2007/7/13
周りがけたたましくなる―― 足音、足音の連続。
保育園の先生が、僕の元へ走ってくる。何か音を残して。硬く熱された地面に倒れ、やけにまぶしすぎる晴天の空を、雲のない快晴の空を見て、しかし、何もできずに。立つ気力もなく、そのまま突っ伏していた。何もできなかった。目の前に現れる暗い赤色の六角形と、模様。周りの友達は、少し振り向いた後、それぞれのお遊戯に戻っていく。姿を見て。
―目を閉じるしかなかった。そこに抵抗はなかった。
次に目を覚ました時は、先ほどの空とはうってかわって、閉鎖的な場所だった。天井があった。天井は白く若干暗い。天井はパネルとして区切られており、一日中枚数を数えるにも単調で飽きるほどの少なさ、と大きさだった。そういえば妙にふかふかとしている場所だ。しかも、先ほどとは打って変わってひんやりとしている。いいや、この場所そのものがひんやりとしているのだろうか?
―ここまで考えてようやく、「いつもの」が起きて、倒れて市立病院に搬入されたのだと気が付いた。
「園江……また倒れたの?無理してお外遊びしちゃだめ、って言ったでしょ?」
お母さんが見舞いに来ていた。安いお仕事の関係上で来ないと思っていたのに。お母さんの心配する目線を気にしながら、僕は周りの観察をする。花瓶、きれいなピンクのカーネーションが入っている。エアコン、涼しさを提供してくれる人間の心強い味方。清潔感のある、毎日磨かれていそうな緑色の床。対してあまり手の回っていなさそうな天井。点滴、今回は少し重い方だったらしい。エアコンを効かせるために締め切られた窓、ふんわり柔らかいレースのカーテン。
「周りに興味があるのはいいんだけど、無理しちゃだめって、ね」
わかっている。出来る限りのものを見ておきたいだけ。いろいろ試してみたいだけ。しかし、思っていたことがうまく言えなさそうだから、なにも言えなかった。
それから、近くにある丸い板の上の長い針が少し進んだ後、お医者さんが入ってきた。お母さんとお医者さんは、難しい話をしていて、どうにも会話を拾いきれず、あくびを漏らす。
―家のベッドよりも、病院のベッドの方がふわふわで清潔なのはなんか嫌だなあ
そう考えながら、ひんやりとしたベッドのシーツの心地よさに目を細めていた。
2006/04/06 Mother's part
パートに精を出すために、思い切って息子を保育園に入園させることにした。その前に健康診断や知能検査などもあり、息子はきっと疲れていたのだろう。午後八時なのに、すでに寝ている。この決断には、少々の時間を要したが、それでも周りの同年代の子供と同じぐらい集団生活ができることになったので、その点は行政に感謝して、一主婦として喜びをも覚えた。
息子が集団生活に溶け込めるかどうかは不安だった。しかし1人残してパートに出るのも、それはそれで心配だった。息子の血は、そこまで強くない。
昔、2年前に息子である園江の、血液型検査をしてもらったことがある。結果は……『検査できなかった』のであった。「新生児の血液は反応が弱い」だとか、O型のRh陰性だとか、そういう話ではなかった。
―そもそも、血液が赤色でなかった。正確には青色交じりの赤色、であった。
その事実を受け入れたくなかった。息子のすべての血を、赤くできたらいいのにと考えたりもした。
人間の体は、というよりも、一部を除く脊椎動物の体は、赤い血に適応するように作られているし、赤い血を使うようになっている。その理論で行けば、息子は突然変異体であると、言いきってしまうような気がしていた。
事実、検査をしてもらった中津市立病院では対処しきれず、また、症例のサンプルということにもなり、東京の方の医学部附属病院などに息子の血液が資料として送られたそうだ。生後間もないころのヘマトクリット値は成人の値よりも高くなると言われているが、息子の場合それが逆だった。
赤血球のサイズは小球、ヘモグロビン濃度は低色素性。息子の体内ではそれが常時起こっているのだ。だから、息子を運動させたりするときは、周りの人に見守ってもらうように母親である私から働きかけているし、息子自身にも「無理はしないで、つらくなったら周りに言うのよ」と言い聞かせてきた。
そして母親である私が望むことは、「園江に人間として天寿を全うしてもらうこと」それだけだった。出世もしなくていい。孫も特に望みはしない。ぶっちゃけ働いてもらわなくていい。ただ生きていてほしい。どうか健やかに、と願うばかりだった。
心当たりはあるのだが、それを思い出すのももう嫌だ。あの男とのことは。胎児に罪はない。宿った命に罪はないから、育てている。宿った命に罪はないから、どうにか愛してあげたい。現在の主人とは血が通っていないけれど、それを原因として、主人から虐待を受けたろうとしても、私は息子を守りたいし、そのためなら、また剣をこの手に収めて、同じことを繰り返してもいい。牢屋に入るのだけは勘弁だから、流石に前みたいなことはやれないだろうが。
―私は、育てたいだけだ
2007/07/14 Sonoe's part
点滴は終わって、どうにか家に帰れることになった。
今日の分の保育園を休んでしまったのが気がかりだし、これからしばらくは病院に通って、注射を受けなければならない。話を聞いていると、「鉄分が不足しているから、注射で補う必要がある」とのことだった。痛いのは嫌だ。
それに。僕の通う保育園では、登園すると出す冊子があって、一日登園すれば、その日付にはんこが押される。注射のために10回もの登園を犠牲にしなければならないのだ。それも嫌だからできれば注射なんて受けたくない。保育園は楽しいから、毎日行きたい、そのくらいに充実していたから。
「あ、園江君じゃん!!!また派手にぶっ倒れたんでしょ?さやか、わかるもん」
自分を『さやか』と呼んでいる、近所に住んでいる女の子が僕に話しかけてくる。この女の子は苦手だ。少し、ませすぎているような、年相応でないような気概を感じるからだ。しかし、家族ぐるみの付き合いともなれば、僕もそれに従うしかなかった。
「そうよ、また倒れちゃったの・・・気を付けてとは言ってるのにねえ」
「ほんとねー、これからまた保育園来なくなるの?さみしー」
「ずっとじゃないからそんなに心配しなくても・・・ね」
お母さんとさやかちゃんとの会話に気まずさを感じて、僕は家の入口の扉を開けようとするが、なかなか開かない。つい本気で、ぐいっとやると、扉がねじれた。その音でお母さんに気付かれる。
「園江君さ、弱いところあるけど、でも強いんだよねー」
