月と箱庭。(前編)

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この本丸には掟がある。


主を出迎え見送る時は勿論の事、屋内外を問わず行合う際は道を譲り頭を垂れよ。

主に対して声掛けが許されるのは火急の場合を除き近侍のみ。

必要がある場合は近侍に言伝け、刀からは気易く声を掛けぬ事。

主の命は絶対である。反抗的な態度や発言は謹む事。


但し『三日月宗近』だけは、それら全てが例外だった。


鍛刀または合戦場にて回収された刀は顕現された後、本丸や任務についての説明を受け然るべき部屋と役割が与えられるのが常だが、説明や案内は全て近侍を務める刀が行い共に過ごす事になる刀達への紹介は夕餉の席で簡略的なものである。


鍛刀で顕現した『三日月宗近』は主に頭を垂れる事も求められず、審神者が自ら必要最低限を説明したのみで近侍と言う名目を課されたが、顔見せの場が設けられる事は無く主命として初めから他の物との接点は極力断つように言い含められた。

その日からこの本丸では『三日月宗近』が顕現する以前に近侍を務めていた刀が「代行」として近侍の任に就いている。




一.


お前が欲しい物は何でもやろう。

審神者が無骨な手で三日月の頬を撫でながらそう言った。


何でも、と言われても顕現したばかりの三日月にはすぐに思い付く物も無く、特別欲しいと思う様なものなど無かったけれど。

試しに「庭が一等綺麗に見える部屋が欲しい」と伝えると、その日の内に庭に面した部屋を与えられた。設えられた調度品は全てが新しく、掃除も行き届いたその部屋は、元は他の刀が使っていた部屋らしい。誰が使って居たのか、元の住人がどこへ行ったのか、別段興味も湧かず追求はしなかった。


美しい物が好きだ。

それは三日月を顕現させた審神者が持つ性分の影響を受けての事かも知れないが、己が好ましいと感じるものを手の内に収め撫で回したい気持ちは判る。だから審神者が気紛れに頬や髪に触れて来るのは許す事にした。好色でない審神者はそれ以上の行為を求めたりはしないからだ。

美術品を愛でているだけの手付きで多少人型に触れられた所で、己の刀本体が汚れる訳でもないのだから、然したる問題は無い。


此度三日月の主となった男は美醜どちらかに分けるなら誰しもが口を揃えて醜と言う様な見目をしていたが、審神者としての霊力や経験は申し分なかった。

傲慢で自尊心が高く、人型を取った刀を人としては見ずに動くだけの「物」として扱う、そんな人物であったので嫌悪感や畏怖を抱く刀も居る様だが、三日月には関係が無い。三日月は怒鳴りつけられる事もなければ乱暴に打ち据えられる事もなかったからだ。

他の物と交わるな、それはお前にとって害にしかならない。常時は主の傍らに。

主が不在の間は私室に居るように。それは強制力を持つ命令でも無ければ、物理的な監禁でも無かったけれど、三日月は素直に従った。


そう望まれるのならば、そう在るだけだ。

例えそれが刀として何も成せはしない在り方であっても。


傷を負っても手入れを受ければ回復する身とは言え、審神者は『三日月宗近』が汚れる事や傷付く事を良しとせず、近侍に据えながらも他の刀と同等の任務は与えなかった。

しかし、ただ美しくそこに在るだけを求められる置物の様な生活は三日月にとって退屈な事この上無く。

程なく飽きが来てしまったので今度は「戦に出たい」と言ったのだ。


申し出は当然の様に却下されかけたが、主が伴う刀が戦も知らぬ身では他にも示しが付かないだろうと説き伏せ、渋々と言った様子で頷いた審神者は本丸内でも主戦力となる刀だけが持つ極の守りを最低練度の三日月に与えた。

そして充分に均整を考慮した刀種、かつ名目上「第一部隊長」となる三日月以外の隊員は高練度で第一部隊が編成されたが、出陣予定は審神者の気が向いた時と言う曖昧さだ。それに加え隊員の入れ替えはごく稀で、見知った数少ない刀だけを従える形で三日月の部隊は出陣する様になった。


三日月に他との関わりを持たぬ様に言い含める傍ら、他の刀には三日月に対し不可侵であるよう命じているらしく、出陣の際も同部隊の刀と交わす言葉は最低限で私語と呼べる様なやり取りをする事は殆どない。

けれど、従順に任務をこなすだけで在れば、元よりこの本丸に多数いる筈の刀の名も顔も知らずに過ごす三日月に不都合は無かった。

遠征へは行かせて貰えない為、行き先はごく限られた時代の合戦場のみ。

それでも本丸を離れ見知らぬ土地を踏みしめる、ほんの僅かであっても己の本体である刀を振るう事が出来る時間は、主の傍らでただ愛想笑いを浮かべているよりも何をするでもなく一人で刻を浪費するよりも、余程刺激に満ちていた。




二.


独りで部屋にいる時間は退屈だ。

書庫から見繕って来る読み物も中身を覚える程読み返す頃には飽きてしまうし、部屋の中に居て他に出来る事があるかと考えても目新しい事など思い浮かばない。


ある日、審神者に付き従って出掛けた際に金魚と言うものを買って貰った。

本丸の広い池には見事な錦鯉が何匹もいたが金魚は居ない。

三日月が店先で目を留めたそれを何の変哲も無いつまらない魚だと審神者は言ったが、初めて見るそれがどうしても欲しくなってしまった。

一匹だけ本丸の自室で飼う事を許された和金は小指の関節二つも無い程の小ささで身に余る広い鉢の中を泳ぐ。鉢の中に日が射すと赤い鱗が橙にも黄金にも見え、底に敷いた色とりどりの玻璃の玉と水面の反射が重なる様はとても美しい物に思えた。

初めは世話の仕方など全く判らず、さして興味を示さなかった審神者が丁寧に教えてくれる筈も無く、金魚と共に買った本を読み見様見真似で覚えるより他無かったが、それは退屈でも苦でもない。


三日月が世話に少し慣れた頃、どこから聞き付けたのか短刀達が主の不在を見計らってそっと部屋を訪ねて来るようになった。好奇心に負けて金魚を観に来る短刀達と話をするのは楽しい。三日月の知らない事を、彼らは沢山知っていた。

金魚は水から出られない。言葉を話す事も無い。

こちらが話しかけたからと言って人の言葉を解す生き物でも無い。

部屋に戻ると片隅に置かれた鉢の中に小さな和金がいる。ただそれだけの事だ。

でもそれだけの事が嬉しくて、独り言を聞かせる様になった。当然返事など無いけれど。すいすいと泳ぐ姿を眺めて一人微笑む時間が楽しかった。


しかし、ある日三日月が部屋に戻ると小さな赤色は姿を消していて、替えたばかりの綺麗な水が満ちた鉢だけがそこにあった。時折水面近くで水を跳ねさせる事があったから、跳ねた拍子に鉢から出てしまったのだと思い、慌てて周囲を隈なく捜したけれど金魚はどこにも居ない。水が無ければ生きられない、人の様に器用な手も足も無い生き物がどうして姿を消せようか。


俺の金魚が逃げてしまった、あれは空を飛べる生き物だったろうか。


そう審神者に告げると、気が向いたら新しいのを買ってやろうと言われて、あれは捨てられたのだと悟った。


ああ、そうだ。

金魚の話をした。


俺は「金魚が部屋に居るのが嬉しい」と。主はつまらない魚だと言っていたが、あれはとても愛らしいものだと話してしまった。

訊かれても、居ないのに。


迂闊だった。

もっと巧くやらなければ、駄目なのだ。

折角手に入ったお気に入りの物が取り上げられるのは堪らない。

鉢は綺麗に洗って、そのまま部屋の片隅に置く事にした。ふと目をやってもそこに赤色はもう居ない。

部屋を訪ねて来た短刀達に金魚は死なせてしまった、と嘘を付いた。形見分けだと玻璃の玉を分けてやった時の幼子達の悲しい顔が辛かった。


望めば何でも与えてくれるが、気に入らない物には容赦がない。

審神者が寛容なのは個としての三日月に対してだけだ。ならば完璧に化かしてくれよう、そう決めて三日月は審神者を満足させる従順さと裏を掻く狡猾さを身に付けた。

元より寵愛を受けている身であれば、愚鈍では無いけれど単純な男を手玉に取るのはそう難しい事では無い。三日月がたおやか請うてやれば文字通り言葉通り何でも与えられる様になり、それを無碍に取り上げられる事もなくなって、遂には審神者不在時の自由も手に入れた。

今まで興味を向けずに居た故に最低限しか知らずにいた本丸の中は、予想以上に広く難解で、暇を潰すには丁度良い遊び場になった。

見知らぬ廊下を進んで迷ってしまう事も珍しくないが、どれだけ広くとも所詮は『本丸』の中、そんな時は見知った場所に着くまで歩いてみれば良いだけの事だ。


大手を振って歩き回れるようになったとは言え審神者が他の刀に下した命が解かれることは無く、静かに引かれた溝は依然として存在したが、それでも三日月は満足だった。

三.


