月と箱庭。(中編)

※スマホ・タブレットからご覧の方へ

画像が上手く表示されない時は、ページの再読み込み(更新)をしてみてください。

十.


「三日月」

そう呼びかけられて振り向くと、少し離れたところに探し歩いていた姿があった。

「おはよう、国広」

小走りに近付いて来るのが珍しくて三日月はさあ来いとばかりに腕を広げて迎えたが、山姥切は素知らぬ顔で目の前で立ち止まる。逃げられていた頃に比べれば随分と気を許してくれているのは判るが、気儘な態度は相変わらずだ。


「あんた、暇だろう」

唐突にそう言った山姥切が三日月の腕を掴んで引いた。

主不在の日に三日月の出陣予定は組まれず、遠征にはそもそも行かせて貰えない。

暇かどうかを問われると、確かに『暇』だ。

「俺は国広を探していたから暇ではないぞ」

単純に暇だと答えるのも少しばかり癪で屁理屈のような言葉を返すと、山姥切は目深に被った布の奥で呆れたような顔をした。

「見つかっただろ。じゃあ暇になったな」

「……うん、まあ、そうだな」

こうしてまともに言葉を交わせるようになって、最初に気が付いたのは山姥切の表情は意外によく変わると言う事だ。

俯きがちな時は見えないが、向き合って話す時に少し顔を上げると変化が判る。

布と前髪の隙間から真っ直ぐに目を合わせて来る物怖じしない様子を三日月は大層気に入っていた。


「少し付き合え」

三日月のゆったりとした歩調に比べると山姥切は普通に歩いても早足だが、今日は更に急いでいるらしく遅れないように合わせると少し足元が慌ただしい。

とは言え、山姥切の方から三日月を探しに来る事は滅多になく、腕を引かれて歩くのはこれが初めてだ。

「どこへ行く?」

「来ればわかる」

山姥切の足取りに迷いはなく、並んでしまえば布に遮られて判らない表情は窺えずとも応える声は心なしか軽い。

連れられるままに進む内に辺りは見慣れない景色へ変わり、これは戻る時も案内が必要だなと一人頷きながら左右を見渡していると、到着を告げられた。


山姥切が三日月に背を向けたまま開けた引き戸の奥はがらんとした空間で、廊下と同じ様な板張りの床が続く。

三日月の部屋は本丸の中でも特に広いと以前審神者は語ったが、この部屋は一見しただけで何倍もある。だが、その割には調度品の類が何も見当たらないのは何故か。

「何してる、早く入れ」

呆けていた三日月がその声で敷居を跨ぐと、山姥切は廊下を一瞥してから静かに戸を閉めた。改めて中を見回すがこれと言って目立つ物はない。

「……何もないな」

三日月はそんな間の抜けた言葉を口にしたが山姥切は軽く相槌を返しただけで、三日月の頭から足先までをまじまじと眺めている。

「どうした?」

「足袋は脱いだ方がいい」

勝手を知っている山姥切がそう言うのであれば三日月には抗う理由もなく、そうかと頷いてうずくまりこはぜに指をかけた。足袋を脱いだ素足に伝わる硬くひやりとした床板の感触が廊下とはまた違って感じるのは、広々としたこの部屋の雰囲気の所為だろうか。


「国広、ここでは何を――」

立って視線を上げるとすぐ目の前に居た筈の山姥切の姿がない。

「……国広?」

「こっちだ」

声がしたのは三日月の背後、振り返ると部屋に入る時に使った引き戸のすぐ脇に別の戸がある。開かれたままの戸から中を覗き見るに、そこは部屋と呼ぶには狭くて小さく、もとい物置のようだ。

よくもここまで音を立てずに身動きが出来るものだと感心していれば物置部屋から出て来た山姥切は二本の棒を携えており、その片方を押し付けるように三日月に手渡した。

「……この棒は?」

「棒じゃない、刀を模して作られた木刀だ。あんたの刀の正確な長さは知らないが……それが平均的な太刀らしい」

そう言われてみれば手にした木刀は鍔こそない物の、柄に当たる部位から刃先までの形は出陣の際に佩く刀に似通っている。

「違和感が強過ぎるなら他のを探す。どうだ?」

刀を持つのと同様に構えるよう促された三日月が特に問題がない事を伝えると、山姥切はそうか、と安心した様な顔をした。


重さに関してさほど違和感は無い。

ただ三日月が木刀を見るのも触るのも初めてな所為か、木刀に鍔が無い所為なのか、柄を握る位置を決めかねて何度も持ち直してしまう。それを見た山姥切がおおよその鍔の位置を示してくれたお陰で漸く重心が手に馴染んだ。

「これで何をする?」

「手合わせだ」

てあわせ、と言われたままに復唱した三日月はそれが自分には割り振られない内番の一つを指す事に気が付くまで数拍間が空いた。

「やってみたい、と言っていただろう」

「……い、いいのか?」

「今はここを使う奴らが揃って出陣中だからな」

今日だけだ。

そう言って山姥切は部屋の中程へ向かう。

「ここは修練場……手合わせに使う場所だ。外にも似たような広さの場所があって、外では実戦訓練としてそれぞれ自分の刀を使う。この木刀は屋内用、あんたは外だと皆の目に付くだろうし下手に怪我でもされたら厄介だからこっちだ」

少し距離を置いて立つように促されるまま位置に着いて向き合うと、山姥切は軽く構えた木刀を振り抜いてみせた。

微か耳に届いた空を斬る音に三日月は知らず息を飲む。

「この木刀は重さの調節と補強の為に金属の芯が入っている。刀と全く同じとは行かないが、似たような手応えはあるだろう」

「なるほど」

見様見真似で木刀を振るった腕にある感覚は確かに刀のそれに近い。

「俺は木刀だけを狙う。あんたはどこを狙ってもいい。木刀を取り落とせば負け、俺の身体に一度でも木刀が触れたらあんたの勝ちだ」

「待て待て、国広。それでは俺に利があり過ぎる」

三日月と山姥切の間にある一朝一夕で追い付けない練度や経験の差は理解しているが、それにしても偏っては居ないか。

「その程度の『利』で勝てると思うのか?」

異を唱えた三日月に山姥切は何事もない声色で応じた。

手心を加えて勝ちを譲る気は無いのだと、雄弁に語るかのように。

山姥切が静かに取った構えは中段よりも上寄り――つまり、三日月の攻撃を受け流すだけでなく自ら打って出る意志があると言う事だ。

であれば、こちらも遠慮無く向き合うのが礼儀と言うものだろう。

三日月が率いる第一部隊の編成は審神者の一存で決められる。自身で希望を出した事はない。

それは『三日月宗近』が特定の刀の名を口にすれば主の不興を買い、その鉾先が三日月ではなく相手の方へ向かうのが明確だからだ。

共に出陣する事の叶わない山姥切国広が戦場を駆け、刀を振るう姿を見てみたい。

そう思う気持ちがあった事は確かで、真っ向から打ち合えるのなら願ってもない幸運だ。ひしひしとした高揚感に口角が上がるのを自覚する。


三日月が構えを定めるのを見届けて山姥切が口を開いた。

「……参る」

低く通る声が耳に届いた瞬間、反射的に柄を握る手に力を込めたのはただの偶然。

けれどそれは紛れもなく正解だった。山姥切が床を蹴って動き出した、視界でそれを捉えた直後、鈍い音を立てて力任せに叩き込まれた一撃が木刀を伝わって三日月の手指を、腕を痺れさせる。

――いつの間に。


間合いを詰められた事にすら気付けなかった。

単純に上背ならば三日月が勝っているのは明らかで、体躯の差で押し切ろうとすれば三日月の方に分がある筈だが、受け止めた一太刀は予想以上に重い。

組み合った木刀越しに見る山姥切はその口元に微かな笑みさえ浮かべていた。

「く……っ!」

一体どこからこの力が出ているのか皆目見当もつかない。

これが練度の、実戦経験の差だと言うのか。踏み締めた足を軸に身体ごと押し返し僅かに重心が移ったと思った瞬間、山姥切が身を引いた。急に抵抗を失ってたたらを踏んだ三日月とは対照的に、山姥切は体勢を崩す事なく間合いを取る。

「弾き落とせるかと思ったんだがな」

「幾らまともに奮わぬ刀とはいえ……そこまでの鈍ではないつもりだ」

再び木刀を握り直した三日月を見てどこか嬉しげに目を細めた山姥切は今度こそはっきりと、常時真一文字に近いその口元に不敵な弧を描いた。

「来い、遊んでやる」

「……言ってくれる」

特別扱いしないと言った山姥切はあの夜以来、三日月に対して審神者が求める様な在り方を強要したりはしない。かと言って三日月がどんなに物事を知らなかろうと決して軽視するような言動もせず、飽くまでも対当な関係として向き合ってくれていた。

だからこそ、直ぐに判る。これは明らかな挑発だ。


声もなく踏み出して打ち込む木刀は刃や鎬を弾いて容易にいなされる。腕を返して薙いだ切先が山姥切に触れる事は無く、視界の端に布裾が踊った。

見掛ける度、逃げられて居た時によく見知った白い影。だが今は影を追って視界を巡らせればそこに山姥切国広が居る、それだけで感情が昂ぶる。

山姥切が打ち込んで来る一手一手は初回の一太刀ほど威力は無い。

けれど手合わせはおろか敵と刃を交える事すら稀な三日月にとって、それを受け止める得物から伝わる力は手や腕を痺れさせるには充分だ。


より早く人の身を得て長く戦場にある山姥切の実力がこの程度では無いだろう事は判り切っている。少なからず手心は加えているのだろう。それでも山姥切は攻め手を緩めて三日月に優勢を譲る様なそぶりは見せなかった。三日月が懸命に応戦しようと覆らない実力差が――押されている、と言う実感が――堪らなく嬉しい。

『木刀だけを狙う』そう宣言した通り山姥切は三日月にどれだけ隙が生まれようと木刀の峰以外には打ち込まない。

身体の側をその切先が掠めるのは陽動でしかなく、そうと判って居ても三日月が反応せざるを得ない距離を的確に狙う勘の良さには感服するより無く、少しでも気を抜けば自分が握る木刀は山姥切に弾き落とされ手を離れてしまう。

そうすればこの手合わせは終いだ。自分は負けてしまうのだろう。

元より勝ち負けに固執する様な性質では無いのだから自分が負けても構わない。


だが――。


息が上がり汗が流れる、焦りにも似た内から湧き上がるこの熱を終わりにしてしまうのは、酷く惜しいと思った。


「……楽しいなぁ、国広!」

山姥切が打ち下ろした刃を鎬で受けて再び正面で向き合えば、山姥切はやはり不敵な笑みを浮かべ余裕を失っては居ないものの、微かな呼吸の乱れと頬に射した赤味が見て取れる。本丸で暇を持て余すより合戦場に出ている方が良いのだといつか話していたのは紛れもなく本心なのだろう。

三日月の言葉に短く同意を返して軽やかに身を翻す山姥切の平素よりも溌剌とした様子に見入る間も無く刃を交わす。戦場では決して味わえない緊張感。

それを純粋に楽しいと感じるのが人型を得た刀としての本分なのか、山姥切とこうして向き合える事が嬉しいからなのか、三日月自身にも判らない。


提示された勝利条件は 山姥切の身体のどこかに木刀を触れさせれば良い、と言うものだが、もし当たり所が悪ければ怪我をさせてしまうだろう。

注意しなければ――と、最初こそ思っていた。

『その程度の利』とは決して山姥切の傲りからの発言ではない。その証拠に三日月は山姥切が纏う布の端にすら得物を触れさせる事が出来ないのだから。

肩で息を付いて額から流れた汗を拭う。

「降参か」

山姥切は構えを解かぬままにこちらを見据えた。

「いや、まだまだ」

姿勢を直し構える三日月に向けて「上等だ」と投げかけた声は微か笑い混じりに軽く、ああこの刀は気分が良いとこんな風にも話すのかなどと場違いに考える。


三日月が山姥切に勝てる要素は皆無と言っても過言ではない。

身の軽さ、勘の良さ、戦闘経験。どれを取っても三日月の力は山姥切に及ばず、勝利条件に多少の差を付けた所でそれが揺らがないのは明白だった。

この手合わせに於いて勝機を見い出せる瞬間があるとすれば。それはただ一つ、山姥切の持つ絶対的な死角と、『木刀にしか攻撃出来ない』と言う条件が揃った時だ。


柄を強く握り間合いをこちらから詰める。

それに応える様に山姥切も姿勢を落とし床を蹴った。

元より速さで勝てるとは思わず。真っ向から打ち合えば先手は必ず山姥切の物になる。振り下ろされる刃を防ぎ、自分が打ち込む刃を弾かれながら様子を伺えど、三日月に対して山姥切が隙を見せる筈も無い。

――隙が無いのであれば、作れば良い。

互いに己の本体を用いての斬り合いであれば無謀としか言えぬ悪手ではあるが。

何度か打ち合いを繰り返し、山姥切の切先を上に弾き上げた、その直後。

懐へ潜り込む様に身を沈めた三日月の動きに、上からの追撃態勢を取った山姥切は一瞬躊躇を見せた。

本来三日月は次に備え守りに入るべき所だ。山姥切の速度なら三日月の急所を狙うのは容易い。その守りを棄てられるのは条件付きの手合わせであればこそ。

体当たりを狙った訳ではない。そのまま大きく踏み込んで山姥切のすぐ脇を抜ける。


『山姥切は三日月の木刀しか狙わない』

それは、つまり『間合いが近過ぎれば攻撃の手を失う』と言う事だ。


そして山姥切が持つ絶対的な死角は真後ろ。

布を被って居る所為で人一倍狭くなる視界を、山姥切は速度と勘で以て補っている。

そうは言っても背中に目がある訳では無い。

背後への反応は物音と気配が頼りになっている筈。それならば。

実戦の様に相手を斬るのが目的では無いのだから、間合いや遠心力を考える必要は全く無いのだ。

決してまともに当たるとは思えない。

だが刃でも切先でも『木刀の一部分が山姥切に触れ』さえすれば良い。

脇を擦り抜けて回り込み、振り返ろうとする後姿に向け、木刀を横薙ぎに。

――貰った。


「遅い!!」

山姥切の鋭い声が耳に届いて、木刀が弾き上げられる。

そして続け様に足元が〝浮き〟――びたん、と。


派手な、聞き覚えの無い音がした。

その音と共に衝撃が身体を襲い、数瞬空けて三日月は自分が床に突っ伏した事を自覚するも、経験した事の無い痛みで上手く声が出せない。

首のすぐ横の床に硬い物が当たる音に目を向けると、山姥切の足先と床に着いた木刀の切先が見えた。

「これが実戦ならあんたはここで終わりだ」

「……足を、払うのは……卑怯ではないか……」

「敵が常に正攻法で来るとでも?」

それに俺は宣言通り木刀にしか攻撃はしていない、そう言いながら山姥切は軽い足取りで三日月が取り落とした木刀を拾いに行く。

最後の一撃で弾かれた得物は、どう足掻こうと届かない位置に転がって居た。

軋む身体に鞭を打ち仰向けに転がって、すっかり乱れた呼吸を整える。

「……俺の負けだなぁ」

「狙いは悪くなかった。でも出陣した時に自分の身体を囮にする様な手を使うのは止めた方がいい。命取りだ」

あんたが折れたら審神者が発狂するぞ。

山姥切が揶揄うでも無く真面目にそう呟く物だから、思わず笑ってしまう。

「ははは。出陣の時は使いたくても使えないから大丈夫だ」

木刀とは言え『刀』を振るってここまで身体を動かしたのは初めてだった。

山姥切と手合わせをしていた時間は、恐らくそう長くは無いが。

「今日だけでもう何日分も運動をした気がするなぁ」

真剣に相手を見据え無我夢中で『刀』を振るうのがこんなにも楽しい事だとは知らなかった。

「ああ、負けた負けた」

なんて爽快な気分だろう。

完全に手も足も出せずに負けたと言っても良い程の結果にも関わらず、三日月は楽しくて仕方が無いのだ。我ながら可笑しな事だと思う。

「あんた、強いじゃないか」

木刀を二本携えて戻った山姥切が寝転がったままの三日月を覗き込んでそう言った。

「俺は負けただろう?」

「勝ち負けの話じゃない」

差し出された手を素直に掴んで上半身を起こす。呼吸は会話出来る程度には落ち着いたけれど、心臓は未だにいつもより速く脈打っている気がした。

興奮冷めやらぬ、とはこの事だろうか。

「今は練度の差が大きい。それにあんたは実戦経験も少なければ、自分の実力も自分で判っていない。だから俺は勝てた」

「国広が強いだけの話だ」

「あんたは練度が上がれば俺なんかより強くなれる」

山姥切が余りにも真剣な瞳ではっきりとそう言い切るものだから。

「そう、だろうか」

少しだけそんな気がして来るのは。

耳に、心に、毒かも知れない。

山姥切に勝てるほど三日月の練度が上がるのはとても遠い先に思える。三日月の様に戦に出てもまともに戦う事の無い刀では、どうやった所で届かない物に思えるのに。


「では、また今度、手合わせをしよう」

どれだけ先でも、いつになっても構わないから。その時は同等に渡り合いたい。

今日は修練場が空いていた、だから今日だけだと山姥切は言ったが、またこんな風に二人で向き合える日があるかも知れない。

「俺がもっと戦に慣れて強くなったら」

「……そうだな」

山姥切は頷いて、少しだけ笑顔を見せた。



十一.


