月と箱庭。(後編)

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十九.


幾ら悩めど自分でどうにも出来ない事は往々にしてある。

この本丸内であれば、尚更に。暦は春の盛りを間近に控え、山姥切はすっかり雑用兼本丸内の仕事専任も板に付いて居た。


決してそうなりたくてなっている訳では無い。

しかし戦力外の扱いを受けながらも刀剣男士としての形を失う事が無いのであれば、今の自分に出来る事をするしか無いのだろう――それは一種の諦観ではあったけれど、もう自分は刀として、武器としては居られないのだと。受け入れるより他に無い状況で塞ぎ込んだりするよりは余程建設的であるとも言える。

いつもの様に夕餉片付けの手伝いを終え自室に戻り、そろそろ布団を敷こうかと考えて居た矢先にそれは訪れた。


廊下から襖を叩く音。


「山姥切国広」


そう呼んだ声は、紛れもなく。


――三日月。


『三日月宗近』が山姥切の元に現れなくなって長らく聞く事は無かったけれど、聞き間違えようもない。


緊張が走る。

襖はしっかりと閉めて居た。部屋の明かりは、廊下へ漏れていない筈だ。

返事をしなければ、三日月は不在だと思い帰って行くだろう。

今更になってこんな時刻に三日月が訪ねて来るとは考えてもみなかった。

三日月に部屋の位置を教えた事は無かった筈だ。誰かに訊いたのか。

混乱で思考が逸れる。

どうすれば良い、例え返事をしたとして、顔を合わせたとして、何を話す事があるのか。しかし、またゆったりとした調子で襖を叩かれ、再び声がかかる。


「山姥切国広。居るのだろう?」


三日月は山姥切の在室を確信している様で、問い掛ける声には迷いが無い。開けてくれ、そう頼むと言うよりも、開けろと命令する様な圧力をひしひしと感じる。

何故か、背筋を寒気が撫で上げた。

返事をしなくても、いずれ襖が外から開かれそうで。

「い、居る……!」

奇妙な緊張感に耐え兼ねて声を出した。

何かしら返答があるかと思えば、しんと沈黙が落ちる。

山姥切が自ら襖を開けるのを、三日月は待っているのだ。


「……」


意を決して立ち上がり、歩み寄る。

薄く襖を開けた隙間から三日月の姿を捉えた矢先、意に反して襖が動く。

咄嗟に離した手を掴まれた――そう思った時には三日月の腕の中に居た。

勢い良く外側から襖を開けられたのだと、廊下に引っ張り出される様な形で抱きすくめられたのだと気が付いたのは数拍の後。

「国広」と呼んだ、感極まった様なその声と姿と温もりが実感を打ち付ける。

不意に込上げる何かが胸の内を塞ぐ。

「ああ、国広。また会えた。ようやく、ようやくだ。久しいなぁ」

『また会えた』なんて大袈裟だ。

今日の日中だって、言葉を交わさずとも行き会っただろう。一昨日も。

それに、ずっと同じ本丸に居たのだから、何度だって姿を見掛けていた。

「国広、変わりはないか? なぁ、国広」

嬉しそうな声が耳のすぐ傍で聞こえる。

「……何の、用だ」

辛うじてそれだけが口に出せた。愛想の無い物だと、自分自身に呆れてしまう。

強張る腕で身体を離そうと押し返すと腕が少し緩む。恐る恐る顔を上げれば三日月は悲しげに表情を曇らせていた。

「……『三日月』と」


――三日月。


自然にそう呼んでいた感覚が、酷く昔の事の様で遠い。

どうやってその名を口にしていたのか。


「国広」

見つめ合って居るのが居た堪れずに視線を落す。

そうしてみても視界に入るのは三日月が纏っている寝間着、鎖骨の覗く衿元。それが尚更に触れ合う距離の近さを痛感させる。

「側に……来るな、と言った筈だ」

唇が震えて上手く話せない。

「うん、言われたなぁ」

「離せ」


――本当は。


会いたかった。

『三日月宗近』にでは無く、山姥切だけが知っている三日月に。

山姥切を国広と呼び慕う三日月にこうやって触れられる事も、いつしか慣れて。

それを受け入れて居る自分に気が付いていた。

けれど。嬉しいと、単純に口に出せる程におめでたい思考はして居ない。

何の為に触れ合わない様に、言葉を視線も交わさない様に距離を置こうとしたのか、これでは判らなくなってしまう。自ら温もりを遠ざけてこれで良いと己に言い聞かせながら繰り返した後悔も時間も、全て。


「俺には国広が言った事の意味がよく判らなかった」

微かな笑いを含むその言葉は嘘だ。どうして山姥切が三日月を遠ざけようとしたのか判らないほど三日月は愚かでは無い。

「……三日月」

ぎこちなく、その名を呼んだ。どうして。無理矢理にでも突き放すべきだと思って居るのに。触れたままの手が、勝手に三日月の寝間着を掴んで握り締める。

「国広に会いたかった」

俯いた山姥切の旋毛に鼻先を埋めて落とされた呟きは小さく穏やかに、夜の静けさに解けて行く。

三日月はゆっくり身を離し、山姥切の手を取った。

「一緒に来てくれ」

するりと指を絡める様に握られた手を引かれて我に返る。

同時にここが自室の前とは言え廊下だと思い出し、声を顰めて問いかけた。

「こんな時間にどこへ行く気だ……?」

もう皆が寝静まる頃だ。出歩く者はほぼ居ないだろう。至極当然なその問いに、悪戯めいた笑みを浮かべた三日月は「秘密だ」とだけ言って、また強く手を引いた。

「待て……!」

「うん?」

何故静止の言葉をかけたのか、自分でも良く判らない。

けれど今にも駆け出しそうに思える三日月の強引さに胸騒ぎがする。それは三日月の姿を見る前に感じた奇妙な緊張や圧力の様な物を思い出させた。

「……布を、被らせて欲しい」

「俺以外、誰にも会わないだろう?」

「それでもだ」


暖かくなっては来たが、夜はまだ冷える。きっとその所為だ。


それに相手が三日月とは言え、三日月の目が夜に弱いとは言え。誰かの前で布を被らずに居るのに落ち着かなさを覚えるのは山姥切にとっては当然だろう。

三日月は首を傾げながらも頷いて、握っていた山姥切の手を離した。

掌と指の間に残る余韻を感じながら部屋の中に戻り、畳んで置いてあった布を被る。

慣れた物が身体を隠す感覚はいつもの事。

肩越しに振り返ると三日月は敷居を跨がず、廊下に佇んだままで居た。


部屋の明りを消して薄明かりの廊下へ踏み出し、静かに襖を閉める。

「さぁ、行こうか」

待ち兼ねたと言いたげな三日月が差し伸べた手を前に躊躇したのは、当然の様に手を繋いで行こうとする開き直った態度にか、行き先を告げられない事への不安にか。

三日月がどこへ行こうとしているのか。

そんな事はどうでも良いと、何も考えずにただこの手を取りたいと、そう思うのは本心ではあった。けれど、それは本当に――。

「国広?」

「あ……!」

身動きが取れなくなった山姥切と自分が差し伸べた手を交互に見た三日月が、手を降ろそうとする。それに気付いた瞬間、咄嗟に三日月の手を追い掛けて掴んだ。

「ははは。国広は流石に素早い」

捕まってしまった。そう言って笑う三日月は楽しげに、もう一度山姥切の右手をとって指を絡める。感触を確かめる様に動く指先が関節や指の背を微かに撫でるのがくすぐったいと訴えるとしっかり握り直された。