山姥切国広は主に付き添い歩く名も知らぬ美しい刀を初めて観た日の夜、配属されている第一部隊の会合で、第一部隊の解散・合わせて第二部隊の解散・そして第一部隊を第二部隊として再編成する旨を告げられた。

向かう時代や場所によって急遽入れ替えが発生する事は珍しくない。山姥切自身も本丸内では練度が高い古参の刀ではあるが、部隊に所属している期間もあれば全くお呼びがかからない期間もある。

実力主義が根底にあるこの本丸は刀種に関わらない抜擢が行われる事はままあるが、審神者の裁量は的確だ。

『主』としての適性如何はさておきと言う前置きは付くものの、部隊編成に関して刀達から不満が漏れる事は山姥切が知る限り今まで無かった。

しかし編成は変わらず部隊の解散、再編成が行われるのはこれが初めての事だ。


六振が集まった部屋の中でそれを告げたのは第一部隊長であり近侍である刀で、一同は顔を見合わせた。困惑した空気の中、第一部隊長はこの本丸への新たな刀の参入と、明日より己が近侍代行と言う名目で今までと変わらぬ任に就き、それ故に近侍たる刀が率いる第一部隊は事実上解散となる旨を語った。

腑に落ちない山姥切が目深に被った布の端から様子を窺う限りその場に居合わせた他四振は自分と同じ様な心境であるように思う。

ただ、今日を以て近侍の名目を外され明日からも同じ任を命じられた刀だけが、静かに小さな会合の終わりを宣言した。

明日からも変わらず頼むと一言、微かに苦笑いを添えて。

新たに参入し明日から近侍の任に就く、と言う刀の名が会合の席で語られる事は無かった。全てを把握し了承している筈の現近侍が口に出さない時点で、皆触れない方が良い話題だと察したのだ。

この本丸の主である審神者は高慢で非常に気紛れ、加えて気性も荒い。余計事には口も首も出さぬが身の為と人型を成しながら物として扱われる刀達は心得ている。


山姥切は私室に戻る途中、渡り廊下でふと足を止めた。

そこは昼間主と共に歩く見慣れない刀を見掛けた場所だ。

名は知らないが、新しい刀とは恐らくあれのことだろう。何せ現近侍と接する時すら高圧的な態度を和らげることがないあの審神者が、自ら連れ歩き真似事程度にも主らしく振る舞うような刀だ。

加えて遠目に見掛けただけで見惚れ立ち尽くしてしまった程のあの美しさ、さぞかし名のあるご立派な名刀に違いない。


実質解散となった第一部隊が再び編成される予定はないと聞いた。

審神者は新たな近侍を部隊長として出陣させるつもりがない、と言う事だ。

振るわれぬ刀、振るえぬ刀に、何の意味があるのか。

ましてや自分達は戦う為に人型を得る刀剣男士だ。美しい物に目がない審神者の性分を思えば頷けない事もないが、少しばかり名も知らぬ刀が気の毒に思えた。

物として扱われる事について、山姥切自身は何も思うところは無い。

自分は刀だ。人型を得て戦場を駆け己の本体である刀を振るう、その事に喜びを感じる。葛藤に揺らぐ己の存在を確かな物として実感出来るのは実戦の中だけだった。


烏滸がましいな、と独り言が口をつく。


相手が名刀であろうがなかろうが、名も知らぬ刀に対して気の毒だなどと自分が思う事自体が烏滸がましい。何にせよ明日からも自分の生活には変わりがないようだし、新しい刀だろうが名ばかりの近侍だろうが、出陣させるつもりがない刀なら顔を会わせる事も言葉を交わすこともないだろう。

自分には関係がない事だ。

静かな夜の庭を横目に、止めた歩みを再開する。

山姥切が名刀の名を耳にしたのは、それから数日後の事だった。




四.


三日月が『山姥切国広』を初めて見たのは散策中の日の当たる縁側、件の刀がうたた寝をしている最中だ。

とは言え、その時の三日月にとっては当然名も知らぬ初めて見る顔であり、最初は遠目から何かが行く手に落ちているのかと思ったのだが。

近付いてやっと自分と同じこの本丸の刀剣男士だと気が付き、思わず驚きとも感嘆ともつかない声が出てしまったのを覚えている。随分無防備な物だと感心したと言うのが率直な印象だ。


戦に出る際の武具は身に着けず帯刀もしていない軽装を見るに、三日月が一度も任された事の無い内番の休憩中と言った所だろうか。

仰向けで緩やかに腕を広げて、光を目一杯受けようとしているかの様な油断し切った寝方に、これを見付けたのが自分ではなく審神者であったら蹴飛ばされて居るかも知れないのに悠長なものだと思う。審神者の不在を知っているからこその油断ともとれたが、予定が変わって早く帰って来たらどうするつもりなのだろう。

すぐ側に立つと気持ちよさそうに眠る見知らぬ刀に自分の影がかかる。

何だか悪いような気がして三日月がそっと反対側へ移動しても、少し屈んで覗き込んでみても、目覚める気配はなかった。


三日月が鏡で知る自分の容姿とかけ離れた毛色の刀は、身体も顔付きも自分より小柄で幼い。これの刀種は何だろう。帯刀していれば一目瞭然なんだが……そう思ってから、帯刀したままうたた寝する刀はいないかと独りごちる。

身体の下に広げた布ごと自分を天日干しにでもしているのだろうか。

最初は敷布だろうと思ったそれは、左肩胸元近くで結ばれた紐が装備品の一部なのだと主張していた。所々解れて穴が空き、足下の方に向かうに連れて見るからに新しくない染み付いた汚れが目立つ使い古しの布の上に、無造作に散らばる金の髪が日に当たって透けている。


三日月が少し首を傾けると反射の具合で濃淡が変わって見えるのが面白くて、もっとよく見てみようと傍らに膝をつく。

金の髪を見たのはこれが初めてで、見れば見るほど不思議な毛色だ、そう思った。

三日月の髪はもっと暗い色をしているから、例え日が強く当たってもこんなに光を返しはしないだろう。

衣服から覗く白い肌は健康的な赤みが差して、長い前髪が額と目元を隠していた。

そっと手を伸ばし指先で前髪を払えば、露わになった滑らかな輪郭と鼻梁は成熟とも未熟とも言い難い。

多少違和感を覚えたのか綴じた目蓋を縁取る睫毛が微かに揺れた。起きるだろうかと身構えたものの、引き続き穏やかな寝息を立てている。

それを眺めている内に、瞳の色が気になり出した。

もしかすると、間近で見つめていたら薄い目蓋が髪のように日に透けて、瞳の色が見えるのではないだろうか。そう思ったら自然に身体が動いていた。眠る刀の頭の側に手をつき身を屈めて顔を覗き込むと、また自分の影が落ちてしまう。

ああ、駄目だ。

これでは透ける物も透けないな……三日月が内心溜息を吐いたのとほぼ同時に、目蓋がパチリと開いた。咄嗟に息をのんで大きく見開かれた瞳は翡翠か花緑青か、暗い部分は萌葱のようにも見える。今は自分の影がかかっているから、本当はもっと明るい色なのかも知れないが。


待ちに待った物が見られた嬉しさで頭が一杯になっている三日月と、目覚めたばかりの名も知らぬ刀がどのくらいそうして視線を合わせて居たかは判らない。

突然下にいた刀が身を起こし、頭を揺らす衝撃に体勢を崩す。手の下から無理矢理布が引き抜かれる感触がした。

まともに頭突きを喰らった額を押さえながら顔を上げるが、声をかける間もなく布を翻した後ろ姿は曲がり角に消える所だ。

滲んだ視界でそれを見送って、縁側に呆然と座り込んだまま、痛む額をさすっていると、何だか無性に楽しくなって来る。

考えてみれば初めてだ。

主の傍ら以外に自ら膝をつく事も、顔を覗く為とは言え深く頭を垂れる事も、間近で誰かと目を合わせる事も。

勿論、頭突きされたのだって初めてだ。

三日月は人の身を持つに当たり感情も感覚もごく正常に顕現した。

だが痛覚だけは機能していなくても問題がない程、使われる事が無い。出陣する時は低い練度でも安全な場所にしか行けず、何かあっても必ずその場で誰かに庇われた。同部隊の誰かが大小関わらず傷を負っても、三日月は無傷だ。


それは何故か、問うまでもなく。

『三日月宗近に傷を付けるな』

審神者が他の刀に命じているのは明白だった。

本丸にいる間は主の傍に控えているだけで、怪我をするような任務を与えられる事も一切ない。

自分で身体を叩いたり抓ったりすれば相応の痛みは感じるが、ただそれだけだ。

じんと余韻が残る額が熱くて、少しばかり眩暈がするような気もする。


「痛いなぁ」

そう口に出して痛みで目尻に浮かんだ涙を拭いながら何故だか口元が弛む。

痛みを感じられた事が、ただ嬉しかった。

それを快感と捉えるような性質ではないつもりだけれど。



審神者不在の晴れた日は、散策のついでに日当たりの良い場所を探すようになった。


またどこかであの無防備ですばしっこい刀が寝転けているかも知れない。

そう思うと心なしか足取りも軽かった。今度見かけたら起こさずゆっくり眺めていようか、それとも起こしてよくよく瞳を覗かせて貰おうか。


日当たりが良くて静かで昼寝に適しそうな場所。

この広い本丸の中でそんな所は幾つあるのだろう。

気の向くままに散策するもなかなかどうして出会えず、廊下で擦れ違う誰かに居場所を訊こうにも肝心の相手の名前が判らない。

それとなく審神者から聞き出す事も考えたが、それが得策では無いのは明白だ。


何より自分で見付けたかった。

だから、三日月はひたすらに一人で名も知らぬ刀を探し歩いた。




五.