手合わせを終えた後。

初めて見る物ばかりの物珍しさから物置部屋を覗かせて貰っていたら、腹の虫が鳴いて空腹を主張した。

片隅に設えられた簡素な壁掛け時計に目をやると丁度昼餉の時刻を指している。


身体を動かして昼時ともなればなるほど腹が減る訳だ、三日月がそう納得して視線を戻すと山姥切は不自然に背を向けていた。その肩が、微かに震えて居る様な。

「国広……笑ってくれるな」

「笑ってない」

「笑っているだろう」

軽く腕を引いて振り向かせた不機嫌そうな表情がかえって態とらしい。尚も逸らそうする顔を被った布ごと掌で挟んで覗き込めば、今度こそ山姥切は破顔した。

慌てて三日月の手を振り解き顔を伏せるがもう遅い。

「そら、笑っているではないか」

「……不可抗力だ」

「国広の腹の虫とやらは鳴かないのか?」

三日月も初めは自分の身体ながら不思議なものだと感心した。だが、書物によれば人の身体というのは腹が減れば『腹の虫』が鳴くものでは無かったか。

「俺も極端に腹が減れば鳴る。だからあんたがおかしい訳じゃない」

口元を隠し俯く山姥切はまだ笑いを堪えて居る様子だが、三日月はそれを見ても嫌な気持ちにはならなかった。

「なぁ、国広」

「なんだ」

「さっき笑うなと言ったが、あれは撤回しようと思う。だからな、もっと笑ってくれていいぞ」

一息ついて顔を上げた山姥切は首を傾げ、直ぐに表情を曇らせる。

「……すまない、馬鹿にした訳じゃない」

「謝る事はないだろう、俺は国広が笑ってくれると嬉しい」

山姥切は決して無表情では無い。

だが普段は表情を変えると言っても飽くまで控え目な変化でしか無く、笑顔らしい笑顔は珍しい。先程の様な笑い方を見たのは今日が初めてでは無いだろうか。

「もっと笑って見せてくれ」

「……あんたは時々無理難題を押し付けて来るな」

笑うのは苦手だ。

そう言った山姥切に背を押されながら物置部屋を出る。

肩越しに振り返るもそこにあるのは感情が読めない顔だ。三日月は一目ですっかり気に入ってしまったのだが、どうやらあれはとても貴重な表情らしい。


修練場を出てからはやはり戻りも案内が必要だった。

一度歩いただけで覚えられる程この本丸は狭くも無く、単純な造りでも無い。

先導してくれる山姥切に甘えてばかりなのは忍びないが、一人で迷うよりも余程良いだろう。山姥切に遅れない様、少し急ぎ足で歩く内に周りは見慣れた景色へ変わり、溜息が出る。

「もっと国広と話をしていたいのに、戻らなければならないなぁ……」

この時刻ならば自室の前に昼餉の配膳が届いて居る筈だ。

山姥切を含む他の刀達は、厨のすぐ隣にある、卓が設置された広間で各々食事を取るのだと聞いた。三日月はと言えば献立自体は他と変わらないが広間には行かないよう言い付けられて居る為、自室で一人きりで食事を取る。

それが所謂『孤食』と呼ばれる物だと知ったのはいつだったか。


審神者が不在で三日月が自由に歩き回れる日くらいは周りも見て見ぬ振りをしてくれるだろう、とは山姥切の言であるが三日月は辞退した。

もしそうだとして、その事が原因で何が起こるか判らない。

三日月自身に咎めは無くとも恐らく別の所に不自由がかかる事になるだろう。

それは望むところでは無い。

「国広、今日の」

自室の方へ続く廊下と共有部屋が並ぶ廊下の分岐で山姥切を見やると、何やら難しい顔をしている。

「国広?」

「!」

背を屈めて覗き込むと山姥切がはっと肩を揺らし、それから少しばかり困った顔になった。何か言いたげに口を開く素振りはある物の、言い難いようだ。

山姥切が今日の午後も非番であるなら相手をして貰おうと予定を訊くつもりだったが、それを察したのかも知れない。

三日月が時間を持て余して居ても、山姥切も同じとは限らないのはしっかりと理解している。山姥切は面倒見が良い。会いに行けば極力相手をしてくれる。

だからと言って、三日月とて山姥切に迷惑をかけたい訳では無いのだ。

「三日月、昼の……」

「いいぞいいぞ、午後は何か予定があるのだろう?」

きっと自分が相手をしてくれとせがむのを断り難いのだろう。そう判断して笑いかけたが、三日月を見上げる山姥切の眉間には更に皺が寄ってしまった。


「どうした、そんな顔をして」

「……ない」

「ああ、時間がないのか。引き留めてすまんな」

「いや、違う。部屋に戻っても、ない」

あんたの昼餉は部屋の前には届いて居ない、そう言った山姥切は決してふざけて居るようには見えず、三日月は首を傾げる。

「今日は俺があんたの部屋に膳を運ぶ係だ」

三日月の食事は決められた時間に近侍代行が膳の上げ下げを行うが、近侍代行が出陣や遠征で不在の際は代わりの者を立てる決まりだ。

山姥切は昼前から三日月の相手をしているのだから運べる筈がない。


「それなら膳が届いている訳はないなぁ。では今日は俺が自分で取りに行こうか。国広も一緒に行くだろう?」

そうかそうかと頷いて、厨へ向け足を踏み出すと、袖を掴んで引き留められた。

「うん?」

「あんたは、広間へ行けない」

神妙な顔付きで山姥切が言う。

「ああ、だから厨にだけ寄って、いつもの膳に乗せて部屋に……」

「そんな事しなくていい」

袖を引いて三日月の進行方向を変えさせた山姥切にそのまま背を押される。

それは三日月の部屋の方でも無ければ、厨の方でも無く。

「先に行ってくれ、俺もすぐに行く」

先に、と言われても脈絡が無さ過ぎて行き先が思い付かない。

「どこへ行けばいい?」

「縁側だ」


早く行けと言わんばかりにぐいぐいと背を押して来るのがこれまた珍しく、三日月としてはもう少し楽しみたくはあるのだが。

急かされるからには余り煩わせる物でもないだろう。

わかったと頷いて歩き出す。

軽く後ろを振り返ると小走りで厨の方へ向かう山姥切の姿が見えた。


縁側と一口に言ってもこの本丸には数え切れないだけある。

だが背を押された方向を考えるに、山姥切が指したのは初めて逢った場所だろう。

三日月がのんびりと歩きながら小さな坪庭に面した縁側に出ると、午後の日差しが温かく迎えてくれた。あれから季節は変わったが、今日もここの日当たりは良好だ。


山姥切は何度となくこの場所に居た事がある。

探し歩いている内、他にも山姥切が好む場所を幾つか知った。

どこも静かな日溜まりで、独りきり何をしているのかと問えば「特に何もしていない」と言うから、単に日を浴びているのが好きなのだろう。

いつも目深に被っている布は、独りで居る間は肩から羽織るだけになっている。

もっとも、三日月の姿を見つけると素早く頭から被ってしまうのだが。

三日月は山姥切に気付かれるまでほんの少しの間、日に当たって輝く金色をこっそり眺めるのが好きだった。


「悪い、待たせた」

それから間もなくして予想通り三日月が居る縁側に姿を見せた山姥切は、風呂敷包みを袋のように腕に下げ、何やら筒状の物と小振りな湯呑みを二つ手にしている。

「ここは居心地がいいからなぁ。時間も忘れる」

両の手が塞がって居るのは不便だろうと三日月が手を差し出せば、湯呑みを一つ渡された。

「あんたの分だ」

三日月が自室で使用している湯呑みとは色も形も違うそれは、広間で皆が食事の際に使う共用の物だと言う。山姥切が定位置に腰を下ろすのを真似て隣に座り、何をするのか見守っていると山姥切の膝に乗せた風呂敷包みが開かれた。

中身は箱と手拭いだ。


「まずは手を拭け」

「ふむ」

言われるまま渡された物で手を拭う。

そうしている間に、山姥切は箱の蓋を開けようとして、一旦閉じた。

俯いたその表情は布で遮られて見えないが、恐らく正座した膝に乗せて収まりの良い大きさの箱をじっと見つめて居るのだろう。

「国広、開けるのではないのか?」

「開ける」

答えた山姥切が勢い良く蓋を開ける。現れたのは丸いとも四角いとも言い難い、幾つか並んだ白い塊、張り付いた黒い物。

「……?」

眺める内にそれが白米である事に気が付く。

黒い物は海苔だ。

「国広」

「……」

「これは何だ?」

箱を覗き込んでそう尋ねると、微かに呻く様な声が聞こえた。

「不格好で悪かったな……!」

口振りから察するに、箱を支える手が震えているのは怒りだろうか。

「す、すまん、俺の訊き方が悪かった。茶碗に盛られていない米を見たのは初めてだから、名前が判らないだけだ」

慌てて言い直すと山姥切が勢い良く顔を上げ、驚いた様な表情で三日月を見た。

余りにも見つめられるものだから三日月が首を傾げると、今度はその顔が段々と朱に染まる。どうやら怒らせた訳ではないらしいと胸を撫で下ろすも、気まずさが全面に浮かび上がった顔は再び伏せられてしまった。

「これは、」

山姥切が箱を三日月の方へ押し付ける様に寄越す。

「うん?」

「……握り飯……だ」

「にぎりめし」

「おにぎり、とも言う。つまり『握って塊にした米』だ」

ぶっきらぼうに答えた山姥切は自らの横に置いていた筒を手に取ると蓋を外し、三日月に先程渡した湯呑みを出せと言う。

言われるままに差し出すと、長い茶筒の様な物から湯気を立てて茶が注がれた。

「おお……! その筒は直接茶が出て来るのか」

「ただの水筒だ。さっき厨で淹れて来ただけで、勝手に茶が湧き出る訳じゃない」

「そうか。面白いなぁ、これはいつ使う?」

「長い遠征へ行く時だ……握り飯も出先で食べる」

山姥切は自分の湯呑みへも茶を注ぎ水筒を再び床へ戻す。

空いた両手を合わせて「いただきます」と呟く声に三日月も倣うが、如何せん握り飯は初めて見た。どうすれば良いのか判らない。

膝の上へ箱ごと移動して来たそれをじっと眺めて居ると、横から伸びて来た山姥切の手がその一つを取り出し徐にかじり付く。

「箸は使わないのか?」

口を動かしながら首を縦に振るのでこれはそうやって食べるらしい。

感心しながら山姥切の手元を真似て海苔の部分を持つ。手に取った物は歪な三角形の様に見えるが、箱に残っている物はまた違う形をしている。

やはり何とも表現し難いそれは、確かに『握って塊にした米』だなと思った。

「なぁ、これは不格好なのか?」

「ン……ッ!!」

ふと先程のやり取りを思い出し問いかけたところ、山姥切が盛大に咽せ込んだ。

「大丈夫か国広!?」

慌てて手に持った握り飯を一旦箱に戻し、二人の間に置かれていた茶を渡してやりながら背をさする。

何とか呼吸を落ち着かせた山姥切は大きく溜息を吐き、足を崩して座り直した。

「……他の奴が作る時は、もっと形が整ってる」

うなだれたままぼそりとそう言って、たった今飲み干した湯呑みに茶を注ぐ。

山姥切が顔を上げる回数が減っているのは気の所為では無いだろう。段々と布に埋もれて小さくなっている様にも思える。

「では、これは国広が握ったのか」

「そうだ」

「全部か」

「……。悪かったな……」

布の陰から睨み付けて来る山姥切はとても不機嫌そうだが、これも『怒っている』のとは違う顔だ。

「いや、いや。何が悪いものか。そうか、国広が」

「なんだ」

「いや」

大きく口を開けて再び持ち直した握り飯を頬張ると米と塩の味がする。

表面に塩が振ってあるらしい。

三日月は茶碗に盛られていない米を見るのも初めてなら冷めた米を食べるのも初めてで、真新しい食感を堪能していると米に混じった塩の塊が口の中でざり、と崩れた。

「塩が利いていてうまい」

「つけ過ぎただけだ。茶を飲め」

「そうなのか」

「もういいから黙って食ってくれ……」

誰かと共に食事をするのは初めてだが、口に物が入っている時に喋るのは行儀が悪いと言うのは知識としては知っている。塩気に偏りがある握り飯を一つ平らげた三日月が湯呑みを空にすると、山姥切が見計らった様にまた茶を注いだ。

「国広」

「なんだ」

「うまいぞ」

「お世辞はいい」

揃って二つ目に手を伸ばす。

愛想の無い受け答えをする山姥切は猫背気味にいじけた様子で顔を上げてくれない。

とはいえ、人目を避けて行動したり隠れる様に布を被っている割に普段はしっかり背筋を伸ばして居るのを三日月は知っているので、今日はなかなか珍しい物が見れて得をしている気分でもある。

