片山伯耆流は総合武術である。
剣術・柔術は無論、医術から戦術(戦支度)にいたるまで、今で言う総合大学 である。伯耆流剣術では一人で稽古をする場合を、一人稽古と云い、のちに、一人稽古が居合術といわれるようになった。
伯耆流は実戦居合で、俗に云う甲冑を着込んで戦うときの居合術である。
甲冑のもっとも弱いところ攻める剣術が工夫され、甲冑外といわれるところを攻める居合剣術である。
手薄な脇の下を狙い、切り上げ、また甲冑は突きに対して弱いので、突きを入れる。 伯耆流の突きは九分九厘、添え手突きである。(強い突きができる) よって、伯耆流は逆袈裟、突きが基本となっている。
昔は甲冑(30kg位)を着ているので、踏ん張って居合をしていたが、 近世に近づき、時代と共に軽い稽古着で練習するようになり、 すっくと立ったキレイな姿勢で居合を行うようになる。
つまり現在は、虚と実の狭間で、芸術の如く居合が行われている。
居合術(殺人剣)が道を付け、居合道となり、さらに芸術の域へと進化した。
それが良いか否かは将来の人が評価するであろう。
片山伯耆流 系譜
片山伯耆守藤原久安について
片山 久安
時代は天正~承応(じょうおう)である。
俗に云う安土桃山時代~江戸初期 美作苫田郡二宮庄の出である。竹内久盛 (竹内流・小具足など)の舎弟と 成っているが、これは誤りである。
久安は久盛の次男、二代目久勝と 同時代の人で、久盛より腰の廻り(小具足)を学び、 自ら工夫を重ね、愛宕神を崇敬ののち、 抜刀術を創始し、片山伯耆剣と号した。 京都の愛宕神社で「貫」の一字を夢想し、流儀を開いたとされている。
関白・豊臣秀次・秀頼を指南し、その名声は高く、慶長15年後陽成天皇の御前で 「磯之波」を天覧に供し、従五位下・伯耆守に叙任されたと伝えられている。 (但し、裏付ける資料はない)
豊臣家没後、流浪の旅に出て元和(げんな)元年(1615)周防の岩国(山口県南部)にとどまり、 吉川家の客分となり、慶安3年3月7日76歳で永眠。(1650)
その道統は片山伯耆守 ~ 伯耆久隆 ~ 「久太郎久成」 ~ 数馬久之 ~ 利助久義 ~ 攀龍齊務人 ~ 友猪久俊 ~ 本蔵久寿 ~ 武助久道 久成は父の久隆に先立つこと三年、元禄九年(1696)に歿している為、一子相伝の秘太刀を三世久之に相伝)
当会の剣士、片山伯耆流の開祖である片山久安(かたやま ひさやす)ゆかりの、京都・愛宕神社を参拝しました。
境内には、現師範の師範、小中弘行先生が代表で奉納された石碑があります。現師範の名前も刻まれています。