「目を閉じていてくれ。俺がいいと言うまで」

どうしてだと、と言うよりも早く三日月の右手が視界を遮る。

目元に柔らかく当てられた掌の温度の心地良さが口を噤ませた。

「こうして俺が手を引いて行けば心配ないだろう?」

確かに廊下の明りは光量を落としていると言っても三日月が危なげなく歩ける程度で、山姥切は三日月よりも本丸の中を体感として知っている。

例え目を閉じていたとしても、三日月が歩く速度で手を引かれるのであれば歩けない事は無いだろう。

「……。わかった」

山姥切が目を閉じるのを待って掌が離された。

瞼を閉じたままの視界は黒一色で何も変わらない。

「約束だぞ、国広」

三日月はどこか浮き足立った声でそう言ってゆっくりと歩き出した。

踏みしめる廊下の床板の感触はいつも通りに、引かれる手に従って歩を進める。

自室の前から毎日行き来している廊下を進む。向かう方向に見当は付けられる筈なのに何度も曲がり角を過ぎる内に方向感覚が麻痺して行く。


何も心配する必要など無い。

ここは勝手を知った本丸の中で、他のどこへ行ける訳でも無いのだから。

しかし本当に、今歩いている場所は自分が思い浮かべている場所であるのか。


今、目を開けたら。


もしも手を、離してしまったら。


急に心細さを感じて、足を止める。先を行く三日月を引き止める様に繋いだ手に力が入ってしまうのを自覚して、すぐ握り返される確かな手応えに安堵する。

「大丈夫だ」

見透かしたような声が耳に届いた。

不意に頬を撫でた何かに思わず息を飲む。

「っ……」

三日月の指先が頬を擽って顔の輪郭をなぞり、ゆっくり離れて行く。

それを感触だけで追いながら一層固く目を瞑った。

「国広は、いいこだなぁ」

くすくすと笑う三日月が被った布越しに頭を撫でて来る。


それを『嬉しい』と思ったのは。

いつか山姥切が三日月の頭を撫でた時に、三日月が抱いた感情と同じ物だろうか。

同じ物であったら良いと、そう思うのは。大それた願望かも知れないけれど。


手を引かれ歩き始めてどのくらい経っただろう。


最初は山姥切の部屋から厨に近い広間に向かって居た。

しかし途中で進路が変わり、玄関の方へ。

外へ、庭にでも出るつもりなのか。

そう思っていると、また進路が変わる。

何度角を曲がったか。

どれ程の距離を歩いたか。

随分歩いた様な気もするし、然程歩いていない様な気もする。


三日月は迷いの無い足取りで先を行く。

しっかりと山姥切の手を握り急かす事もなく、ゆったりとした歩調で。

手を引かれるまま歩く廊下に障害物などは無い。

軽い段差がある場所では三日月が声をかけてくれる。

時折何も無い場所で足が縺れそうになるのは要らない焦りが首を擡げる所為だ。


どこへ、向かっているのか。

それが判れば歩いている場所の見当もつくだろう。

そうすれば多少の安心感も得られそうな物だけれど。


三日月は必要最低限にしか声をかけて来ない。

まるで声を出してはならないと言う約束事がある様に。

ゆっくりと速度を落とし、三日月が足を止めた。

それに習って山姥切も立ち止まる。

扉の開く音がした。引き戸ではなく開き戸だ。

本丸の中にはどちらも存在したけれど、開き戸は珍しい。

真新しい木材と、塗料の匂いと共にひやりとした空気が頬を撫でる。


「外……か?」

「渡りの廊下だ」


そんな物、あっただろうか。


自分が知る本丸内の開き戸とそこから続く場所を思い出してみても、今自分達が居る場所は判らない。ぞわりと足元から上がって来る感覚に息を飲む。


三日月が再び手を引いて歩き出す。

山姥切は促されるまま、見知らぬ廊下に足を踏み出した。

二十.


「なぁ、主よ。『山姥切国広』を俺にくれないだろうか?

あれは他にもよく手に入る刀だろう。だから一振、俺にくれないか」


ある日、三日月は晩酌に付き添いながらそう言った。

殊更に審神者の機嫌が良い日を見計らい、ごく自然に。


それなら今度新しいのが手に入ったらお前にやろう、三日月宗近。

愛刀のお前が望むなら一振りぐらいくれてやろう。

側付きにでも玩具にでもすると良い。


そう言って男が笑う。

酒気を帯びた顔を高潮させて。


「新しいのは駄目だ、新しいのでは意味がない。

新しいのは主がまた戦力として育ててやるといい。

俺が欲しいのは今いる『山姥切国広』だ。俺はあれが欲しくて堪らない。

だからあれを俺にくれないか」


いつになく饒舌に語る三日月に審神者が眉を寄せる。

三日月はそれに臆する事も無く、にこりと微笑み小首を傾げて見せた。


「なぁ、主。俺の望みは何でも叶えてくれると言っただろう?」


確かにそうは言った、与えられるものは与えて来た。

だが、あれは駄目だ。あんな物は。


男が渋るのは当然だった。

理由がどうあれ、男にとっては今本丸に在る『山姥切国広』は、自分の宝に一度でも傷を付けた気に入らない物であるのだから。そんな事は判った上で話を切り出した三日月にとって、それは然したる問題でも無いけれど。


「主はもう、あれを使うつもりは無いのだろう?

以前、折れてしまえばよかったと言っていた。

それにあれから一度も戦へ出していないではないか」


何故そんな事を知っているのか――理解出来ないと言いたげに、不機嫌を顕わにした男が杯を空け、三日月の前に突き出した。

けれど三日月は手にしていた徳利を盆に戻し、審神者の方へにじり寄る。

「なぁ、主にとって、あれはもう要らないのだろう?」


自らしな垂れかかる様に身を寄せた三日月に男は顔を顰めた。

趣味の悪い真似は止せと吐き捨て身体を押し離そうとする。逆の立場であれば主の要望に沿う為と三日月が我慢していると言うのに、勝手なものだと思う。


三日月から逃れようと後ずさる身体を壁際に追い詰め、腕を押さえ付けて頤を捉える。本気で抵抗しているのであろう身体は強張り震えていたけれど、ほんの少し手に力を込めただけで男は苦悶の呻きを漏らす。

元よりこの身体は人よりも頑丈に、荒事向きに作られているのだから、腕力で人が抵抗を試みようとしても無駄な足掻きだ。

ああ、脆い、脆いな。人と言う生き物は。ざわりと項を撫上げるのは高揚感だった。

何のつもりだ、そう言った男の声が震えるのは怒りでは無く本能的な恐怖か。


「いいや、何も。主はただ頷いてくれればいい。

俺が望む言葉を一度だけ口にしてくれればいい。

それだけで俺は満足だ」


額をぶつける程に間近で睨み合う。

視線を逸らす事も出来ない男の表情が困惑から明らかな怯えに変わる。

三日月はその瞬間を逃しはしなかった。

見開かれた瞳に月が写り込み、どろりと溶け込む様に消える。


霊力で以って繋がる刀剣男士と審神者。それは己の力で解く事の出来ない束縛。

だが、審神者は一方的にそれを解く事が出来る。

であれば無理矢理にでも、解かせてしまえば良い――。

常時意のままに審神者を操る術など、使役される側の身には無いけれど。ただの一度であってもその口から言葉を吐き出させれば、それは効力を持つ言霊へ変わる。


「なぁ、主。あれはもう要らないのだろう?」


言い聞かせる様な三日月の声に、男はぎこちなく頷いた。


「だから『山姥切国広』を、俺にくれ」


焦点の合わない瞳と不規則な呼吸に喘ぐ喉から、呻きと共に微かな声が漏れる。



代わりの利く物なら俺にくれないか。

俺にとっては代わりが利かない物だから。




二十一.