「国広が作ってくれるなら俺は毎日これが食べたいなぁ」

いつも部屋で食べる様々な味がする料理より、ただ塩を振って海苔を張り付けただけの握り飯がとても美味しい。

「こんなもの」

「でも、そうはいかないだろう?」

これなら毎日だって食べたいと本当に思うけれど。

自分の食事の用意が当番制ではない事も、特定の誰かが作って居る訳ではない事も、三日月は正しく知っている。

「……ああ」

「だからな、余計にうまい」

それは紛れもなく本心で。


『山姥切国広』と言う刀の性分を思えば、謀として自ら方々に根回しをしてこの状況を作るとは考えられない。良くも悪くも、真っ直ぐで生真面目な刀だ。都合良く偶然が重なったからこそ、こうして気を回してくれたのであろう事は容易に想像が付く。

三日月が庭を眺めながら黙々と二つ目の握り飯を食べ始めると山姥切が漸く顔を上げた。俯くままに顔の前までずり落ちていた布は食事の邪魔になるようで、被る深さを直してから握り飯を頬張る。

並んで庭を眺め暫しの沈黙が続くけれど、それは決して居心地の悪いものでは無かった。

「……三日月が」

「うん?」

ぽつりと聞こえた声で横目に見るも、庭を見たままの山姥切と視線は合わない。

「そう、思うなら……良かった」

ぎこちなく呟いた声は消え入るように小さなもので、それでも布に隠れずにいる口元は満足げに弧を描く。

良かった、と。

口にした言葉はその場しのぎでは無いのだろう。


「三日月?」

知らず知らず見つめていた薄い唇が三日月を呼んで、山姥切がこちらに顔を向けた。

「どうかしたのか?」

「いや」

何でもない、そう言って笑いかければ不思議そうな顔をされる。布の陰、光に透ける髪の隙間、覗く碧。それがすぐ傍らに在る事が、無性に幸せだと思った。

「……やはり俺は毎日これが食べたい」

「駄目だ」

「そうか、駄目か」

「ああ」

「うん。そうだろうなぁ」

到底叶わない希望を口にする三日月が本気でない事は山姥切も判って居る様で、素気無い返事には苦笑が混じる。

「なぁ、国広」

目にかかる金糸の髪が瞬きに合わせて微かに揺れた。

次の言葉を促す視線は心地が良い。それは確かに相手が自分を捉えて居る物で、こちらの出方を待ってくれる物だから。

「はは、呼んでみただけだ」

「なんだそれ……」

何か話したい事があるような、ないような。

ただこうして隣に座って居るだけで良いような。


確か、今時期に日差しが暖かいこんな日を『小春日和』と呼ぶのであったか。

眺める坪庭の草木はもうすっかり秋の装いで、どこかで咲いた花の甘い香りがふわりと鼻先を掠めた。

十二.


本丸で過ごす一日の始まりは早く、終わりの幕引きも早い。

夕餉を取った後は各々就寝準備を済ませ翌日に備えて自室へと引き上げる。

中には遅くまで明かりが灯って居る部屋もあれど、夜戦の出陣や長時間遠征の戻り部隊でも無ければ夜分出歩く者は殆ど居ない。


山姥切は薄明かりの廊下から更に暗い厨へと足を踏み入れ、流し台にある小さな照明だけを点けた。

手荷物は昼に使った二人分の湯呑みと握り飯を詰めて居た弁当箱だ。

昼餉や夕餉の食器類に何食わぬ顔で混ぜて置けば今日の厨当番が洗ってくれただろうがそれは流石に気が引けて、結局自分で洗う事にした。


――何を、しているんだろうな。


早朝から何度目かの自問自答に小さく溜息を吐き、静かに蛇口を開く。

前夜、自室に戻ろうとして居た所で近侍代行呼び止められ、翌日昼の配膳役を引き受けた時点では何も考えて居なかった。

三日月の部屋へ食事を運ぶ事になるのは初めてだが難しい事でも無い。

昼になったら自分の食事の前に膳を用意して三日月の部屋まで運ぶ。

時間は決められて居るので声掛けは必要無く、小一時間後に再び行けば部屋の外に下げ物が出ている筈だと。三日月の部屋の場所は普段接する機会が無い者も含めて皆把握して居る。だからごく自然に頷いた。


予定が狂ったのは明け方だ。

山姥切はどちらかと言えば朝早い時間は苦手で、任務が与えられて居れば規則正しく寝起きするものの、非番であれば日が高くなるまで微睡んで居たいと思う。

起床時間が早い日は己を叱咤しながら何とか寝床から這い出すのが常で、毎日誰にも知られざる闘いがある。

それがどうした事か。

今日に限って珍しく明け方に目が覚めてしまった。

障子越しの自然光が不十分な部屋は青暗く、まだ厨当番の者でさえ起き出さないであろう時刻を察して目蓋を閉じる。けれど暫くそうしていても、一度浮上した意識が再び眠りの淵へ沈む事は無い。

寝付けず気疲れするより潔く起きた方が建設的だろうと、朝の身支度を済ませる為に洗面所へ向かった。


道すがら広間に近い廊下の壁に掲示された部隊編成や各当番ごとの一覧を見る。

ここで共に過ごす刀達の名を記した木札がかけられたそれは昨夜と変わらず、山姥切が今日配属されている部隊は昼過ぎからの遠征予定だ。

別部隊に近侍代行の名を見付け、配膳を頼まれた事に納得した。

丁度昼時は本丸を離れている。残る者の中で古参は限られ、昨夜は近侍代行と夕餉の席が近かった。それで目に付いた山姥切に白羽の矢が立ったのだろう。

誰にでも出来る仕事とはいえ、頼む相手はやはり古参の中から選んで居るらしい。


急遽の変更が発生していないか、自分の木札が就寝前と変わらない場所にあるか。いつもはそれだけを確認して通り過ぎる。

他に目を移したのは予定外の早起きに時間を持て余していた所為で。

何とは無しに掲示を眺める内、手合わせ枠と同じ名前が近侍代行率いる別部隊にもかかっている事に気が付いた。

出陣や遠征の予定と内番が重なるのは別段珍しい事でも無い。

手合わせに使う修練場が空いている時間は他の者が自主鍛錬で自由に使う事が出来る決まりになっている。

とは言え、今日の朝の内は進んで使いたがる面子も居ないだろうか。


――そう言えば。

ふと、思い出した。内番に興味津々な一振を。

掲示板の中で移動する事無く枚数が増える事も無い『三日月宗近』の木札は、ただ一枚だけ第一部隊の先頭に鎮座している。

きっと三日月なら喜んでやりたがるだろう。

手合わせだけではなく、他のどんな事も。主の前でこそ装飾品の様に大人しく控えて居るが、三日月はまるで幼子の様な好奇心の塊だ。

もっともそんな姿を知っているのは自分だけかと思えば、やはり三日月を気の毒だと思う気持ちがあるのは事実だった。決して見下したりするつもりは無いのだが。

何故か三日月に気に入られたらしい山姥切は、この本丸に於いて何の権限も無ければ重要な役割を担う訳でも無い。ただ長く居るだけの駒だ。

加えて大勢の中にあって立ち回りが器用な性分でも無いので、何か得手があるかと言えば戦に関わる事しか思い付かない。

三日月に対して出来る事は本人が望んで出向いて来た時にたわいの無い話し相手をする事と、三日月以外の刀達は皆知っている筈の三日月が知らない話を教えてやる事くらいだった。


再度、目の前に掲げられた木札を端から端まで見直す。

お誂え向き、とはまさにこの状況を表す言葉に思えた。今日であれば、恐らく。

誰にも気付かれないに越した事は無いけれど、例え誰かに気付かれたとしても黙認されるだろうと言う打算が頭を過ぎって行った。

本来有り得ない思考にひとり眉を寄せる。

その思い付きが山姥切に課された任務からもこの本丸に於ける日常の枠からも逸脱している事は明確で、軽率な独り善がりに思えた。


それでもきっと。

少しの間だけでも窮屈さの無い、他と変わらぬ日常が味わえたなら。三日月は差し出がましいとも余計な世話だとも言わず、喜んで嬉しいと笑うのだろう。


今日くらいは――。

ここまで都合良く偶然が重なる日は今まで無かった。

きっとこれから先にも無いだろう。

そうだ、今日だけだ。


決断してからの行動は早かった。


当初の目的地である洗面所で用を済ませ、自室へ戻らずそのまま厨へ向かう。

こんな時間なら誰とも会う事は無いだろうと予想は付くが、それでもいつも以上に足音を立てないよう慎重になってしまうのは、微かに湧いた罪悪感からか。

大所帯なこの本丸では一度に用意しなければならない食事の量が多い為、時間がかかる物は前倒しで作り置きする習慣があり、米もその中の一つだ。

正確に言えば一日で一番慌ただしい朝餉に合わせ朝早くに炊き上がるよう夜の内に用意をするらしいが。率先して厨を回しているのは料理好きな者達で、山姥切はごく偶に回って来る手伝い当番の日でも無ければ厨には足を踏み入れないので、詳しい事は判らない。

厨に来たからと言って自分一人で何か特別な物が作れる訳でも無く、戸棚や流し周りを探りながら用意したのは米と塩、それから海苔だ。

手伝いで教わった事を思い出しながら米を握って、塩を振り、海苔を張り付ける。

見栄えを良くしようとしても力加減がよく判らないまま不思議な形が出来上がって行く。誰かが作ってくれた握り飯を遠征の出先で食べる時はもっと綺麗な形をしていた筈だが、自分で握ると形が悪い。


しかしこれは今に始まった事でもなく、不器用さに自覚がある山姥切は「崩れなければいい」と割り切った。塊にするだけなら簡単だ。

出来る事なら具を入れてやりたかったが、それも諦めた。


三日月は『外』の話を聞きたがる。

他の者が何度も行った事がある様な合戦場や遠征も、三日月にとっては未知の場所が多いからだ。

余りにも『外』に興味を示すので、遠征先から何か土産に持ち帰ってやろうかと考えた事もあるけれど、山姥切はそれをしなかった。例え小さな木の実でも、花の一輪でも、何がその後の歴史に干渉する事になるか判らない。

三日月と話すようになってからは何か土産話になる珍しい物が無いかと、以前より視線を巡らせるようになった程度だ。そうしてみると何度も訪れた場所でも些細な発見があるものだと気が付いたのは意外だった。

そんな事を考える間に手が止まりそうになっていたのに気が付き、山姥切は残りの米も手早く握って用意した仕切のない弁当箱の中に詰める。

唯でさえ上手く形が作れない握り飯は急げば更に不格好になってしまうが、のんびりと物思いに耽る時間は無い。

普段進んで厨に立つ訳でも無い自分が一人でこの場に居るだけでも不自然なのだ。

しかもこんなに朝早く。誰かに見つかってしまえば誤魔化せる自信は全く無い。

もし誰かに話して難色を示されてしまえば、折角の思い付きが全て台無しになってしまう。


少しだけ。そう、少しだけで良い。

三日月が普段出来ない事、食べられない物を。

これは『普通』を用意する為の『特別』だ。


本丸の中で食事を取る時は皆、茶碗に米を盛って食べる。三日月の部屋へ運ぶ食事もそれは変わらないと説明を受けた。

山姥切ですら長時間遠征の時にしか口にしない握り飯は三日月が口にした事の無い料理だろう。果たして握り飯が料理と呼ぶに価するか否かはさておき。

目分量で用意した米は少し多かった。

二人で食べる事を想定した容器に入り切らない分が一つ二つ。それは朝の内に部屋で食べてしまう事にして、手近にあった皿に乗せる。

誰が訝しむかも判らない弁当箱を昼まで厨に放置する訳にも行かず、これは部屋に隠しておく事にした。

食事時になれば、ただ一振を除いて誰が厨に出入りするのも可笑しくはない状況になる。だから飲み物は昼になってから用意すれば良い。


勝手に出して使った物を何事もなかったかの様に元通りにする。

自室に戻る準備をしながら、ふと。何をしているんだろう、と。

こんな事をして何がどうなると言うのだろう。

自分がしたいと、してやりたいと、そう思ったからするだけだ。

きっと三日月はいつも以上の笑顔を見せる筈だから。


けれど、もし――三日月が困惑の表情を浮かべたら。


これが本当に、三日月にとって良い事なのかと、考えるほどに判らなくなりそうで深く考えるのは止めにした。

ただ自然に、誰にも気付かれない様に、上手くやれば良い。人目を避けるのが得意な自分がいつも通りに行動すれば、三日月を伴っていてもきっと。

そう自分に言い聞かせ厨を後にする。

誰とも顔を合わせる事無く自室へ戻り襖を閉めるまで、生きた心地がしなかった。


斯くして、山姥切の謀は完遂し、無事その日の夜を迎えたのだ。

本当に、自分は何をしているのか。

洗剤の白い泡が特別目立ちもしない汚れと共に排水口へ流れて行くのを眺める。

静まり返った夜の厨では朝以上に水音が響く気がして、蛇口から細く落ちる水が跳ねない様にゆっくりと洗った物を濯ぐ。


三日月は修練場の場所も知らなかった。

あそこは本丸の中でも離れの様な扱いであるから、手合わせに当たりでもしない限り知らなくても不思議では無いかも知れないが。

木刀を見るのも触るのも初めてで、随分まごついて居た。山姥切も初めて屋内で手合わせを行った時に多少戸惑った記憶はあるが、三日月ほどでは無かったと思う。

手合わせは、楽しかった。純粋に。

山姥切は手を抜かなかったのではなく抜けなかったのだ。もし油断していれば、恐らく自分が提示した勝利条件の差に足許を掬われて居ただろう。


『三日月宗近』は良い刀だと思った。

刀剣男士として、天下五剣として、申し分なく。やはり彼はその名に恥じぬ立派な名刀なのだ。ただ、彼を所有する者の意向の元でくすぶって居る。

ここではそれが彼の在り方だけれど。

山姥切は勝ちを譲らなかったが、三日月は笑っていた。晴れやかに、愉しげに。

その感覚は山姥切にも判る。

自らの持てる力全てを悔いなく出し切った後の心地良さだ。


「何日分も身体を動かした気がする」と三日月が言ったそれは山姥切からすれば大袈裟だが、戦場における三日月の不自由さを思えば決して誇張された表現では無い。

『三日月宗近』はここでは本来戦わない刀、飾られるだけの刀だ。

例え本人の希望で出陣しようと護られる立場であれば当然の事で。

今日ほど都合良く状況が整う事は先ず無いだろうと思う。気が付いたのもただの偶然だった。だから――『また今度』は、恐らく果たされない。


三日月がそれを口にした時、山姥切は逡巡した。

果たせないだろうと予想出来る事に対して、安易に頷くのが正しい事なのか。

例えそれが口約束であっても。咄嗟には判らなかった。

無理だと言わなければならない様にも思えて。

けれど三日月がこの場所で己の願いが全ては叶わない事を充分知った上でそれを口にしたのは判る。三日月は、頷いて欲しいのだろうと思った。

ただの気休めの口約束が、そんなたわいのない物が、欲しかったのだ。きっと。


濯ぎ終わった物をしっかり拭いて、食器棚へ。

そうすれば何事も無かった様に。

ふと身動きを止めて耳を澄ますも、誰かが厨へ近付いて来る気配は無い。緊張感で強張っていた肩を下ろして、小さく息を吐いた。


――よかった。


形も悪くて塩加減も下手くそな握り飯は、作った山姥切自身が口にしてお世辞にも褒められた物では無い出来だった。不味いと言う程では無かったが、少なくとも自分が今まで食べた握り飯の中では下から数えた方が早い。

予想通り三日月は握り飯を食べるのが初めてだと言っていたから、悪いことをした。

何度も何度も「うまい」と口にした三日月がどこまで本気だったのか知る由も無いのだが、毎日食べていたら飽きるに決まっているし、きっと身体にだって悪い。

あんなもの、と思うけれど。

朝一人で食べた時より昼に二人で食べた時の方が美味かった気がするのは、三日月が本当に美味そうに食べていた所為だ。


遠征から戻った後、夕餉の席で近侍代行と顔を合わせたが昼餉の配膳に関して探られる事はなかった。

屈託ない礼の言葉に僅か口ごもってしまったのは後ろめたさからで。

山姥切が日常的な会話を得意としていない事を知っている相手だからこそ、気にも留めなかっただろうが。

三日月と向き合っている時には不思議と忘れられて居たけれど、一人で居る間は朝からずっと気が気でなかった。自分が良かれと思って取った行動で三日月に何らかの心苦しさや不利益があったなら、どう謝罪すれば良いのか判らない。

慣れない事はするものではないなと一人ごちて小さな明かりを消した。

物音を立てない様に暗くなった厨を出て、部屋へ戻る途中で朝も眺めた掲示板の前に立つ。そこには翌日の為の、今朝とは違う順序で刀達の名前が列んでいるが、やはり今日の様な都合の良い配置では無い。しかし、これが当然なのだ。


相も変わらず定位置に鎮座する『三日月宗近』と別の部隊にかけられた『山姥切国広』と、それから明日の手合わせに当たっている刀達の木札。

それぞれ外して三日月と自分の木札を手合わせの枠に並べてみると、どう見ても不釣り合いに見える上に三日月の名前がこんな所にあるのが不自然極まりない。


何とは無しに笑いが込み上げる。

ただそれは胸に翳りが差す自嘲とは違う、どこか温かい物だった。

「何をしてるんだろうな……俺は」

かけ替えた木札を元の位置に戻す。これでいつも通りだ。

改めて耳を澄まし視線を巡らせるが辺りには物音も人影も無い。

自室へ向かう足取りは、心なしか軽かった。




十三.


