茨城県高萩市出身で、
今は、日立市在住です。
福島県の高校に進学して、
その後、大学の物理学科で、
素粒子理論を学びましたが、
時空の限界を悟り、
原子核実験に没頭しました。
約3か月間(1回の実験で)、
1日2~3時間の睡眠で
夢中で実験をしましたが、
それができたのは、
昭和の時代だったからでしょう。
アジアへのあこがれが強く、
学生時代、
当時、まだまだ未発展だった
中国やインドを
放浪していました。
中国では、西安、蘭州、酒泉、
敦煌をめぐりました。
万里の長城の西のはずれの嘉峪関、
敦煌の莫高窟は、夢の跡でした。
帰国後、映画『敦煌』が上映されましたが、
夢の続きを見させてくれました。
トルファンの火焔山や交河古城をめぐり、
ウルムチの天池を訪れました。
シルクロードへの強いあこがれから、
天山山脈の麓の
砂漠の道(天山南道)を
ほかはウイグル人だけで、
日本人ひとり、バスに揺られ、
オアシスの街々をめぐりました。
みずみずしいハミ瓜の
美味しさがしみました。
砂漠の空は、星が綺麗でした。
頭の中には、
『絲綢之路』
が流れていました。
古事記の
『倭は、国の真秀ろば畳なづく
青垣山籠れる 倭し麗し』
が、頭をよぎりました。
遠い日本を想い、涙が流れました。
カシュガルで美しいモスクを見、
ウルムチに戻り、
北京、昆明と旅した後、
桂林に向かいました。
中国は、外貨と交換可能な兌換幣と
外貨と交換不可能な人民幣が混在していて、
外国製品は、兌換幣でしか
買えないことになっていました。
そこで、外国製品を買いたい人たちが、
例えば、兌換幣100元にたいして、
人民幣150元といった割合で、
闇で取引きをしていました。
私も、闇商人に何度も声をかけられました。
中国が、まだまだ、貧しかった時代でした。
当時の中国の列車は、
戦後の日本の復興列車と
同じようだったのでは
と思います。
昆明から桂林までの
列車の旅は、
言葉にならないほど
大変でした。
2泊3日、約44時間、
立ちっぱなしだった。。。
若かったから、
できたのでしょう。。。
日本の戦後の復興列車は、
同じような状況だったのでは?!
昆明の近くの石林や、
桂林の漓江下りは、
絶景でした。
桂林から、香港に飛びました。
香港は、1997年に中国に返還されましたが、
返還前に、どうしても行きたかった。
猥雑な街でした。
活気にあふれていました。
香港では、
ジャパニーズゲストハウス
ラッキーⅡに泊まりました。
上海通りに面したドミトリーで
中国帰りの、また、中国へ向かう
バックパッカーのたまり場でした。
今は、どうなっているでしょう?
その後、マカオに渡り、
ホテルリズモアで、
カジノをしました。
香港-マカオの往復船賃と、
香港のホテル代くらいは、
勝ちましたね。
インドでは、
手足を切られている
たくさんの人々が
道端で物乞いをしているのを見ました。
カースト制度の影響でしょうか。
生まれつき
乞食にしかなれない家系では、
こどもが小さいうちに
親がこどもをかたわにして、
お金をもらいやすくする
と聞いたのは、
あとでのことでした。
ベナレスでは、
ガンジス川で死体が流れる中、
沐浴をしました。
川べりの焼き場では、
赤い布にくるまれた死体が、
焼かれていました。
カルカッタ(現コルカタ)では、
同じ安宿に泊まった
若い日本人の死にも
立ち会いました。
自殺する前日、
一緒に、話をしていたのに。。。
生きるということとは。。。
エローラ、アジャンタの
石窟遺跡は、
壮大でした。
ブッダガヤでは、
修行中の日本から来た
お坊さんと出会いましたが、
日本に帰って偉くなるために
来ただけと言っていました。
そんなものか。。。
タージマハルは、美しかった。。。
プーリーで、
ベンガル湾を眺めながら、
遠い日本を思いました。
東京オリンピック前後の
日本と同じ空気を感じたくて、
ソウルオリンピック前の韓国も
旅しました。
当時、今ほど
世界的な大企業ではなかった
三星電子の方と
ソウルの屋台で飲み明かしました。
新興工業経済地域(NIES)の製品は、
安かろう、悪かろうと言われていましたが、
今では、日本を追い越しているのでは
ないでしょうか?