暖かい。

気持ちがいい。

暖かくて柔らかい物に、包み込まれている様な安心感。

まどろみの中で髪に頬に触れて来る誰かの手に頭をすり寄せる。

ああ、そうか、この暖かさ、これは日向だ。

日向と、それに良く似た――。


ふわりと意識が浮かび上がる。

肌触りの良い布団と、窓の障子戸越しに差し込む日の光が暖かさと柔らかさの正体だと薄く目を開いて気が付いた。夢ではなく現実だったのかと納得して改めてその感触を甘受する。また瞼を閉じて眠ってしまおうかと考えた、その瞬間弾かれた様に目が覚めて山姥切は慌てて飛び起きた。


「どこだ……ここ」


上体を起こした身体は妙に軽い。夢も見ずに良く眠った所為なのか。

頭の中は靄がかかった様にぼやけている。

自分ひとり、見知らぬ部屋の布団に寝かされていると言う状況が飲み込めない。

部屋を見渡して目に付くものは自室にも在るような調度品の類ばかりだが、それらも畳も真新しくて見慣れない。誰かの私室であるのだろう事だけは判るけれど。


「三日月、……?」


呼びかける様に、不意に口をついたその名に首を捻る。

三日月の姿は見えない。何故、居ないのが判っているのに呼び掛けたのか。


――三日月が、居る気がする。


それは姿が見えるのとも違う、気配がするのとも違う。

例えばすぐ隣に寄り添っている様な。

ともすれば、抱き締められてでも居る様な。

「……霊力、か……」

口に出してみて自分で納得する。この部屋には三日月の霊力が満ちていた。

部屋を使っている者の霊力は時間をかけて自然に行き渡り、その場所に染み込んで行く。それは物を使い続ければ愛着が湧くのと同じ原理で、何も可笑しな事ではない。

漠然と、部屋を替えて貰ったのか、と思う。出会ったばかりの頃三日月の部屋に入った時には、ここまで強烈に存在を意識させられる程の霊力は満ちて居なかった。

三日月はこの部屋を気に入っているのかも知れない。

花の様な匂いがしている。

自分が身に付けている寝間着の浴衣や布団から香る。掛け布団を抱える様に手繰り寄せて顔を埋めた。これは、良く知っている。

三日月の香だ。何と言う名前の香だったかは、忘れてしまった。


三日月は――どこへ行ったのだろう。


思考が鈍っている。

眠気とも違う、倦怠感とも違う、何かが頭に纏わり付いて離れない。

緩く頭を振って立ち上がる。窓を開けて外の空気を吸えば少しはすっきりするかと窓の内側にある障子戸に触れ、指先に力を込めた。

「……開かない?」

嵌め殺しの様に障子戸はびくともしない。

どうして。

確か、この窓は開いていた。


そうだ、確か、この部屋に来た時には開いていた。

内側の障子戸だけでは無い。硝子戸も。開いていて。

三日月が「閉めてくれ」と俺に、そう言って。


「国広!!」


突然背後から勢い良く襖が開かれる音が響いて身を竦めた。

振り返ると息を切らした戦装束姿の三日月が呆然とこちらを凝視している。

走って来る足音など聞こえなかった――しかしどこかから取るもの取り敢えず全力疾走して来た様で。肩で荒く息をしているけれど、普段走り回る事も無い三日月が今にも襖に縋ってへたり込みそうな様子に思わず駆け寄る。

「み、かづき……大丈夫か?」

「国広……っ」

「ぅ、わ……!!」

急に顔を上げた三日月が体当たりでもする様に抱き付いて来た。当然それを受け止める用意などある筈も無く。先ほど抜け出した布団の上に二人揃って雪崩れ込む。

頭を打たない様に受身を取る余裕はあったけれど、布団を片付けていなくて良かった、そんな間の抜けた事を思う。

「国広、国広……っ」

「なんだ、いきなり……」

三日月は転倒などものともして居ない様子で山姥切に抱き付いたままで居た。

抱き付く、と言うよりしがみ付くと言う方が正しいかも知れない。

「三日月……?」

「よかった」

よかった。


――何が、よかったんだ……?


浮かんだ疑問は今口に出しても答えは返って来ない気がして。泣いている様な肩の震えに気が付いて、胸元に押し付けられた三日月の頭を撫でてやる。呼吸を落ち着かせて漸く顔を上げた三日月は嬉しそうに笑いながら瞳の月を潤ませた。