庭木が何やら白い綿の様な物を被っている。

――それが初めて雪を見た時の感想だった。


三日月が顕現したのは晩秋だ。

自室として与えられた部屋から見える紅葉が見事であったのをよく覚えている。

とは言え、最初の秋も冬も、余り記憶には残っていない。それは三日月の記憶力に関わる問題では無く、取り立てて印象に残る出来事が無かっただけ、と言う意味で。


顕現したばかりの頃は、審神者に随伴する以外は自室に居た。

そうしたかった訳でも無いが、そうしたくなかった訳でも無い。

そうしろと言われたままに籠もって居られたのは、大半の物事に興味を持たず過ごして居たからだろう。


平穏過ぎる日常に飽きた事から審神者を言いくるめ、偶に出陣する機会を得てからも、一人の時間を自室で過ごすのは変わらなかった。

色々な物に目を向ける様になったのは会話も出来ない小さな赤色と出逢ったのが切欠で。『外』への興味が広がったのは、恐らくそれを取り上げられた反発心からだ。


ほんの少し思考の転換を、視線の方向を変えた。それだけの事だ。

しかしそのお陰で、今はすっかり毎日の些細な出来事や季節の移り変わりが楽しくなってしまった。

それが審神者にとって決して歓迎する様な事で無いのは判っているので、三日月は口を噤む。求められる在り方のままに。


夕餉の喧騒はとうに過ぎ、静まり返った廊下を一人歩く。

本来は三日月も既に床についている時刻であるが、就寝準備を済ませてから部屋を出たのはただの気紛れだ。

心許ない薄明かりの中をゆっくりと、中庭を横断する渡り廊下まで行けば硝子戸の外から射し込む月の光で随分と明るく見えた。正午を過ぎて降り始めた雪は庭一面を白く染め、止んだ後は見事な星空が広がっている。

浮かぶ月はふくらかに丸く冴えていた。

雪の白さは日の光を反射するのだと以前読んだ書物にあったけれど、それは月の光も同じらしい。


大きな音を立てないよう注意を払いながら硝子戸を開ける。

途端に流れ込んで来る冷え切った空気に身を震わせて吐いた息は白くなった。

雪の無い季節であればそのまま庭へ出られる大きな硝子戸からは、すぐ近くの庭木に積もった雪に届く。

手を伸ばして一掬い掴んだ雪を強く握れば、そのままの形に固まりながら溶けて水に変わる。それは当たり前の事だ。

もっとも、そんな当たり前の事すら顕現したばかりの頃は知らず、気にも留めて居なかったのだけれど。

掌に溜まった水を払ってまた雪に手を伸ばし、今度は多めに掬って握る。

雪玉と言うのを作ろうと思い立ったのだが、知識としては知っていても自分で作ってみると素直に玉とは呼べない気がした。

素直に丸いとも四角いとも言い難い白い塊。見覚えがあるような、無いような気がするそれを手に乗せて居る内にふと、既視感の正体に思い至り口元が緩む。


――いつぞや国広が作ってくれた握り飯だ。


そうだ。確かこんな形をしていた。

あの後、本来どんな形なのか興味が湧いて調べたのは山姥切が『不格好』だと言った所為だ。

三日月は握り飯を見るのが初めてであったし、当の山姥切もそのつもりで用意したのだろうに。

言われなければ三日月は「握り飯とはそう言う形なのか」と納得した筈で。

全く墓穴を掘った物だなあと思いながら。


絵図が載っている書物を見ると幾つか種類はある様だが、どれにも当てはまらず歪なあの握り飯は確かに『不格好』だった。けれど、三日月にとってあれは初めて食べた、普段は絶対に口に出来ない、所謂ご馳走だ。

塩をつけ過ぎた、とも言っていたが茶を飲みながら食べるには丁度良かったと思う。

だから、時折思い出した様に「握り飯が食べたい」と言ってみるのだが、山姥切は作ってくれる気配が無い。寂しい限りだ。

自分は普段厨に出入りしないからもう作れない、山姥切はそう言い張るがその実、三日月の行動が周りの目に付かない様に気遣って居るのは判るので無理強いも出来ない所だけれど。


雪玉を乗せたままの手指が冷えて少し痛みを覚え始めた時、ふと気配を感じた。

手元ばかり眺めて居た視線を上げ薄暗い廊下を見るが人影は無い。

気の所為だったかと首を傾げて居ると僅かに床板の軋む音がする。

「誰だ?」

投げかけた声は静まり返る廊下に消えて、応える者は居ないかと思われたが。


「……なんだ、国広か」

太い柱の陰から声もなくおずおずと姿を現したのは見知った白布、山姥切だった。

「俺で悪かったな」

「いや、お前でよかった」

他に見付かったら叱られていたかも知れない。

そう言って手に乗せたままの雪玉を見せると山姥切は側へ歩み寄って覗き込み、訝しげな顔をする。

「何してるんだ、あんた」

「雪遊びだ」

手を伸ばしてまた雪を掬い、溶けて一回り小さくなった雪玉に被せて握るとさっきより少し玉らしくなった気がした。

月が明るいお陰で、三日月の手にある雪玉を眺め何度となく瞬きをする山姥切の様子がよく見える。

「今ちょうど、国広の事を考えていた」

どうしてと言いたげに眉を寄せる顔がどこか幼げで、何だか楽しくなってしまうのは本人には伝えない方が良いのだろう。

「雪玉を握っていたらな、国広が作ってくれた握りめ……」

その瞬間雪玉は三日月の手から消え、慌てて視線を上げると放物線を描いて庭の雪の中へ落ちて行くのが見えた。

「……」


放り投げたのは当然、山姥切だ。


「ひどい事をする」

「そんな物思い出すな」

不機嫌そうな声で顔を反らしたのが照れ隠しなのは、判るようになってしまった。

もう三日月はこの程度で動じない。

少し前なら怒らせてしまったかと慌てる所だが。

「まあ、雪は沢山ある。国広も一緒に作るか」

「何時だと思ってる……もう雪遊びはお終いだ」

また外へ手を伸ばそうとした三日月の袖を引いて前に割り込んだ山姥切が、硝子戸を閉めた。そのまま鍵まで閉めて立ち塞がられては名残惜しく眺めるしか無い。


「残念だなぁ」

「なんだってこんな時間に、こんな所にいる」

呆れ混じりな視線を向けた山姥切に両手を一纏めに握られると、焼け痕が付いた様な気がした。

「国広、今日は随分手が熱いな」

「あんたの手が冷え切ってるだけだ」

痛みを感じるほど手を冷やしたのは初めてなので判らなかったが、そう言うものらしい。じわりじわりと馴染む体温で指先の感覚が戻るのは雪が溶けて水に変わるのに似ている気がする。

「雪に触りたくなってなぁ」

三日月の部屋は四季を通して庭がよく見えるので、雪景色を楽しむだけならそれで構わないのだが。

「部屋の窓からは手を伸ばしても届かなかった」

理由を付けるならなんとなく、だ。

さして強くもない力で握られていた両手を解かせて、反対に山姥切の手を握り返そうとしたが、予想通りと言おうかその手はするりと逃げて行った。

「せめて昼間にしてくれ、夜は余計に冷える。あんたが風邪を引いたら審神者が大騒ぎだ」

「それは困る」

今より不自由には戻りたくない。

それは紛れもなく本心だ。


「通りかかったら一人でこんな所にいるから何かと思えば……」

溜息を吐いた山姥切を改めてよく見ると、いつも通りな布の下は三日月と似た寝間着用の浴衣を身に付けていた。

とは言え、三日月の様に羽織りではなく厚みの無い布を一枚被っただけでは山姥切の方が余程寒そうに見えるのだが。白っぽい月明かりの中で心なしか山姥切の頬が赤らんで見えて、先程触れていた指先の熱さを思い出す。

「お前こそ、何をしていた?」

頬に伸ばした手は触れる前に柔らかく押し戻された。

「湯浴みから戻る途中だった」

「この時間にか?」

「俺は皆と時間をずらしているから、いつも通りだ」

寒さの所為ではない様に見えたのは湯に浸かって居たからと言う訳か。

「国広、手をこうしてくれ」

「手がどうかしたのか」

三日月が掌を見せた両手を軽く広げると素直に同じ様な格好をする山姥切は、少しばかり警戒心が足りないのでは無いだろうか――そう思いながら、遠慮なく正面から抱き付いた。

「な……っ!なんだ!?」

「ははは、思った通りだ。ぬくいなぁ」

一拍遅れて身動ぐ山姥切を腕の中に押さえ込むと自分で感じて居たよりも身体は冷えて居たようで、その温かさが心地良い。

「三日月」

咎める色を滲ませた声が聞こえる。

その割に本気で逃げ出そうとしないのは、きっと優しさだろう。かと言って抱き返してくれる筈もなく、行き場を失った山姥切の腕は間もなく降ろされた。

三日月の好きにさせてくれる事に気を良くして頭を擦り寄せれば確かに湯上がりの香りがする。

「んー……これは温かくていい。部屋に持ち帰りたくなる」

「俺は湯たんぽじゃない」

「湯たんぽにしては大きいか」

上背こそ三日月の方が勝ってはいる物の山姥切も決して華奢とは言えない。細身でこそあれど、いつぞやの手合わせで見せた機動を支えるだけの確かな体躯を持つ事は知っている。だが腕の中に収めてみると思いの外具合が良く、暖を取る目的でなくとも離し難くなってしまったのは事実だ。


本当は、嫌がる様ならすぐにでも止めるつもりでいた。

けれど頭を擦り寄せても軽く凭れかかる様にしても、三日月の身体が冷えている事を気遣ってなのか山姥切は大人しくなすがままで支えてくれるものだから。

最初の頃と比べて随分と気を許してくれているのを改めて感じて、くすぐったい気持ちになる。

「さっきは何故隠れていた?」

温もりを堪能しながら何とはなしに問いかけると、微かに肩が揺れた。

「考え事でも、しているのかと」

この時間に誰かに会うだけでも珍しい。

それが三日月であったから余計にそう思ったのだと続けて、山姥切は溜息を吐く。

「遊んでいるだけだったとはな……」

「考え事ならしていたぞ」

「……そうか」

何を考えて居たのか、とは訊ねられない。

それは遠慮の様でもあり、ただ興味が無い様にも思える。

三日月は訊ねられる事を少しばかり期待していたが、面倒見も察しも良い山姥切の事だ。訊くまでもなく予想が付いて居るのかも知れない。


もう少し、何か話がしたい。そう思うのは確かだけれど、どうにも上手く言葉が見付からない。代わりに抱き付く腕に力を入れると遠慮がちに服を引かれた。

「そろそろ離してくれ……ここに居たら揃って風邪を引く。寒いなら部屋に戻れ」

「……そうだなぁ」

確かに、言われてみればそうだ。いつまでもここに居る訳にもいかない。

軽く押されるまま身体を離す。触れ合って居た部分はゆっくりと距離が開くほど温もりが薄れて、殊更寒さが沁みた。

背から腕それから手の方へ、少しでも触れて居たくて未練がましく手を滑らせる。

辿り着いた指先を摘まむと山姥切は困った様な顔をして、それが少し寂しいのは我が儘と言うものだろうか。どんな顔をして欲しかったのかは自分でも判らない。

「三日月……?」

戸惑いが色濃い視線と声に、指先を離す。

その途端にまた寒さが増した気がした。

「なぁ国広。これは一体なんだろう」

喉にも胸にもつかえている物がある様で、微かに息苦しさを感じる。

「普段は何ともない、が……時々痛む」

そう、痛むのは時々だ。

三日月が手を当てた自らの胸元をさするのを見て、山姥切は眉を顰めた。

「人の身体は気付かない内に病が進む事も多い。気になるなら審神者に言え」

「心の臓や肺とはまた場所が違う気がする。病の類では無いだろうなぁ」

「楽観的だな……」

「お前はこういう痛みを知らないか? 俺は、国広の傍に居たり、国広の事を考えると、時々こういう風になる」

三日月にとって山姥切と過ごす時間は他と代え難い心安らぐ大切な物で、温かくて幸せな気持ちになる。それと共にやって来る胸の痛みや息苦しさは、不思議と嫌な物では無い。しかし原因も理由も判らないもどかしさはいつでも微かな蟠りを残すのだ。

「……俺はそういう物の名前は知らない。でも」

山姥切は視線を落とし、口を閉じた。

先程離れた指先を握り込む手は次の言葉を探している様に見える。


「その痛みなら、判る」


暫しの沈黙を置いて絞り出された声は、あからさまに震えて揺れた。

山姥切はいつも落ち着いた話し方をする。

だから、そんな声色は初めて耳にする物で。

「……そうか」

疑問に答えは出ない。

けれど、山姥切が同じ様な物を抱えて居るのなら、それも悪くはないと思えた。

三日月が問う大抵の事に山姥切は答えをくれる。

三日月の知らない事を山姥切は何でも知っているのだと、そう思っていた。どちらも揃って知っているのに知らない、そんな事は初めてでは無いだろうか。

「国広は、俺より物を知っているのになぁ」

「俺にだって知らない物くらいある」

責めたつもりも無いのだが、山姥切は拗ねた様な表情で見返して来る物だから。

また少し、胸が苦しくなる。

それは何故なのか、山姥切を前にして考えてみてもやはり答えは出ない。


でも、それで良いと思える。

少なくとも、今は。

数日が過ぎ、三日月宗近が率いる第一部隊の再編成が行われた。


三日月を含めた部隊全体の練度調整が目的のそれは

審神者以外の意図や思惑が混じる事もなく通常通りに。

本丸に属する戦力として、刀種・練度を考慮すれば

そこに山姥切国広の名前が挙がったのは順当であり、疑問を抱く者は居ない。



山姥切国広が三日月宗近の部隊に加わり、初めて共に出陣した日。

第一部隊『全員が』軽傷以上の傷を負って帰城した。

十四.


