2025/9/28
空を懐かしく想う頃の、皆の日常の一頁
海は月に惹かれて、その距離を縮めてゆく
雲たちは月の邪魔をしないよう、静かに身を引いた
囁くように照らす月に、海は喜ぶように煌めく
揺蕩う月を抱いた海は、たおやかに唄っている
そんな月と海の逢瀬を眺めながら
二人は寄り添うように、そっと耳を傾けた
漁師が漁場を教えられる訳が無いと、けんもほろろに言われた学者たちは、せめて捕った魚だけでも見せてくれと譲らなかった。買ってくれるなら良いんじゃないかと声をかければ、学者たちは財布の紐を緩め、色を付けて買い取っていった。
地形や環境が変わって、生態系もだんだん変わってきている。学者連中はフィールドワークとやらで、あちこち飛び回っていると言っていた。買った魚の中に珍しいものでも有ったのか、倉庫の隅で学者たちが内容のさっぱり解らない会話をしていると、村一番の頑固者がしかめっ面して近づいていた。面倒事の予感がして作業の手を止めたが、そいつは予想とは違うことを言い出した。
「ナシラの漁師が捕った魚を食わねぇたぁ、どういうつもりだ」
「付いて来い」と、蛇に睨まれた蛙の様になった学者たちを、半ば強引にどこかへ引きずって行った。倉庫は一瞬静まり、呆気に取られた皆の視線は次第にこちらに向いてきた。こういう時に厄介だ、幼馴染というのは。
仕事を終えていつもの酒場に入れば、茹で上がった蛸の様になった学者たちがテーブルに突っ伏していた。
「ったく、一杯で潰れやがって。代わりに付き合え」
そう言って退屈そうなうわばみは、酒瓶を突き出してきた。中々の良い銘柄に、断る理由も無し。隣のテーブルから一脚拝借して、ありがたくご相伴にあずかる。彼らが素面だったら無くなっていただろう魚料理たちに手を付けながら、もう一本開け始めたそいつに訊ねた。
「ずいぶんと、らしくない事したじゃねえか」
前だったら追い返して「自分たちで捕って来い」とでも言っただろうに。そいつはこちらを一瞥すると、なみなみと注いだ酒を口に運ぶついでとばかりに返事をしてきた。
「こいつらの海図は役に立ってるからな」
正確な地図が無ければ漁もへったくれもない(実際作ったのは別の学者だろうが)。義理と面子は気にする男だ。珍しく素直になった機嫌を損ねないよう「そうかい」とだけ返事をして酒を呑む。人の奢りで飲む酒ほど旨いものは無い。
「ここはお前との割り勘な」
前言撤回。こいつ、わざと高いのを開けやがったな。睨みつければ、そいつはしたり顔で酒を注いでいた。明日からの糟糠をいただく日々を忘れるため、残り少ない銘酒を呷った。
後日、学者たちが魚の味を褒めちぎったらしく、村の観光客が増え始めた。若い漁師たちはこの流れを活かそうと言い、ベテラン漁師たちはそれに反対して一悶着が起きるのだが、それはまた別の話だ。
「お前、俺のこと嫌いだろ?」
何を言い出すかと思えば、それはこっちの台詞だと言いたいところだ。だから代わりに「そうですね」と素っ気なく答えると、彼は少し寂しそうに顔を歪ませた。その不意な表情に、つい、まごついてしまう。
すると彼は失笑して、悪戯っぽい顔をしてみせる。だから僕はわざと同じ顔をして、そういうところが嫌いなんだと、言ってやった。
復興に手を貸してほしいと頼まれた彼女は少し返事を渋った。だが、誠実を擬人化したような青年の訴えに、いつか大物になりそうな未来がよぎりながら彼女は押し切られた。
久しぶりの故郷の港で、彼女はわかっていても驚いてしまった。他国を受け入れなかったこの国に、各国の船団が集まっていた。