「国広、大事はないか」

問われた言葉の意味を飲み込めず目を瞬いて居ると不意に三日月の顔が近付いて、頬に唇が触れた。

なんで、そう言おうと口を開いたけれど、声が出ない。

「……ん? 忘れた、か?」

三日月が真上から見下ろして、自分の上に影を落す。

「国広」


――見覚えが、ある。


どくりと心臓が跳ねる。緊張感に強張る身体が呼吸を忘れた様に息を詰める。

含みのある笑顔で見つめる三日月は山姥切の長い前髪をそっと払い今度はその目元に唇を落とした。急激に顔の温度が上がって行く。

顔だけでは無い。頭も身体も、一気に沸騰してしまった様に。

思い出した。全部。

身体中触れて触れられた手の感触も、何度も呼ばれた名前の熱さも。

無我夢中で縋った身体の逞しさも。


次々走馬灯の様に甦る情事に頭を抱えたくなる。

情けなくあられもない姿を見せてしまった。

そうさせたのは他でもなく目の前でとぼけた笑みを浮かべている三日月だけれど。

「だ……だい、じょうぶ、だ……」

「そうか。大事がないのであれば、何よりだ」

まともに顔が見て居られなくなって三日月の下で唯一縋れる布団に潜り込もうすると布団ごと胡坐の上に抱え上げられた。

「国広が目を覚まさなかったら、どうすればいいかと」

甘えて頭を寄せて来る三日月は心底安心した様に深く息を吐いた。

「……大袈裟だ、ただ……寝過ごしただけで」

昨日の今日で、随分ぐっすりと寝入ってしまった自覚も体感もあるけれど。

『目を覚まさなかったら』なんて言い方は大袈裟にも程がある。


「……もう七日もお前は眠ったままだった」

三日月の言葉に耳を疑った。

そんな冗談を言う性質だったろうかと考えて、三日月の顔を見る。

その表情は固く強張って、笑い話をしようとして居る様には見えなくて。

「だから……俺は、国広が目を覚まさなかったら、どうすればいいのかと、ずっと」

ただの疲労で七日も寝込む訳が無い。

極端に霊力が枯渇する重症の状態さえ、三日と寝込む事は無いのだ。

本来自分達には不要であろう想定外の行為を――身体を繋げると言う人真似事をしたからと言って、そこまでの影響が出る物なのか。

「……三日月は、何ともないのか……?」

山姥切が話の通り昏睡状態であったなら、三日月の身体も何か不調を来たして居るのでは無いのか。

「国広は……優しいなぁ。俺の心配をしてくれるか」

三日月の手が頬に触れる。掌で包み込む様に。

暖かく柔らかいその感触は、異常な程に心地良く馴染む。


――そう、余りにも。他に触れられていると言う感触はあれど、違和感が無い。


「三日月……なんだ、これ」

三日月の身体に触れる。

衣服の上から肩に、腕に触れて、手を持ち上げて三日月が自分にしているのと同じ様に肌に触れた。また違和感の無さ。その不自然さに焦りを感じた。

三日月の手で両頬を包まれる。じっと見つめて来る瞳から視線を逸らせない。

感情の判らない三日月の表情は苦手だ。

何を考えているのか、どう思って居るのか、判らない。

それは、恐い。


「三日月……?」

「国広、夜に話をしよう」

三日月がふっと表情を和らげ、軽く両頬を摘む様にしてから手を離す。

「国広が目覚めた気配がしたので審神者を放り出して飛んで来てしまったが、今日はまだ務めが終わっていない……あまり長居は出来ん」

一度布団ごと山姥切を抱き締めた三日月は渋々と言った様子で身を離し、立ち上がって身なりを整えた。


「ここで、待っていてくれ」


にこやかにそう言って部屋を出る三日月の背を見送る。

理解が追い付かない事が起こって居るのだけは判ったけれど、今はそれだけだ。

三日月が去った後も、やはりこの部屋には三日月の霊力が満ちていて、取り残された様な気分にはならなかった。



三日月が言った「夜に」とは、何時であるのか。


それが明言されても居ない事を思い出したのは「この部屋には時計が無い」と気が付いた時だった。

時間の移り変わりは障子戸から差し込む光が頼りで、夕日も沈んだ今では室内もすっかり暗くなっている。煌々と部屋全体を照らす照明も設置されてはおらず、明るい内に見付けていた行燈を点けただけの部屋の片隅で、膝を抱えている。


ここで待っていてくれと言われたままに、山姥切はこの部屋に居た。

正確に言うと、この部屋から出る事が出来なかった。


三日月を見送ってから――ふと思い立って襖に手をかけたけれど。

開けられなかったのだ。三日月は何の苦も無く、不自然な動作も無く開け閉めしていた変哲の無いただの襖が。元々これは鍵がかかる様な造りではない。

鍵を付けても、手をかければ多少はがたつくだろう。

それがまるで壁の様に動かなかった。

開けられなかった窓の障子戸。それも再度触れてみたが開けられなかった。

設えられた箪笥や文机の引き出し、小さな戸棚、押入れ。

その辺りは不自由無く開けられる。

外に通じている窓と襖だけが頑なに開けられない。

これが何を意味するのか判らない筈も無く。

この状況を考えれば答えはひとつしか出て来ないだろう。


閉じ込められている、と言う事だ。

それも、三日月の意思で。


もしこれが審神者の謀で独房の様な場所に山姥切を放り込みたいのであれば、三日月が関わって来る筈も無い。それに――ここは独房と呼ぶには暖か過ぎた。

一人部屋の中に居ても心細さや寂しさは感じない。

部屋中が三日月の霊力で満ちているからだ。目を閉じて視界を閉ざしてしまえばすぐ傍に居る様な錯覚を起こす程。自分を呼ぶ声すらも聞こえそうで。

何を考えてるんだ、三日月……。

暦の上ならば室内と言えど日が落ちれば冷え込む筈なのに、行燈が柔らかく照らすこの部屋は寒さを感じない。自分の身体が可笑しくなったのかと思いはしたが、部屋にある物を触ってみれば表面温度の違いは判る。温度を感じなくなった訳ではなく、この部屋が適温過ぎるのだと気が付いてしまった。


居心地が悪い、落ち着かない、そう言えない事こそが問題の様に思えた。




二十二.


「ただいま、国広。待たせてすまなかった」


襖を数度叩く音、続いてごく自然に襖が開く。

少し息を弾ませた三日月が部屋へ入って来る。日が沈んでどれくらい経ったのか、体感的にはそこまで遅い時間ではないのかも知れない。山姥切の返事を待たなかったのはここが正しく三日月の部屋であるからだろう。

しかし呑気に「おかえり」などと声を返す気にはなれない。

なれる訳がない。


普段と変わらないゆったりとした動作で部屋の片隅に居る山姥切の元へ来た三日月は片膝を付き山姥切に手を伸ばして来るけれど。

触れられるよりも先にそれを叩き落として睨み付ける。

「……」

「不機嫌だな」

まぁ、仕方がないことか。

三日月はそう呟くとその場に腰を下ろした。

「国広、今何を考えている?」

「それはこっちが訊きたい」

向き合った三日月は微笑みを浮かべたままだ。

その静かな微笑みが、余計に不安を煽る。

それは三日月が審神者の傍らに控えている時の表情に似ている。


「何を、したんだ」

俺に。そう続けなくとも、三日月には伝わるだろう。

「お前は何も心配しなくていい、すべて俺が上手くやっておく」

「ふざけるな、三日月。全く答えになってない。こんなところに何の説明も無く閉じ込めて、一体何の真似だ……!?」

山姥切の強い口調に、三日月の表情が曇る。


「俺が自分の事に気付いていないとでも思うのか?」


目が覚めて、三日月と少しだけ話をして、それからずっとここに居た。

にも関わらず、飲まず食わずで飢えも渇きも一切感じて居ない。


食欲や排泄欲求は人間の身体を円滑に動かす為に無くてはならない。

それくらいは知識として持っているし、この身体を得てそれなりの月日を過ごして来たのだから本能的にも知っている。三日月が言った通り七日にも渡って寝込んで居たのであれば、人を忠実に模したこの身体にはもっと明確な害がある筈だった。

もし、三日月が嘘を言って居るとしても――。

今日一日を過ごす内に自分の身体が可笑しくなっていると気付けない筈も無い。


「……国広、手を」

差し出された三日月両の手を見た。

同じ様に手を出して、触れろと、そう言っているのは判る。

肌に触れる事に躊躇した。自分から三日月に触れる事が恐い訳では無い。

昼間の不自然な感覚を思い出して、それが恐いと感じる。

「大丈夫だ、恐がらなくていい」

見透かした様に三日月が呟いた。何が大丈夫なんだ。どう考えたって何かが可笑しいのに。そう悪態を吐きたい気持ちを抑えて右手だけを出し、三日月の手に触れる。

指先で軽くつつく様に触れた手は程無く三日月の両手に包まれた。

感触と軽く握って来る力加減は判る。けれど、やはり馴染み過ぎる不自然さは慣れない。それが、重ねた手の温度差が無い所為だと、漸く気が付いた。

特に意識しない癖の様に、何気なく自分で自分の肌に触れた時の感覚に近い。


元来刀剣男士はそう言う物であるのか、それは否だ。

人間と同じ様に、同じ場所に居ても、同じ生活をしていても。

体温が全く同じになる事は無い。


「結びを直したからだ」


結び――何かの結び目を指すのだろうとは思ったが、何の事か判らなかった。

聞き慣れないその言葉に首を傾げる。

「肌に触れた時に、何故こんなにも馴染むのか気になっているのだろう?」

さすられる手の甲は、擽ったさはあれど嫌悪や不快感は無く、むしろもっと触れられたいと感じる心地良さがある。まだ、違和感は拭えないけれど――。

「今のお前は俺とほぼ同じ物であるから、不思議なことではないのだと思う。眠っている国広に触れた時、初めは俺も驚いたが」

「ほぼ同じって……どう言う意味だ」

山姥切の手から視線を上げた三日月の顔に笑みは無かった。ただの無表情と言うよりもずっと固く冷たい、初めて見る三日月の表情に背筋が冷える。


「あの男はお前が折れてしまえば良かったと……そう言った。与えられた任務を必死にこなして見せたお前を無様な物だと嘲笑い、役立たずだと言い捨てた。もうお前を刀として使ってやる気がないのも明白だった――だから、俺が譲り受けた」