その夜、三日月宗近は不機嫌であった。

気を抜くと眉間に皺が寄る、口角が下がる。あからさまに自覚出来るそれが表に出そうになるのを、張り付けた笑顔で必死に誤魔化して居た。

もうすっかりと板に付いた筈の愛想笑いを浮かべて居るのが苦痛に感じる程に。

三日月宗近は不機嫌だ。


審神者が床に就く前の晩酌に三日月の部屋を訪れるのは、今に始まった事では無い。

何しろこの部屋は三日月が一番始めに所望した『本丸の中で一等庭が綺麗に見える部屋』なのだから、ご自慢の庭を眺める為に本丸の主が訪れたとて何の不思議も無いだろう。


三日月を側に置き、酌をさせて管を巻く。

内容は自慢話から他本丸の揶揄であったり取り留めの無い不平不満であったりと多岐に及んだが、三日月にとっては興味も湧かなければ記憶に留めて置かなくてもさして問題が無い事柄ばかりと来ている。

ただ適当に相槌を打ち、差し出された盃に酒を注ぐ。

それがこの場に於ける三日月の役割だ。


審神者は人一倍酒を好む性質ではあれど、深酒で前後不覚になる性質でもなく、三日月の部屋で寝入る様な事は無い。

時折同意を求められる事がある程度で、その時は一言肯定の言葉を返してやれば良いだけ。あとは一方的に話し、気が済めば帰って行くのだ。

今夜もそんな時間を退屈に過ごして居る。


いつもなら、三日月は三日月で審神者が話す内容とはまるで別の事を、楽しい事を考えて適当に時間を潰せるのだが。

ぐるぐると頭の中を回る不機嫌の元がどうにも消えてくれない。

今は主の与太話に付き合っては居られないのだと、言ってしまいたい気持ちを押さえ込んで相槌を打つ。


早くお開きにならないものか。

どうせならもう少し心惹かれる話をしてくれれば良いものを。


そうは思うが、恐らく審神者がどんな話をした所で今の三日月が気を逸らす事は無いのだろう、とも。

三日月の頭を占めるのは山姥切の事であったが故に、それ以上の優先的事項は思い付かなかった。


昼間の出陣の際、初めて合戦場で傷を負った。

程度で言えば中傷だろうと思う。

と言うのも、三日月は自分自身で負傷の加減すらも判らないので、恐らくそうであろう、と思っただけで実際のところは判らない。

日常的に大小問わず怪我をする事も無い身には痛み以上に驚きが勝ったけれど、三日月は「戦に出たい」と望んだ時点で、自身が戦う為に存在する刀剣男士だと言う心構えも覚悟もある。

それは三日月にとっては名誉の負傷とも言えた。しかし『三日月宗近』を守れと主命を与えられた周りはそうは思わない。当然、審神者も。

そんな事は判っていた。


三日月の不機嫌の元は、山姥切に怒鳴りつけられた事だ。

状況的に考えれば叱りつけられた、と言うのが正しいのかも知れないが。

三日月の胸倉を掴み、噛み付かんばかりの勢いで。どうして前に出た、声を荒らげた山姥切は三日月よりも負傷が軽いにも関わらず辛そうに見えたのが気懸かりだった。

帰城したのち三日月は即時手入れを受け、顔や腕、身体の傷は直ぐに消えたが、手入れ部屋を出た後は自室に居るよう言い付けられて今に至る。


何かあれば部屋の外に控えた者に言え。


それは実質軟禁であり、夜になって審神者が部屋を訪れるまでの見張りでもあった。

だから三日月は己の部隊に属して居た者達がどうなったのかを知らない。山姥切があの後どうしているのかも。自分で様子を見に行く事も出来ず、ただ手を拱いて居る。


三日月に対し審神者からの咎めは何も無かった。

審神者は現地に居らずとも通信端末を以て刀剣男士の状態を把握して居るのだから、三日月の負傷を隠す事は不可能で、流石に今回ばかりは小言の一つや二つを覚悟して居たにも関わらず。

三日月が愛護の対象だからと言う理由では無い。この本丸の審神者にとって刀剣男士は物である。むしろ『三日月宗近』を〝物〟として扱うからこそ、それが傷付いたり汚れたりする事は厭うがそれに対しての責は問わない。

咎を被るのは、別の〝物〟だ。

不意に審神者の手が無遠慮に三日月の頬に触れた。


ああ、忌々しい――。


そう吐き出された声は苛立ちを含み、傷が消えた皮膚を何度も撫でる。

手入れを受ければ元通りになる器だと知っているだろうに。傷残りがない事を執拗に確かめる手付きが三日月の抱えた苛立ちを嫌悪感へ変えて行く。


審神者が執着するのは衣服から露出した顔や袖を捲れば見られる腕であり、帯を解いて身体を見せろと言われないだけまだ良いのかも知れないけれど。

普段はなすがままで居られる物も虫の居所が悪い今は耐え難い。

「傷など残らないことは知っているだろう」

そう言い添えて緩く押しやると審神者は別段気にした様子も無く手を引き、再び盃を差し出す。それに酒を注ぎながら、昼間の出陣についての愚痴が始まった事に三日月は内心溜息を吐いた。


部隊長と言う名目である三日月は他と比べて練度も低く経験も浅い。

その為、部隊の中で一番その合戦場に慣れた者が三日月の補佐役に就き陣頭指揮を執り、次に戦歴を誇る者は殿を務める。

ここで言う〝殿〟は本来とは多少差異がある。

第一部隊に於けるそれは所謂『三日月宗近』直属の護衛役だ。

皆『三日月宗近』を守る盾ではあるが、その中でも常に三日月の傍らにあって戦う事よりも守る事に注力する役目を担う。


今日の出陣で殿を務めたのは山姥切だった。

初めて共に合戦場へ赴けるだけでなく、戦う姿を間近で見られるとあって、新たな部隊編成を知った三日月は喜んだ。

無論、それを審神者や他の誰かに伝える様な真似はしなかったけれど。

編成が変わると聞いてから出陣の前に山姥切と話せる時間も無く当日を迎えたが、浮き足立って居るのは顔を合わせて直ぐに見抜かれたらしい。側に来た山姥切に小声で「集中しろ」と言われてそこまで分かり易かったかと気を引き締めた。


向かった先は出陣回数が極端に少ない三日月ですらもう何度も訪れた、敵陣営からの干渉が少ない時代である。

本来負傷者など出る筈が無く、部隊編成にも問題は無かった。

何故第一部隊が全員傷を負う事になったのか。

端的に言えば、それは想定外の出来事が重なってしまっただけの偶然でしかない。


合戦場となる各時代の主要な戦は従来の史実で記録された物とは部分的に異なる。

過去への干渉から生じる歪みが戦況や天候にまで影響を及ぼす為、同じ時代の合戦場への出陣でも以前と全く同じ状況が揃う事はほぼ無い。

『歴史を守る』――そう一言で表せど、現状は歴史修正主義者が先手である。

改竄の手が伸びる前の根本を叩く事が難しい以上、綻びを探し出しては繕う様な戦い方しか手立てが無いとも言えた。

生じた歪みを拡げない為に時間遡行軍の進行を食い止め「より史実に近い形」に事態を収束させるのが、刀剣男士の使命だ。



とある時代の、とある日。

本来は晴天である筈の合戦場では雨が降って居た。

だが三日月を含む全員が悪天候での戦は経験済みであり、多少の不自由さはあれど直ぐに帰城を考える程の異常では無い。想定外だったのは合戦場を進む内、幾度めかの戦闘で見たことも無い編成の敵部隊が現れた事だ。

時代毎に現れる敵の編成情報は各本丸の交戦記録を元に政府の管理下で集約・整理が行われ更新される。負け戦を厭う審神者はそれを元に、より確実な部隊編成を行うのが常で、特に三日月の率いる部隊の出陣先には注意を払って居た。


故に、その時遭遇した敵部隊は『想定外』としか言い様が無い。

槍と薙刀。

それらは三日月が出陣を許された時代には現れる筈のない刀種である。

理由は単純明解に『三日月宗近』が攻撃を受けた際に、刀装の壁だけで防ぎ切れるか否か。

幾ら三日月以外を高練度の刀で固めた所で万が一の場合がある事を考えられぬ程彼らの主は愚かでは無く、経験不足でも無い。

遠方から通常遭遇する筈の無い敵部隊を確認したのであれば交戦を避け直ちに帰城するべきだったろう。

しかし、状況がそれを許さなかった。戦闘終了直前――言わば敵の増援として別部隊が現れ連戦へと雪崩れ込んでしまった所為で。

こちらが陣形を整え直す間も無く始まった戦いは形勢不利、加えて向こうには刀装の壁だけでは攻撃を防ぎ切れない刀種が含まれている。

厄介だな――傍らの山姥切が零した一言で三日月は状況の悪さを把握した。


三日月を除く五振は全ての刀種と、数え切れないほど交戦経験がある。

但しそれは各々が自由に戦える状況に限った話だ。

『三日月宗近』を守れ。一つ足りとも傷を付けさせるな。

つまり、三日月をまともに戦わせるなと言うその主命は少なからず彼らの枷になる。

再度「あんたは自分の身だけを守れ」と言い含めた山姥切はそれまでと同じ様に、三日月を背に庇う形で敵と対峙した。


あの役立たずめ――。


忌々しげな審神者の呟きが耳を打った。

昼間の事を反芻して居た三日月は弾かれる様にそちらを見たが、審神者は盃で揺れる水面に視線を落としたまま続ける。


主人の愛刀である『三日月宗近』に傷を付けたばかりか、

しおらしさも見せず刃向かうなどと。身の程を弁えぬ紛い物が。


はっきりと聞こえたその言葉で、それが山姥切の事だと気が付いた。

気が付いてしまった。

山姥切は役立たずでは無い、と。

三日月が反射的に口を開きかけた瞬間、空になった盃が突き付けられ、喉元までせり上がった言葉を飲み込んだ。

胸の内に溜まる不快感で息が詰まる。今にも溢れ出しそうな程に。


山姥切は与えられた主命に従って三日月を守り、文字通り盾となって戦って居た。

もしあの場で三日月が動かなくても山姥切であれば切り抜けられた。

結果、負傷は免れないとしても。

『三日月宗近』が傷を負ったのは自身の判断と行動の結果であり、山姥切の落ち度では無い。そう言いたかった。

けれど――ここで三日月が山姥切を庇い立てすれば山姥切がどうなるのか。

三日月には予想すら出来ず、ただ審神者に気付かれぬ様にと唇を引き結ぶ。

例え三日月が審神者の把握していない真実を語ったとしても耳を貸さないだろう。この男にとっては結果のみが全てであり酌量がある筈も無い。


折れてしまえば腹の虫も治まるかと思って足枷になるよう使えぬ刀を付けて

合戦場へ出したが、おめおめと戻ってみせた。全く厚かましい。


――今、主は何と言ったのか。


耳を疑った。

折れてしまえば、と。そう、言ったか。

血の気が引いた。背筋を悪寒が撫であげる。


手を強く握り声が震えない様にゆっくりと唇を開く。

「……あれはどうなった?」

ただの合いの手の様に、さして興味も無い様に。『三日月宗近』は他の物とは混じらない。詳しく話せと詰め寄りたい気持ちを押し殺し、続きを促してやる。

静かに一言だけ問うと、審神者は不機嫌を隠しもせずに鼻をならした。痛い目に遭わなければ判らんのだろう、と。


まだ『使える』のであれば刀解するのも惜しい。

そうは思ったが、手入れ部屋に放り込んでそれきりだ。

札を使ってやる気にもならん。


言い捨てて酒を煽り、嘲笑を浮かべる。

札、と聞いて直ぐに手伝い札と呼ばれる道具が思い当たらなかったのは、知識としてのそれが頭の片隅に追いやられていた所為だ。

出陣しても傷を負う事が無い三日月には『手入れ』自体が縁遠かった。

刀剣男士は元々、ただの人より何倍も傷の治りが早い。それは身体を造る物が霊力だからだ。本体は刀、身体は器。人の胎より産まれる人とは根源が異なる。

人型を得たと言えど、その血肉は人を模した霊力の塊でしか無い。

だからこそ人の身体では到底助からない様な傷を負ったとしても本丸に戻るまで本体さえ無事であれば再生が利く。

手入れ部屋とは、傷の手当ては元より負傷する事で失われた霊力の回復を促す為に用意された『場』であり、手伝い札は一時的に刀剣男士の回復力を高める為に審神者の意志の元で使用される道具だ。


三日月は帰城して何をする間も無く、審神者と共に出迎えた近侍代行によって手入れ部屋へ連行された。

審神者が自ら部隊を出迎える――この本丸では有り得ない異例の事態だ。

審神者は一言も声を発しなかったが、怒気を孕む表情から労いの為その場に現れたのでは無い事だけは誰もが直ぐに理解した。

初めて、それも掠り傷では済まない程の傷を負った三日月にすら声をかけず、一瞥もせずに擦れ違う審神者を横目に見て嫌な予感で胸が騒いだ。


一足先に屋内へと入った三日月は負傷したからと言って自力で歩けない程ではない身体を、支えられると言うよりは拘束される様に近侍代行と連れ立って歩く。

自分は後で構わない、他の者を先に手入れ部屋へ行かせてくれ、と三日月は言った。

無傷で帰城した者はいない。ならば、珍しく負傷した自分よりも、いつも傷を負ってばかりの仲間達を。そう言った。

恐らく、審神者よりも近侍代行の方がまともに話が通じると思ったからだ。

三日月の希望と近侍代行からの進言があれば、審神者も少しは聞く耳を持つのではないか。そう考えての事であったが、返答は『三日月宗近』だけを先に連れて行く様に命じられていると言うものだった。

三日月の手入れが済み次第、皆が順次手入れを受ける手筈になっていると言う。

気持ちは判るが今は従って欲しい。そう言った近侍代行は眉間に皺を寄せ、三日月に向かって頭を下げた。

同じく一部隊を任される者として気持ちは判る。その言葉に偽りは感じられず、この本丸に於ける主従の関係性に鑑みても、どうする事も出来ないと改めて悟った三日月は引き下がるより他に無かった。


三日月が初めて手入れ部屋へ足を踏み入れ、滞在したのは驚くほど短時間だ。

ほんの少し意識が途切れた覚えがある。

それは恐らく、最低限は必要な休養だったのだろう。

気が付いた時には身体のあちこちに出来ていた生傷は全て消え、霊力も体力も万全に回復していた。成程『手入れ』とはこう言うものかと感心した三日月はそれから自室に戻され、何をするでもなく、出来るでもなく。

仲間達が無事に手入れを終えたのか。

山姥切がどうしてあんなにも怒りを露わにしたのか。

他の者ならまだしも、山姥切は三日月が本当は皆と同じ様に戦いたがっているのを知っている。あの時も山姥切だけは普通に接してくれると思ったのに。何故。

そうやって取り留めなく昼間の事を考えていた。

だから、三日月は気付けなかったのだ。

審神者が三日月の手入れの際、札を使った事を。手入れさえ受ければほぼ一瞬で何事も無かった様に回復するのだと、思い込んでいた。


山姥切は三日月と共に帰城した時点で傷を負っていて、三日月の物より効力は劣るも御守りを持たされて居た筈だ。


――主は、なんと言った?


