月と箱庭。― 追 ―(番外編)
目を開いて前を見据え、口を開く。
名乗りを上げる。
「山姥切国広だ」
初めて耳にする自分の声は不思議と懐かしさすら感じた。
己を喚んだのが誰であるのか――名乗られずとも目にした瞬間に判る。恐らくそれは審神者と刀剣男士に出来る霊力の繋がりの所為だ。眼前に立つその男からは、一切の声掛けも無い。
その場に立ち会ったのは審神者と刀が二振。
主に代わり口を開き、歓迎の意を表した刀が『近侍代行』の名目を名乗り、これから生活する本丸を案内する旨を告げる。
審神者の傍らに控えたもう一振の刀は静かに微笑んだまま、口を開く事は無かった。
割当てられた私室へ向かう途中でこの本丸の掟について聞いた率直な感想は随分堅苦しい、と言う所だ。
近侍代行曰わく「主を前にした時に掟を守りさえすれば良い」「人の身を得て数日は戸惑う事も多いので、好きに過ごして構わない」との事である。成程決められた枠の中であれば自由はある訳だ。そう思えば幾らか気は楽になる。
私室の側で、偶然同じ刀派の二振と顔を合わせた。
人型を得てから姿を目にするのは初めてになるのにすぐにお互いが兄弟刀だと気が付いたのには驚いたけれど、刀剣男士はどうやらそう言う繋がりを感じ取れる物らしい。
彼らは大袈裟に思える程の喜び様で山姥切国広を歓迎し、是非にと本丸の案内を買って出てくれた為、そこから日々の生活で利用する共用の場所は兄弟刀達に連れられて歩いた。
合戦場へ出る為の下積みは数日後から与えられる本丸内の雑用や当番事の中で行われると説明を受けたのもその時だ。
山姥切国広が顕現した本丸は取分け美しい物を好むと言う審神者の意向をそのまま反映した物だった。
刀達は過敏な程に審神者の動向を気にかけては居たけれど、一日二日と過ごす内、皆それぞれこの場所を気に入って居るのが判って来る。それは少なからず審神者の気質の影響もあろうが――山姥切国広もこの本丸を少しずつ気に入って来た。
兄弟刀達は随分心配性で、何かと面倒を見に来てくれる。
現状四十二を数える刀剣男士の内、この本丸では山姥切国広が四十二振目だと聞いた。きっと兄弟刀達は名剣名刀ばかりの所に遅くやって来た自分の事を気遣ってくれているのだ。
己の内に抱えた後ろ向きな気持ちは簡単に消える物では無いけれど、捻くれてばかりいる訳にも行かない。少しでも早く生活に慣れて、兄弟刀達を安心させなければ、そう思う。
それを見付けたのは、刀剣男士として本丸での生活を始めて約一週間を過ぎた頃だ。
ふと目に留まった扉があった。
見るからに真新しい開き戸。
襖や障子が多い本丸の中で開き戸と言うだけでも珍しい。
今日までも何度と無く通った廊下で視界の端に留まったそれは、何故今まで気が付かなかったのだろうと思う程の存在感を持ってそこにある。
勝手に入ってはいけない場所や、近付いてはいけない場所は一番最初に教えられた。
刀剣男士の顕現が行われる間、審神者の執務室や私室、近侍の役に就いている刀の部屋、他にも幾つかあったが──兄弟刀がしっかりと言い含める物だから一度で頭に入ってしまった。
この扉に関しては何も言われていない。
と言うより『ある』事自体知られて居ないかの様に思える。
誰かが出入りしているのも見た記憶が無い。
元々使用頻度の低い扉で、自分がここへ来て日が浅い所為で誰かが使っている所を見た覚えが無いだけかも知れないけれど。
特別急ぎの用事があった訳でも無く、気が向くまま前に立ち取っ手に手をかけると、扉は難なく動いた。
「……鍵は、ないのか」
薄く開いた隙間から流れ込んで来る新緑の香りと微かな風に誘われる様に、開いた先は庭に面した渡り廊下だ。
もっとも、壁の無いその造りは屋根のある橋とでも言う方が正しいかも知れない。広い庭の中を流れる人工的な小川を跨いで作られている所為で余計にそう見える。
同じ様に渡り廊下で繋がれた離れが他にも幾つかあるのは知っている。大抵が雅事に関わる物、例えば茶室の類であったりするので、山姥切国広には縁が無い場所だが。
長く続く渡り廊下、その先には建物がある。
あれも離れと呼んで間違いないだろう。
自分が居る場所から考えると、本丸の方から庭を見た時に目に留まった覚えがある気もする。その時は深く考えずに、そのまま視線を流してしまったけれど。