「せめて弱いだけにしてほしかったわ」
帰宅して、病院のそれよりもずっと味のあるごはんを食べる。
今日は僕の好物の豆腐ハンバーグと、少し苦手な鮭のムニエル。と、嫌いなおひたし。お母さんは「好き嫌いなく食べなさい」と言うけれど、無理なものは無理なもので。つい、おひたしを残したまま「ごちそうさま」をしてしまった。お母さんは何も言わない。本当は、注意してほしかった。無理なものを無理としか言えない自分が、無理だったから。
Mother's part
07年7月14日、あなたはやっと点滴を終えて、おうちに帰ってこれましたね。あなたの運動の様子に、いつもハラハラして、お母さんは気が気でないのです。ですが、あなたがいろいろなものに手を出して、いろいろなものを見て、経験していく、その動きはとても重要ですし、いい骨になっていくでしょう。お母さんは応援しています。お母さんは、あなたの、ことが、一番大事です。
まだ震える手でこれだけを書くと、私はベッドに倒れこんでしまった。今日は、夫は残業。だから今夜はいない。園江のそばについていてあげようか、それとも園江を孤独にして寝かしておくか。アメリカの方だと、幼少のころから独りで寝かしておく育て方が多いらしいので、ここは日本だけれど、洋風の生活が徐々に入り込んできている、いいやかなり根深くなっている今、真似せざるを得ないのだ。
もう一度、今日の日記を読み返して、大きくなった息子が、これを見つけたとき、そして読むときどう思うだろうかと思いを巡らせて、心も体も寂しい主婦は、寝に入る。
2011/04/06
新学年になって、クラスが変わった。俺は体が弱いのか強いのかわからないが、しかし、一応はこうやって普通学級に入れたのだ。一応、下の方に養護学級はあるけれど、こちらでの勉強の難しさを見るに、少しあこがれを抱いてしまったのだ。
小学三年生。
お医者さんからは、この年まで生きれるのはすごいことだと、感心していた。お母さんは、何もなく健やかに育ってほしい(のに)、と言っていた。その言葉にどれだけの意味が込められているのか、察するのは容易だった。
小学校に上がってから、健康診断に対しては嫌悪しか抱かない。内科検診では事情を知らない医師たちに毎回注意されたり、毎回不健康だと言われたり、果てには虐待まで疑われてしまった。これは去年12月ごろのサッカーの授業でできたアザなんだけど……。
今年も行われるのか、と思うと、非常に不愉快な気分になるのだ。始まって早々気分が悪い。あっ、検尿は普通に大丈夫だったから、それは別に。面倒だけれど。あとぎょう虫検査も大丈夫だった。なんでシモばっかり平気なんだろう。
「呼ばれたら『はい』と言ってくださいねー、
1番、阿形幸助君 2番………
9番、土増園江君」
はい、と大声で返事する。近くの気の弱い女の子たちは、びっくりして縮こまってしまった。ちょっと悪かったな、という気分になり、俺も縮こまっていった。
それからは特にとどこおりもなく、20番の綿並君や、17番の山部さんまで点呼が終わった。綿並君のところで、すこしぞわっとするような感覚がしたのはおそらく、とどこおりには入らないはずだ。
2011/04/08
今日で待ちに待った土日がやってくる。俺は純粋に嬉しかった。
特にそういうこと(1年前、屋上から飛び降りそうになるレベルのいじめを受けている先輩がいたらしい)ではないんだけれども。体育の時間では盛りの付いた女の子たちが俺を心配してくるし、男子は、先生呼んであとは自分たちでやってたりとか。俺がいたときよりも楽しそうにドッジボールしやがって、と思うこともあった。そこに恨むのはもうやめだ、やめ。
給食の後の授業。国語なのだけれども、給食の後はとにかく眠い。寝不足気味な男子が、机に伏せていて、それを先生は怒ることもなく、そのままにしている。誰か起こしてやれよ、とも思った。
寝ている奴は他にはいないのか、と思って周りを見ると、2、3人いるばかりで、それといって寝ているようなやつはいなかった。後ろの方の、本当に真後ろの方で、教科書を真面目に読んでいる……と思ったら別の本を挟んで読んでいる男子がいた。確か、そいつは「綿並義人(わたならべ よしと)」って名前だったような。業後に話しかけてみようと思った。
退屈な授業が終わった。俺は気になる男子に声をかけに行く。
「こんにちは……土増です」
「どうも……綿並です」
最初はだいたいこんなものだった。
2011/06/28
あれから2ヵ月と20日が経って、俺と義人は仲が良くなった。お互いの家の電話番号も知って、休日、それも日曜日に一緒に遊んだりなどした。まあ遊びと言っても、紙飛行機飛ばして遊ぶ程度の。それも公園で。
義人と遊んだ中で、一番面白かったのは、占星術で、たくさん惑星があるやつ?をやったことだ。
義人の家のパソコンで、そのサイトを開いて、俺が生年月日を入力して、カチッとエンターを押したら、丸の中にいろいろな記号が出て、頭がこんがらがって。義人は手持ちの本を開いて、
「太陽が蠍座にあるから、まあ面倒くさい感じ?でも園江君そんな感じしないよね 月の蟹座は見ていると当たっている感じだよね、園江君は調整っていうより行動かな?あとは、あとは……」
ほとんど当たっていなくてイライラしてきたので、じゃあお前も入力してみろ、と。
「太陽のてんびん座、ぼくってそんなに優柔不断かな?それ以外は本当に園江君と同じだね!」
占いの結果よりも、義人が東京都生まれであることに驚いた。わざわざ田舎へ何の用で来たんだろうと思った。「田舎の方が古い本一杯売ってるから好きでさあ」という返答にも驚いたものだ。
席も変わって、俺と義人は席が近くなった。手を伸ばせば肩に手がかかるくらいには。義人が近眼気味ということも手伝って、前の方に行ったというのもあって、俺も少し視力が悪くなって、前の方に行ったから、タイミングが合わさってよかったように思った。
「また日曜日遊ぼうよ、オカルトに強い先輩教えてあげる!」
もうオカルトはいいんだ。お前は何を目指しているんだ、となって、断ろうとしたが、「今度こそ当たるかもしれないよ」という言葉に押されて、つい了承してしまった。
お前の影響で若干はホロスコープ読めるようになってしまったしアスペクトの角度で色々違ってたり、月がアスペクトを形成していない時をボイドタイムと呼ぶとか、余計な知識が芽生えてしまったんだよ!新月の時に願い事をする習慣も教えられたし!水星の逆行とかあって、なんか効果が逆になったりとか!