ハングリー精神に満ちて、
発展するぞという
熱い思いを感じました。
ソウルの街中では、
学生たちがデモをしていました。
ちょうど、民主化のまっただ中で、
日本の学生運動を
思い起こさせる光景でした。
慶州(新羅の都)は、
日本の奈良・京都のようでした。
扶余(百済の都)では、
百済の滅亡に思いを馳せました。
北朝鮮との国境の
板門店に行こうとしましたが、
短パン、ぼろいシャツ、
汚いサンダル姿の私には、
許されませんでした。
北朝鮮に、資本主義は、
退廃していると思われるから
とのことでした。
ソウルの街が一望できる
ソウルタワーに入る時には、
カメラ他、
荷物のチェックを受けました。
今より、北朝鮮との関係が、
緊張していた時でした。
会社に入って、
核融合の研究開発をしましたが、
原子力、医療、産業の各分野への
放射線応用の可能性に目覚め、
それらに関する研究開発と
新事業立ち上げに
没頭しました。
新規ビジネスのために必須の
新型装置開発のために、
ロシアのVNIIA研究所との
共同開発を立上げました。
VNIIAは、
原爆の起爆装置を開発した
モスクワにある
半官半民の研究所です。
施設の入口が鉄条網で覆われた
モスクワの研究施設にも
何度も訪れました。
当初の契約も、ロシアに行くたびに、
修正が必要になって、
毎回のAmendmentの作成とその打合せは、
私にとっては、大変でした。
ロシア側の開発部分と
日立の開発部分を組み合わせて、
なんとか装置は完成しましたが、
ビジネスとして立ち上げることは
残念ながら、できませんでした。
米国の壁が高かった。。。
ロシアの研究所の方々と
ウォッカを飲みながら、
米国市場に参入しようぜ!
720万ドルで、米国に売却してしまった
アラスカの損を取り戻そう!
と話をしていたのは、
遠い夢になってしまいました。
ハサエフさん、
どうしているかなぁ。。。
会社生活での強烈な経験として、
新規事業に関して、
どうしても失敗するとしか思えない開発について、
強く反対したことがあります。
当時、研究所の幹部で、
後に、日立製作所の副社長になられる方が
強力に進めていたのですが、
この開発が失敗したら、あたたの責任ですよね
と進言したことで、
私は、いろいろな立場から、はずされました。
結局、開発は大失敗に終わり、
日立製作所に、60億円以上の損害を与えました。
判断、責任、どこへ行ってしまったのでしょう?
『空気』に流されることなく、
信念を通すことは大変です。
でも、私に、後悔は無かったです。
東日本大震災時には、
事故後間もない
福島第一原子力発電所の
原子炉建屋内に、
何度も入りました。
自ら開発した装置を使っての
建屋内の放射線強度分布の
調査が目的です。
壊れた原子炉建屋内に入ることは、
一生の中で、もう無いでしょう。
貴重な経験になりました。
事故後、原子力プラントの
過酷事故時のモニタも開発し、
原子力関係で、
原子力学会賞他、
各種の賞を受賞することができました。
第62回電気科学技術奨励賞という
技術・研究者にとって名誉な賞も
受賞することができました。
東日本大震災を経験した日本が、
過酷事故時のモニタに関する
国際規格(IEC規格)を
先導する必要があると考え、
関連する3つの規格改定を
主導できたことも、
良い経験になりました。
放射線の医療応用に関しては、
BNCT(ホウ素中性子補足療法)や
TAT(α線核医学治療用核種製造)に関する
研究開発に熱中しました。
BNCTでは、
BNCTとPETの併用加速器という
世界初のコンセプトを生み出し、
国際会議での基調講演に
選ばれました。
しかし、日立製作所の事業としては、
既に、陽子線治療装置を製品化しているため
その対抗技術と判断され、
その当時、実用化には至りませんでした。
研究開発は、事業部を強く巻き込んで進めないと
事業として花開かないんだと、
強く思った日々が続きました。
私自身が、社内を説得するだけの力が
無かったからだと思っています。
TATでは、
東北大学、京都大学、
国立がん研究センターとの
共同研究を立上げ、
世界初の研究成果を
出すことができました。
欧州の核医学国際会議において、
連続で、
Top Rated Oral Presentationに
採択されました。