三日月が二度目に山姥切国広を見付けた時、その刀は低い屋根の上にいた。

空を観ているのか、何か別の物を観ているのか。

独りで、緩く膝を抱えて座っている。

以前見た時と服装は違うが、相変わらずあの使い古しの布を羽織の様に纏っていて、金の髪が空の青に良く映えた。


下から話しかけても声が届かなくて会話にならないのではないか。

そう思った三日月は自分も屋根に登ることにした。もし声が届いても相手は身が軽い刀だから屋根づたいに逃げてしまうかも知れない。

屋根にいる刀の背中側から上手く足場に出来そうな柵や柱を探すのは苦労したが、何とか落ちる事なく上がる事が出来た。質の良い生地で仕立てられた狩衣や袴は当然汚れてしまったが、審神者が戻る前に着替えてしまえば良い。

むしろ初めて挑戦した割には成果は上々ではないだろうか。

きっとこれなら気付かれずにあの刀に近付ける。満足げに笑顔を浮かべて顔を上げると、半身振り向いたあの刀が三日月を凝視していた。

細心注意しながら登ったのだから、そんなに派手な物音は立てていない筈だ。

寝ている時はあれだけ無防備なのに、起きている時は背後の気配に気付くとは。


「なぁ、」

三日月の声で我に返ったのか首後ろから布の弛みを掴んで持ち上げると一気に頭から被り、勢い良く立ち上がろうとして自分で布裾を踏んでよろめく。

「待て待て、逃げるな」

足場に慣れず立ち上がれない三日月が膝を摺って半歩進むと、体勢を立て直した刀が身構えた。目深に被った布と前髪の隙間からこちらの出方を窺うを視線が刺さる。

けれど三日月はそんな事よりも自分が見惚れた金の髪や碧い瞳がすっぽりと隠されてしまったのが不満だった。

「どうして隠す?」

剣呑な空気が少しだけ弛んだ。

予想と違う的外れな言葉をかけられたと表情が語っている。

「そんなに綺麗なものを、どうして隠す?」

「……あんたには関係ないだろ」

三日月が重ねた問いに応えた声は、想像していたよりも低く落ち着いていた。

「まあいい、お前を探していたんだ。なぁ、お前の名は何という? 俺は」

「三日月宗近」

また半歩進んで身を乗り出した三日月が名乗るより先に、寄るなと言わんばかりの硬い声色で言い切られて首を捻る。

『三日月宗近』がこの本丸に来てから、皆に正式に紹介される場は一度も設けられていないのに、どうして知っているのだろう。

目の前の刀は何の迷いもなく三日月の名を口に出したが、実際に三日月が面と向かって名乗り合った相手は出陣する時に世話になるほんの少しの刀だけ。

それと、以前部屋を訪ねて来たごく一部の短刀達くらいだ。


「そうだ、俺は三日月宗近という。知っているとは思わなかった」

「ここであんたを知らない奴はいない」

「俺が知っている刀は、両の手で足りるほどしかいないんだが」

「あんたが知らなすぎるだけだ」

素っ気なく言い放ち、名も知らぬ刀が屋根の斜面に危なげなく立ち上がる。

「すごいなぁ、俺はこの通り座っているのが精一杯だ」

それは謙遜でも賞賛でもなく三日月にとっては素直な感嘆で。

瓦葺きの屋根の足場の悪さを体感した今、全く立ち上がれる気がしなかった。

「……なんで登ったんだ」

「お前がここにいたからだ」

布から覗く顔が困惑に染まる。

「探していたと言っただろう、だから登った。まあ、登ったのはいいがどうやって降りたものかと今は困っているんだが」

「意味がわからない」

「うん、俺もどうしたらいいかわからないなぁ」


でも何とかなるだろう、夜になって主が戻る前に降りられれば大丈夫だ。

三日月がそう言いながら笑って見せると、完全に背を向けようとしていた刀が溜息を吐きながら歩み寄って来て手を差し出した。

「どうせ降りられないんだろう」

手を重ねると強く握って上に引かれる。

「あんたに何かあると審神者が煩い」

俺なんかに手を貸されるのは不本意だろうが。

「いいや、助かる。本当に困っていた」

ぶっきらぼうな口調にあからさまに面倒だと言いたげなその表情。

それと真逆におぼつかない動作の三日月をしっかりと支えるちぐはぐな態度が微笑ましくて、つい頬が弛む。

完全に寄りかかるような情けない体勢で何とかその場に立ち上がると、そこからは本丸の広い庭が一望出来る事に気が付いた。

「お前が見ていたのはこれか」

見栄えする美しい物ばかりを好む審神者が己の自尊心と所有欲を満たす為に作ったこの本丸の庭は美しい。

水場は澄んで立派な魚が泳ぎ、緑が多く四季に合わせて彩を添える花が咲く。

そのどれもが自然の種ではなく、より美しくあるようにと人の手を加えて整えられた物では在るが、自然の物であろうと人の手によって作られた物であろうと美しさに変わりはない。

「いい眺めだなぁ」

半ば寄りかかったままの三日月が庭に見蕩れてそう零すと、支えてくれている刀はばつが悪そうに顔を逸らした。

「それはいいから、しっかり立ってくれ。縁まで行ったら下に足場を用意する。あんたはさっさと降りて、審神者が帰って来る前にその格好をどうにかしろ」

「すまんな、恩に着る」

手を引かれてゆっくり縁まで辿り着くと、刀は三日月にそこから動かないよう声をかけてひらりと下に降りる。屋根から足を離す時も着地の時も何ら戸惑いなく軽やかな動きを見せたそれは、随分とこの場所と高さに馴染んでいる様だった。

「動くなよ」

三日月を見上げて降りる前と同じ言葉を繰り返す刀に手を振って応えると、踵を返してどこかへと向かう。足場を用意する、とは言っていたが何を持って来るつもりなのか三日月にはさっぱり予想出来なかった。そもそもこの本丸に何があって何がないのかも知らないので、どれくらいで戻って来るのかも判らない。

でも言葉通り戻って来るだろうと思えたのは、あの刀が三日月に手を貸す為に自ら歩み寄って来たからだ。


幾ら低かろうと屋根は屋根。地面とは随分距離がある。あの身軽な刀は難なく着地したが、三日月は真似て飛び降りてみようとは到底思えなかった。

きっと派手に地に伏す事になるだろう。

以前あの刀を見かけた時に痛みを実感出来た事は嬉しいと思えたが、だからと言って自分から傷を負うような真似をする程浅墓ではない。

初めて登った屋根の上で一人、迎えを待つ間に周りを見回すと庭以外にも色々なものが見えた。広い本丸の建物や渡り廊下の屋根が他に幾つも見えたけれど、自分が何処に行った事が在って何処に行った事が無いのか、自分の部屋が何処なのかすら屋根を見ただけでは判らない。

本丸の中を自由に歩き回れるようになって色々な所に足を運んだし、判った様なつもりになっていたがまだまだ知らない場所がありそうで、少し楽しみが増えた。

この屋根の上だってあの刀が居るのを見付けなければ登ろうなどとは思いもしなかった筈だ。登ればこんなに色々な物が見えるのも知らなかった。

汚れてしまった狩衣と袴を手で軽く叩き払ってみるが、そもそも手が汚れているのだから意味は無いし、それくらいで落ちる物でもない。

何とは無しに触れてしまったから、顔も汚れているかも知れない。

元より下に降りたら着替えるつもりでは居たが、この有様を審神者が見たら激怒を通り越して失神するだろうか。


『常に主の傍らで美しくある三日月宗近』と言う求められる偶像。

それを演じる事を、辞めるつもりは無い。

都合の良い在り方を求められるなら応えてやる代わり、自分も都合の良い様に相手を使わせて貰おう。それで同等だ。

あの刀が屋根の上に居た時の格好を真似て膝を抱える姿勢で座り直すと、正座でいるよりも安定感がある。

頭上を仰げば一面の空と髪や頬を撫でる風と日の光が心地良い。

いつぞやの縁側もこの屋根の上も、暖かくて昼寝に向いているかも知れないな、とふと思う。だから今日はここに居たのだろうか。

瓦の上は寝心地が悪そうだが、縁側の床板も硬い物だし、そう変わらない気もする。

三日月が身体を横にする時は決まって畳の上に布団を敷くので、どちらの寝心地も判らない。


「三日月宗近」

取り留めない思考を中断させた下からの声に目を向けると、あの刀が金属製の梯子を担いで戻って来た。けれど一人で担いでいる梯子は屋根の縁には届きそうも無い。

「届かないのではないか?」

素直に感想を伝えると、下にいる刀は大丈夫だ、と一言返して一度地面に横たえたそれの側で何事かやっている。落ちないように注意しながら三日月が下を眺めている内、どう言う仕組みか判らないが梯子は倍の長さに伸びていた。それを立てると無事に屋根の縁にかかり、三日月は思わず「おお」と感嘆の声を上げる。

「感心してないで降りて来い」

下から梯子を支える刀が早くしろと急かして来るが、折角登ったのだからもう少しここに居たい気もするし、そのまま降りるには少し心残りもあるのだ。

「なぁ、そろそろお前の名を教えてくれないか」

「そんなもの知らなくていいだろう」

元はと言えばこの刀の名を訊きたくて話がしたくて、屋根に登った。何の収穫もなく結果的に助けられて終わるのは悔しい。

「降りる気がないなら梯子は外す」

「いや、降りる気はあるぞ、十二分にな」

梯子の頭を上で抱えるように押さえると、そのまま無理に梯子を動かせば三日月が落ちるかも知れないと気が付いた刀は梯子を支えたまま固まった。

「……もう何でもいい、さっさと降りろ。降りて来たら名前も教える」

付き合っていられないと言うように項垂れて、上から見えるのは頭から被った布ばかり。それでも下で梯子を支える手は外されない。

約束だからな、と念を押してようやく三日月は梯子を頼りに屋根から降りた。

伸ばした梯子を元に戻すのを横で見ながら、この梯子は普段何に使うのかと尋ねると、樹の手入れや屋根の修理に使うものだと言う。

そんな雑用も日々の仕事にはあるらしい。地に足をつけすぐ隣に並んでみると、やはりこの刀は三日月よりも幾らか頭の位置は低いし、体格も華奢と言う訳ではないが細身な事は確かだ。

持って来た時と同じ様に短くなった梯子を一人で肩に担ぐのを見て手伝いを申し出たが、要らないと斬り捨てられた。

そんなに重いものでもない、とは言うがやはり上背がある自分の方が楽に運べる気がするのだが。それでも任せる気はないらしい。

梯子を片付けに行くと言うその刀の横について一緒に歩く。


「それで、お前の名は何という?」

「……山姥切国広だ」

「山姥切国広、そうか。覚えたぞ」

「覚えなくていい。それに、覚えてもどうせすぐに忘れる」

俺なんかに構わずあんたはさっさと部屋に戻って着替えろ、淡々と言いながら山姥切国広は横を歩く三日月を振り切ろうとはしなかった。

六.