そんなことより九九の式の覚え方を教えてほしい。7の段がいまだに覚えられていない。奇数とか偶数とかよくわからないし、奇数同士をかけて偶数とか頭ごっちゃになるやつだし。義人に色々教えてもらうと、すんなり頭に入ってくるのに、なんで先生の授業は頭に入らないんだろう。俺は占いよりも九九の計算式が知りたいだけなんだ。次の算数のテストが危ういし……
「言っとくけど、占いが当たるかどうかじゃなくて、それが君に当てはまるかどうかってだけだよ?本当の自分なんてそのうち見つかるんだからさ」
そういうのどうでもいいから九九の計算式を教えてほしいんだ。ぶっちゃけ7の段や8の段が一番嫌い。
2011/07/02
そして運命の日曜日がやってきた。
俺の家のインターホンが鳴る。手荷物を確認する。計算ドリル、算数のノート、薄い電卓、筆箱、財布(1000円)、義人に印刷してもらったホロスコープのシート。それらを近所のおばあさんが繕ってくれた手提げに入れ、持ち、玄関を開ける。
「やあ!」
義人だ。待ち構えでもしていたのか。
俺はもう占いに興味がないから、九九の方を教えてくれ、と頼む、が。反応は宜しくなく、「ぼくも全然計算できないから安心して!」と言われた。そうじゃない。俺はただ単に勉強したいだけなんだ・・・そしてその様子だとテストが危ういんじゃなかろうか、と聞いてみるも、「特に困りはしないけど?」と返され、呆れて言葉が出てこない。無言のまま外出した。
しかし今日は曇りである。日は陰りを見せ、雲の隙間に隠れている。雲の切れ目から覗く光と、雲を通り越して包み込むような柔らかい光からは想像できないほどの暑さで、下着が汗で沁み始めている。義人に了承を得て、自動販売機に寄った。お小遣いの1000円を自動販売機に食わせると、スポーツドリンクの注文ができるようになった。おつりは850円。小銭は増えたが、もはやこれは1000円ではない。
単純な物としての数量を優先すべきか、それとも人間の付加した金銭としての価値を優先すべきか、決めることのできない中、財布におつりを入れた。極端なことに、周りの空気とは違って、このペットボトル飲料……、いいやスポーツドリンクという内容物は、非常に冷えていた。夏は暑い。
「歩き飲みはマナーが悪くみられるよ? ほら、お天道様もそう思ってる」
「雲隠れしてるだろ……」
「そういえば、先輩は女の子だよ、裸踊りさせれば晴れるんじゃないかな? そしたら迂闊に歩き飲みできないね!」
「普通に犯罪じゃないか」
このような、他愛もありそうでなくて少しある、会話をしているうちに、義人は一棟のマンションの方へ向かった。俺はその後を追いかけた。
『コーポハイツ綿津実見』。その中は涼しく、1階にインターホンがあり、お好みの部屋番号(3けた)を入力すると、そこの住人とやり取りができる画期的なシステムがある。新しめのマンションだろう、床がきれいだ。義人は軽い指さばきで「6、0、3」と打つと、すぐに反応が返ってくる。
「綿並君来たの? 例のやばそうな青血くんも?」
「そっちにまで広がってたんすか? 噂」
「ホロスコープで大体のことはわかると思うけどさあ? 結果が全く当たりゃしないって、これはあたしの出番て感じね」
「榊原先輩お願いします!」
エレベーターが故障中だった。榊原先輩、と呼ばれた女性の声が妙に恐ろしく聞こえた。
出口はどこだ。約束を放棄して帰りたい。お父さんに算数を教えてもらいたい、けれども休日出勤で俺の声は届かない。どうせ帰ってくるのは遅くなる。階段はどこだ。なぜエレベーターが故障している、これでは6階に上がるのがしんどくなってしまうだろ、早く直せよ管理人。故障しているのが空調設備だけだとしても、エレベーターそのものを封鎖する必要はないはずだ……あれ?
「榊原先輩の圧迫卜占からは逃れらんないよ?」
「真実味を帯びてきたぞ……」
行きたくないが体が勝手に歩いていく。歩いているという感覚はあるし、夏の暑さも、汗が熱を奪っていくのも、ありありと感じられるのに、体が意志するところを為さない。先輩の仕業ではない。俺の中の、真実を求めているところがそうさせたのだろう。奥底では暴かれることを望んでいるのかもしれない。
「踊り場とかでなら飲んでも怒られないよ」と声をかける義人を尻目に、俺の服を着た裸体は階段を上る。
ようやく6階に辿り着くと、体は意志するところを為すようになった。帰りたいという気持ちは隠れていった。
扉の鍵は開いており、中は薄暗い。エアコンが利いて涼しいのはいいのだが、少し寒いぐらいだ。洗面所からはかすかなバラのにおいがし、居間に至る廊下ののれんは夜明けを思わせる色をしていた。大きなテーブルが位置し、暗さのせいで色は解らないが、黒色のテーブルクロスがかけられており、そこにいくつかのカードのセットが置いてある。傍らには白い石がいくつかと、アロマキャンドル。アロマキャンドルはどこか柔らかく、母親を思わせる優しい香りがし、ここまで来た俺の緊張をほぐしてくれるような感じだった。炎の色もどことなく柔らかく見える。
「やあ、青血くん!あたしは榊原 委奈(さかきばら いな) 早速だけど、」
柔らかい光に照らされた榊原先輩は、時期に似合わない長袖をめくる。包帯がある。包帯を一部剥がして、どこかから出したカッターナイフを腕に入れる。押し殺すような声と、歯を噛む音。少しの間を置いた。俺は目をそらした。
「ほら、あたしも仲間だよ!」
そうして彼女は自分の、まさに顔を出した血液を見せつけた。しかし様子が違う。少し濁った黄色のような色をしていた。
これまで何度も、誰もが赤い血液で、それが普通で、俺は青い血液だから、それが異常だから、と言われてきて、俺自身それを常識に思っていたし、どうにかならないのかとお医者さんも探してくださっていたのだ。その常識が今、打ち砕かれた。
一通り見せつけられ、ようやく包帯が巻かれ直される。それが長袖に隠れると、俺たちはようやく椅子にありつけることになった。立ちっぱなしだとそのうち慣れてくるけど、座った時が一番気持ちいい。
先輩は俺の目を見て、見ながら、傍らのカードをシャッフルし始める。
全部で4枚を、78枚の中から出すと、先輩は「君がめくるんだよ」と言って、手を止めた。
最初に、一番左。『ワンドの10』。
「これは過去に起こったこと。何らかの負担が強いられている、もしくはいたのかな?今もその影響は続いているように思うよ?でもこれは園江くんが悪いからじゃない、そういう運命の上にあったし、ただ持っているだけだよ」
次、『カップの4』。
「これは今の園江くんだね、何かに満足してないのかな?後でそのバッグの中身を見せてよ、君のやりたいことは確かにその中に入っているけれどもね、タイミングが読めなくてなかなか始めれないのかな?」
と、先輩が言ったその後に、義人が「算数を教えてもらいに先生に質問しようよ」と口をはさんできた。
次、『隠者』。
「するべきことだね、自分の置かれている状況をきちんと把握して、そこから何か新しいものを生み出せるように、勉強・勉学に励むといいって感じだね、園江のことを分かってやれるのは園江くんだけなんだから」
