がイエス様を信じるようになります。そして


「イエス様あなたの御国の位におつきになるときは、私を思い出したください」というのです。それに対してイエス様はこう言われました。


「まことにあなたに告げます。あなたは今日わたしとともにパラダイスにいます」


パラダイス、天国です。それも、明日ではなく、今日、それも、わたしとともに。


ポイントは、この囚人は良い行いをする時間がなかったということです。よく、この聖書の話をすると、「彼は特別だった」と言う人がいます。しかし、「特別」と考える根拠はありません。


神様は信仰のみで天国に入れてくださる、良い例であると思います。



聖書は、以下のような理由で「信じるだけで救われ」ます。


 第一に、天国に入れるのは相続なのです。相続とは親の財産をもらえることです。


相続は、良い子であろうと、悪い子であろうともらえます。

天国も相続ですから、良い子も、悪い子も入れるのです。そして、相続ですから決して失うことがないのです。これは安心です。

悪いことをしたら、相続権を失うと思ったら、人生窮屈になっていまうでしょう


そして、永遠のいのちは創造主の子どもに与えられるのです。これは聖書の約束です(ガラテヤ4章)。

「創造主の子であるなら天国は決して失わない」。これは素晴らしい約束ではないでしょうか。


 そして、私たちは創造主によって造られた創造主の子どもです。詳しくは、よくある質問の「人間は誰が創ったのか」、をご参照ください。


 では、天国にいけることが決まっているなら、悪いことをしようじゃないか?となるのでしょうか。

そうではありません。私たちがこの世で生きているのは、天国の住人にふさわしく整えられるためなのです。

このように天国は創造主の子どもであるなら誰でも入ることができます。



 私たちは本来、創造主によって造られた創造主の子なので、クリスチャンになる、ということは本来の立場になった、ということで当たり前のことなのです。


第二に、天国にいけることは永遠の「いのち」をいただくことです。


 人間にとってもっともうれしいプレゼントのひとつは赤ちゃんを授かることでしょう。

この時、お母さんが

「アー私は子どものころから良い行いしていきたので、赤ちゃんが与えられた」といったら、どうでしょう。おかしいことです。赤ちゃんは、良い行いをした報いに与えられるのではなく、神様からのプレゼントなのです。


「いのち」は神様からいただくプレゼントです。良い行いの報いではありません。


天国は永遠のいのちです。永遠のいのちも神様からプレゼントとしていただくのです。よい行いをして永遠のいのちをいただくのではないのです。


 考えてください。私たちの身の回りにあるもので本当に尊いものはみんなただなのです。たとえばいのち、水、空気、太陽の光、あかちゃん。これらは、良い行いをして獲得するものではなく、神様からプレゼントとして与えられるものなのです。


永遠のいのち、天国も同じです。


〈インドの真珠採りの話>

 インドに真珠で有名なある村がありました。そこで長年イェス様を伝えていた宣教師が国に帰ることになりました。宣教師は村長さんのところにお別れの挨拶をしに行きました。村長さんはイエス様を信じることはありませんでいたが、その宣教師をとても尊敬し、好意をよせていました。


村長さんは喜んで宣教師を自分の家に迎えます。そしてお別れの時が来ました。その時村長さんは小さな箱を宣教師に渡します。箱の中にはこれまでに見たこともない大粒の美しい真珠がありました。

宣教師は息を呑むばかりに驚いて、そして言いました。


「ありがとう。是非お金を払わせてください」。

しかし、村長さんは「いいえ、お金は受け取れません」

「いいえ、是非払わせてください」。

そんなやり取りの末に、村長さんは言いました。


 「実は、この真珠は息子の形見なのです。息子はこの真珠を無理して採ったために息が絶えて死んでしまったのです。ですから、もし、あなたからお金を受け取るなら、息子の命を売ったことになるのです。だから、どうしてもお金を受け取ることはできないのです」。


 宣教師は言いました。

「この真珠を喜んでいただきます。私はあなたから大切なことを教えていただきました。本当に大切なものはただでいただくしかない、ということです。

 村長さん、天国もただで受け取るのです。私たちの良い行いや、努力で勝ち取ることはできません。なぜなら、私たちが天国に入るためにはイエス様が十字架で犠牲になられたからです。」


 イエス様は私たち人間のすべての罪を負って十字架に架けられて殺されました。この犠牲によって私たちは信じるだけで天国にいけるのです。


良い行いで私たちが天国を獲得しようとするなら、イエス様のいのちをお金で買ったのと同じになってしまうのです。


私たちに必要なのは信じるだけです。でも、そこにはイエス様の十字架の犠牲があるのです。