改めて先程の言葉を思い出す。頭の芯が冷える。

身体の感覚が麻痺して行く気がした。

鼓動が加速して耳にまで心音が響いて来る様な錯覚に襲われる。


『折れてしまえば』と、『合戦場へ出した』と。

負傷している山姥切から御守りを取り上げて出陣させたと言う事か。

足枷になるよう使えぬ刀を付けて。

つまり、仲間を守る為に山姥切が傷付かざるを得ない状況をわざわざ作ってまで。

審神者は山姥切が『刃向かった』とも言った。

だが三日月は知っている。あれは賢い刀だ。

三日月が負傷した事について責め立てられても、山姥切の所為では無いと判って居ても、甘んじて非難を受けるだろう。

決して考えなしに山姥切が審神者に楯突くとは思えない。

何か、審神者が山姥切の逆鱗に触れる様な事を言ったのだ。

そうでなければ説明が付かない。


合戦場で折れこそしなかったが、戻った時は見ものだった。

普段以上にみすぼらしい醜態を晒してまで人真似をする物の無様さよ。


そう言って男は嗤う。

固く握った拳の内側で、爪が掌に食い込んで行く。


「……手入れにかかる時間は、どれほどだった?」


自分がどんな表情をして居るのか、主が求める様に笑えて居るのか、三日月にはもう判らなかった。

そんなものは見ていない。あれはただの打刀だ。代わりも利く。

明日になれば元に戻るだろう。


何の慈悲も無く、気遣いも無く、男はそう言った。

それはこの本丸にいる『物』達への見せしめであったのか、腹癒せであったのか。

到底理解出来ず、理解しようとも思えなかった。

判る事は、三日月の大切な物がまたひとつ、三日月が預かり知らぬ内に、失われる所だったと言う事だ。今回は辛うじてそうならなかった、と言うだけの事。

男が去った後。

三日月は堅苦しい姿勢の膝を崩す事も無く閉じた襖を睨め付けていた。

この本丸に於いて、刀剣は『物』だ。

自らを振るい戦う事の出来る人型を持ったとしても元は物言わぬ武器。それに宿る心を励起する存在あっての、ただ動き話し思考するだけの、従うだけの『物』である。

それが理だと判っている。いや、判っているつもりだった。


『三日月宗近』と言う存在とその他、扱いの格差も。

判っているつもりで、本当の意味では判って居なかったのだ。


だからと言って――。


「人間風情が」


不意に口をついて出たその声は自身が驚く程に低く掠れていた。

十五.


例え『三日月宗近』が率いる第一部隊でも審神者が自ら出迎える事は無い。

それはこの本丸に於ける共通認識であり、暗黙の了解でもあった。


故に本来有り得ない光景を目の当たりにして動揺を見せたのは山姥切だけでなく、隣に居た三日月までが固唾を飲んだ。それだけでも異常さが判る。

審神者は帰城した彼らを前に言葉を発する事も無く、予め指示を受けていたのであろう近侍代行が三日月を連れ一足先にその場を離れた。

恐らく初めて負傷した三日月を手入れ部屋に案内する為だ。


『三日月宗近』負傷の原因はどの刀に在るのか。口を開かずともそう問い質し責める様な空気と視線に晒された五振は緊張感に姿勢を正す。

しばしの沈黙を経て――三日月の補佐役を務めていた刀が踏み出そうとするのを制し、山姥切は自ら審神者の前に歩み出た。


例え戦場で三日月が予期せぬ行動を取ったとしても、殿を務めた己がそれを補えるだけの力があれば三日月は負傷せずに済んだ筈だ。

山姥切の中には自責の念があり、想定外の敵との交戦が有ろうと無かろうと、事実『三日月宗近』は傷を負った。

第一部隊に編成された五振にとって、審神者にとって、それは紛れもなく任務の失敗である。言い訳も抗議も意味を成さない事は皆理解していた。

真っ向から睨み合う様な事はしない。そんな事をしても更に怒りを煽るだけだ。

審神者の前に佇んだ山姥切は無言のまま視線を下げた。


前触れも無く審神者が山姥切の胸ぐらを掴み、怒りに任せて身体を地面に投げ付ける。山姥切は敢えて受け身を取らなかった。

強かに打ち付けた半身は痛むが、この程度戦場で負う傷や痛みに比べればどうと言う事はない。これは予想出来た動きだ。

実戦を思えば受け身を取るのは容易いけれど、それが審神者の神経を逆撫でする事になるのは判り切っている。山姥切はここで反抗的な態度を見せるつもりは無かった。


審神者が、鞘に納められた刀を下足で踏み付ける。

本体を乱雑に扱われる事は刀剣男士にとって体罰を受ける以上に屈辱的であると判った上での振る舞いに居合わせた者は眉を顰めた。

だが、何かしら行動を起こす者は居ない。それは他人事と割り切っての傍観では無く審神者の怒りを増長させない為の静観であり、誰もがただ声を殺し一過性の暴挙が去るのを待った。

此度の件で審神者から役立たずだと使えぬ刀だと詰られるのは、山姥切にとって当然の報いである。帰城する前、三日月の負傷を確認した時点で覚悟していた事だ。

その言葉通りに自分がもっと上手くやれていれば。

自分の所為で三日月は負傷したのだ。

そう思えばこそ詰られた所で何の反発心も湧かず、ただ自身への悔しさばかりがあった。地に伏したまま腰に提げた刀の鞘を踏み付けた審神者の足を払い退ける事もせず、ただ罵倒を聞き流す。


――気に入らないなら、刀解でもすれば良い。


審神者がどんな人物であろうと刀剣男士は己を励起した審神者と霊力を以て繋がりが生じる。それは己の力で解く事の出来ない結び目だ。

それを解けるのは審神者だけ。必要ないと判断すれば今すぐにでも。

この審神者の元で『山姥切国広』は重宝されて居る訳でも無い。失態を許せないと思うのであれば、速やかに消してしまえば良いだけだろう、と思う。


何の為にここまで練度を上げさせたのか。


――そんな事、俺は知らない。


どこかに居る別の『山姥切国広』は審神者の役に立つ事を誉として戦うのかも知れないが。ここに居る『山姥切国広』は――。

どんな心持ちで駒として扱われようと、己が武器である事を確かめる為、自分自身の誇りや矜持の為に戦うだけだ。今世の主である審神者にどう評されようが、長い歴史の中で染み付いた刀の記憶以上に己を苛む物では無い。けれど。


やはり真作でなければ駄目だな。幾ら傑作と讃えられようと。


それは、敢えて口に出された言葉だと判らない筈も無い。写しとして打たれる刀と贋作として打たれる刀の違いを知って居ながら、男は嘲笑う。


――俺は、


言葉を飲み込んで唇を噛んだ。何とでも言えば良い。こうして言葉を投げ付ける事で気が済むのなら。自分を励起した審神者はそんな行為でしか心を治める事が出来ない人間だ。当に知っている。知っているのに。

侮蔑的な言葉に対して何も言い返さない方が良いと理解している冷静さと、黙り込む事の悔しさ、普段は蓋をする様に目を背けている自分自身への葛藤が、ない交ぜになって思考の片隅を焼いて行く。

思い出したくない感情までが目の前に引きずり出されて来る。それは仮初めの血肉を得て、己と他者を認識する思考と意識を持ち初めて知った、身の内から湧き上がる醜い物で。胸が重苦しく押し潰される様に、息が詰まる。

所詮――紛い物か。


「俺は……っ、偽物なんかじゃない!!」

耐え切れずに口を突いた言葉と共に刀を踏み付けていた足を払い退け、跳ね起きる。

反射的に刀の柄にかけた手は辛うじて押し留めた。

よろめいた審神者を他の刀が咄嗟に回り込んで支え、転倒を免れたその男の顔を山姥切は目深に被った布の下から睨み付ける。

この本丸に於いて、審神者と刀が真っ向から向き合う事は無い。ましてや睨み合う事など、あって良い筈が無い。判っていても、山姥切は視線を外さなかった。

激昂するかと思われた審神者は声を荒らげる事も無く、むしろ歪んだ愉悦を湛え口角を上げる。その表情は山姥切が反抗した事で更に甚振り虐げる口実を得たと如実に語って居た。


ならば証明して見せろ。男は言った。


この本丸に在る刀として有益な物であると、真作で無くとも役立つ物であると。

証明して見せろ。幾らでも代えがきくお前如きに出来るのならば。


そう言って、下卑な笑みを浮かべた。




十六.


合戦場は激しい雨が降っていた。

足元の泥濘に加え、体温の低下が機動を鈍らせる。

対する時間遡行軍は異形の者。人の世にあっては『人外』と称されるそれらは、悪天候の影響など無い様に刀剣を振るう。長引けば長引く程、忠実に人の身体を模したこちらが不利になる戦闘が続いて居た。


眼前に迫る刃をいなし斬りつけたこちらの切っ先が、敵の刀装によって作り出された見えない壁に弾かれる。

山姥切は衝撃で僅か相手が怯んだ隙に間合いをはかり、柄を握り直した。

横目に周囲を流し見て三日月の位置を確認するが距離は離される一方で、それぞれ足止めを食らう仲間も駆け付けられずに居る。

敵の守りが予想以上に強固だった。攻撃が本体へと直接届かず、致命傷を与えられない。だからと言って刀装を削る為に斬り合うのには時間が惜しい。

今は悠長に一対一の斬り合いをしている場合では無いのだ。

一刻も早く、三日月を待避させなければ――。

目の前の敵を仕留められずとも一度振り切ってしまいたいところだが、立ちはだかるのは打刀、機動は山姥切とほぼ互角。それすらもままならない。


他からの攻撃を避ける際に泥で足を取られた山姥切を狙った槍。

その一撃を逸れさせたのは敵前へ出た三日月だった。


今、視界の端に捉える事が出来る三日月が対峙して居るのは山姥切よりも機動が高い槍だ。相手が悪い――いや、悪過ぎる。

槍より小回りが利く刀の間合いで唾競り合いを幾度防ぎ切れたとしても、槍の射程圏内に入ってしまったら。三日月は絶対に避ける事が出来ない。

「退がれ、三日月!!」

そう叫んだ声は三日月に届いただろうか。

しかし届いたからと言って、まともに戦闘経験の無い三日月では、混戦の最中上手く立ち回れる筈も無い。

戦わなくて良い、戦わないでくれと。

いっそ安全な場所へ、逃げてくれたら。

祈る様な気持ちで目の前の敵を見据える。

足止めか、破壊。先ずはこれをどうにかしない事には――。


三日月は自分よりも強い敵を前に怖気付く様な者では無い。

主命と言えど戦で仲間が自分を庇って傷付く事に胸を痛めているのも、こんな時に退けと言われて自分だけ安全な場所に逃げる様な真似を絶対にしない事も。

山姥切は、誰より良く知っている。だから。


三日月を守らなければ。


三日月に一番近い位置に居るのは殿を務めている山姥切だ。

躊躇している時間は無い。とにかく、目の前の敵を。


誰かが、三日月の名前を叫ぶ様に呼んだ。


敵の刃を刀で受けた山姥切が目を走らせた先で、

三日月に狙いを定めた槍の鋭い一撃が――刀装の壁を、抜けた。




地面を叩く雨音、敵の骸が次々と霧散して消えて行く。


地に伏した槍の核、人で言えば心臓の部分。

山姥切がそこに突き立てた刀を引き抜くと同時にその骸も霞と消え、戦闘終了を告げる部隊長補佐の声で我に返り顔を上げた。

戦場に残るのは第一部隊の六振のみとなる。


――三日月は、


山姥切が振り向いた先で、地に膝をついていた三日月がふらりと立ち上がる。

その有様を見て、血の気が引いた。

顔や腕に複数の切り傷、裂けた狩衣と着物には血が滲み広がって身体に受けた傷の深さがありありと判る。激しい雨に洗い流される事無く三日月が纏う赤は、大半が返り血ではなく三日月自身の物だろう。

重傷手前、辛うじて中傷と呼べるかどうか。


――どうして。


三日月が山姥切を見て微笑んだ。

よかった、そう言ってこちらへ歩み寄る足取りには傷を庇う不安定さが見えた。


――良くない、なんで三日月が。


山姥切の本来の使命は自分がどれだけ傷付いても『三日月宗近』を守り切る事、自分は守られる対象では無い。

使命で無かったとしても、三日月が傷付く所なんて見たくは無かったのに。


気が付けば憤りのまま三日月の胸倉を掴み、怒鳴り付けていた。

自分自身への叱責と腹立たしさを三日月の行動に上乗せしただけのそれは八つ当たりだ。三日月は山姥切の剣幕に狼狽えて居た。

何故怒鳴り付けられたのか判らない、そんな顔で山姥切を見た三日月は、それでも困った様に眉尻を下げて笑って見せた。


審神者にも仲間にもそんな風に扱われた事の無い『三日月宗近』だ。

今も、気に病んで居るだろうと思う。




透けた桜の花弁が舞って居た。

それは戦闘時の高揚感や戦意の上昇で霊力が一時的に可視化された物で、どこからともなく降り、風も無いのに流されるように空中に消える。


敵の本陣で戦闘を終えて空を仰いだ時、視界の端々に入り込んだそれを――もう何度も目にしたそれを、初めて綺麗だと思った。


これを三日月に見せてやりたい。

そんな事を考えた。

重傷の身体を引きずるように帰城した山姥切、辛うじて中傷で留まった短刀。

出向いた合戦場は本来六振揃った部隊で向かうべき時代であり、共に出陣した短刀は本丸に参入したばかりで人型の身体を得てから戦慣れもしていない。

山姥切が盾役になっても、流石に無傷では居られなかったけれど。

二振を出迎えたのは審神者では無く近侍代行でも無く、それぞれの兄弟刀達だった。

自分が守り切った短刀が出迎えに現れた者に抱き締められるのを目に納めた途端、急激に身体の力が抜ける。山姥切が地に倒れる前に支えてくれたのは、自分の兄弟刀の片方か。あるいは両方であったのか。

張り詰めた緊張の糸が切れ視界が暗転する。心配そうに呼び掛けて来る声に大丈夫だと応えたかったけれど、上手く口が動かせない。

そのまま声も遠くなって行く。身体が重い。感覚が消える。


国広。


朦朧とした意識の中で、三日月の声を聞いた気がした。



――ああ、おかしいな。三日月はここに居ないのに。



目を開くと見知った天井が見えた。

だが自室ではない。一拍おいてここが手入れ部屋だと思い出す。

寝返りを打とうとしてあちこち身体が軋む痛みに諦めた。

動けない程では無いとは言え、今無理に動く必要も無いと思い直して深く息を吐く。

まさに命辛々と言った状態で帰城した山姥切は意識を失っている間に生傷の処置を受けたらしい。大袈裟に思えるほどしっかりと几帳面に巻かれた包帯と貼り付けられた傷当ては恐らく兄弟刀の片方による物だ。