最後、『太陽』。
「今の時点で予測できる未来だね、さっきの『隠者』のように行動していけば、きっとどこかで成功するかもしれないよ!運動か、芸術か、学問か、今はまだ予想がつかないけどね」
そういう診断をもらってから、なぜか住所を訊かれた。会いにでも行くつもりか、と思ったものの、これまで占ってもらった中で一番当たっていたように思ったので、教えることにした。
その一週間後、「俺」について占い、その結果とアドバイスの記された小さな大学ノート1冊が、俺の家に届いた。
2011/07/15 Mother's Part
2011年7月15日。
お母さんは心配です。占いに手を染めただなんて。この前届いた、小さなメモ帳を見ました。盗み見たと言ってもいいのでしょう。どうして赤の他人が、ここまで園江のことをわかっているのでしょうか。どうして赤の他人が、ここまで入り込んでくるのでしょうか。真実なんか知らなくていい。そのまま健やかに育っていってほしい。
一保護者として、切実に願います。どうか、元気でいてね、心も、身体も。
2013/06/14
小学五年生になって、2ヵ月が経った。俺の妹(戸籍上)もすくすく育って、最近では「血が出た」と言い、俺を困らせようとしてくる。
彼女は今年で6歳だ。
妹、多賀江(たがえ)は単刀直入に言えば、お父さんの家族だ。
もっと言えば、お父さんの姉が、夫に破産攻撃を振るわれて、せめて子供だけでもと、自分は逃げ出して、埼玉から離れ、どっか別のところ(静岡と聞いた)に引っ越して、……それで姉にとって信頼のおける、弟、お父さんが引き取ることになった。
なんでそんな奴と結婚したんだよ。なんでうちに連れてくんだよ。まあ当の本人は何も気にせず、おませに、Tシャツにスカートのついた服の裾を引っ張って、ヨーロッパな感じの挨拶をしてくるのだ。俺は普通に返すけど。
俺の小遣いは減額処分にされてしまった。毎月2000円だったのが、「お兄ちゃんになるんだから節制ね」という理由で1400円になってしまった。由々しき事態である。お小遣いが減ると、心も荒む。
俺の体には変化が起こっているらしい。見えないところで。
そういえば最近、長い間走っていても平気だったり、少しくらっとする程度になってきた。そういえば検診の頻度も減り、このまま周りと同じようになれれば病院に通わなくてもよくなる。やっとみんなと同じように、野原を駆け回れる。やっとその日が来る。少しずつ赤血球の数も、大きさも改善されてきている。ようやく赤い血になれるのだろう。そう思いながら体育の授業を保健室で過ごすことになってしまった。サッカーは動き回るので正直キツイ。
帰宅後、2階に上がるのも疲れる。
目の前を不思議な生き物が右往左往し始める。耳は遠くなり、体の自由も聞かず、ただ本能だけで一段一段を上がっている。「俺は俺だよ」と何回も頭で唱える。ドアを開けるのにも力がいるし。かといって力のあまりに引っ張ると、蝶番が壊れてしまう。それかノブが引っこ抜けるか、ひどい時には扉が割れるかで。何回も修理されていた。ギリギリで理性を保ち、ノブを回せる程度の余裕を保つためには、やはり体育は休んだ方が得策か、と思えるほど、俺はドアのノブを憎み、世界中から消し去りたいと思っている。
ランドセルを降ろすのも疲れる。重荷が無くなって少しは楽になるかもしれない。中には大量の教科書とノート。中津小学校では置き勉(教科書を学校に置いていくこと。その行為)は禁止されているので、皆、辛いのを我慢して重い荷物を運ばなければならない。まるで二宮金次郎の集いだ。宿題はなんだったっけ。早めにやっておかないと忘れちゃうんだよな……漢字ドリルのページ・……、算数ドリルの、じゃなくて、今日はプリント、え?となり、
連絡帳を取り出そうとする。これも疲れる。月曜日の時間割、連絡、あれ、今日金曜日か。やる必要もないよな、と思いつつも、せっかく鉛筆を手に取ったのだから、少しでもやり進めることができれば、休日が楽になる、そう思っていた。
気のせいだろうか、少し体がだるい。
お父さんと、お母さんと、多賀江と食べる豆腐ハンバーグの時間。だが俺はそこにいない。俺は部屋にこもっている。下に行きたい。しかし体は動くことを拒否している。このままベッドでゴロゴロしていたい。いや、しないともう限界だ。倒れそうだ。今すぐにでも寝てしまいたい。お腹が空いた。苦しい、苦しい、動けない。声を出すこともできない。
「オマエなあ」
誰かの声が不意にした。聞きなれない声のように思ったが、しかし、自分の声に似ていた。そんな気がした。実際には確認もせず、目をいきなり開いてしまい、それでいてかつ、漫画のような、寝過ごした後の、遅刻を恐れたかのような起き上がりをしてしまった。声の方向に、本能的に。誰もいない。いたずらかと思った。もう一度寝ようとする。体はけだるさを感じていない。
「そんなにひ弱じゃ守れねえだろ」
まただ。
自分の脳を疑った。どこから聞こえているのだ。この頭か。この頭が悪いのか。何を守るというのだ。家庭か。アナザーアースか。中津市か。埼玉県か。それとも、その他にも?俺が何をしたって言うんだ!
「鏡を見ろ」
わかってるわ!顔の造形が整ってないことぐらいは。しかし俺はなにも言い返せなかった。自分がひ弱なのは分かっていたし、事実だ。どうあがいたとて、覆しようのない、残酷な事実。声の方向に、理性的に。誰もいない。やはり俺の頭だった。窓を開けようとする。体が重く感じている。
この時期は、まだエアコンをつけてもそう変りはしない。むしろ付けた方が暑いという日もある。除湿に設定していたのを、切って、窓を開ける。
暗闇の女が、光る円を手にとって笑っている。こちらにおいでと誘っている。体には星々がちりばめられている。しかしそこまで上ではなく、あくまで近くにあった。そこまでつややかなわけでもない。道の樹を照らす彼のせいで、星は、はがれてしまったのだし。円のウサギは、動かない。ただそこにあり、照らされているだけ。
誰も通っていかない道を、誰も歩かない歩道を、誰もいない街を見てから、寝直すことにした。
2013/06/15
朝起きた。体が熱い。喉も痛い。明らかな不調でありながら、これまでなかったことだった。昨日の、食卓に降りてこないことで心配したお母さんがやってきた。
俺を見るなり、布団を引きはがして、外に行けるような格好にしてから、車に無理やり乗せられてしまった。どこへ行くのかと。いつもの市立病院である。普段とはお医者さんも様子が違う。こんなはずはない、と慌てていた。カウンターで顔を見せるなり、小児科を勧められた。そのまま流れ作業で、喉を見られて、しかも綿棒まで入れられて、苦しいことこの上なかった。
溶連菌感染症と診断された。重症化を避けるため、1週間の安静を言い渡された。
つまるところが、出席停止である。
2013/06/18
朝起きた。かゆみや痛みも引いた。しかし出席停止期間である。