三日月はこれまで誰の前でも不機嫌さを態度に出した事は無い筈だ。

いつも楽しそうにしていた山姥切の前であれば、尚更に。

淡々と紡がれる抑揚の無い言葉は三日月の怒りを如実に表した。

けれど山姥切に触れる手付きは相も変わらず柔らかく包み込む様に優しいままで。

その差異に緊張感が生まれた。

「譲り受けた、って何をだ……?」

「『山姥切国広』を、だ。審神者が国広を顕現させた時に生じた霊力の繋がりを、一度解かせた。その上で契りを結び、俺の方へ繋ぎ直したと言うことになる」


審神者が自らの意志で霊力の繋がりを解く。刀と人型を切り離し人の目には見えない存在へと還す――それは即ち、〝刀解〟と呼ばれるものの筈だ。


「霊力の繋がりを解かせ、供給を一度断つ。それを刀解ではなく個としての形や人格を保ったまま別の供給源へ譲渡する、と言うのは本丸間、審神者同士では有り得ることだ。無論特例として政府への申請や手続きが必要になる面倒なものらしいが」

「それを審神者と三日月の間で行った……と?」

「国広を俺の元へ移すのは、賭けだった。国広と俺の間に強い結びを作る為には……お前が俺を受け入れてくれる意思が無ければならなかった。だから、国広が目覚めない間、ずっと、お前が本当は俺の事を拒絶しているのかも知れないと……」


俺を嫌わないでくれ、そう言って泣いていた三日月を思い出す。あの時も、理解が追い付かない様な話を聞かされている今も、三日月の事を厭う気持ちは湧かない。


「俺は……拒絶なんて、しない」


けれど。


「今のお前の主は俺と言う事になるが……俺は、国広に従属を求めるつもりは無い。知っての通り俺もまた審神者の霊力を媒介にして存在しているだけの身だ。間接的な繋がりは残っている。だが、もうあの男はお前に無理無体を強いることは出来ない。それに、俺さえ健在であれば国広の身も安泰と言うことになる」


ふわりと三日月が笑う。

それは綺麗過ぎて、造り物の様で。


「一蓮托生……と言うやつだ。なぁ、国広」

「……るな」

「……」

「ふざけるな……そんな話あるか! 何を勝手に……!!」


手を振り払うと三日月が悲しそうな顔をした。

自分が何か酷い事をしてしまった様で胸が痛む。


三日月と、会いたかった。一緒に居られると心が温かくて些細な会話が楽しくて。

三日月に「国広」と呼ばれるのが嬉しかった。

誰かと触れ合うのが不慣れな性質ではあったけれど、三日月が躊躇せずに手を伸ばしてくれるのが嬉しかった。

触れられるのが嬉しい。そう思えるのは相手が三日月だからだと、気が付いていた。


だから、


手を引かれるまま、導かれるままにここへ来て。自分自身を……身体の繋がりを求められても、三日月がそう望んでくれるなら、嬉しかった。

けれど。それがただの手段であったなら。


「勝手に事を進めたのは……謝る……」

三日月が膝の上で握り締めた手が震える。

「だが……あの男の下に居たら、お前はいつまた負ける為の出陣任務を与えられて合戦場へ放り出されるかもわからない。いつ気が変わってお前を刀解してしまうかもわからないだろう……!! そんな場所に、お前を置いておけない」


つまりは――。


「また、俺が。審神者の不興を買うような事をするだろう……と?」

「そうは言っていない……!」

「そう言う事だろう!?」

「違う、国広が間違ったことをしなくても……! お前も知っているだろう、あの男は俺達を物としてしか見ない! あんな人間のただ一度の気紛れで国広を失うなど」

「は……」

なんだ。そんな事か、と。

三日月は、自分の物を取り上げられない様に審神者から隠したいだけなのだ。

三日月にとっての山姥切は、気に入りの玩具の様な物で。


――でも、それで良いと思って居たのも確かだろう?


気紛れに、三日月が好きな時に都合良く自分の存在を求めてくれるだけで良いと。

ただの世話係であっても、ただ暇潰しの話し相手であっても、それで良いと思って居た。その筈なのに。

胸に重石が落とされた様に息苦しさを感じる。

何故こんなに言いようの無い気持ちになるのか、判らない。

三日月が俯いて口を噤むのが尚更胸を詰まらせる。

それも何故だか判らなかったけれど。


「……」

抱えて居た膝を崩し手を伸ばす。三日月の両頬に掌を当てればやはり感触だけが伝わって来る。熱くも冷たくもない。それが無性に悔しくて。

そのまま顔を上げさせると、眉尻を下げた三日月は狼狽える。困惑と気恥ずかしさが混じった様なそれは、感情の判らない笑顔よりも余程好ましいと思う。

「国広……」

そう言えば、自分からこうやって三日月に触れるのは初めてだろうか。


「抱けよ」


はっと見開いた三日月の瞳で繊月が揺れた。

それを間近で見て綺麗だと思う事も、胸が痛い。

「国……」

「その為にこんな場所に連れて来て、閉じ込めたんだろう」

膝立ちで僅かに三日月を見下ろす様に見詰め合ったまま、距離を詰める。

お互いに目を逸らさない。逸らして欲しいと思っているのか、逸らさずにいて欲しいと思っているのか、自分でも判らないけれど。

「ちがう」

「何が、違うんだ」

「止めてくれ……俺は、国広を」

三日月が緩く頭を振って、震える声で呟いた。

「あんたの物なんだろう、俺は。この身体は。だったら好きなだけ弄んで玩具にすればいい……そうやって扱われる方が判りやすい」

所有物として扱いたいのであれば。こちらの意思など関係ないと切り捨てて欲しい。

三日月が必要以上に情をかけて来なければ自分もそうやって向き合える。

そうすれば、きっと、こんな気持ちにならなくて済む。

「国広……!!」

痛みに堪える様に表情を歪めた三日月が山姥切の身体を押し離す。

その両肩を掴んだ手が力なく腕を滑り落ち、袖を掴んだ。

「……俺は、国広と……ただ一緒に居たくて」

袖ごと腕を掴んで来る三日月の手が震えて居る。

「お前が戦に出るのが好きなのは知っている。俺達は本来戦場に在って戦う刀だ。俺が審神者に取り成してやれないものかとも考えた! だが……形あるものは壊れる、失われる。俺は、いつか己の預かり知らぬところでお前を失うかも知れない、それが酷く恐ろしい……!!」