『山姥切国広』は面倒見がいい。

三日月がそう確信したのは、一人で行動出来る自由時間を何日もかけて捜し歩いて、漸く名前を教えて貰えた時だ。屋根から降ろして貰った後、梯子を片付けに行くと言う山姥切を追って歩いていたら、いつの間にやら自室に着いていた。

当初の目的である物置で用事を済ませ、他の刀に騒がれないよう裏口から本丸に上がり三日月を部屋まで先導した山姥切は、道すがらしっかりとぬるま湯の張った桶と手拭いまで用意していたのだから相当な物だろう。


三日月は〝主が戻るまでに着替える〟という必須事項以外は用事と呼べるような物もなく、ただ山姥切国広を追っていた。

後ろを歩きながら「どこへ行く?」と問えば 物置だ、裏口だ、と端的な答えが返るだけで弾む会話がある訳でもないが、完全に無視を決め込む訳でもない。

待っていろと山姥切から声を掛けられれば三日月は素直に従ってその場に立ち止まり、行くぞと言って山姥切が歩き出すとそれを追ってまた歩き出す。


三日月が審神者に付き従って歩く時、声掛けはない。古式ゆかしく約三歩ほどの距離を空け、ただ前に従ってゆっくりと歩く。着いて来るのが当然だと審神者の背は語り、三日月もまた主に従うのが勤めと合わせている。

それが、山姥切の先導は全く違うのだ。

急ぐ事を知らない三日月に歩調を合わせず足早に前を行くのに、時折歩を緩めて肩越しに振り返る。三日月は歩く時に余り足音を立てない。ゆっくりと歩く所為もあるが、そう心掛けるのが癖付いている所為もある。

それでも三日月が遅れ気味になると振り返る山姥切は、床板の軋みや衣擦れの微かな音で背後の気配を窺っているらしく、つかず離れずの距離を保っていた。


誰と鉢合わせるか判らない水場や廊下に長居する訳にも行かない、と前置いた山姥切に自室の襖を開ける事と入室の許可を求められたが、特に見られて困るような物でもない。三日月が軽く頷いて了承を示すと、山姥切はやや畏まった様子で襖を開けた。

「手を洗えばいいのか?」

「待て、先に顔だ。あんたは手を拭くまでどこも触るな。部屋中汚れるぞ」

やはり顔を触った時に汚れが付いていたらしい。

搾った手拭いが顔に当てられるが、汚れを拭き取る、と言うより撫でるような軽さに思わず笑いが零れてしまう。

「はは、くすぐったいな」

「強く擦って赤味が残ったら困るのはあんただろ。大人しくしろ」

山姥切の言葉はもっともで、確かに審神者と顔を合わせた時に勘ぐられるのは困る。

何も触るなと言われているので手持ち無沙汰に目の前の山姥切を観察していたら、じろじろ見るなと怒られた。

観察すると言っても、山姥切の顔周りはほぼ布だ。

唯でさえ長めの前髪が目にかかりその隙間から瞳が覗く。頭から顔半分近くまで深く被った布端が斜めなのは視界確保の為なのか。視線は合わずともふざけた様子がないのは締まった口元でよく判る。物言いが素っ気ない割には生真面目で好感が持てた。


見るなと言ってから俯きがちになった山姥切の布端から見える金の毛先が目の前で揺れて、影のかかった碧い瞳がちらちらと三日月の好奇心を刺激する。

ああ、勿体ない。

こんなに間近で観られる機会だと言うのに、山姥切国広と名乗ったこの刀を全て隠そうとするような布が妬ましい。三日月がじっと見ている所為なのか、ただ顔を拭き終わっただけなのか、山姥切は更に俯いた。

「手を出せ」

言われた通りに両手を出すと、片方ずつ静かに桶で洗われて、手首から指先までをしっかりと拭われる。

「お前は所作が丁寧だな」

「普通だろ……それに、あんたが相手なら誰だってこうする」

「俺が相手でなければ、こうはしないのか」

「どうだかな」

服の汚れている部分を触らないよう三日月に言うと役目を終えた桶と手拭いを自分達の足元から離し、山姥切は部屋を見渡した。

「着替えはどこにあるんだ」

「そこの箪笥の中にあるぞ」

三日月が答えると躊躇なく箪笥を開け、三日月が今身に着けているのと同じ狩衣と袴、そして単を選び出す。小袖は着替えが必要な程汚れていないと判断したらしい。

「……あんたも支給されている物は変わらないんだな」

「どういう事だ?」

「余りにも審神者があんたを隠すから、姿を見せない間は着せ替え人形にされているんだろうと噂になっていた」

「なんと」

「ただの噂だ」

そう言って着替えを抱え側に戻って来ると、三日月を見据えたまま沈黙した。

着替えを受け取るのを待っているのかと思い手を差し出してみるが、こちらへ渡そうとする気配は無く、訝しげな視線を向けられる。


「……? なんだ?」

「まさか自分で服が脱げないのか……?」

山姥切が唖然と口にした言葉に、今度は三日月が訝しげな視線を返す番だ。

「いいや、脱ぎ方はわかるが」

「着替えるんだろう?」

「ああ」

それなら早く脱げ、そう急かされて漸く合点が行った。

「そうかそうか。手伝ってくれるのかぁ」

なるほど。だから傍に立っていた訳だ。

三日月が汚れに注意を払いながら服を脱ぎ始めると山姥切は持って来た着替えを一旦足元に置き、三日月が解いた帯や狩衣を受け取り、軽く畳んで重ねて行く。

誰かの手伝いをする事に慣れているのか、そう言う性分なのかは判らないけれど、やはり山姥切は面倒見がいいし、所作の一つ一つが丁寧だ。

「世話されるのはいいな、好きだ」

「世話役が俺なんかで悪かったな」

「悪いなどとは言っていないだろう。こうやって誰かに手伝って貰えるのは初めてだが、とても助かる」

ばさりと背後で音がした。

振り返ると三日月の脱いだ袴を拾い上げようとした山姥切が中途半端な姿勢のまま固まっていて、どうやら袴を取り落とした音だったらしい。

「どうした?」

三日月は自分で袴を拾い上げて畳むべく身を屈めたついでに、固まった山姥切の顔を覗き込んだ。そこには何とも言い難い表情がある。

困惑とも焦りともつかないその顔は血の気が引いて、気分でも悪くなったかと畳に膝を付いた三日月が下から視線を合わせると、正面で向き合うよりもよく見える碧が不安げに揺れた。

「はじ、めて……?」


山姥切が漸く声を発した事に安堵する。

だが、その言葉の意味は直ぐに理解出来なかった。


「うん?」

「誰かが、いつも手伝っているんじゃ、ないのか……?」

「いや。いつもは一人だから、自分でやるな」

日々の寝起きや身支度は全て自分でこなす。

三日月は広間で他の刀と食事の席を共にする事も許されてはいない。

その為、食事の上げ下げは部屋の前を拠点として近侍代行を務める刀やそれに代わるごく限られた刀が手伝ってくれてはいても、他は一人でいる。

言うまでもなく当然ではあるが、あの審神者は世話役のような真似は一切しない。

だから誰かに着替えを手伝って貰うのは今日が初めてだ、そう答える内に山姥切の顔色はますます悪くなって行く。

「大丈夫か?」

白んだ頬に触れようと、思わず伸ばした手が勢い良く払われた。

「っ……すまない」

山姥切は謝罪を口にしながら、固まっていた身体を起こして半歩後退る。

「いやいや。俺の方こそすまない、驚かせたな」

「違う、俺は……いや、俺が」

あからさまに様子が変わった山姥切は懸命に言葉を探しているようだったが、開いては閉じる唇からは一向に声は聞こえず、仕舞には片手で顔を覆って俯いてしまった。

「気分でも悪くなったなら、誰か」

呼んで来よう、と言いかけた矢先。

「……気分を害したのは、あんたの方だろう」

山姥切の口から低く零れた声は硬く強ばっていて、三日月は続ける筈だった言葉を飲み込んだ。


「すまない、あんたに随分馴れ馴れしくしてしまった。全部俺の勘違いだ」

「勘違い……?」

「あんたが何も出来ないと思い込んで差し出がましい真似ばかりした。俺なんかに指図されてさぞ不快だったろう」

謝罪する、そう言って山姥切が腰を折る。

三日月は感謝こそすれ拒否の言葉など聞かせた覚えはない。

ましてや不快などと。

「不快だとは思わない」

「それなら不快じゃなく迷惑か」

先程までは素っ気なく訥々としながらも柔らかさを感じた話し方が、微かな棘を含むものに変わった。何が切欠だったのか、三日月には判らない。

「不快とも迷惑とも思っていない。どうしてそんなことを言う? それに、お前を怒らせるような事を言ったなら、謝罪すべきなのは俺の方だろう」

「別に怒っている訳じゃない。俺はただ自分の薄馬鹿具合に嫌気が差しているだけだ。あんたは屋根から降りられないとは言ったが、最初から他のことは出来ないとも判らないとも言わなかった。それなのに俺が勝手な真似をしてしまったから謝罪している、それだけだ」