彼は少しばかり山姥切に対して心配性の気があった。


手入れ部屋に入って早数時間が経過している事は、窓の内側にある障子戸から僅かに差し込む月明かりが嫌でも教えてくれる。

刀剣男士の身体は回復力が高い。身体中に出来た傷も表面は塞がった頃だろう。

体力の消耗及び出血によって一度使い果たした霊力は未だに回復し切ってはおらず、布団に横たわったままでも軽い眩暈を覚える。

この感覚が人で言うところの極度な貧血状態であると仲間に教えられたのは、顕現したばかりで初めて重傷になった時であったか。


傷を負うのは珍しい事では無い。歴史干渉による影響が大きい時代へ出向けばそれだけ敵部隊も強さを増し、刀装の守りやこちらの機動を物ともしない刀種が現れる事もある。そう、今回遭遇した敵部隊の様に。

これまでに他本丸に於いて「遭遇する筈の無い敵部隊と交戦した報告が上がっている」と言う話は噂程度に聞いた事があった。

しかしそれはごく稀な例で、時代も特定されて居なければ法則性も無く、各本丸からの情報を統制する政府すら予測不能と言う。

第一、正しい情報を握って居るのならこの本丸の審神者が『三日月宗近』を該当する時代へ出陣させる訳が無いのだ。

運が悪かったとしか言い様がない。それを理解して居ようと居まいと、審神者の振る舞いには変わりは無かっただろうが。

例え山姥切が自ら歩み出なかったとしても、誰かしらが腹癒せの対象にされて居た筈だ。それなら、自分で良かったのだろう。

今回の事は紛れもなく、自分の所為なのだから。


ふと障子の向こうの気配に気付く。

目覚めて直ぐに気が付かなかったのは思考を巡らせて居た所為でもあり、廊下に居る人物が身動ぎもせず物音も立てずに居る所為でもある。

かと言って気配を殺そうとしている訳でも無いらしい。

もしかしたら兄弟刀のどちらかが様子を見に来たのかも知れない。だが、それなら廊下から声をかけて中へ入って来る筈だ。

耳を澄ませて気配を窺うが、誰かは依然としてそこに居る。


身体に鞭を打って立ち上がり、怠さを引き摺りながら緩慢に歩む。

寝起きの状態と、断片的な夢見の悪さで酷く喉が渇いていた。だから声を出すのも億劫で。

山姥切が近付いた事に気付いて居ないのか、反応は無い。

無言のまま障子を開くと、そこには寝間着に羽織を纏った三日月が立っていた。


今、一番姿を見せたくない相手だ。

こんなに無様で情けない自分の姿を、見せるつもりなど無かったのに。


「なんで……ここに」

喉から搾り出した声は酷く掠れて小さくなった。

山姥切と顔を合わせた三日月が目を見張り、絶句する。

至る所に見える手当ての痕跡から寝間着で隠し切れないだけの傷があると直ぐに察したのだろう。幾ら夜目が利かない太刀であっても、障子を一枚挟む程度の近距離であれば向き合った者の姿が見えない筈も無い。

三日月は今にも泣き出しそうな表情になり――そう思った瞬間には、もうその瞳から雫が零れ落ちる。

震える唇が声も無く山姥切の名前をなぞり、次々と溢れる涙を拭いもせずに顔を歪めた。三日月は口を数度開閉させたけれど、それは言葉にはならず嗚咽に変わる。


突然の事で頭が上手く働かない。

三日月が泣いている。

どうすれば良いのか判らない。


手入れ部屋の敷居も跨がずその場で泣き崩れそうな三日月を前に、為す術なく立ち尽くす。

普段の三日月など見る影も無い。喚くでもなく、ただ静かに涙を零すでもなく。

時折不規則に呼吸を乱して泣きじゃくる姿はまるで幼子の様で――。

部屋の奥、窓の外で雪の塊が落ちる音が山姥切の思考を再開させた。

こんな所を誰かに見られる訳には行かない。それに、廊下よりは部屋の中の方が幾らか暖かい。咄嗟に三日月の腕を掴み部屋へ引き入れて障子を閉める。

触れた羽織が驚く程冷たくなって居る事で三日月がここへ来たばかりで無いのは察した。恐らく、部屋の外から呼びかけても返事が無い所為で障子を開けられずに居たのだろう。

手入れ部屋使用者が休養の為に深く眠っている事が多いのを知っている者達は、用事があれば一言かけたのち返事を待たずに入室するが。

今日までこんな場所には縁の無かった三日月は知らなくても仕方がない。

「ずっと、廊下に居たんだな」

こちらの言葉を聞き取る余裕は残っているのか、三日月が頷いた拍子にまた涙が零れ落ちて腕を掴んだままの山姥切の袖に染み込んだ。

後から、後から、止め処なく、透明な雫が伝う頬に戸惑いながら手を伸ばして拭う。

紅潮した泣き顔とは裏腹に触れた頬は冷たくて指先を濡らす涙は温かかった。

「……誰かから聞いたのか」

帰城した山姥切が私室ではなく手入れ部屋に居る事を、三日月が知る筈は無いのに。

「主が、」

辛うじて聞き取れたその声で大方予想は付いた。

三日月の心情など露知らず、審神者は己の所行を、山姥切への仕打ちを、どこまで語って聞かせたのだろう。


震える手が山姥切の腕や肩に触れ、感触を確かめる様に掴む。

「……っ」

塞がったばかりの傷がひきつる痛みに息を詰めるとまた三日月の目から大粒の涙が落ちた。

何故、三日月が泣くのか。真意は判らないけれど。

単純に『無事で良かった』と喜んでいるだけには到底思えない。

「くにひろ」

嗚咽混じりの拙いそれは聞き取り難く、縋りついて来た腕に強く抱き締められると身体のあちこちに痛みが走る。

こちらが満身創痍なのは一目瞭然なのだから少しは手加減をしてくれても良いだろうと思う。でも、今は三日月の好きな様にさせてやりたくて、身を任せる事にした。

あからさまに鼻を啜る音まで耳の側で聞こえて来る。

何とも『三日月宗近』には不似合いな有様だ。

傷は痛むのか、泣き続けながら今更そう問い掛ける割に腕を緩める気配も無い。

本当は痛む箇所も多いけれど。

平気だと返してやれば三日月は安心した様に息を吐く。

直前まで布団の中に居た自分と、廊下で冷え切っていた三日月の間で、少しずつ馴染んで来る温度が心地良かった。

「折れてしまっても構わないと、思ったんだ」

もういっそのこと。

それを聞いた三日月の身体が強張って、責める様に更にきつくしがみつく。

少なくともあの無謀な出陣命令は、そう言う意味が含まれていたであろう事は予想に難くない。戦で無茶な行軍の末折れるも、本丸で主の不興を買い刀解されるも、結局は同じ事だ。


個としての存在は消える。

だが刀剣男士である『山姥切国広』としての形は、いずれまた作られるだろう。

それが同じ外見を持ちながら全くの別物としてこの本丸に存在しても、仲間達は納得して飲み込める筈だ。消えてしまった者を悼む気持ちは持ち得ても、ここでの自分達の在り方、扱われ方を、皆心得て居る。


でも、きっと。


「三日月が泣くだろうと思ったから」


だから、必死に戦って、抗って。


「ちゃんと帰って来たのに、あんたは泣くんだな」


しがみつく腕の強さが傷に障る。じくりと痛むのは何も傷ばかりでは無い。

寄りかかって来る三日月を支える為に力を入れた身体が軋んで密かに悲鳴を上げた。

「三日月」

時々しゃくりあげる肩に顎を乗せ抱き返す。あやすように背を撫でてやれば漸く少しだけ腕が緩んだ。

くにひろ、耳のすぐ側で聞こえるか細い声はまだ震えて居たけれど。


「あんたはもっと綺麗に泣くと思ってた」


審神者の傍らに在ろうと、山姥切の前であろうと『三日月宗近』はいつも笑って居た。例えその笑顔の種類が大きく違っていても。

三日月が泣きじゃくる姿など見たことがある筈がない。

たかだか一振の。

自分の様な物の為に『三日月宗近』が崩れた。


見目の美しさだけではなく、行動を制限されているが故の知識や経験の少なさを除けば――いや、それさえ無ければ。

『三日月宗近』の本質は刀として、刀剣男士として、何よりも立派で優れたもので有り得るのだろうと思っていた。

それは恐らく、山姥切だけではない。この本丸にいる者達は、心のどこかに一種の憧れや憐れみを抱いて『三日月宗近』を見ている。


実際の三日月はこんなにも脆く弱かった。

今自分が腕に抱いたこれは、他の何者でも無く、山姥切国広の為だけにひととき存在する三日月宗近だ。ひしひしと込み上げて来るのはこの場に不似合いな優越。

それを噛み締めて、いつか三日月がした様に頭を擦り寄せた。

遮る布が無い所為で三日月の髪が肌を擽って、触れ合った頬が濡れる。

「くにひろ」

「ん……?」

「今ここにいるか」

しっかりと山姥切の身体を腕の中に収めていながら、背を撫でて来る三日月の手は暗闇で物を探るそれに似て居た。

「……ああ」

どうしようもなく胸が締め付けられる。

だからと言ってどうすれば良いのかは判らないけれど。


身体中に残る傷よりも胸の内が痛む。

人は体温を分け合う事で、安心感を得られるのだと聞いた事がある。だから隙間無く触れて居れば少しは楽になれる気がして、抱き返した腕に力を込めて身体を寄せた。

「俺も、皆も、あの場面なら同じ事をする……三日月が悪い訳じゃない。怒鳴ったりして悪かった」

仲間の窮地に際して己に戦う力があるのなら共に戦って傷付けば良い。ただこの本丸の掟に於いて『三日月宗近』だけは決して傷付いたり汚れたりしてはならない物で。

例え――誰が傷付こうと、折れようと。


「……国広が……傷付くのを、見て居られなかった。俺はどうするべきか、判っていたのに」

何が起ころうと、あの場で『三日月宗近』は己自身を守る以外の目的で刀を振るってはならなかった。

「国広がこんな仕打ちを受けたのは、俺の所為だ……」

三日月は判っていたのだ。あの時、戦う事を選ばずに退避すれば、恐らく『三日月宗近』だけは無傷で居られたであろう事を。

山姥切の練度や経験を考えれば、庇われずとも切り抜けられた。

他の刀達も手練れであり助力を期待出来る状況下で、万一にも最悪の事態にはならないだろう事は予想に難くない。

それでも動いてしまったのは、きっと――。


幾らか落ち着きを取り戻して来た様子の三日月と改めて顔を見合わせる。

「大丈夫だ。休んでいれば傷も痛みも消える。俺達にとって負傷は日常茶飯事だ」

だから泣かなくて良い。

瞳を見据えてゆっくり言い聞かせると濡れた睫毛が不安げに震え、浮かんだ月が滲んだ。また涙を零しそうな三日月の頭を引き寄せて、自分の肩に押し付ける。

三日月が泣いているのが見えない様に。

少しは三日月が安心出来る様に。

「国広……」

ずっと山姥切の身体に触れている三日月の手が寝間着を掴んで、力なく引いた。

「……俺を、嫌わないでくれ……」

懇願。くぐもった小さな声は湿り気を帯びて、肩口の寝間着に涙が染み込んで来る。

どうして、そんな事を思うのだろう。例え審神者の暴挙の切欠が三日月の判断誤りだとしても、それを理由に三日月を嫌う訳が無いのに。

「あんたは俺を見くびり過ぎだ」

自分の顔のすぐ側にある頭を撫でてやると、また小さく鼻を啜る音がした。



重い。


漠然とそう感じたのは、身体に乗った布団とは違う重みと感触の所為だ。

眉を寄せながら目を開く。見覚えのある手入れ部屋の室内と布団、それから――三日月の頭頂部、双葉の様に跳ねた髪の辺りだけが見えた。

山姥切よりも頭半分下、掛け布団に埋もれる様にして同じ布団の中に居る。

重みと感触の正体は山姥切の身体にしがみついて眠る三日月の腕だった。

「部屋へ戻れ」「戻りたくない」そんな押し問答の末、この状態になったのを思い出す。頑としてその場から動かない三日月が山姥切を離そうとしなかった所為だ。

埒が明かないと判断して「こうやってずっと立ち話をしているのは身体が辛い」と山姥切が敢えて弱音を吐いてみせると三日月は慌て、ではどうすれば良いのかと訊いて来た。


――どうすればも、何も。


自分の部屋へ戻れと言っているのにそれは嫌だと聞き入れない。仕方無く、朝になったら誰かに見つかる前に部屋へ戻る事を条件にして共に布団へ潜り、眠って居る間に山姥切が居なくならないかと何度も訊いて来る三日月を寝かしつけ、今に至る。

そっと三日月の腕を退かせて上体を起こし、改めて窓を見るとまだ薄暗い。

本丸が朝の活気を見せるには早い時刻の様だった。

寝起きの気怠さはあれど傷は全て塞がり痛みも引いて、腕に巻かれた包帯を軽くずらすと肌に傷跡も無い。霊力的な部分は外傷よりも回復に時間がかかる為まだ万全な状態とは言い難いけれど、人の形でありながら人よりも物に近いこの身体は改めて便利だと思う。