月を浮かべた瞳は潤み、今にも涙が零れ落ちそうなのを堪えて居た。


いつか失われる――それは人にも物にも変わりなく定められた理であって。

『三日月宗近』はこの本丸が存続する限り失われる事は無いのだろう。

それは予想に難くない。

山姥切は遅かれ早かれ、自分は三日月を残して消える事になるのだと覚悟をしていた――しているつもりで出来ていなかった事を例の一件で自覚してしまったからこそ、こうして今も三日月と顔を突き合わせて居るのだが。


三日月の傍に居てやらないと――そう思った。


でもそれ以上に自分自身が三日月の傍に居たいと思ってしまったのは紛れもなく本心で。三日月が山姥切と同じように、同じ気持ちで山姥切が傍に居ることを求めてくれるとしたら、それは嬉しくて堪らない事だと思うけれど。

「戦であっても、審神者の一存であっても、国広が俺の前から消える、そんな憂き目には堪えられない」

「だからって……他にもやり方はあった筈だ、なんで、」

こんな方法で無くても、傍に居る時間を作りたいならやりようがあっただろう。

例えそれが、離れる前の人目を忍ぶ様な逢瀬であろうと。


「ならば、お前は、あの男の下に在りたかったのか……?」


その言葉に息を飲む。

審神者の下に在り続ける、それは居ても居なくても変わらない様な扱いを受けながらただ何を成すでも無く、長らえると言う事だ。

「お前が、あの時折れてしまっても構わないと、そう思ったのは……主に必要とされることも無く、疎まれるくらいであれば自分の存在など必要ないと……っ、そう思ったからだろう!?」

「っ……!」


どんな人物であろうと己を喚び起こした審神者は刀剣男士にとっての〝主〟である。

疎まれようと虐げられようと、心の何処かで主に必要とされたいとそう願ってしまうのは、どうしようもない事なのだと。

判って居る。自分達はそうやって形作られる物だ。

刀は、人に使われる為、求められる為に生み出される『物』であるのだから。


「国広は俺の傍に、ここに居てくれ……それだけでいい、だから」

「あんた……自分が何を言ってるか、判ってるのか……?」

「……判っている。それでも俺は、国広が欲しかった」


ただ其処に在ってくれれば良い、と。

それは審神者が『三日月宗近』に求めるものと同じだ。

本来の在り方を歪めてまで求める程に――三日月にとっての山姥切が大切な存在なら、そこに特別な想いがあるのなら、決定的な違いがあるとは言えど。


「ずっと……俺と共にいて欲しい、そう言ったのは本心だ。国広に触れたいと、触れて欲しいと願ったのも。お前を慰み物にするつもりはない、お前が嫌だと言うならもう色情を持って触れたりしない。それで国広を失わずに済むのなら」


月を湛えた瞳からぼたりと雫が落ちた。

それを追いかける様に続けて溢れ出した涙が三日月の頬を濡らして行く。


「俺には国広が必要だ! 他のものは要らない、俺は国広だけでいい……!!」


三日月が苦しげに吐き出す言葉を呆然と聞きながら、込上げるのは理不尽な気持ちでも怒りでも無く愉悦や喜びと言ったもので、自分自身の感情に混乱する。

嬉しい。そう思う気持ちが膨らんで、言葉を失う。

ただ、三日月が泣くと胸が痛い。どうしようもなく、痛む。


「――泣くな!!」


思わず荒らげた声に三日月はびくりと肩を揺らし、強く掴んでいた手を放す。

目を見開いて山姥切を見つめ返すけれど、すぐにまたぼろぼろと涙を零して俯いた。

「泣くなって、言ってるだろ……!」


こんな姿を見ていたくない。

三日月がずっと笑って居てくれれば良いと思う。

自分の前だけでも笑っていて欲しい。

それなのに、どうやって慰めてやれば良いのか判らない。

釣られて自分まで泣きそうな気持ちになる。

「三日月……っ」

堪らず腕を伸ばして三日月の頭を抱き込んだ。

「くに、」

「傍にいるから……泣くのは、やめろ。あんたが泣くと俺まで苦しい」

胸元に押し付けさせた頭が微かに頷いて、山姥切の反応を窺う様に触れる手が、恐る恐る背に腕が回る。身動いだ三日月に力強く抱き返されて、首筋に、頬に、肌が触れるとまた違和感があった。けれどそれこそが触れ合っているのだと実感を齎して、安堵するのは随分都合の良い事だと自分に呆れてしまうけれど。


すまない、と。

小さく聞こえた謝罪は三日月の本心だろう。


三日月が自分の事を必要だと、そう言ってくれるなら。

その言葉が嘘では無いと信じたいと思った。

二十三.


「どうして空なんだ」

山姥切が棚の上に置かれた金魚鉢を指して訊いた。


「金魚鉢だろう、これ」

「おや。国広は金魚を知っているのか?」

「名前と絵を知っているだけだな……実際見たことはない」

池に居た鯉とは大きさも色も違うと言う事くらいしか判らない、そう付け加えて金魚鉢を覗き込むと敷かれた玻璃を一粒取り出す。明るい窓の方へ翳している姿が金魚を見に来ていた短刀達と重なって、少しばかり胸が痛む。


「俺も種類は知らないが、和金と言うのは小さくて可愛いぞ」

「本棚に飼い方の本があった」

「ああ、うん。昔な、少しだけそこにいた」

この部屋の本棚には三日月が気に入った書物を持ち込んでいた。

書庫から勝手に拝借して来た物ばかりだが、少しだけ買って貰った本もある。

審神者は三日月が『外』や人間の生活に興味を示す事は好まないので、買って貰える物は限られていたけれど。冊数はそれほどでも無いが、動植物の図鑑と言った絵図と解説が載っている物や刀にまつわる逸話を編纂した歴史書の類が多い。

ここは名目上、三日月の部屋ではあるが当然山姥切の部屋でもある。

だから部屋にある物は好きにして構わないと言い置いたところ、山姥切は気が向いた時にそれらを眺めて時間を潰している様だった。


「金魚は、死んだのか」

山姥切が呟いた声で「死なせてしまった」と短刀達に嘘をついたのを思い出す。

本当の事を言ってもどうにもならないから、と。

あの頃も、今も、誰に本当の事を言ったところで変わらないけれど。

「捨てられてしまった」

誰に、とは言わない。

言わずとも判るだろう。

「……そうか」

玻璃の玉を中へ戻し空の金魚鉢をそっと撫でた山姥切は、それ以上何も言わずに三日月のすぐ傍へ来て座る。

「どうした?」

「何となく、だ」

きっと三日月が自分で思っている以上に、気鬱な表情を見せてしまったのだろう。

山姥切はそう言うものに敏感で、不器用ながらも慰めようとしてくれる。



ある日部屋へ戻ると、襖側に背を向けた山姥切が障子戸の窓を眺めていた。


室内は窓からの自然光でまだ明るく日向でまどろんでいた姿を思い出させて懐かしさが込上げる。見えもしない離れの庭を見る様に日を浴びる金の髪が輝いているのが眩しくて目を細めた。