だからあんたが謝る必要もない、自分の言い分を流暢に並べた山姥切は三日月の着替えを一瞥してから背を向けた。

「自分で着替えられるなら手伝いは要らないだろう。あとは自分でやってくれ」

「……随分、唐突だな」

こんなにも口が回る奴だったかと感心する反面、身勝手過ぎるとも思う。

ただ、頼まれた訳でもないのに手伝おうとしたのは山姥切自身の善意だ。

それなら身勝手だと思う己こそが身勝手なのかも知れない。

「山姥切国広、俺は、お前が気を回してあれこれ世話してくれたのを嬉しいと思っている。何か、誤解させるような事を言っただろうか」

「あんたは何も悪くない」

とりつく島もないとはこの事か。にべもなく言い切られて三日月が困惑している間に、桶を抱えた山姥切は襖を開ける。

「邪魔して悪かったな」

「どうしてそう思う」

邪魔だと言った覚えもなければそんな態度を取った覚えもない。それなのに、どうして山姥切は決めてかかるのだろう。

「……俺が、本来ならあんたと話せるような刀じゃないからだ」

そう言ってピシャリと襖が閉められて、部屋に取り残される。

元より自分の部屋なのだから取り残されると思うのはおかしな話なのに、一人になった途端にいつもの倍も部屋が広く静かに感じて溜息を吐く。


部屋を出れば走るまでもなく追い付ける筈だ。汚れた湯の張った桶を抱えて走りはしないだろう。だが、今追い掛けた所でどうなると言うのか。

着いて来るなと追い払われるのが関の山な気がする上に着替えの途中だ。裸では無いにしろ、この格好を誰かに見られてその話が主の耳に届くのは拙い。


折角探し歩いたあの刀を見付けて、名乗りあって、少し話が出来たのに。

再会してみれば最初に見掛けた無防備な寝姿とは裏腹に警戒心が強い山姥切を見て、それならば、先ずは仲良くなろうと思ったのだ。だから、顔を拭く為に自ら近付いて来た山姥切を前にしても言われたまま大人しくしていた。

本当なら直ぐにでもあの布を後ろに引き下ろして、髪を、瞳を、近くでまじまじと観たかった。必死で我慢したのだ、それなのに。

「逃げられてしまった……」

のろのろと着替えを再開し、また溜息を吐く。

三日月が自由に歩き回れるのは週に多くて二日程度、主に随伴しての外出や主の気紛れで決まる自身の出陣で予定が詰まれば週の一度も羽を伸ばせない事もある。

次に山姥切を探せるのは、いつになるだろう。


突然様子が変わった理由は、前後の会話を思い出してもよく判らなかった。

去り際の台詞の意味も。

毛嫌いされている訳ではないと思う。

様子が変わるまでは普通に言葉を交わしてくれていた。


三日月には親しく話せる相手が居ない。

だから山姥切の心の機微が判らないのかも知れない。


そう思うと、とても悲しい気持ちになった。


三日月が次に山姥切を見かけたのは約二週を過ぎた頃、例の屋根の上。

自分で登るとまた降りられなくなるのが判っているので今度は下から近付いた所、声が届きそうな距離に入る前に気付かれて逃げられた。




昼間、主の後ろを歩く廊下で擦れ違う事はあれど自分は猫被りの真っ最中。

それでなくとも主の前で誰かと言葉を交わすことなど出来ない三日月は、せめて視線だけでも合わないものかと横目に見るのだが、山姥切はこの本丸の掟に習い律儀に頭を垂れたままでいる。

部屋で頭を下げられた時も思った事だが、山姥切がそうしていると完全に布に隠れてしまう。自身が意図しているかは判らないがまるで殻か甲羅のようだ。


三日月が自らの足で歩き回るようになり、更に山姥切を捜す為に行動範囲を広げてから知った事だが、この本丸には山姥切以外にも金の髪や、金に近い髪色の刀がいる。

一口に金と言っても皆それぞれ色合いが違って瞳の色も違う。

その中で取り分け興味を引くのはやはり山姥切だった。


隠されているから余計に観たくなるのかと思いはしたが。

それよりもっと単純明快に、三日月はあの暖かい日溜まりのような金の髪が好きで、その隙間から様子を窺う碧い瞳も好きなのだ。




七.


自分は合戦場で拾われた刀であるらしい。

らしい、と言うのは山姥切自身の記憶にその部分は無いからだ。

それは山姥切に限った話では無く、刀剣男士の記憶は本丸で主となる審神者の霊力を以て人型を得、目を開いたその瞬間から始まる。

武器であり物言わぬ『刀』としての出自や来歴は所謂〝思い出〟の様な形でしっかりと頭の中にあるけれど、それは良し悪しを問わず付着して落ちなくなってしまった染みと同じだ。少なくとも山姥切国広はそう思う。

どれだけ思考を重ねようと、過去を反芻しようと、今で上書きしようと試みても、自身を形作る核は変わらない。


変えられない、とも言うのだろう。


人と同じく過ごす為に必要な事は、個としての『山姥切国広』が始まってから覚えて行った。自分が合戦場で拾われたと言うのは、自分よりも早く顕現して本丸で過ごしていた刀が世間話がてら教えてくれた事だ。


人の身を得てすぐの頃。

身体慣らしにと連れられて行った演練会場で『山姥切国広』を見た。

そこには幾つもの演練用部隊が集まっており自身が顕現した本丸で見知った顔もあれば知らない顔もあったが、その日居合わせた『山姥切国広』は山姥切と別本丸の二振だけ。


酷く、動揺したのを覚えている。

自分と全く同じ姿形を初めて目にしたからでは無い。

自分と〝同じ物〟である筈のそれが、全く別物の様に見えたからだ。


別本丸の山姥切国広は第一部隊長として演練会場に現れた。

山姥切が所属していた部隊とは練度差があり過ぎると言う理由で刀を交える事こそ無かったが、名だたる刀達を率いる姿は堂々とした物で。それはまるで自分の皮を被った化け物を見ている様な気味の悪さと居心地の悪さを齎した。


別の部隊の刀が山姥切国広を「総部隊長」と呼んだのを聞いた。

また別の刀は「近侍殿」と。そう呼んだ。


山姥切は被っている布を目深に引き下げた。俯いてすれ違いざまに盗み見た『山姥切国広』は――顔を上げて前を向き、穏やかに笑って居たのだ。


それを見た瞬間、一気に血の気が引いた。

顕現してから過ごした環境や経験で生じる個体差と呼ばれるものだと、後に知ったけれど。胸を焼いたのは羨望や嫉妬の様な物だった。

当時の山姥切にとっては初めての名も知らぬ感情であったし、今となってはどうでも良い事の一つだが。

それが何かを判らずに過ごす内、すっかり諦観へ変わってしまった。


あの『山姥切国広』の様になりたいとは思わない。あれと自分は〝別の物〟だ。

元を辿れば同じかも知れないが決して同じでは無い。それに、山姥切は戦いを好む性質ではあれど部隊を率いて先陣に立ちたいなどとは思わない。

ただ『刀』としての己を実感出来る機会と場所さえあれば、それで良かった。

件の出来事を切欠により深く布を被る癖が付いたのは、恐らく自己防衛本能と言う物だろう。身体を覆い必要以上に視界を遮る布は煩わしさも感じたけれど、確かに安心感を与えてくれる。


山姥切が顕現した本丸は建物も内装も庭の草木も美しい物で、共に過ごす刀達は皆優しかったが、どこか陰があった。審神者を絶対君主として作り上げられたが故の静かな不自由さ。いつも張り詰めた空気が満ちていた。

理由はどうあれ外見のみすぼらしさが目立つ山姥切は当然審神者の寵愛を受ける事など無かったけれど、都合が良かったのは審神者が駒に見立てた『刀』の評価基準として武勲を考慮していた事だ。

出陣の際に誉を取って見せれば完全に冷遇される様な事も無く、山姥切はそれで満足だった。

次第に様々な刀が増え、それに比例して山姥切は人目を避けて独りで居られる場所を探し始めたので、本丸内で古参の刀とは言え親しい刀は居ない。

かと言って特別反りが合わない刀も居らず、同じ刀派の二振は何かと自分を気にかけてくれるし、人目に付かない場所を好む所為で謀らずしも人目に付かない場所で困り事を抱えた刀に出くわす事もあり、そうなると見て見ぬ振りが出来ない性格が首を擡げほんの少しずつの接点が生まれる。

