プロフィール
プロフィール
塩見鮮一郎(しおみせんいちろう)は本名です。
塩見は母方の姓で、明治維新前は「塩飽」といいました。塩の字は正字のむつかしい漢字です。「しあく」と読むのか、「しわく」と読むのか、これにもむつかしいところがあります。父方は藤井です。なぜ母方の姓になったかのかの説明にも、ながい物語が必要です。
1950年にわたしは、中学生でした。そのとき、21世紀はじつに遠くに輝いていました。それが、もう到着して、少しずつ色あせて過ぎ去っています。オソロシイことではありませんか。
ずっとおなじ場所に住みつづける人がいる。家屋を相続した人に多い。どんな気持ちなのだろう。ちがった土地に移転してみたいと思わないのか。それとも生まれた場所に居つづけられることに安心しているのか。一方で、好むと好むまいと、仕事のつごうで、あちこちを転々としている人がいる。行きたくない土地に住むときは、気がおもいだろう。
わたしは転居をくりかえしたほうである。もっと多い人はいくらでもいるが、平均よりは多いのではなかろうか。「転居ぐせ」があると思っているが、動きたくないのに仕方なく引っ越したこともある。いや、のっぴきならない理由があった場合がほとんどで、それではみじめだから、すすんで転居したように思いたがっているだけなのかもしれない。
(住所、居住していた年月、そのときのわたしの年齢、コメントの順)
生まれた場所ははずせないだろう。
岡山駅正面口から、一キロもない。家の左手ななめ向かいにちいさい金毘羅(こんぴら)さんがあった。いまもある。四国香川県にある金刀毘羅宮(ことひらぐう)を勧請したもので、町名はこの宮に由来する。大坂や岡山からの金刀毘羅詣では江戸時代、丸亀の港から上陸した。
金毘羅さんがある町だから「丸亀町」というわけだ。それで、わたしが最初に住んだ家の住所が丸亀町になった。いまは町名が変わり、野田屋町二丁目である。ここの八番地十六号のあたりか。
これ以前は、わたしはまだ生まれていないが東京の赤羽にいた。父が農林省に就職してここに住んだ。そのまえは大学ちかくの本郷真砂町に父母は同棲していた。つまり、わたしは誕生以前から、転居をつづけていたことになる。数えで二十六歳の母は、わたしを産むために、実家の岡山市丸亀町に帰ってきたことになる。
母の姉の嫁ぎ先である。耳鼻咽喉科の開業医、宇野病院の貸し長屋で、ここの二階に住んだ。父が戦死したため東京にもどれなくなった。
石原という武家屋敷の離れに住んだ。「広辞苑」に出ている「花畠教場」のちかくだ。半年か数ヶ月のあいだここにいた。
いまの地名では倉敷市児島で、鷲羽山の付け根のあたりになる。当時はあたりいちめん、茶褐色の塩田がひろがり、軽便の下津井鉄道が走っていた。いまは瀬戸大橋のたもとだ。
岡山市にまいもどってきた。ちなみに「おかやま」とは、丘の山で、城が丘にあったので、この名になった。ただ、旭川が倉敷のほうに流れていたのを城の下に導いてきて、いまのかたちになった。内田百閒の筆名になった百間川は比較的に新しい支流である。また、岡山市はモデルを中世の京都にもとめた。だから、京橋という橋があるし、東山という山がある。
この東山には江戸時代の初期に東照宮が置かれた。徳川にゴマをすってみせたのであるが、いまは玉井宮という。岡山駅から路面電車に乗ると終点が東山で、玉井宮の入り口である。この電停から左に入ったところが徳吉町で、むかしの寺町であった。電車の車庫になった広い土地も寺の跡かも知れない。
師範学校は、いまの岡大付属小学校である。六月二十八日の空襲で灰燼に帰すまで、師範学校のピアノの音が聞こえるような場所にいた。空襲のとき、旭川にかかる相生橋を渡って逃げる永井荷風がいた。「旭橋に至るに対岸後楽園の林間に焔の上がるを見しが、逃げるべき道なきをもって橋をわたり西大寺町に通ずる田間の小径を歩む」と、自身で書いている。