「国広」

物音で三日月が戻った事には気付いておらず肩を緩やかに落としたままで。

その傍らへ歩み寄り声をかけてようやく山姥切は振り向いた。

「みかづき……?」

覚束無い声で名を呼ぶぼんやりとした表情が、三日月と顔を合わせた途端ふわりと花が綻ぶ様な笑顔に変わる。

「おかえり」

うっとりとした顔で笑って見せる様になったのはごく最近で、こうして素直に、感情を顕わにして笑う山姥切はとても幼く見えると今更の様に気が付いた。


「外が見たいか、国広」


何を言われたのか判らない。そう言いたげに数度瞬いた山姥切が、急にはっとした顔で部屋を見回して三日月に視線を戻した。

「あ、れ……?」

今まさに夢から覚めたとでも言わんばかりの表情に思わずくすりと笑ってしまう。

「国広は器用だなぁ。座ったまま眠っていたぞ」

「え……ぁ、そうか……す、すまない」

「謝ることではないだろう、国広の好きに寛いでいればいいさ」

間の抜けたところを見られたと思っているらしい山姥切が所在なさげに俯くのが微笑ましい。眠っていたと言うのは嘘混じりだが、半分は正解だ。

山姥切は最初は部屋の隅を三日月が居ない間の定位置にしていた。

そう決めている訳でも無いがそこが落ち着くのだと言いながら。

借りてきた猫、と言う諺が頭に過ぎったのは本人には伝えなかったけれど。

ここで過ごす様になって日が経ち、三日月が部屋へ戻って来た時に山姥切が部屋のあちこちに居る姿が見られる様になったのは進歩だろうか。


「外が見たいか、国広」


再度、同じ問いをかけるのは、山姥切を試す為では無く。

「いや」

緩く首を振る山姥切が苦笑した。

それを見て安心したいだけなのだと三日月は気が付いて居る。

もしかしたら山姥切も知った上で、三日月の望む返答をして居るのかも知れない。


山姥切はぼんやりとしている時間が増えた。

それは自覚がある様で当人曰く眠りに落ちる直前、あるいは眠りから覚める直前の様な感覚だと言う。ひとりで居る間に眠っている事も増えたらしい。


夜は三日月の就寝と共に、山姥切も眠る。

魘される事も無く、真夜中に目覚める様な事も無く、規則正しい寝息を立てているのを三日月は誰より傍で見ていた。

だから、山姥切の変化は単純な睡眠不足と言う訳では無いだろう。

人ではなく、理に沿った刀剣男士と言う存在でも無くなった今の山姥切の身体には本来睡眠すらも必要無いのかも知れないが、山姥切は三日月と共に、朝起きて夜寝ると言う生活を当たり前に続けていた。


審神者である男は『山姥切国広』の事をすっかりと〝忘れた〟。

正しく言えば、この本丸に居た『山姥切国広』の存在を忘れたのだ。四十二の刀剣男士の一振として、この本丸に唯一存在しない物としては認識しているけれど。

審神者から『山姥切国広』への霊力供給が失われた訳では無い。三日月が存在する限り三日月を通して僅かばかりでも供給源は繋がる。

しかし離れで過ごし始める前よりも当然それは薄れ、三日月の元で三日月の霊力だけに包まれている状況が、日毎『山姥切国広』の身体に変化を齎している様だった。


本丸に在る刀達は皆何の前触れも無く忽然と姿を消した『山姥切国広』の事を忘れては居ない。皆、審神者の一存によって人知れず刀解されたものだと思っている。

山姥切の事を聞き出す為に、三日月が過去何度かその名を口に出したのを耳にしている近侍代行は『山姥切国広』がこの本丸から消えたと三日月に教えてくれた。

悲痛な表情に、真実を伝えるべきだろうかと迷ったのはほんの一瞬で。

その状況を利用すれば万が一にも自分の手から山姥切が奪われる事は無くなるだろうと――打算的で利己的な欲が、良心の呵責を塗り潰した。

三日月が離れに一振の『山姥切国広』を隠し慈しんでいる事を知るものは居ない。




ここは本丸から渡り廊下で繋がれた離れなのだと言う。

目を閉じたまま手を引かれながら、一度だけ歩いた渡り廊下を思い出す。

歩数を数えては居なかったけれど、随分と長かった様に思う。

閉め切られた窓の外から物音は聞こえない。


この離れが本丸の敷地の中で、どの辺りに位置するのか。

その問いに三日月は困り顔で笑い、言葉を濁した。

場所を教えたら山姥切が逃げ出すとでも思っているのかも知れない。

そんな事をする訳が無いのに。そう思いながら、言及するのは止めた。


もし、逃げ出すつもりがあるのなら。

三日月が襖を開けた瞬間を狙えば良い。この部屋を出れば本丸と離れを繋ぐ渡り廊下が目先な事は体感で判っている。追い縋る声と手を振り払って駆け出して、どこへなりと。行けるものかも判らないけれど。

逃げ出して何がどうなる訳でも無いのは判っているし、そんな事をすれば三日月がどうなるか判らない。


三日月は、俺が逃げたら。逃げ出そうとしたら、怒るだろうか。

怒るより先に、きっと悲しんで、泣くだろう。

あの綺麗な顔を歪めてぼろぼろと涙を零して泣くのだろうと思う。

それは、嫌だな。そう思う。

もっとも、ここから逃げ出したいと思った事は無いけれど。


ここは静かで、とても居心地が良くて。

何より三日月が毎日毎日にこにこと楽しそうに笑っているものだから。

国広、国広、事ある毎にそう呼んで笑いかけてくれるから。

自分は……『山姥切国広』だった物は、三日月の為の『国広』であれば良いのかも知れない、と思い始めたのはいつからか。


逃げ出したいとは思わないが、本丸に居る仲間達、兄弟刀達はどうして居るだろう、とは思う。本丸には、もう次の『山姥切国広』が来て居るのだろうか。

そいつは自分よりも周りに馴染めていればいいなと思う。


『三日月宗近』は新しい『山姥切国広』には興味を示さない。

そう確信出来るのは驕りでは無く三日月本人とこの部屋が与えてくれる暖かさがどれだけ日が過ぎても自分を包み込み続けるからだ。

絶対的な安心感。それはとろりと意識が溶けて行く程に。


「ただいま、国広」


襖の音とその声に、はっと顔を上げた。前にした文机の上には読みかけの書物が開かれたまま、捲られずに止まっている。


――どこまで、読んだだろうか。


振り向くと三日月が何種類か春の花を挿した花瓶を胸に抱えて立っていた。

見覚えのある花ばかりのそれは、庭で摘んで来たのだと思う。

「読書か?」

「ああ、でも……」

物思いに耽る内に、少し眠って居たのかも知れない。栞を挟んで書物を閉じる。

三日月は部屋の窓に近い棚の上に花瓶を置き山姥切の傍へ来て腰を下ろした。

「ただいま」

つい先ほど聞いたばかりの言葉を繰り返されて首を傾げるが、物言いたげな目でじっと見詰められる内に漸く自分が返事をしていなかった所為だと思い至る。

「……おかえり、三日月」

満足げに笑みを深めた三日月が髪を梳く様に山姥切の頭を撫でた。

それはもうすっかりと慣れた動作で、幸せそうに笑う三日月を見られるこんな時間はたまらなく幸せだと思う。


三日月は山姥切の肌に直接触れるのを避けて居た。

全く触れ合いを持たない訳では無いけれど、こうして髪を梳く程度であったり、衣服の上から軽く身体を撫でたり、抱き締めたりするだけに留まる。

あの夜以降、正確に言えばその七日後に目覚めて以降。

直接肌に触れ合った時の感覚変化に山姥切は強い抵抗と戸惑いを覚えた。

三日月はそれに気が付いて居るのだ。


夜は共に同じ布団で眠る。この部屋に用意された布団は一組、すなわち部屋の主である三日月の分しか無いと言うのも事実であったが、三日月がそれを暗黙の決まりだとでも言わんばかりに実行するからだ。