米国の核医学国際会議においても、
会議のSummaryにおいて、
Remarkable presentationに
選ばれました。
その後、国際原子力機構(IAEA)主催の
国際会議を始めとする
各種国際学会の基調講演にも
招待されました。
中国のラジオアイソトープ協会主催の
国際会議にも招待されましたが、
会社が許可を出しませんでした。
個人的には、
問題ないと思っていましたが、
技術流出を懸念したのでしょう。
中国のいろいろな機関から、
給料がその時点の約3倍での
転職のお誘いが
来ていましたので。。。
TATの事業化は、後進に、まかせます。
そうそう、京都大学の大学院生に、
5年間、研究開発に関する
講義をする機会を持ちました。
学生の方々と接する機会が
持てたことは、
非常に良い刺激になりました。
講義の後の話で、
私と一緒に仕事がしたい
という学生がたくさんいたことは、
ありがたく思いました。
毎年、講義に加えて、
レポートを出して、
採点しましたが、
これはすごいと思う学生には、
残念ながら、めぐりあえませんでした。
何かに熱中したいと思っていても、
熱中するものが見つからない
学生が多いことも感じました。
何かに熱中することは、
素敵なことだと思うのですが。。。
会社に入ってからも
アジアへの思いがつのり、
中国、台湾、香港、ベトナム、
タイ、シンガポール、
マレーシア、ミヤンマー、
それに、
カンボジアに関しては10回以上、
訪れました。
アンコールワット、
アンコールトムは、
壮大で、素晴らしい遺跡でした。
ガジュマロに覆われたタ・ブローム遺跡、
東洋のモナリザの
バンデアイ・スレイ遺跡、
アンコールワット遺跡の原型の
ベンメリア遺跡。。。
どれも素晴らしかったです。
常宿としていたシェムリアップの
ゲストハウスのママさんには、
大変お世話になりました。
まだ外国人に開いていなかった
タイとのボーダーを超えようとして、
国境警備員に怒られたのは、
ご愛敬でしょうか。
タイ側は、難民キャンプがあった
アランヤプラテート、
カンボジア側は、
ポイぺトです。
当時、カンボジア人は、
自由に往行ができていました。
翌年には、外国人にも開かれたので、
早速、大手を振って通りました。
プノンペンの
キリングフィールドを訪れた時は、
言葉が無かった。。。
なぜ、大虐殺が起こったのか?
中国の文化大革命が、
カンボジアに
大きな影響を与えていたことが
その理由の大きな一つ
だったのでしょう。
中国では、北京の王府井通りにある
大きな書店に、
何年かに一度は、行くようにして、
変化を観察していました。
1980年代は、日本に関する書物が
多かったのですが、
だんだん少なくなっていって、
米国に関する書物、
鄧小平さんに関する書物が
増えていったのを感じました。
そういう時代の
流れだったのでしょう。
核融合の研究開発のために、
原子力機構(旧日本原子力研究所)への
出向を経験しており、
出向期間中に、
勝田、霞ケ浦、ホノルル等、
フルマラソンに、6回挑戦しました。
4時間を切れたことが
自信になるとともに、
自己満足に浸れました。
アンコールワット
ハーフマラソン大会には、
第1回と第2回の大会に参加し、
ひよこの着ぐるみを着て、
完走しました。
現地のこどもたちから、
大声援を受けました。
妻が、ゴールになっている
アンコールワットの正門前で、
待っていてくれたのには、
感激しました。
そうそう、新婚旅行は、
イランでした。
テヘラン、イスファハン、
シラーズ、ケルマン、
バム等を回りました。
空からみたテヘランの街は、
オレンジ色のライトで
覆われていて、
とっても素敵だったです。
降機前に、妻が、
スカーフの巻き方の講習を
キャビンアテンダントの方から
受けていました。
イスラムの国なんですよね。
イスファハンのブルーモスクは、
素敵でした。
アッバースィーホテルの
夜の庭は、幻想的でした。
ケルマンのチャイハネは、
素晴らしかった。
ケルマンから約200km離れた
バム遺跡には、
感動以外の言葉が出ないです。
沢木耕太郎さんの
『深夜特急』が好きだった私は、
バム遺跡は、
是非とも行きたい遺跡でした。
シラーズのいろいろな庭園、
郊外のペルセポリスの遺跡も
良かったです。
ダリウスおじさん、元気かな?!