出陣にしろ当番事にしろ誰かと組んで作業するにも支障が無い中立と孤立の間でそれなりに上手くやっていた山姥切は、ある日唐突に刀解を覚悟する事となった。

幾ら驚いて咄嗟の事だったとは言え。

――やってしまった。

天下五剣一美しいと謳われる『三日月宗近』。

この本丸に於ける絶対者の愛刀。

その花のかんばせに、頭突きを喰らわせるなどとは。正気の沙汰では無い。

『三日月宗近』がこの本丸に参入した事は知っていた。けれど『三日月宗近』は扱いが別格で、他のどの刀とも触れ合いの場を持たない。

主の前では頭を垂れよと言う規律の中で常に審神者の傍らに付き従う刀、つまり普段はまともに視界に入る事も無い刀と言う事だ。

それが、目を開いたら至近距離に居るなんて誰も予想はしないだろう。

山姥切は日の光を浴びているのが好きだった。

人の様に生活するようになってから経験した事は数え切れず、取り分け好む事と言えば戦ではあるが。

任務が与えられていない日や何かしらの休憩時間、独りで居られる時間は大抵日当たりの良い場所で何をするでもなくぼんやりと過ごす。余計な事は考えない。


その日もそうだった。内番の仕事が早く片付いた昼下がり、滅多に他の刀がやって来ないお気に入りの縁側で独り。日光浴をしながら微睡んでいただけの筈が。

すぐ側に、気配を感じた。

けれどこうして縁側に居ると偶に小鳥の類が寄って来る事もあれば、風に乗った花びらや木の葉が自分のところへ落ちて来る事も珍しくは無かったので、きっとそんな物だろうと。そう思って居た。近くなり過ぎた気配で一気に意識が覚醒するまでは。

反射的に目蓋を開いて真っ先に視界に飛び込んだのは月が浮かぶ一対の瞳。嬉々とした色を湛えて間近で自分を覗き込んで居るその顔は、紛れもなく『三日月宗近』だ。


どうしてなんでこんな事に。


開いた目は閉じられず驚きで息を飲んだついで、呼吸だけでなく心臓まで止まった気もした。だが耳まで響く鼓動が喧しくそれは錯覚だと訴える。

微かに働いた思考が警鐘を鳴らす。

〝何はなくともここから立ち去れ〟


本能から命令を下された身体の反応は驚く程に速かった。

飛び起きると鈍い音と衝撃と共に眩暈がしたけれど、構わず直ぐに立ち上がる。

途中で踏まれていたらしい布が引っ掛かるが力任せに無理矢理引き抜いて、その勢いのままもつれそうになる足で必死に駆け出した。

なりふり構っては居られない、とにかくここから逃げ出さなくてはならないのだ。

ここに居ては駄目だ。


『三日月宗近』の顔面に頭突きを喰らわせた上、一言の謝罪もせずに逃げ出した

……と言う自分の行動を山姥切が冷静に理解したのは、最短時間かつ全速力で駆け戻った自室の襖を閉めた後だった。


――ああ、終わったな……。


短い刃生だった。この事が審神者の耳に入れば、間違い無く自分はお払い箱だ。

よりにもよって、どうして『三日月宗近』があんな所に。

審神者が不在の日は自室に籠もって居た筈のあの刀が、出歩く様になったのは知っていた。遠目で見掛けた際、当人に後ろめたい様子は無く、それを目にした近侍代行も気にかけては居ない様だったので、審神者の許可は下りているのだろう。

だからと言って。

どうしてあんな誰も来ない様な場所に来るんだ。

それも俺がうたた寝している時に。


来るなと言える道理は無いが、見て見ぬ振りで通り過ぎてくれればいいのに、どうして覗き込む様な真似を。

どうして、どうして、と。

どれだけ考えた所で自分に『三日月宗近』の思考など判る筈も無い。

気を取り直して謝罪に行く気にもならず、もはや山姥切に出来るのは遅かれ早かれ自分に下されるであろう刀解令に備えて腹を括る事だけだった、が。

予想に反してその日近侍代行が山姥切の部屋を訪ねる事は無く、その翌日以降も山姥切の日常は滞りなく流れた。


どうやら全く気にされなかったらしい。

考えてみればそれもそうだ。相手は名だたる天下五剣様である。

たかがあの程度の事で自分の様な物に憤慨するほど狭量では無いのだろう。

そう思い山姥切も気にするのを辞めた。


それから幾日が過ぎ、山姥切がすっかり忘れた頃に『三日月宗近』は再び現れた。


快晴、初夏の空。

いつもの様に独り、屋根の上で庭を眺めていた。

屋根に登る物好きは他におらず必然的にここは山姥切だけの特等席で。

だから――油断していたのだ。

心地良い陽気と眠気に半ば意識が飛びかけていた所為か、微かな物音と気配に振り向いた時には既に『三日月宗近』がそこに居た。もっとも本人は気付かれたとは思っていない様子で、必死に屋根によじ登っている真っ最中だ。


どうして。

またいつぞやと同じ疑問が頭を埋め尽くし、身動きが取れなくなる。

自分は今どう行動するべきなのか……しかし。

それにしても。

目の前で悪戦苦闘中の青い物体が危なっかしい。とにかく、危うい。

それはもう思わず声をかけて助け船を出したくなる程に。

だが山姥切がここで取るべき正しい行動は決して〝声をかける〟では無い筈だ。

ここはお気に入りの場所だが『三日月宗近』がここに居たいのであれば譲って早々に退散した方が良いだろうし、この機会にいつぞやの非礼を詫びるべきかも知れないがそもそも自分は天下五剣の前にのうのうと顔を出せる様な名のある立派な名刀では無い、だからとにかく――。

焦りで塗り潰された思考が空回りしている内に事の元凶は無事に這い上がってしまった。顔を上げた『三日月宗近』の達成感に満ち満ちた表情は、山姥切と目が合うや否や更に輝きを増して綻んだ。

まともに顔を見るのはこれが初めてだけれど余りにも印象が違い過ぎる。


今まで見かけた『三日月宗近』は美しさそのものが服を着て歩いている様に楚々と、身動きをしなければまるで人形と見紛う程に粛々として。

それが、今目の前に居るのはまるで。


「なぁ、」

初めて聞いた声は随分とのんびりした物だった。

八.


『山姥切国広』の名を聞き出して約一月程過ぎた日の夜半。

いつも通り床に就いた筈がふと目が覚めてどうにも寝付けず、水でも飲もうかと薄明かりの廊下に出た所で、視界の先に山姥切の姿を捉えた瞬間。

三日月は咄嗟に駆け出した。次に見付けたら、走ってでも捕まえようと心に決めていた。そうでもしないとまた逃げられてしまう。


三日月に気付いた山姥切が走り出す。予想通りだ。

いつも先手を打って逃げられるのに比べ、今は三日月の方が先手、恐らく山姥切も戦場ならいざ知らず三日月が本丸の中で走るとは思って居なかったのだろう。

明らかに反応が遅れた。

これなら追い付ける、掴まえられる。

〝廊下は足音を立てずに歩く〟

構うものか。

〝余裕を持った優雅な立ち振る舞いを〟

知った事ではない。

そんな物は主の前でだけ心得て居ればいい。今は必要ない。

長く続く廊下をひた走る。幾つかの曲がり角で振り切られそうになりながら、漸く翻る布の裾に手を伸ばし、掴んだ。

そう思った途端無理矢理引き抜かれる感触がして、いつかの縁側で逃げられた時を思い出す。逃げられる。また、逃げてしまう。

「山姥切国広!!」

「触るな!!」

怒鳴り合うような声を発したのは、ほぼ同時だった。三日月の手から毟るように布を奪った山姥切が振り返り、お互いに軽く乱れた呼吸を整えながら対峙する。

じり、と山姥切の足が僅かに引かれたのに気が付き一歩踏み込んで手首を掴もうとした所で、再び「触るな」と強い口調に制される。三日月が手を引くと、山姥切はもう逃げるつもりはないとでも言うように溜息を吐き、身構えを解いた。

「薄暗くて……太刀のあんたはよく見えないかも知れないが」

そう言って自分の右半身を覆う布を捲る。寝間着の三日月とは対照的に、山姥切は武具を身に付け帯刀したままの姿だった。

「俺は帰城したばかりで酷く汚れている。だから、触るな」

夜間用に光量を最低限に落とした廊下の照明では、夜目が利かない三日月が目を凝らしても山姥切が言う汚れはよく判らない。だが、言われてみると山姥切は微かに土や鉄錆の臭いを纏っている。

「……怪我をしているのか?」

「返り血と掠り傷だ。手入れに行く程じゃない」

これから部屋に戻るところだ、淡々と紡ぐ言葉は本当らしく挙動に違和感はない。

三日月は内心胸をなで下ろし、緊張が張り付いた表情を和らげた。

触るな、そう声を荒らげた山姥切に本気で拒絶されたのかも知れないと。

一気に頭の芯が冷え、同時に焦燥が湧き上がり、意識の端を焼いて行く感情。

初めて味わったそれを三日月は『恐ろしい』そう思った。

「あんたが……俺に話すような事があるとは思えないが。話があるなら、聞く」

「お前に礼が言いたかった」

微かに息を飲む気配がして、山姥切は俯いた。

「礼を……言われるような覚えはない」

「あるだろう、俺が困っていた時に助けてくれた」

「ただの余計な世話だ。礼を言われるような物じゃない」

「俺は不快でもなければ迷惑でもない、そう言った筈だ」

馴れ馴れしい態度を取った、山姥切はそう口にしたが。

「あの時お前が気兼ねなく接してくれたのも、世話を焼いてくれたのも、俺はとても嬉しかった」

「あんたはいつも誰かに身の周りの世話をされているんだと思った……だからああしただけだ。それが当然だと思っただけで、善意でも何でもない」

礼を言われる筋合いはない、平坦に言葉を紡ぐ山姥切の表情は布に隠れて見えない。

「どうして俺から逃げる」

「……あんたは俺と話すべきじゃない。言っただろう。俺は、あんたと話せるような立派な刀じゃない」

頑なに否定を口にする山姥切から感情は読めず、三日月は短く溜息を零した。

「それは誰が決める事だ?」

「誰が決めるも、何も。判りきった事だ。あんたは天下五剣で、主の愛刀で」

「お前が写しだからか?」

山姥切の纏う空気が変わった。

「ああ、そうだ」

硬質なそれは、以前三日月の部屋で去り際に見せた物と同じだ。

「誰に聞いたか知らないが。それを知ってるなら、尚更判るだろ」


山姥切国広は『写し』として打たれた刀であり、自身もそれを随分気にしている。

その話は、近侍代行を務める刀から聞いた。山姥切を見かけては逃げられると言う事を繰り返す間、三日月とてただ手を拱いていた訳ではない。余りにも避けられるものだから、三日月なりに理由を探してはいたのだ。