――そう言えば、あの離れも説明がなかった。
その渡り廊下は本丸、つまり母屋の廊下から同じ様な床板が続く形で作られて居た。壁の無い造りの割には雨風の汚れも目立たないので下足は必要無いだろうと判断して歩き出す。
渡り廊下の先、離れが妙に気にかかった。
歩きながら母屋の方に目を向けると見慣れた場所が見える。
やはり以前目に留まったのはここだったのだ。
そんな確信と共に、程なくして離れの前に立つ。
この離れが何の為の物なのか外見では判断が付かない。
けれど、真新しさも然る事ながら柱や金具と言った目に付く部分あちらこちらに意匠を凝らした装飾が施されていて、他の離れとは扱いが違う事だけは判る。
建物に近い渡り廊下の終わり付近には、庭へ降りられる階段があった。恐らく、正面からは見えないけれど散策出来る程度には庭が整備されて居るのだと思う。
この場所の空気はやけに澄んでいて、風が草木を揺らす音さえしない。不自然な程に静まり返っているのに、薄ら寒さの様な物は無く、むしろそれに反して感じる暖かさに首を傾げた。
一見して鍵の無い引き戸の出入り口は簡単に開けられそうだ。
何気なく手をかけようとして、思い直す。
中に誰か居るだろうか。もし、誰か居るのなら戸を叩くか、声をかけるかした方が――。
「迷い子か。それとも、呼ばれたか」
背後から突然聞こえたそれは独り言の様な呟きだった。
「っ……!」
初めて耳にする声に身を竦めて息を飲む。
「山姥切国広、何用だ?」
恐る恐る振り返ると――そこに立っていたのはいつも審神者の傍らに控えている物言わぬ刀だった。
「やぁ、顔を合わせるのはお前が顕現された時以来だな」
微笑を浮かべゆったりとした口調で語りかけて来る。
この本丸の近侍、主の愛刀。
名を『三日月宗近』と言っただろうか。
「どうした、黙り込んで」
「あんた、普通に話せるんだな……」
咄嗟に口に出たのはそんな一言だった。
他に何か返す言葉があっただろう、と思っても口から出た言葉は戻らない。三日月宗近は数度瞬きをして頷いた。
「……なるほど。そう見えたか」
「す、すまない! 初めて喋っているところを見たから」
『三日月宗近』は初めて見た時、いや、その後も。
いつ見かけても主の傍らで微笑んでいるだけで人形の様に口を開かない。話せないのだと勝手に思い込んでいた。
「気にするな。強ち間違いでもない、皆の前であればな」
つまり人前では喋らない様に言い付けられている……と言う事だろうか。この本丸の審神者は『三日月宗近』を近侍に据え置き、出陣させる事も無く愛でているとは聞いていた。
近侍が部隊長を兼任する第一部隊は編成されて居ない。この本丸では第二部隊から第四部隊までしか稼動して居ないのだと。
値踏みする様にじっと見詰めて来るのが先程の問いかけの返答を促して居るのだと気付き、妙な緊張を感じながら口を開く。
「ここが気になって……見に来た、だけだ」
「ああ――そうか、お前はここへ来て日が浅いものなぁ。目くらましが上手く効かなかったのかも知れん」
「どう言う意味だ?」
「なに、こちら事だ」
『三日月宗近』は主の愛刀、この本丸の重宝である。
故に、気軽に近付いてはならない刀だ。
兄弟刀達にそう教えられたのを思い出し、すぐに母屋の方へ戻った方が良いだろうか、と考える傍らで。
ここが何なのか三日月宗近は知っている――そんな気がした。
けれど同時に、問いかけても答えは返って来ない様にも思う。
三日月宗近は数種類の花を抱え、小さな剪定鋏を手にしていた。庭で花を摘んで戻って来たと言う所だろうか。
どうしたものかと行動を決めかねて三日月宗近が抱えるそれらを眺めていると、得意げに見せて来る。
「初めて育てたにしては上出来だろう? この庭は好きにしていいと言われているから、母屋の方から少し植え替えてな」
綺麗に咲いてよかった。そう言って浮かべた笑顔は今まで見た事のある物よりも柔らかく、親しみが持てる。
「主にでも見せるのか」
何気なく呟いた。そう、何の他意も無く。
しかし、その一言は三日月宗近の笑みを掻き消した。
「何故、俺があんな人間の為に?」
三日月宗近は声色こそ変わらず柔らかいままで首を傾げて見せたけれど、その表情に感情は無い。
「主の事を嫌ってるのか……?」