暇で仕方がない。しかし安静にしていなければならない。そもそもそういう間だからだ。天井の、いきり立った岩肌を、目で計測する遊びにも飽きて、布団の布の、構成する糸の結び目を数えるのも飽きた。毎日のように、学校から連絡物やプリント、宿題は届く。しかしそれも終わらせてしまった。電波時計を見ていても、ありふれたパターンの繰り返しですぐに飽きてしまった。これは改善が必要だ。あとこの調子で5日家で過ごさなければならない。お母さんに、処遇改善の申請をしなければならないと感じた。
「園江元気?」
ここ最近の挨拶である。もう元気だよ。もう元気になったから、せめて暇つぶしに何かさせてくれよ、と頼むことにしていた。実際した。
渡されたのは画材店?なんか売ってるところのチラシだった。今レジン細工が流行っているらしく、色々と出回っているようだ。これを頼むことにした。自分ができるかできないかなんて、気にも留めなかった。
空枠は、マスキングテープという装飾的なもので支えを作ってやれば皿と同じようにできるし、母親から借りたマニキュアも、皿に塗ってやればたちまち幻想風景である。そこにいくつかのモチーフ、キラキラや、切り抜きや、何か、何か入れてやれば、簡単に芸術作品がなせるのだ。しかし、簡単と言えども確かな目は必要だ。その奥深さ、予測のできない面白さ、どう仕上がるか、どう作れば美しいか。作れば作るほど、愛おしくも思うし、いずれは販売もできるだろう。おそらくこれは、一生涯の趣味になるだろう、俺は確信した。
太陽が無くなっても平気だ。こちらには疑似の太陽がある。硬化することに徹底した、作り物の太陽。そのおかげで最初に買ってもらったミール皿も、空枠も、使い切ってしまった。
できる。俺は強いぞ。壊すだけでなく、創ることさえ知ることができた。
「ばぁか」
あの時の俺の声がする。おかしな頭、脳みそが創り出した幻想が声を掛ける。今度こそは負けるものか。声の主が姿を現す。
吸血鬼然としたマントに、闇夜に光る八重歯、暗い中で自然と光る両の目。紫。俺に似ているようにも見えた。鳴り響く心臓の音、頭痛、全てを振り切って俺は叫んだ。
「もう俺は弱くなんかないぞ!」
叫んだ瞬間、彼はきょとんとしていたようにも見えた。いきなり叫ばれたらまあそうなるわな、という感じの反応であった。
しかし、数秒もすれば、彼は少しにこやかになった。憎たらしさのない。純粋な笑顔が、俺を待ち受けることとなった。暗さに光が舞い降りた。
「学校の奴らにも見せてやれよ?」
そう言って彼は蝙蝠にはならず、すっと消えていった。吸血鬼ではなかった。何だったんだ、本当に。どっと疲れが出たようにも思えた。椅子の上でうなだれてみた。
しかしこの問答が、俺の中に在る何かを育てたというのならば、それもまたいいのかもしれない。これまで壊すことしかできなかったけれど、創れることの方が、強いんだろうなあ。
―ここまで考えたところで、非常に重大なことに気付いてしまった。
もう午前2時になっていた。いい子はともかく、悪い子もぼちぼち寝ている頃だ。
ああ、これで俺も悪い子リストにぶち込まれるのかな、そしたらクリスマスプレゼントもらえないのかな、と若干の恐れを抱きながら、歯を磨いて、寝間着に着替えて、風呂に入るのを忘れていたのに気づいて、風呂を自分で沸かして、入って、歯を磨いて、寝間着に着替えて、眠りに就くことにした。
2013/06/24
朝起きた。病気は完全に治っていた。合併症も罹っていないため、とりあえずは落ち着けることになった。
久しぶりの登校である。灰色の空の中、赤いランドセルと黒いランドセルが交互になって行進している。この前の問答の通り、作ったものを持っていく……のも気恥ずかしく思って、結局持ってこれなかった。
「少し肌白くなった?」
と、若干日に焼けたさやかが問いかけた。染められた青の髪はまあ、うん。教室の蛍光灯に照らされて輝いているが、あまりにも目立ちすぎている。
次に彼女は、出席停止の時何をやっていたのかを聞いてきた。予想通りではあった。俺は正直に話すことにした。彼女の前では何も隠すことができないし、隠すほどでもない。
「今度見せてもらってもいい?」
彼女も最近ものづくりを始めたらしく(といっても去年からだが)、特に奇抜だと思われることもなく、全ては温和に終わっていった。このころの年代では、何か頭角を現すことがあれば、容赦なくへし折っていくのが常だが、さやかはそんなことをしなかった。いいや、するはずもなかった。
いつうちに来るのかな、さやかはどんな色が好きなのかな、と考えながら泳いでいたら、次の瞬間にはプールサイドに倒れていた。どうも溺れていたらしい。その証拠に、喉の奥から塩素のにおいがする。これは食道洗浄コース不可避だ。
向こうのプールでは、さやかがまさに泳ごうとしていた。ヨーロッパ出身の父親の血を引いた高貴な青色の瞳さえ除けば、普通にそこら辺にいるような女子だった。知らないうちに、惹かれる面もあったのかもしれない。
腕に比べて日焼けしていない白い太もも、少しだけちらりと見えてしまった透き通るような胸の谷間、不毛な無毛の腋、すらりと伸びた首筋、小学生にしては大人らしい体型、しかしどことない幼さ……
気がつかないうちに、夢中になっていたのだろう。結局、見学することにして、その実さやかを目で追っかけ回した。
気づかれたら大変なことになるとわかっていても、男としてはどうしても見てしまうのだ。しかし、その欲の意味もわからない状態だったから、きっとこれは食欲だったのだろう、と自分を落ち着かせようとしていた。
そうでもしなければ、今すぐにでも食べてしまいそうだったから……
2014/12/5
医者には珍しいケースだと言われ続けた。
それもそのはず、生育中に血の色が変わっていくのは生物ではありえない。もしかしてロボットかその親戚か、と疑いをかけられたが、スキャンに映っていたのはまぎれもなく臓物だったので、誰もが、東京の偉い学者も、首を傾げて全てを天任せにしていた。
小学六年生。未だ幼い男子が、少しずつ角を伸ばし始める時期に、俺は立っていた。
妹の多賀江は、小学校に入った。俺と同じ中津小学校。
しかし学年の違いが相まって(俺の学校では上級生……4年生から上の児童は別の四階建ての校舎に移るシステムだ)、俺と多賀江は学校では目を合わせることはない。家では嫌と言うほど目を合わせるけれど、別にそう嫌いというわけでもない。もっと別の女子の顔を見ていたいと思ってしまう。多賀江にあいつの面影を感じて、気づかれでもしたのか、目を細めて笑っている。俺はあくまで何でもないように振る舞う。ついでにミカンも取って食べる。
面影、といっても、目が二つあって、鼻が一つと、口があって、眉毛があって、耳が二つあるという至極基本的なところであったが、感じた面影というのは、さやかのことだ。
今年の10月から、俺たちは付き合っている。最も、付き合っているといっても普通に公園で遊んだり自動販売機の飲み物を割り勘したりなど、本当に何でもなく。それもこれも、去年の夏に感じたあの食欲のせいだと思っている。
2014/09/10
「さやか、あのさ……」
あの時感じた食欲はなんだったのか、自分なりに答えを見つけようとしても、何もわからずじまいだったので、もうこれは本人に訊こうと思った。