話を聞く事が出来たのは指折り両手が埋まらない程度だが、山姥切国広と言う刀についての問いに返る言葉は皆同じ様な物だった。

与えられた任務は忠実にこなすが終わると直ぐに姿を消す、同じ派である兄弟刀には馴染みがあるようだが他に特別親しい刀がいる訳でもない。

幼子の容姿をした短刀達は、かの刀を優しいと言った。それには三日月も頷きを返したが、総評は『よく判らない』の一言に尽きる。

「山姥切国広……お前が言う立派な刀とは、どんな刀だ」

「言うまでもない」

微かに山姥切が笑う声を聞いた。

初めて耳にしたそれは自嘲としか表し様のない乾いた物で。

「俺は……確かに『天下五剣』に数えられる刀だが、知っての通り屋根に登れば自力では降りられない。お前が用意してくれた梯子もどこにあるのか知らなかった」

「あんたはそんな事をする必要がないんだ。知る必要もないだろ」

ここでの雑用はあんた以外の刀の仕事だ、言い切って山姥切は顔を上げる。

真っ向から睨み合う様に視線を合わせて言葉を交わすのは、これが初めてだった。

「……主が次からは出陣の際に馬を与えてくれると言った。だが、俺は馬の乗り方も判らなければ馬小屋が何処にあるのかさえ知らない」

「何が言いたいんだ」

山姥切は三日月の言わんとする事が汲み取れないと言外に滲ませ眉を寄せた。

明りが少なくとも三日月が判る程、あからさまに。

知らぬ内握り締めた手に力が篭もる。

「俺は、部隊長の名を持ち戦場にあっても前線には立てない。必ず他の刀の後ろにいる。そうしろと主に言い付けられているとは言えど、護られるばかりの、ただ、そこに在るだけの、名ばかりのこの俺が。お前の言う立派な刀か!?」

三日月自身が驚く程に強い語調に押され、僅か肩を揺らした山姥切が表情を困惑へと変えた。

「俺は……!」

「声を抑えろ、三日月宗近。休んでいる奴を叩き起こすつもりか」

尚も続けようとする勢いを制したその声は存外に柔らかく、三日月は言葉を留め山姥切を見つめる。

「あんたが出陣しても思うように動けずにいる事は知っている。俺のようにあんたの部隊に入っていない刀でも」

「……周知の事実か。情けない話だな」

同部隊に配属されている刀に気遣われている自覚はあった。

例え 〝傷一つ負わずに帰城せよ〟 と言う命令を全うする為には致し方ない事であってもそれは歯痒い物だ。元より出陣して全力で戦った事も無ければ本丸内で他と刀を交えた事も無い三日月は、己の限界も知り及ぶところでは無いのだが。

それでも肉体を得て刀を振るうからこそ、己自身判る物もある。

自分は本来の力の半分も発揮出来ては居ないのだろう。


「山姥切国広、今一度問う。俺は、お前が言う程の『立派な刀』だろうか」

三日月の口から出たのは随分と弱々しい声だった。

「この本丸での在り方は主が決める。誰も今のあんたを責めたりはしない」

だから負い目に感じる事はない、山姥切がゆっくりと諭す様に言葉を紡ぐ。

「前線に立とうが立つまいが あんたが天下五剣随一と謳われる名刀な事には変わりがないだろう」

「それは、人が決めた事だ」

人に――今の主に――求められる姿や在り方を充分に満たしている自負はある。

だがそれは少しでも三日月自身が望む自由を得る為の演技でしかない。

「お前も、俺にそう在る事を求めるか」

人が口にする評価のままに、己を型に嵌め込む事を。

「……いや」

短く否定を口にした山姥切は腰に提げた自身の刀に視線を落とした。

「あんたは本来、主が求める様な大人しくて美しいだけの刀じゃないだろう」

「主を前に求められる通り在り続ける事も主命とは思うが」

歪ながら人の様に命と血肉を得た以上、それを与えた審神者の望む通りの働きをするのが、ここでの理だ。

三日月は特異な扱いを受けているのが自覚出来ない程愚鈍ではない。けれど喜びや優越感ならばいざ知らず不自由だと感じる以上は〝何か〟が違うのだろう。


「どう在るのが本来の姿なのかは、わからん」

ただ、漠然と己が無為な物に思える。

同時に主の寵愛を受ける事のない他の物を羨ましいとさえ。主に所有される刀としていかに贅沢な考えであるのかを正しく理解しながらも、三日月は気侭に振る舞えない身の上を煩わしいと感じる。

「……あんたは、どうしたいんだ」

山姥切が再び視線を上げ、三日月を見た。真っ向から見据える瞳の強さが心地良いと思うのは、他の誰とも違うからだろう。

自身の出自に思う事はあれど山姥切は『三日月宗近』に対して期待も憧憬も抱いてはいない。それが三日月は嬉しかった。

「俺は」

頭の片隅に過ぎるのはいつも遠巻きに眺めている刀達の姿。お前は本当に美しいと悦に浸り甘言を弄する主の声、それに応えて偽りの笑みを浮かべる自分。

「……、同じでありたい」

今目の前の山姥切が纏う土埃や鉄錆の臭いは、微かであっても自分には無いものだ。 刀剣男士としての使命を果たす為の刀として在る事が羨ましく思う。

「飾られ褒め称されるだけの贔屓など要らない。お前たちの様に、戦場にあって己を誇れるような物でありたい」

山姥切はさして反応を示さず、ただ静かに三日月を見据えて居た。

「俺は愚かだろうか」

主の寵愛を甘受するだけの在り方に疑問を抱くなど、所有物としてあるまじき思考であるのか。

「……あんたがそう望むなら、それが答えだろう。愚かだとは思わない」

落ち着いた声色に愛想はなく淡々としていたが、酷く優しい物に思えた。

山姥切の問いかけに答えながらどこかで否定される事を覚悟し、切り捨てられる事を怖れていたのだ。

初めて明かした本心を否定されなかった事、それだけで充分過ぎる程に胸が満たされる思いで、上手く言葉が出て来ない。

「ところであんた、こんな時間にうろついて何をしてたんだ。まさか俺を待ち伏せていた訳じゃないだろう」

何を言うべきか考えあぐねている間に、山姥切が口を開いた。

「ああ、目が覚めてしまったので厨へ行って水でも飲もう……と思ってな。そこへお前の姿が見えたものだから」

咄嗟に追いかけてしまった、そう答えると短い溜息の後で静かに上がった右手が三日月の後方を指し示す。

「厨は逆方向だ。ここに来る前の十字通路まで戻って左へ曲がれ。その次を右」

「おお、そうか。実は今どこにいるのかもよく判っていないんだ、とても助かる」

「用が済んだら早く部屋に戻って寝るんだな……あんたの部隊は明日出陣予定があるだろう」

ごく自然に山姥切が背を向けた。

それは三日月が今まで見慣れた素早い動作ではなく、危うく見送りそうになった程にゆったりとした物で。

「山姥切……!」

「あんたから逃げるのは、止めにする」

背を向けたまま、山姥切はそう言った。

「本当か」

「話したい事があるなら昼間にしろ。寝不足は身体に響くぞ」

「本当にもう逃げずにいてくれるのか?」

僅かながらに見知った『山姥切国広』という刀の性分を思えば、ここで詭弁を並べる筈はないだろうと予想は出来る。それでも問わずに居られないのは、三日月自身がその予想を信じられる程には山姥切を知らないからだ。

「あんたがただの刀でありたいと、そう願うなら。それを知ってる俺くらいは……あんたを特別扱いしなくてもいいんじゃないか」

主の前でなければ、と一言付け足して山姥切は言葉を締めた。

そう言ってくれた事が嬉しくて、ただ嬉しくて。思わず手を伸ばした三日月が山姥切に触れたのは、山姥切が反射的に手を払おうとするよりも早く。肩を捉えて振り向かせる事に成功した三日月は山姥切の右手を掴んだ。

「触るな、汚れる……!!」

慌てて振り解こうとするが、そこには必死さは無い。

「そんな事どうだっていい、あとで洗えばいいだろう!!」

三日月が強く言う声に山姥切はたじろいだ。

逃げるのを止めると言った手前派手に抵抗出来ない様にも見えるし、三日月の事をどう扱えば良いのか判りかねている様にも見える。

三日月が握り締めた山姥切の右手は思った以上に華奢だったけれど、日々戦場で刀を握る掌は力強さに満ちていた。

それを素直に好ましく羨ましく、噛みしめる様に両の手で包み握り直す。

「山姥切国広……俺は嬉しく思う。お前がかけてくれた言葉も、俺を否定せずにいてくれる事も。だから改めて礼を言わせてくれ」

ありがとう。そう口にして笑いかけると山姥切は僅かに視線を彷徨わせ、ゆっくりと三日月の顔を見た。

「……ああ」

心許ない明かりでも近付けば表情が判るようになるだろうかと思ったが、山姥切の顔に判りやすい感情は浮かんでいない。ただ、握られた手をそのままに逃げようとする素振りもなく、視線を合わせてくれた事が嬉しかった。

「うれしいなあ」

三日月が思ったまま呟くと、少し眉根を寄せた山姥切に緩んだ手を解かれる。

『汚れている』と言ったのは強ち嘘でもなかったようで、山姥切の手を握っていた掌には少しだけ、乾いた土埃の感触が移った。

三日月は出陣する時に素手を隠す。本丸内で直接物に触れても、手が土埃で汚れる事は滅多にない。この感触はいつぶりだろう。

「……ちゃんと手を洗って部屋に戻れ。迷うなよ」

そう言いながら纏う布の内側、比較的汚れていないのであろう部分を手元に引き寄せ三日月の手を拭うのを見ていると、初めて屋根に登った日を思い出して自然と頬が緩む。やはり、山姥切は面倒見が良いのだ。

「……何をにやけてる」

「うれしいんだ」

山姥切は呆れた様な溜息をついた。

「もう屋根には登るな」

同じ様な事を考えていたらしい山姥切が、次からは声をかけられたら降りると言って背を向ける。


「またな、三日月」


それは独り言の様な小さな声だった。

三日月の耳にはしっかりと聞こえていたけれど。

九.