最初、共に眠る事を山姥切は拒否した。

いつぞやはぐずる三日月を宥める為に止むを得ず一緒に布団に潜ったけれど。

そしてこの部屋に来たあの夜も、その後からも、三日月は目覚めない山姥切と同じ布団で寄り添い眠っていたのだろうけれど。

改めて意識してみると妙な気恥ずかしさが先に立ったのが大きい。

だから最初の日は薄い掛け布団を一枚だけ三日月から奪い、それに包まり部屋の隅で丸くなって眠った。

その筈なのに、次に目が覚めるといつの間にか同じ布団に引きずり込まれて居て、三日月が山姥切に抱き付き安らかに寝息を立てて居る――それを何度か繰り返して、離れて寝ようとするのは諦めた。

山姥切が傍に居る方が三日月も安眠出来ると言うから、悪いものでも無いのだろう。


何日が経ったのか。この部屋へ足を踏み入れて、目が覚めて、それから。

人と同じ形を保ったまま、飲食を必要としない身体になってから。

人でなく、物でなく、ただ三日月の為にここに在るものになってから。


「慰み物にするつもりはない」そう言った通りに三日月は徒に山姥切の身体を求める様な事はせず、最初の夜以降、情欲を伴う行為は一切無かった。

ただこの場所に居てくれるだけで良いとそう言ったのは本心であったのだと、身を以って証明して見せた三日月は、ひたすらに優しい。


時折、確かに欲を孕んだ目で見つめて来るのに、山姥切が気付かないとでも思っているのか。優しくて、優しくて、もどかしい。


「三日月」

「うん?」

「もし、俺が……欲しいと言ったら、あんたはくれるのか」

「俺が一人で持てるものなら、持って来てやれるが……何が欲しい?」

でも食べ物の類は難しいかも知れん、俺は勝手に厨へ行けないし、今の国広が何か口にして身体を悪くしたら相談出来る相手もいない、それは困る――そんな事を一人呟く三日月の暢気さが憎らしかった。

ああ、心臓が煩い。

「三日月が、だ!」

睨み付ける様に見詰めた先、三日月はきょとんとした顔で瞬いた。

「月か?」

空の。

のんびりとした声がいつも通りに耳に響く。

「……なんで、あんたは俺の肌に触れようとしないんだ」

理由など判り切っているそれを敢えて口に出すと三日月が表情を曇らせた。

言わんとしている事が正しく伝わったのだろう。

「……国広、俺はお前をそんな風に扱う気はないと言っただろう」

山姥切が言った事を三日月はしっかり覚えて居て――今も、そんなつもりで山姥切が自棄を起こして居るとでも思っている。きっと。


「俺が……また、あんたに触れられたいと思うのは、おかしいか」

ぽかんと口を開けて数秒固まった三日月が、錆びた音のしそうな動きで首を横に振った。あからさまに動揺した表情が可愛いと感じるのは仕方が無い。

「国広……」

「あんた普段、直接俺の肌に触らないようにしてるだろう。ずっと」

もっと上手い伝え方があるのかも知れないけれど。自分にはこれが精一杯だ。

「でも、そんな事しなくていい。三日月が、ただの『物』としてでなく『俺』に触れたいと思うなら……もっと……触れられたいと、思う」

三日月が袖で顔を覆って項垂れた。あからさまに喜ぶか、そんな事は出来ないと悲しむかと思って居たのだが。予想外の反応に暫しの沈黙が落ちる。

「……なぁ、国広」

「……なんだ」

「俺は、お前に、触れてもいいだろうか」

三日月が照れくさそうに口にしたそれに、思わず視線を逸らして俯いた。けれどその意味を理解して頬も耳も熱くなってしまったのはきっと三日月に見られただろう。

触れてもいいだろうか――三日月は頭を撫でたりする程度でそう訊いては来ない。

「……、いい」

おずおずと両手を差し出すと柔らかく握られて、やはり三日月と自分の身体には温度差が無くなって居るのだと再認識した。その手を引いてゆっくり抱き締められる。

この程度は布団に入ってただ眠る時と変わらない筈なのに妙に緊張する。

「国広」

三日月の唇が頬に、額に触れた。

目元、鼻先、何度も場所を変えて唇が触れて、すぐに離れる。じゃれ付く様なそれに焦れて、両手で三日月の頬を挟んで唇に唇を押し付けた。

こんな事の嗜みなど当然持ってはいない。何が正しいのかも判らないけれど。

唇を舐めて割入って来た三日月の舌が自分の舌に触れると痺れる様な感覚があって、熱い気がするのは霊力の経口摂取が行われている所為だろうか。

「ん、ぅ……」

でもそれはすぐに口の中に広がって行く。甘い。くらりと眩暈がする。

少しずつ酔いが回る様に、気持ちいい。


だからもっと。


- - -



ゆめうつつ


「外が見たいか、国広」

ゆったり問うその声に応えずに居ると、戒める腕に微かに力が篭る。

「お前は日の光がよく似合うからなあ……でも、駄目だ。

障子を開けたらお前が逃げてしまうかも知れない」

だから絶対に駄目だ。

そう言って髪を撫でる手付きは優しくて、腕の中は暖かくて。

少しずつ目蓋が重たくなって行く。


『お前は何も心配しなくていい、すべて俺が上手くやっておく』


自分に世話を焼かれてばかりだった筈の三日月は、自分をこの静かな部屋に閉じ込めた最初の日にそう言った。


あれからどのくらい経ったのか、そもそもあの日がいつだったのか。

三日月が言う『すべて』とは何のことだろうか。


初め、自分は確かに憤った筈だ。

何の真似だ、と。


けれどその記憶もいつの間にか薄れ、今では何故そう思ったのかも詳しく覚えてはいなかった。


三日月が、自分の事を必要だと言ってくれたのははっきりと覚えている。

傍に居てくれと泣いていたのも覚えているけれど、何故泣いて居たのか判らない。

ここに、三日月の傍に居ると、自分が選んでそう決めた。

どうして三日月は逃げてしまうなんて言うのだろう。

逃げるってそもそもどこへ、三日月がここに居るのに、何故。


ぼんやりとした疑問が時折浮かんでは消えて行くばかりで、何に疑問を抱いているのかすら判りはしないのだ。

今の自分にとって、確かなものは三日月の存在しかない。


――でも三日月も、俺だけでいいと言っていたから。


ふと思い出して嬉しくなった。

三日月の胸に頭をすり寄せると花の様な匂いがする。

頬や首筋を軽く擽る手が気持ちいい。


もっと沢山触れて欲しい。もっと強く抱き締めて欲しい。

そう思うけれど、今は、とろとろとした眠気ばかりが纏わり付いて。


「みかづき」


沈む意識と思考の狭間で名前を紡ぐと、閉じかけた目蓋に三日月の唇が触れた。


「ああ、ここにいる」


重ねた手の指先を絡めて握る。

隙間なく触れ合ったそれはまるで溶けて混ざりそうで。

ひとつになってしまえばいいのに、そう思う。


「おやすみ、国広」


声は心地良くまどろみに溶けた。




めでたし、めでたし。



<終>