「なあに、園江」
「去年のプールの授業さ、視線……を……感じていたり……したか?」
「したね」
やっぱりバレていたようだ。こいつの感性は侮れない。
もしここで視線の主が俺であるとバラしてしまったら、絶交案件になるだろうか。折角ものづくり関係の友達になれたと思うのに、ここで関われなくなるのは残念だ。しかし真実を話さなければそれはそれで警戒されてしまうだろう。誰かに盗聴されていたなどの記録は機械を突き出せばわかる話だが、感覚について問うのは、そのうえ理由も明かさずぬこぬこと席に戻るのは、俺の信条に合わない、と感じたから。
「気持ち悪い、と思うかもしれないけど……あれ、俺なんだ……」
「そんな気はしてた」
それでも表面上は俺の友達でいてくれたが、さすがにこの対応だと限界に近いかもしれない。顔面が限界集落みたいになるのを抑えて、俺は次の言葉を待つか、それとも俺が次の言葉になるか、と勘繰り、思考していた。
「でも気にしてないよ、目立つ髪の毛してるもん」
ああそうだった。そういうふうに見られるのがさやかの毎日だった。奇特な髪色だと、どうしても世間の印象は良くはない。さやかは持ち前の明るさと精神力でそのことを気に留めさせないようにしているようだが、さやかがトイレに行ってていないとき、さやかと仲良しの女子たちが「あの髪色遺伝する?」「父親か母親かそれかどっちかのおじいちゃんおばあちゃんがそういう色なんでしょ」などの陰口をしていたのを見たことがある。正直怖かった。
だからそうではないと、俺はそっちじゃなくて、肉体の方に食欲を感じてしまったと正直に言わなければならないが、上手く表現できるか不安だった。
「……今から気持ち悪いこと言っていい?」
「え、いいよ」
一応先に了承を取ってもらう。この契約に関係性がこじれたりしないかなどの確認はない。
「さやかの太もも………おいしそうだった…………」
俺とさやかだけでなく、教室にいるクラスメイト全員の動きが若干止まった気がする。それと同時に、どことなく空気がよどみ始め、騒ぎの種を撒いた自覚に襲われる。
「さすがにそれは……ちょっとキモい…」
ああやっぱりこの反応だった。もしこれでこれからのさやかとの関係に傷がついたとしたら、さらに言えばこの会話を傍聴していたクラスメイトにさえ、もっと言えばそこから学校中に、最悪中津市中にこの話が広がったとしたら、俺はこの国では生きていけなくなってしまう!なんて失態だ!年11にして何の失態だ!あの時感じた感情は、世間的には、間違いそのものだったのか!
そもそもだ!人が、人を、喰らうだなんてありえない!そのルールを、俺は無視した!
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。このような言動は許されるはずがない。そのうち女子が団結しだすであろう、そして俺をまた新聞に載せるのだ!その題名はこうだ……「同い年のクラスメイトを食べたいと思った男子」。猟奇殺人犯として仕立て上げられるかもしれない!こんなところで転ぶだなんて、誰が予想できたものか!
「あっ、でも…… うん、ちょっと付き合ってみる?」
何故か、と問いたくなった。女の思考回路はよくわからない。だから聞いた。
「なんとなく、夜になったら狼男になってあたいを襲う、とか、そういう感じなのかどうか見極めたかっただけ」
ああそうか、そういうことか。さやかは俺を疑いつつも、証拠が見つかるまでそっとしておく、そういう人種なんだと思った。
そういえば、前々から「うちに来たら俺の作品見せてやるよ」と言いつつも、ずっと見せることができなかった。母が専業主婦で、一応アルバイトでスーパーのレジ打ちをやっていて、多賀江が友達と遊びにたまき公園に出かけていて、父親が仕事をしていて……という途方もない確率の中を潜り抜けなければならない。
性別が違うからか、それとも血の色が違うからか、男と女が遊んだり、手をつないだり、そういうことはこの年だとタブー視されるようだ。それはおかしいんじゃないかと、俺は思った。
「付き合うなら……連絡先交換した方がいいよね、園江はケータイ持ってる?」
学校には持ってこれないと、そうとなるとまずここで会う日時を決めて、そこで携帯を持って行って、連絡先を交換すればいい。ただ困ったことに、俺は母に今流行りのチャットアプリを入れてもらっていない。
「大丈夫、んなら今週の土曜日とかどう? あたいもそのアプリ入れてないよ
園江はメルアドある? あたいは持ってるから、よかったらメルアドよろー あ、あとたまき公園ね」
その夜、俺はさやかのことだけを考え続けていた。考えながら、俺の作ったレジン作品にホコリが被っていることを見て、何か専用の覆いか何か必要かな、と思った。
2014/09/13
「やっほー園江!! メルアド開設できた?」
母に無理を言って、開設してもらった。年齢を偽ってもらったり、など、色々と……。そこで気になったのが、本当にさやかが同じ年なのかどうか、という点だ。UVレジンや絵ならまだしも、さやかは音楽だ。こんな年の子供が楽器を手足のように使って、パソコンいじりも息のようにできるだなんてありえない。神童レベルなんじゃなかろうか、と。
「さやかは、本当に小学生なんだよな……?」
「そうだよ、あたいは園江と同じ年だよ、多少早生まれでも、特に代わり映え無いでしょ?」
「でも、周りの女子とは違う、何か明確な目標があって毎日を生きているように見える」
「うん、あたいは清世大学の、音楽科に行きたいから」
清世大学なんて初めて聞いた。東大や早稲田はよくニュースで聞いたりもするけれど、そんな学校初めて聞いた。しかも音楽科。一体なぜ、そういう場所に行くのか。
「お父さんに会いに行きたい、そしてこの髪色に染めてくれたこと、『ありがとう』って言いたいの
だって、音楽家の娘だもん、音楽家にならなきゃいけないじゃん?でも周りはそうなる必要はないって言う、なりたくないならならなくていいと言うけど、それは納得できる、けど嫌々やらされてるわけじゃないの、あたいは自分で決めたから」
かっこいい。
初めて同年代の女の子を、かっこいいと思った。俺にない部分、情熱、確固とした炎のような意志。さやかの父親譲りの青い目は、冷たい氷の目ではなく、高熱の炎の目だったとは。
「この境地に辿り着くためにね、ある女の子の助けが必要だった 誰だったかわからないけど、あたいの友達だったような気がする 思い出したくない出来事があったから、あたいはもう聴きたくないけれど、どうぞ」
そう言って、さやかは目をそらしながら、白い紙で厳重に包まれたCDを渡してきた。ところで、と俺は思って、携帯を取り出し、催促する。さやかは思い出したかのように、女の子感あるバッグから、自分の携帯を取り出して、電源を入れる。
「あっ、ここだと太陽の光が反射して眩しいから、かまくらさんとこ行こう」
かまくらさんとは、可愛らしいつぶらな目のステッカーのついた、かまくら型の遊具のことである。暑い時期になると、何人かの児童が中に入り、寒い時期になると、何人かの児童がそこでゲームをやり始める。たまに大人も入ってくるというのだ。
