浄土真宗本願寺派
照臨山 宗玄寺
Shorinzan Sougenji
宗玄寺の開山は,延文年間(1356~1361)に,安芸国山県郡大田郷の栗栖氏一族林亀之助が,安芸太田町土居にある臨済宗の実際寺において修行して宣教と名を改め,禅宗寺を創建し,「宗玄寺」と命名したことに始まる。
江戸時代になり一時無住となったが,享保4(1719)年,道祐が浄土真宗に改宗し,翌5年,西本願寺より木像及び旧寺号のまま「宗玄寺」として許可された。
明治39年には本堂も現在のように改修改築され現在に至る。
この石塁は,その構造から中世に築造されたものと考えられる。すなわち,大きな自然石によっており,その広い面を見せる等の築き方は特徴的であって,福井市の一乗谷遺跡に戦国時代の類例が存在しているが山県郡西部地方では他に見当たらない貴重な遺構である。築いたのは中世,安芸太田地方の開発領主であったという栗栖氏の可能性を指摘できる。栗栖氏は一族が近くの箕角城(跡)に拠ったと伝えられており,その館跡(土居)に近世になって宗玄寺が他から移築されたものと推測さえる。また,安芸太田地方は古くから石積み技術に勝れ,当上殿地区はそれを「所の誇り」としている土地柄でもある。宗玄寺の石塁は,この地方の最も古い石工の技術を伝える遺跡として,歴史的にも価値が高いといえる。
平成17(2005)年10月28日
安芸太田町教育委員会
この石塁は、城の石垣のように大きな石をつんで造っている。底辺が3.8m、台形に積み上げ、高さは2.3m、直線にして約30mが、ほぼ昔ままで残っている。
自然石を加工しないで積む「野面積み」で、横の筋目が通らない「乱積み」である。石塁の角(かど)の積み方は、石を長く使ったら、その反対に短く使う「算木積み」の積み方をしている。 石塁のよく残る上手側の積み石は広い面を表に見せるように築いて、実質的には強い石の積み方ではない。
福井県にある「一条谷遺跡」は、戦国時代の有名な武将浅倉氏が築いた城下町の遺跡である。この遺跡の入り口にあたる「下城戸」と同じ築き方をしている。戦国時代の石垣の築き方にも同じ手法はあったことが知れる。この石塁も、戦国時代頃に造られたと思われる。
宗玄寺の北西に当たるすぐ近くに、比高90mの箕角山があり、この山上に中世の箕角山城跡がある。こうした山城の城主達は、平生はふもとの館で生活し、いざ戦の場合に山城によって戦ったのである。館は城のふもと近くにあり、堀や土塁の防備施設で固められていた。宗玄寺の石塁は、おそらく戦国時代頃の館を守る石塁だったようで、近くには谷川があり、館を山津波と敵から守るために、土塁よりは、効果的な石塁を築いたのではないかといわれる。
この墓地には三基の古墓があり,昔の五輪墓の残欠を寄せて作られたものである。
この記念碑は明治32年7月1日,宗玄寺の過去を振り返り,ますますの繁栄を慶んで,当時の門徒総代が建てたものである。
長享2年、栗栖氏がこの像を寄進したようである。顔相はおだやかで、全体から受ける感じも、室町時代後期の作と見受けられる。
今は、この辺りを「考哉河内」と呼ぶが、昔は「高野河内」であったことを示す貴重な碑である。栗栖氏と高野山とは丹(朱)の産地を通して関係が深い。昔、太田地方は丹を多く産出して、栗栖氏の豊かな財源になっていた。栗栖氏が高野山へ献じ物をするための土地であったと考えられる。