イランを2週間ほど旅した後、
パリ、ウィーンをめぐりました。
ウィーン郊外のホイリゲでの
踊りや歌は、楽しかった。
ウィーンから、
イランに戻る必要があったのですが、
イランのビザが、
数次入国ビザではなかったことから、
イラン国内に入ることができず、
空港で足止めされたときは、
大変でした。
ビザの有効期間に
問題はなかったので、
数次入国ビザと思い込んでいました。
空港セキュリティと掛け合って、
臨時の48時間滞在ビザを頂いて、
イラン国内に入れたのは、
運が良かったです。
このまま、空港の搭乗口前で
2日間過ごさなければ
ならないところでした。
空港セキュリティでは、
『母をなくして3000千里』が
放送されていました。
ホーダーハーフェイス。。。
担当官が、親日家で良かった。。。
今では、良い想い出になっています。
こどもたちと、想い出作りがしたくて、
こどもたちが、中学生になるまでに、
国内海外問わず、
家族で、いろいろな所を旅しました。
国内は、札幌、沖縄、東北地方一周、
東北の各地方、奈良、京都、佐渡島、
広島、山口、長崎。。。
海外は、シンガポール、ハワイ、
ベトナム、カンボジア、
トルコ、パリ、エジプト。。。
エジプトでは、
ルクソール(旧テーベ)の王家の墓をめぐり、
夜行列車でカイロに移動し、
カイロ会談が開かれた
メナハウスオベロイホテルに泊まって
ピラミッドを眺めながら、乾杯をしました。
素敵な思い出が、積み重なっています。。。
大変お世話になっていた京大の先生が、
40歳代で、亡くなってしまいました。
もともと神戸が地元で、
いつも私に、
神戸に奥さんと来てくださいよ~、
いいところ、いっぱい紹介しますよと
言っていましたのに。
叶わぬこととなってしまいました。
60歳を前に、
ほんの1か月のうちに、
母と姉と父が亡くなりました。
母と父は、闘病していましたが、
姉は、急でした。
人間の命のはかなさを、
強烈に感じた1か月でした。
中学生の頃に、悩んでいて、
いつしか忘れていた
どう生きるべきかを、
再び、悩む日々が始まりました。。。
結論は、出そうにありません。。。
60歳を過ぎて、
妻の影響で、ピアノを始めました。
妻との時間を、
いっぱい作りたいと思いました。
妻の友人と、私の会社時代の仲間と
Gottaniという会を作って、
ピアノ、バイオリン、
フルートの輪に入って
楽しんでいます。
囲碁が大好きで、
こどもたちが
囲碁を学ぶ場を作ろうと
囲碁少年団を
2024年に再開しました。
囲碁は、中学時代に、
今は亡き父から教わりました。
大学に入って以降、
勉学や旅に熱中していて、
囲碁をすることはありませんでしたが、
会社に入ってから、再開しました。
仕事が忙しく、というよりは、
仕事に熱中していて、
囲碁を勉強する時間が
ほとんどとれませんでしたが、
囲碁少年団の再開を機会に、
また、勉強を始めようと思っています。
高萩の実家の庭(敷地は200坪ほど)の
半分ほどを畑にして、
家庭菜園を始めました。
ナス、ピーマン、トウモロコシ、
オクラ、カボチャ、スイカ、メロン。。。
収穫が楽しみです。