俺とさやかはその中に入って、暗いところで携帯いじると目が悪くなるというかつての大人のアドバイスも据え置きに、メールアドレスを交換した。
「園江さぁ」
「なんだ」
「暗いところだと目光るんだね、まるでケータイみたい」
「携帯はずっと光ってるだろ」
「でも、ケータイよりずっと綺麗」
親には、母にさえ、そんなことを言われたことはなかった。今の顔が限界集落でも、過密な都市でも、絶対に見られたくない。とろけたような、男らしくない顔なんて、さやかに見せたくない。そして、その「見せたくない」という感情が、タブー視されるそもそもであり、恋というのも、そこから始まるのだろう、と。
2014/12/6
「ごめん、園江」
別れを切り出されたのは、いきなりのことだった。
なぜ、と問う元気もなく、ただその言葉を受け止めてしまった。
「園江と付き合っていると、あたいの汚いところが見えてくる気がする 園江の言葉は、まるで鏡のように、あたいを追い詰める……その気がなくても」
追い詰めようだなんてしてない。俺は俺の言いたいことを言っているだけだ。恋ってそういうものじゃないのか。お互いが言いたいことを言い合える関係なんじゃないのか。
なぜ遠慮する、なぜ罪悪感を感じる、なぜ、さやかが苦しまなければならない。俺は何もしていないはずなんだ。
「まだ、付き合うには早かったみたいだね、あたいも、園江も」
待って、俺は別れたくなんてない。これからも同じ関係でいたい。俺はさやかを支えたいんだ。
「これからも、作品は作り続けるし、聴かせてもあげる、見てあげる でも、付き合うのは、ここでいったん終わりにして」
待って……
「じゃあね、園江」
次の日、俺の枕とパンツがずぶ濡れになっていた。枕はそのうち乾くからいいのだけれども、パンツの方が問題だった。魚介類臭くてたまらない。母に相談するにもこの年でおねしょなんて恥ずかしいので、動いている途中の洗濯機に入れて、着替えることにした。
2015/04/06
中津市立中津中学校、入学式。
俺はクラスの名簿を見て、自分の名前を探しつつ、他の人物の名前も探し始める。俺、土増園江は1年7組9番だった。
綿並義人、1年7組19番。委奈は確か上級生だから、もう3年になっているはずだ。ほとんどの中津小学校生がこの中学校に入っているようだ、全員は覚えていないけれど。それならば、彼女も入学しているはずだ。
月照さやか、1年3組34番……
2015/05/05
いつまでも話しかけるチャンスが見つからない。自由時間が削られたせいで、さやかのいる3組に行くこともできない。断絶された気分だ。そう、これは昔、赤子を収容する施設で、俺だけが別の階に収容された、と母の母子手帳に書いてあったことと同じだ。誰もがそのことを、血の色の違いによる、『呪い』であると称した。
ああ、そうか、俺は呪われていたんだ。
思えば昔から数奇な人生を送ってきた。いじめられてはいなかったが、血の色が違うからと、誰もから注意され、誰もから軽視され、誰もから病人のように扱われた。そんな扱いをせず、まるで幼馴染のように扱ってくれたさやかとも、別れてしまった。義人のことも頼りにならない。委奈先輩にしたって、同じ悩みだとしても、俺のように病弱ではない。
目標を失って、棚にあるレジンも、全て捨ててしまおうかと思うときもあった。しかしさやかの残した言葉がそれを食い止めた。メールも、あれからいくら送っても返ってこない。メールアドレスを変えたなら、教えてくれればいいのに。どうにも言えないぐるぐるとした感情を胸に、俺はベッドに倒れこむ。
何を犠牲として何と成す?
評判を犠牲にしてかつての彼女に会いに行くか?
夢を犠牲にするか?
長い永い夜が、始まりを告げる。
先日の午前4時35分、S県の県北に位置している中津市の「たまき公園」に、およそ現代の技術力では解明できないロケットのようなものが不時着し、約1500万円の損害が発生した。死傷者はおらず、丁度朝方の誰も人がいない時刻であった。
先日、S県中津市のたまき公園に墜落した国籍不明のロケットのようなものの中身を調査したところ、栄養失調状態に陥った女性と、何事もなかったかのように寝ている乳幼児を発見。内部の機械は更なる調査の必要がある。
露、韓、米、どの国のものではないことと、英国のグリニッジ天文台より届いた観測の記録を元に、アナザーアース外生命体の存在を認識するほかない模様。
先日、たまき公園に墜落したロケットから発見された女性と乳幼児に対して、S県知事が人権と国籍を与えることを決定した。住民票は中津市に帰属することになる。
しかし、女性に責任能力がないことが判明。どこの誰にも覚えのない言語、それも非常に語彙が少なく、統合失調症のおそれがあるとし、日本語の教育を受けさせることとなった。
それに伴い、発見された乳幼児の身元を中津市立病院に引き渡すこととなるのだが、親権問題が発生するため、S県中津市に在住の方、もしくは移住を考えている方で、養子を迎えられる程度の経済力を持つ独身男性を募集している。我こそは、と思う方は(XXXX)XX-XXXXに。
公園に墜落したロケットの機械部分を抜いて、新しい遊具として設計し直し約1500万円の損害を取り返そう、とS県中津市市議は計画していた。中津市の南に位置する淡島市在住の、鹿島建築高等学校教員による設計図によれば、梯子のようにして普段難しい箇所の運動を狙うという遊具になるようだ。
事前調査により、強度には問題がなかった模様。但し、老朽化対策が考えられないような未知の素材のため、秘書からは「市の名物としてそのままにしておくのもありなのではないか」と提案された模様。また、今回の調査により、干からびた人間の姿形をした生き物だったらしい何かを発見。不燃ごみとして扱い処理するか、火葬を行った後に墓を建てるか、討論が続いている。
私たちは、ただ遠くの希望を聞きたかっただけだ。故郷さえ遠くにある現実を、受け入れたくないのではなかった。
一夜一夜を過ごすことはできた。食料にしたって、十分なほどだし、今だけでなく未来の私たちも生活できるように、栽培の設備も整えてある。
なぜ私たちはこの漆黒の海を漂うことになったか。あれは、気の狂った研究者が作り出した一つの種族が私たちの故郷に蔓延したからだ。確かその時代は、急激な環境の変化で気候が総崩れになっていた、と聞いた。原因は、私たち人間の、故郷の開発によるものであった。そうして大気中に舞い上がった様々な物質が世界を汚していった。私たちは手軽なもののために自らの耳も、脳も溶かしていたのだという。
その種族の血は鉄の匂いがしない、私たち人間のものとは違った。研究者が言うに、鉄のない血の方が大気を汚さない、と。この論調に誰もが従うしかなかった。誰もが従うしかなかった。
この海は広く、音もなく、そして、あまりにも広く……一生のうちにどれだけ進めるかなんて誰も知らなかった。私たちはお互いに首輪を掛けて、洞窟に木材を入れ続けた。降る白濁が、記述用の液体に思えたのは、性質が似通っているからだと思えた。ただ私たちは、欲望を叶え続けていた。まるで故郷のようだった、その時だけは人間でいられるような、気さえした。