山姥切国広が聞いている限り、大切にされて居ると言う話だった。当然慕っているのだろうと思って居たのに。
「では逆に問うが。山姥切国広、お前はあの男をどう思う? 主として慕い敬うに値すると思うか」
射竦める様な視線が刺さる。
沈黙に合わせて足元から這い上がって来る居心地の悪さに堪らず顔を逸らした。
「お、俺は……顕現したばかりで主とまともに会話もしていないし、顔もろくに合わせていない。どう思うと訊かれても」
「……うん、そうだろうな。すまん、意地の悪いことを訊いた。まぁ、お前もいずれわかるさ」
三日月宗近が笑う。
今度は審神者の傍らにある時の笑顔で。
「これは俺が別のものに見せてやりたくて育てた花だ」
そっと花を撫でて呟いた三日月宗近はどこか悲しげに見えた。
どうしてそんな表情をするのか、判る筈も無いけれど。
「あんたの育てた花は、綺麗だと思う。だから……見せられた奴は喜ぶんじゃないか」
雅事に疎い自分には、花の良し悪しなど判らない。
でも色鮮やかに形良く咲いた花達は、きっと三日月宗近がただ見守るだけでなく手をかけて育てたからこその物だろう。
「山姥切国広、花は好きか?」
「まだ好きだとか嫌いだとかは、よくわからない」
それ以外に答えようが無かった。
顕現して過ごした短い期間は人と同じ様に過ごす為に覚えなければならない事ばかりで目まぐるしく、草木に対して好きだ嫌いだと考える余裕は到底無い。
そうか、と頷いた三日月宗近が徐に花を差し出す。
「お前にも一輪やろう。ここに誰ぞ来るのは珍しいからなぁ。手土産だ、受け取れ」
要らない――そう言おうとして、口を噤んだ。
受け取るつもりは無かった。
それなのに素直に受け取ってしまったのは、屈託の無い笑顔で差し出された花を突き返す事が出来なかったからだ。
「だが、もう来てはいけないぞ。ここは俺達の隠れ家だ」
『俺達』と言うのは三日月宗近と、誰を指すのか。
それが花を見せたい相手だろうか。
「ここに、誰かいるのか?」
「知らなくていい事だ。本当はお前もここには気が付かない筈なんだが……まぁ、すぐに忘れてしまうから大丈夫だ」
「忘れるって、何を忘れるんだ」
「次に新しい刀が来た時は、もう少し用心しよう」
にこやかに話す三日月宗近と会話がすれ違う。妙な焦りが生まれる。三日月宗近は何の話をしているのだろう。
ゆっくり歩み寄って来た三日月宗近が傍らに立つ。足がその場に縫い止められた様に何故か身動きが取れなかった。辛うじて動かせる指先を握り込む。
背中に手を添えられた感触に寒気がしたけれど、振り払う事も出来ない。促されるまま、渡り廊下の方へ向かされた。
「山姥切国広、戻れ」
耳元でそう囁いた三日月宗近の声が頭の中に響く。
途端、ざわざわと聞こえ始めた雑音がすっかり聞こえなくなって居た風や草木の音だと気が付いた、その時。
とん、と背中を押された――様な気がした。
「え……?」
目の前の景色を見て、漠然と「廊下だ」と思った。
それは朝、布団の中で夢から目覚めた時の感覚に良く似てる。
左右を見て、厨に近い――恐らく本丸の中で一番使用頻度の高い廊下である事を再認識して、首を傾げた。
――どうして、こんな所に立ってるんだ?
何をしていたのか、どこへ向かうつもりだったのか。
さっぱりと思い出せない。
部屋を出た記憶は確かにあるけれど、自分がどうしてここに居るのかが判らない。食事時は活気ある廊下も今は人気が無く、自分だけが呆然と立ち尽くしている。
「山姥切さん?」
そう呼びかけられて振り向いた先の廊下から見知った短刀がやって来て、下から顔を覗き込む様に見上げて来る。
「こんなところで、どうしたんですか?」
「いや……」
自分でも判らなくて困っていた、とは言い出せず口篭る。
幼い容姿ながらしっかりしているその短刀は、山姥切国広が顕現した初日から何かと声をかけてくれる内の一振だ。
かと言って――自分は何をしようとしていたのか、なんて訊くのは流石に間抜け過ぎて笑えない。
「お腹が空いても、まだお昼時には早いですよ」
くすくすと笑う短刀がふと視線を下げて表情を輝かせた。
「綺麗ですね、それ」
それ、とは何の事だろう。
短刀が視線を向けた先、自分の手元。
「……なんで、花なんて」
自分で摘んだ覚えも無い、名前も知らない。
見知らぬ花が一輪だけ握られていた。
<終>