軍のほとんどが異形と化したこの国は、かなりの人手不足に陥っている。そこであの青年が根回しをして、これほどの人を集めたのだ。以前の彼しか知らない者からしたら、俄かには信じ難い話だろう。
彼女は青年の活躍を目の当たりにしながら、指示を受けた場所に行く。そこにはすでに人が集まっており、中に見知った顔もあった。彼女はその元同僚と軽く挨拶を交わすと、せっかくだからと誘われて同じ移動車に乗り込んだ。久しぶりにキャタピラの振動に揺られながら、お互いのこれまでを掻い摘んで話し合う。ずいぶん変わったと、相槌を打ち合いながら。
「また国のために働くのは良いが、こうも仕事内容が変わるとはな」
皮肉を飛ばしながら朗らかに笑うかつての同僚の顔を見て、この国は良い意味で変わったのだろうと、彼女は末頼もしく思った。
村は人が居ない間に魔物が入り込んでいたが、すでに排除され建物の改修が始まっていた。どうやら基盤設備を良い物にするらしく、設備はなかなかに大掛かりだった。
作業が始まればあっという間で、気づけば日はとっぷりと暮れて、冷えた風が夜を告げる。今は近くにキャンプをしている村の住人たちが、食事の時間だと伝えに来た。
広場で作業員たちが食事を受け取る中、彼女は皆から離れた薄暗い席に座り、自前の携帯口糧を口にする。そこにトレーを持った一人の少女が、何も言わずに向かいに座って食事を始めた。
ただ黙々と食べるだけの妙な静けさは、食器が触れる音すら五月蠅く思わせた。二人の間を埋める虫の話し声を遮って、少女が話しかける。
「どうしてここに来たの?」
非難より疑問に近い訊ね方に、彼女は思わず気が抜けた。ただ、どう声をかけようかと思案していた彼女には都合が良かった。食べかけの携帯口糧を置き、腰の鞄に手を伸ばす。
「私の事を許してくれたとは思っていない。ただ、これを返しに来たんだ」
そう言って、彼女はマグナスを手渡した。少女の父親が使っていた形見の品だ。
「私はこれのおかげで生き延びた、ありがとう」
ただそれだけは伝えようと、彼女はここに来た。静かに受け取った少女の顔は俯いてしまってよく見えない。無言の返事だと受け取った彼女は静かに席を立とうとした。が、声をかけられた。
「……いつまでいるの?」
やはり自分が居ては気まずいだろうと、
「二、三日ですぐに──」別の現場に行くと彼女は言うつもりだったが、
「料理はできる?」
と、少女は食い気味に聞いてくる。彼女はやや戸惑いながら言葉を返す。
「最近教わってはいるが……」
「ここに来る人みんな下手なの、手伝って」
少女は真っ直ぐな目でこちらを見返した。厳しい眼差しだが、怒気は感じなかった。
「……もちろんだ」
彼女は今、報いの他に沸いた気持に、まだ説明がつけられなかった。
「やることは沢山あるんだから。きっちり働いてね」
さっそく明日の予定を指を折りながら説明する小さな監督に、彼女は敬礼で返した。
斜陽で輝くようになった街並みも、いつも挨拶をくれる店のおばさんも、餌を欲しがって足をつついてくるコッコドリも、君と話すときの目線の高さも、尊大に言ってた一人称も。
気づいたら、少しずつ、思い出になっていく。
でも、たとえ子供っぽいと言われても、「正義の味方」でいることは、まだ思い出にはできないんだ。
人々は故郷を喪った。
しかし、その形見を受け取った者がいた。
それは鈍い音色を奏でるだけだった。
彼は今も、その形見を背負って生きている。
人々は問うた、なぜそれを背負うのか。
もう還ることは出来ないのに、と。
君はかえって自由になれたのに、と。
彼は言った、
「片羽だって、忘れてほしくないからさ」