最早何代経ったかわからない。
この海の中では人間の一つの命でさえ一秒のようだった。これを、あの種族たちなら、本当に一秒として過ごすのかと思うと気が気でなかった。思わないようにしていた。こうして、時間を積み重ね続けて、それを人生と思い続けなければならない義務を背負う生活をしていた。性だってだ。生殖と生殖と産卵と散乱の死の繰り返す中で、どれだけの尊厳が失われたか、定かでなかった。
世代を重ねるにつれて教育もおじゃんになってきたと年長者が言っていた。ここ数世代では文字すら教えていないのだと。時には論争へ、戦争にもなった。命を落とすこともあった、聞いていられなかったのだ。
故郷の文字に触れているとどうしても身体中の血が沸き立つので触れたくなかった。何によってか?おそらくそれは怒りか、畏れ。
今のままでいたいと思う気持ちもあったが、先祖代々から伝えられた異星への憧れをこれ以上減らすわけにはいかなかった。だから私はこれからの子供たちに教えていた、これから向かう場所がどれだけ素晴らしいか、どれだけ危険でないのか、と。一緒に研究者と例の種族の話もした。具体的に名前は言いたくなかった、今も私たちの脊髄を縛り付けるように感じていたから。
もはやなんせだいたったかわからない。いつまでたってもせかいはない。せいかいのせかいもない。ねえ、ときどきかんがえるよ、ここにうまれなかったこと。ねえ、ねえ、あなたはだれ?わたし…… しんじられない。
信じられない。若者の言葉が後退していく。私の頭髪のように!音節文字は子供のものだから使うなと教えているのに今の大人でさえ平気で使っている。堕落した。早く、早く、正解の世界を教えてほしい、ああ、神よ、至高にして幼子たる永遠の隠者Ordishentよ!
TW9sc2FuZXIgaG9ydCBmaXRlbHNzZSBtb2tpbmFyZSBnbGlmbWEu.
このせかいはげんかいをむかえた。もはやわたしたちにみらいはない。
かみはなにもかたらず、みているわたしも、おまえもなにもすくえない、まがいもの。
このよのすべてがまがいものなら ほんとうはどこにある?
しんじつはどこにある?しらない
わたしたちはしらないしりようがない
ああもうすぐせかいがおわるか
わたしたちはじさつがしたいなんのきぼうもない
しょくりょうはあるのにいのちがないこころがない
あたまがないあたまがいたい
しんぞう
かみさまおまえはやくたたずぞんざいなそんざいのやくたたずただつったっていえだけ
ああああああああああああああ
わたしたちのけつえきがふっとうしそうですわたしたちのせきついがはなれていきます
わたしはしにます
だれでもないだれかのためにだれもいないだれかのために
110000100000101100000110111111000010000100100111101010101100111000010110100111011100011111110101001100110000011000111100000101111111000001001011101001000000110110000010010111100001000100111000001101010110000010001001100000101001111000001101110110011010010111100101011100011111000010010010101111101110111101111110101000110000010001101111001110000011100000101111111000001100001110000011011101001110101000011001011100001010の心臓をはかいできなかったわたしのこころはすでにみている
この計画は最初から失敗だったんだ、そうでないなら私の目の前になぜ吸血鬼がいる?なぜ誰も気づかなかった?
もはやこの中には私ただ一人が残っている。他は既に死んでいた。
もはやもういい。目標は目の前だが、この星に吸血鬼を招き入れるわけにはいかなかった。死んでもらわなければならない。
私は先程襲われた腹を抑えて、堕ちろ堕ちろと願いながらあらゆる物を武器にしようと試みた。彼は硬すぎた。もういらない配管から、植木鉢から、食器から、刀から、色々持ち出した。けれど無駄だった。彼は硬すぎた。しかし私など気にも留めていなかった。
もういい、もういい。腹の命ごと消えれたならそれでもいい、故郷なんざ糞食らえ、と私は落ちていた銃を拾い、撃つ。
私は妊娠したらしい。彼は死んだらしい。
死んだ仲間を埋めていたこの土の中に、私たちを遠くに向かわせる原因を埋めるのはとても心が痛かった。そうしなければ私が生きられない、けれど私は埋めることができなかった。
私はどうすればいい。いっそのこと、自殺してやろうか。
あの吸血鬼の子供を宿すだなんて、生まれたらとんでもないことになりそうだ。先祖がどれだけ願った大地でも、私にとっては生きたくもない場所だったとは。なんという皮肉か。
ふと腹の中から少し衝撃があった。
足だ。腹の中の子供が私を蹴っていた。思わず私も蹴った場所に手を置いて、子供の足がわかったら掴もうとして、自分の肉を摘んでいた。こうしている間にも、何か私の中で咲くものがあった。
「園江、このお寝坊さん!」
下からお母さんが呼びつけていた。今日は日曜日のはずなんだが……それほどまでに俺に知らせたいことがあると言うのか。
「はい、電気ケトル!今年の誕生日プレゼント!」
まさか、本当に実在するとは思わなかった。『子供の誕生日プレゼントに家電を買う親』。俺は南部鉄器の方が嬉しかったかもしれない。鉄が入るんだ。
ああ、さっきのは夢だったらしい。ここ最近変な夢を見るので、そのうち本にして出版してやろうかと思ったりもした。環境があれば。
しかし、もしあの夢の、女の人が、俺の母親だったとしたら……これ以上は考えたくないな、だって、未来には希望がいっぱいあるってお父さん言ってたから、それは無いと思うな。
けれども少しだけ考えることがある。うちの家族はどことなくおかしい。お父さんのお父さんは大金持ちだ。ついでにお父さんは沢山稼げる仕事を持っている。母親と、俺と、多賀江を一緒に過ごさせても何の問題もないどころか、毎月の給料で新しいゲーム機を買えるくらいには(買ってもらったことはない)。
お父さんの方には沢山親戚や家族がいるのに、お母さんのお父さんや、お母さんに会ったことや聞いたことすらない。写真すらない。知り合いもいない。かといって外国にいたとかそういうわけでもない、けれど……
これ以上考えてもよく分からない。なので紅茶でも飲んでやろうと思って、冷蔵庫の上にあるティーバッグを一つ持って行って、電気ケトルでお湯を沸かして飲んだ。
思った以上に苦かった。もう二度と飲まないと誓っては飲んで、その度に苦いと思った。砂糖を入れようとしたら瓶の中身を一気に入れてしまった。さて、どうしよう、これ……