「……う」

もそりと布団が蠢いて三日月が寝ぼけ眼で顔を出したかと思えば体勢を変え、先程退かせたばかりの腕を山姥切の腰に回して来る。

寝転がったまま纏わりついて来る三日月はまだ素直に離れる気が無いらしい。散々泣き腫らした目元は赤く、これは誰かに見られる前に冷やした方が良いなと思った。

「おはよう、三日月」

自分からおはようと声をかけるのは初めてだ。

いつも山姥切を探し歩いた三日月の方から声をかけるのが定着していたから。

おはよう、とくぐもった声が返る。押し付けて来る頭が少しくすぐったい。

「三日月」

何気なく頭を撫でてしまってから嫌がるだろうかと手を止めたけれど特に反応は無く、それがかえって『もっと撫でろ』とでも言いたげに見えて。

また髪を梳く様に撫でると三日月は身動ぎもせずそのままだ。少しでも動くと山姥切が撫でるのを止めると思ったのかも知れない。

三日月が動いても動かなくても、止めなければならないのだが。

「起きろ、朝だ」

「……」

「約束しただろ。そろそろ戻った方が良い」

「…………。いやだ」

纏わりつく腕がきつくなる。

そう言うであろう事は昨夜から何となく予想が付いていた。

だがこんなに駄々を捏ねる三日月が見られるのは恐らく最初で最後だ。

そう思うと少し微笑ましくもあり、物悲しくもある。


「三日月がここに居たら、また俺が責められる」

これは予め考えていた脅し文句だ。

案の定、三日月の身体が強張った。

「わかったなら早く起きてくれ」

頭を撫でる手を止めて腰に回された腕を外させる。三日月は自分から手を引く気配は無いが抵抗もせず、のろのろと身体を起こし敷布に座り込んでうなだれた。

その姿勢で山姥切の片手を掴んだまま、また身動きを止める。

酷く寝起きが悪い様に見えるけれど、三日月の寝起きが悪くないのは知っていた。

以前そんな話をした時、自分とは大違いで三日月は随分朝に強いなと感心したものだ。これはただ、ぐずついて居るだけだ。

仕方が無い。

「国広……!」

先に山姥切が立ち上がると離れかけた手を掴み直される。

慌てて取り縋る三日月が上げた顔を見れば髪があちこち跳ねていた。

妙な体勢で布団に潜っていた所為か寝癖も付いている上に泣き腫らした赤い目元が相乗効果を発揮して、とてもではないが人に見せられない『三日月宗近』だ。

「これは、酷いな……」

思わず笑いが込上げて口元が弛む。

「酷い? 何がだ?」

「あんたの寝癖が、だ」

目立つ寝癖を手ぐしで直してやると三日月は少し照れている様だった。

三日月はいつもしっかりと身支度を整えてから山姥切の前に姿を現すので、こんな姿を見られるのは恥ずかしかったのかも知れない。


引き上げる様に立ち上がらせて、寝間着と帯と羽織を直す。

部屋へ戻れば着替えるのだからしっかりと着付け直す必要は無いが最低限は整えておいた方が良い。部屋へ戻るまでに誰と顔を合わせるかも判らない。

三日月は黙り込み、山姥切のなすがままになっていた。

自ら手入れ部屋を出ようとする素振りを見せない三日月は、口に出さずとも纏う空気があからさまに嫌だと訴えている。

それに気付かないふりで手を引いて歩かせて、廊下へ続く障子を開けた。

「三日月」

「なんだ?」

「昨日の事は、三日月の所為じゃない」

「国広……?」

三日月が首を傾げる。

唐突に昨日の話を切り出された事に困惑している様だった。

「全部俺の所為だ」


『三日月宗近』の孤高を崩してしまったのは他でも無い。

『山姥切国広』なのだから。

あの時『三日月宗近』が動いてしまったのは、傍らにあったのが『山姥切国広』だったからだ。そうで無ければ『三日月宗近』は自身を優先する事を選べた。


「もう、俺の側へは来るな」


そう言って微笑みかけた。つもりだ。

けれど、三日月は一瞬目を見張って、とても悲しそうな顔をした。



笑え。

これが三日月が慕ってくれた〝国広〟としての最期なら。


『俺は国広が笑ってくれると嬉しい』


そう言った三日月の為に。


「そら、早く自分の部屋へ戻れ。三日月」

〝三日月〟

こうやって気軽に呼ぶ事はもう無いだろう。

〝国広〟と呼びかけてくれる事も、きっともう無い。


声をかけて廊下へ押しやった身体は抵抗も無く離れた。

上手く笑えて居るだろうか。いつも三日月が微笑んでいる様に。

今まで楽しかった。ありがとう。

そう言おうとしたけれど、引きつる喉はそれを声に出来なかった。


「……じゃあな」


同じ本丸に在る者同士でさよならはどこか可笑しい気がして。

いつも別れる時と同じ様に、一言だけを口にして障子を閉める。

立ち尽くした三日月が何か言おうとして居た。しかし薄い障子で隔てた廊下からは何も聞こえない。暫しの沈黙の後、三日月の気配は静かに遠ざかって行った。


――三日月は、放っておくと何をするか判らない。

だが、聞き分けは、良い。


大丈夫だ。

元より四六時中共に居る様な関係では無い。

『三日月宗近』はこの本丸に於いて常に主の傍らに在り、他とは一線を画す。

本来、自分の様な一端とは交わらない。それで良い。


『三日月宗近』が主に望まれるまま在る為に、『山姥切国広』は邪魔になるだけだ。

重い足を引き摺る様に力無く敷布へ戻り、頭まで布団を被る。

全身の傷や体力は回復している筈なのに倦怠感が増した様に感じた。


もし、三日月が〝国広〟と呼ぼうとしたのなら。もう一度くらい聞きたかった。


そんな事を思う。

ああ、そうだ。

目元を冷やせと言うのを忘れてしまった。

でも三日月はああ見えて意外にしっかりしているから、きっと大丈夫だ。


そう思いながら、どうせ今日は何もする事が無いのだから、もう一眠りしてしまおうと目を閉じる。重傷で帰城した刀は、翌日出陣も内番も雑用も与えられない。


だからもう少し、何も考えずに眠ってしまおう。

一人用の布団は本来の広さに戻っただけなのに、何倍も広くなった様な気がした。

十七.


これまでの歴史上、数多の刀剣が存在した。

しかし、刀剣男士として顕現させる事の出来る刀剣は刃物としての武器であればどれでも良いと言う訳では無く、事実虚構を問わずの逸話を抱えた、より多くの人の想いを、心を宿す物で無ければならない。故に、彼らは物であり人であり、人の前に姿を現すその時『刀剣男士』と呼ばれる人間に酷似した姿形を取る。

新たな刀剣男士となり得る刀剣は増えると目されているが、政府の管理下で顕現が確認されている全刀剣男士の数は、現状四十二振。


庭一面を覆った雪は未だ解けず、審神者の執務室の窓から見る事が出来るのは一面の白である。三日月は手持ち無沙汰に眺めていた窓の外から、机上に広げた書類に向かう審神者へ視線を移した。

「……この本丸に刀剣男士としての刀は幾振在る?」

問い掛けに男が筆記の手を止め視線を寄越す。

何故そんな事を訊く、そう問いを返す声は訝しげだ。

「いやなに。先日読んだ書物に現在確認されている数は四十二だと書かれていたから、俺の主はどれだけ集めたのだろうと思ってな」

ただ気になっただけだ。

軽い口調で付け加えると、男は「四十二だ」と自慢気に答え、笑った。

『三日月宗近』は名目ばかりの近侍と言う役目を負い審神者の傍らに付き従い、新たに参入する刀剣男士の顕現の場には幾度と無く立ち会って来た。

だが、指折り数えては居ない。

『三日月宗近』はごく限られた――もとい審神者が編成した部隊に加わる刀以外とは接点を持たぬものであった為、数えたところで意味が無いからだ。

それでも自身が顕現した頃この本丸には二十も刀が居なかった様に思う。

いつの間にやら増えているものだな、とさして興味も持たずその数字を聞き流す。

三日月はこの本丸に居る刀の数を知りたかった訳でも無ければ、そんな話をしたかった訳でも無い。


「なぁ、主。ひとつ、頼みがある」


三日月がいつもと変わらぬ微笑を浮かべたままそう言うと、男は片眉を上げた。

それが「話してみろ」と言う代わりの動作である事は判っている。


「ここは刀が増えて随分と騒がしいだろう」


そう言っても実際のところ、気に障る程の物ではない。

第一この本丸ではどの刀も絶対君主である審神者の顔色を伺うように生活しているのだから、騒がしいと言うほど騒がしくなる筈も無い。

騒がしい、と口に出したのは敢えてだ。


「そろそろ、一人静かに過ごせる場所が欲しい」


他の物が気軽に近寄らない様な離れが欲しい。

本丸の広い庭の片隅を、俺に与えてはくれないか。


この希望が叶わない筈は無い。

『三日月宗近』が他の物から自分を隔離しようとする。

それは審神者の望むところであるのだから。

この男が求める『三日月宗近』は他と交わらず孤高で美しくあるものだから。


お前がそう望むなら庭の一角ぐらいはくれてやろう。


案の定、男はしたり顔で頷いた。

全てが思い通りになって居るとでも言いたげに。



十八.


『三日月宗近』が初めて傷を負った日を境に第一部隊は解散となり、以降『三日月宗近』が合戦場へ赴く事は無くなった。

しかし日常には良くも悪くも影響が無い。元より『三日月宗近』が率いる第一部隊は重要な役割を担う部隊では無かったからだ。


歴史修正主義者からの干渉を受けている時代の攻略は『三日月宗近』がこの本丸に参入して以来、第二部隊が主力となっている。

実質稼働して居るのが第二から第四までの三部隊になった事で出陣回数が減ったと零す者は居た。当然それを抗議として審神者に伝える事は無いけれど。

口に出さずとも同じ様に感じている者も少なからず居るだろう。元来武器である自分達は皆、戦好きな性分であるのだから。


山姥切もまた、あの日以降部隊に加わる事が無くなった。

部隊を編成する審神者の不興を買ったのだから、お呼びが掛からずともなんら不思議は無い。あの日の時点で予想出来ていた事だ。

ただ、刀解されず尚且つ満身創痍の状態でも捨て置かれなかったと言う事は少なからず『山姥切国広』をまだ駒として使う気があるのだろうか――そう思うと期待の様な物が頭の端に過ぎる。

審神者に駒として使われたいと言う意味では無く、また刀として戦えるかも知れないと言う意味で。

未練がましいと思いながらも本丸の『外』へ出られる日を、合戦場に立てる日の事を考えている。


部隊に加わらなくなったからと言って毎日暇を持て余して居る訳では無い。

戦事以外にも大勢の刀達が本丸で過ごす為に、皆で手分けしてやるべき仕事は幾らでもある。元々山姥切は常に部隊に所属していた訳でも無く、編成に組み込まれない期間が長く続いて居るだけだと思えば今までと何ら変わりは無かった。

部隊編成は全て審神者の意向で行われるが、内番や雑用当番事の取り仕切りは近侍代行に一任されて居る事もあり、山姥切が何もせずに過ごす日はそう何日も続かない。

この本丸に於いて付き合いが長い部類に入る山姥切の事を、彼は爪弾きにはしなかった。それは素直に有り難い。

何もせずに居るよりも、今は雑用でも身体を動かして居る方が良いと思える。


兄弟刀に手伝いを頼まれて厨に足を踏み入れる機会が増えた。

入り浸ると言う程では無いが、料理などさっぱり判らない山姥切でも居着いてみれば何かと手助け出来る事はあり、それなりに役立って居る。

通りすがりの誰かに献立を訊ねられても自然に答えられるくらいには、廊下に掲示されたそれを意識する様にもなった。

ひとりで過ごす時間が随分減ったな、と思う。

それは明らかに、周りが自分を気遣ってくれているのだと判らない筈も無く。

放って置くと自棄を起こすとでも思われて居るのか、はたまた自室から一歩も出なくなるとでも思われて居るのか。そんな事はしないだろうと思う。恐らく。

自分事の割に、余り予想も付かないけれど。


偶に『三日月宗近』を見掛ける事はある。

審神者に付き従い、相変わらず造り物の様に感情の判らない笑みを浮かべて居る。

『三日月宗近』とは言葉を交わす事は元より、視線を交わす事も無い。

それがここでの掟である。

審神者が不在の日に本丸の中をのんびりと歩いている姿は見掛けなくなった。


山姥切が独りで過ごして居ても、三日月が姿を現す事は無い。

「側に来るな」と言ったのを律儀に守って居るのか、いつぞやの一件の所為で再び自室に籠もる様に言い付けられたのか、それは定かでは無いが。

ただ、独りお気に入りの場所で過ごす時間は、どことなく物足りなさを覚える物に変わってしまった。また三日月が何事も無かった様な顔をして現れるのを、待っている自覚はある。

酷く自分勝手な物だと呆れる程に――。



顕現したばかりの頃と同じように自室で過ごす事を、強要はされなかった。

三日月が自ら他と距離を置きたいと明言した事、出陣希望を取り下げた事、理由は幾つかあるが。


ひとりで過ごす時間は書庫に籠もり、書物を傍らに積んで知識を漁った。

書庫には政府から全本丸向けに配られる歴史書や戦術書、刀剣男士となる刀剣達の資料、総じて興味を持たない者にとっては難解な類ばかりがある。

好き好んで書庫へ足繁く通う者は居ないようだった。

一部、人型を得たばかりの刀に読ませる為の日常に関する物を描いた絵図の載った書物はあったが、これも恐らく政府から配布された物だ。

審神者が政府に申請を出せば刀達が興味を持った様々な書物を購入出来ると書かれた案内書も見付けたけれど、この本丸でこれが活用された事は無いと容易に予想出来る。そしてこれからも活用される事は無いのだろう。

以前自室に籠もって居た時期に何度も目を通した物から初めて手に取る物まで、片端から読み潰して行く。それは新たな発見を齎した。

ああ、そうか。自分は「読んでいた」のではなく「目で文字列を追っていただけ」であったのだと自覚する。

興味も無く文字列を追い、漠然とした情報として頭の中へ流し込んでいた。

理解しようともせずに。

刀剣男士とは『何物』であるのか。

刀に込められた心を励起する審神者の技によって霊力で形を成した付喪神。

戦う為に己自身である刀を手に取り振るう人型。

ここでの在り方は審神者が決める。

そうとは言えど、振るえぬ刀に、振るわれぬ刀に、何の意味があるのか――。


ひたすら読書に没頭するのは、持て余す時間を埋める為、この本丸に於ける己自身の在り方を考える為。

余計な事を考える隙を作らない為、と言うのが一番正しいのかも知れない。

ふと、探しに行こうと思ってしまうのは最早身に付いた癖の様な物で。

側に来るなと言われたのに出歩けばまた無意識に探してしまうだろうと思う。


そうそう笑顔など見せない癖に別れ際で山姥切は笑って見せた。

もっとも、無理矢理作ったその表情は三日月にとって嬉しい物では無かったけれど。

突き放す言葉と取って付けた様な笑顔がかえって態とらしい物であったと本人は自覚して居るのか否か。

傷付かなかったと言えば嘘になる。

確かにあの瞬間どうしようも無く恐ろしい感情が込み上げて、身動きが取れなくなった。手入れ部屋の外へ追いやられ、呆然と障子を眺め――全て自分の所為だと言った山姥切の言葉を反芻してみても、到底納得出来る筈も無い。

「国広」と呼び掛けようとして、声が出なかった。

隔てるのはただの障子一枚。

頑丈な重い扉でも無く、鍵すらも付いていないそれを。

閉じた障子のすぐ向こうに山姥切が居るのが判って居ながら力尽くで開ける事は出来なかった。声もかけられなかったけれど、あの場で何を言っても恐らく山姥切は頑なに耳を貸さなかっただろう。

審神者に随伴している時以外にも、時折遠目に山姥切を見掛ける事がある。

誰かしらと連れ立って居る事が多い。

以前の様にひとりで日向に居るのは辞めたのか。

未だに春の陽気は遠いので、単に屋内で人気のある場所に居るだけなのか。


三日月は「今探す気になっても見つけられないかも知れないな」と思いながら見送るだけで、やはり声をかける事は出来なかった。

山姥切はあの日以来一度も出陣して居ない。

それは配膳の為に三日月の部屋へ来る近侍代行を待ち伏せて聞き出した。

だからと言って、今の時点で三日月に出来る事など何も無かったけれど。

あれから幾日が過ぎたのか、指折り数えるのは両の手を折り返した時点で辞めにした。それからひと月は過ぎただろうか。

暦を見ればすぐにでも判ってしまうのだが。

書物を捲る手を休め、採光の為の小さな窓から外を眺める。

漸く雪解けを迎え始めた庭に溜息を吐く。


「……国広」


ぽつりと呟く声を聞く者は居ない。

同じ本丸に居るのだから会いたいと思えば会える筈の、会いたいと思わずとも姿を見掛ける事もある山姥切は、何故だか随分遠い所に居る様な気がした。