相手は天下五剣、対して自分は傑作と呼ばれようが所詮は写し。

片や審神者が掩蔽したがった程の愛刀、自分はむしろ審神者に厭われている方だと言っても過言ではない。愛想がないのに自覚はあるし、あの審神者に気に入られるように振る舞うつもりが無いのも事実だ。

出陣する予定の無かった『三日月宗近』本人が部隊編成を希望したと言う話を小耳に挟んだ時はそれならいずれは組む事が在るだろうかと微かに思いもした。

だが三日月の第一部隊に配属されるのはもっと練度の高い刀であり、それらは『三日月宗近』を守る為の盾だ。

編成は全て審神者の意向の元で行われるのだから当然だろう。


同じ本丸に居ても接点はまるでなかった。

作ろうとも思わなかったし、自然に出来る筈もない。

元より山姥切自身、積極的に他と関わろうとしない物であったから。


それなのに何故か。

気が付けば麗しの天下五剣は自ら山姥切のいる所に足を運ぶようになっていた。

正確に言うと、暇な時に探し歩いているらしい。


「一昨日は随分長く探したのに結局見付けられず仕舞いだった。国広は隠れるのが上手いなぁ」

今日は内番の土いじりに勤しむ自分の傍にいる。

内番を任された事がない三日月は支給されて居る筈の内番服がどこにあるのか判らない、箪笥の中で見かけた覚えないのでもしかすると主に捨てられてしまったかも知れない、そう言って上等な狩衣姿のままでどこでも歩き回った。

畑にしろ馬の世話にしろ、内番の時は何かしら汚れるから近くに来るな、そう言っても聞かない性格なのはこんな事が何度もある内に判って来た事だ。


「一昨日は長時間遠征に出ていた」

「おお、そうか。ではいくら探しても見つからないな」

最初、お前の事を探し回っているのだと報告して来る三日月は、自ら三日月の元へ出向かない自分の事を咎めているのかと思った。

初めて屋根の上で言葉を交わした時も、審神者が気に入らない刀に対してする様に声を荒らげて怒鳴りつけたりするものだと思って警戒したけれど。

三日月の気性は随分と穏やかなものらしい。


人の世に於いて天下五剣と呼ばれる刀で刀剣男士として顕現が確認されているのは今のところ『三日月宗近』ただ一振で、それを所有する審神者の数は希少である。

山姥切は自本丸以外の『三日月宗近』を見た事も無い。

果たして天下五剣とは皆こうなのか、自分とどこかの『山姥切国広』の様に個体差の所為でこの本丸の『三日月宗近』が特に温厚な性質であるのか。

探したのに、見つからなかった。

三日月の言うそれは文句ではなくただの話の種だ。

話し相手が欲しいのだろう、と思う。

自他共に認める御飾りでいるのは退屈なのだと以前言っていた。


それにしても、話がしたいなら別の相手がいるだろう、とは常々思っている。話好きな短刀にも何人か見知った顔があると言っていたし、同じ刀派の刀もいる筈だ。

ここにいる刀達は主からの命で三日月に親しく話しかけたりはしないよう努めてはいるが、性根は悪くない刀ばかりだと思う。

三日月が話し相手になってくれと言えば、主不在の折にまで三日月と距離を置こうとはしない筈だ。そう教えてやっても独りで気ままに過ごしている山姥切をわざわざ探しに来るのだから、三日月は相当暇を持て余していると見える。


「国広、これはどう使う? いつ使う?」

三日月は何にでも興味を示してそう尋ねて来る。

内番を任されないどころか雑用当番さえも割り当てられない三日月は、本当に同じ本丸で生活しているのかと疑問になる程に物を知らない。

「あとで使うから、見ていればわかる」

手が汚れるから触るなよ、と付け足すと伸ばしかけた手を引いて「あいわかった」と素直に頷いた。放っておくと何をするか判らないが聞き分けは良い。

「国広、今日の夕餉は何だろうな?」

「さあな」

唐突に話が変わるのも慣れた物だ。

献立は廊下の掲示に出ていた気がするが、山姥切は厨に立つ事が殆ど無い上に、毎日気にして見る様な癖も無いので思い出せない。

「俺は焼き魚が食べたい」

「魚か」

「昨日の柔らかい肉を焼いたのも美味かった。名前はわからないが」

「あれは、」

確か、洋食の。

「ハンバーグと言うやつだ」

「はんばーぐ」

「ああ」

「そうか」

覚えたぞ。

そう言ってうんうんと一人頷く三日月は何が楽しいのか。

山姥切の姿を見つけるとのんびりと傍に寄って来て、おはよう国広、そうやって話しかけて来る。三日月はその間もずっと笑顔を浮かべて居るのだ。

まるで嬉しい事があった幼子の様に、にこにこと。

審神者の傍らに在る『三日月宗近』とは全く違う表情で。


こんなたわいない話をするのも、自分の様な刀と話すのも、別段喜ぶような事ではないだろうに。誰かと話が出来るだけでこんなに嬉しいのなら、とんだ寂しがりだ。

審神者も三日月に対して主らしい振る舞いをしたいのなら自分がいない間の話し相手ぐらいきちんと用意してやるべきだと思う。勿論、写しの自分などではなく、天下五剣と釣り合いの取れるような、もっと雅事が判る立派な名刀を。


「なぁ、国広」

「なんだ」

「明日は晴れだろうか」

「さあな……」

訊かれても俺が知る訳ないだろう。

そう思いながら素っ気なく応えるが、三日月は少しも気にする様子がない。

「晴れると嬉しいな、そしてお前に会えればもっと嬉しい」

「晴れはともかく、そこに俺が関わる意味がわからない」

「お前は俺より物を知っているのに」

「それとこれは別だ」


集中してさっさと仕事を終わらせてしまいたいのに、三日月が傍であれやこれやと触りたがったり声をかけたりするから独りの時ほど進まない。それでも邪魔だから追い払おうと思わないのは、三日月が傍にいるのは不快ではないからだ。


余りにもしつこく訊いて来るのに呆れて名前を教え、避けるのを止めて話し相手をする様にしたところ、三日月は山姥切の事を「国広」と呼び出した。

この本丸には自分を含め『国広』が三振いて、『国広』は山姥切と同じ刀派である兄弟刀の呼び名だ。皆は山姥切国広の事を「山姥切」と呼んでいるし、呼び分けの為と判っているので山姥切自身も納得している。

その事は教えたのに、自分はその兄弟刀とやらを知らない、だからお前は国広でいい、勝手にそう言い切った三日月は山姥切の事を国広と呼ぶ。


『山姥切国広は、国広第一の傑作である』

その矜持は持ち合わせている。

それに見合うだけ刀としての働きもしているつもりだ。


慣れない刀匠の名で呼ばれるのはむず痒さを感じるのと合わせて妙な気恥ずかしさもあるのだが、決して悪い心地はしなかった。

山姥切の所に三日月が姿を見せる様になった事は、誰も知らない。

三日月は人目を忍んでいる訳では無くとも自分から誰彼構わずに親しく声をかける様な事はせず――それは、周りを思っての遠慮で本当は話したいのだろうと山姥切は思うのだが――山姥切が独りで居るのを好む性質なのは周知の事であった為、二人だけで過ごす時間が出来上がると言うだけの必然だ。


山姥切は三日月を避けて逃げ回るのは止めた。

けれど自分から近寄る訳でもない。それは本来の性分と引け目、加えて様々な物が重なった思考の末導き出された対処である。

この本丸で日常を過ごすに当たって審神者やごく限られた一部の刀達を除き、他と交わる事が無い『三日月宗近』の存在は無いも同然と言えた。


山姥切も三日月も、このささやかな交流を他の誰かに話す事は無い。

特別に約束を取り交わした訳でも無いが、恐らくこれは秘すべき物なのだろう。

山姥切は気儘に日々を過ごし、時折三日月が現われると何かと世話を焼く。

見てみたい、やってみたい、そう三日月が口にする事はこの本丸に於ける『三日月宗近』の扱いを思えば半分程も実現出来ないけれど。


これではまるで世話係の様だと思いながら、ほんの少しだけの『普通』を。

同じでありたいと、そう言った三日月の願いを叶えてやりたかった。