荷風の 『羅災日録』の岡山市の被災前の描写は、幼年時代のわたしの記憶とも一致し秀逸な記録だと思うが、上に引用の文にはあやまりがある。 「旭橋」は「相生橋」である。なお、ここにいう「西大寺町」は、市内にある西大寺町ではなくて、吉井川の河口にある西大寺である。西大寺に行く軽便鉄道の駅のほうにむけて逃げている。そうでなと、「田間の小径」がわからなくなる。
空襲後すぐに、ここの農家へ独り疎開した。このころの牛窓は、朝鮮通信使が寄港したころの華やかな面影もなく、のちの観光地「日本のエーゲ海」でもない、さびしい寒村であった。
「足守」はアシモリと読む。岡山市に入っているが市街地からずいぶん離れている。離れすぎだと文句をいいたいほどだ。それもそのはず、明治維新直後には、ここは「足守県」として岡山県とならんでいた。交通の便をいっておくと、岡山駅から吉備線に乗って、ラフかディオ・ハーンの「吉備津の釜」の吉備津神社をすぎる。秀吉の水攻めで有名な備中高松城もすぎて、つぎの駅がやっと足守駅だ。足守駅からはバスで足守川をさかのぼること十五分で、後白河上皇に寄進された荘園に着く。江戸時代は足守藩で、木下氏が支配した。木下は木下藤吉郎の木下につながる。わたしが疎開したときの足守は、牛窓同様に忘れられた寒村であった。足守小学校の前の自転車店ふうの家に住んだのだが、裏にまわると田畑がどこまでもひろがっていた。ここにも母はこなくて、祖母と伯父一族といっしょにくらした。敗戦の夏は
いつまでも暑かった。足守には1945年以来、一度も行ってない。ふるい町並みが残っていそうだし、緒方洪庵生地の碑、木下利玄の生家もある。いちど再訪してみたい。
おとなは、「ダイク(大供)に住んだ」というが、もっと宇野線(瀬戸大橋線)のガードにちかい。岡山駅を正面東口に出て、高島屋デパートの前の道を南に進む。年配者ならなつかしい「カバヤ」の工場が右にあり、左手にはやがて山陽新聞社がある。そのさきが、一角に市役所がある「大供のロータリー」である。(21世紀になって路面電車がこのコースに新設される。)ータリーを右に曲がったあたりが厚生町である。
当時はあたり一面が焼け野原で、掘っ立て小屋がぽつぽつと建っていたものの、社宅ふうの木造長屋が焼け残っていた。おくの六畳には先住の老夫婦がいて、わたしや母が借りられたのは表の三畳間だけである。雨になるとガードの下の道路に水がたまった。トラックが水しぶきをあげて走り、動けなくなった自動車はそのままつかっていた。
どっしりとした感じの二階屋で、せまい庭に公孫樹の木が目立った。敗戦の年は、この一軒屋に五所帯ほども住んでいて、わたしたちは二階の八畳間だけだった。だんだんとみながでて行き、46年には、一軒ぜんぶを使用できるようになった。
⑩とおなじ番地だが、公孫樹の木の家の西隣りになる。戦後、四年ほどして、焼け跡に平屋を新築して移った。東京に行くまでの十四年間をここですごした。同一の家に住んだ時間としては、わたしにとっては並はずれてながい。もう、この記録を塗りかえるほどの余命はないから、生涯最長の居住地である。
東京で最初に住んだのは、西武池袋線の東長崎駅のちかくだ。南長崎なのに、東長崎駅で降りる。そのときは、駅からかなり歩いたように思ったが、いま歩くと、こんなにちかくて便利であったのかとなる。家主はちいさい会社の役員で二階建ての家を新築したばかりだ。ローンの返済もあるので二階の一室を貸間にした。そんなところだ。
美人だが神経質な妻がいて、わたしに朝食を用意するから、娘をお茶の水女子大付属幼稚園までつれて行ってくれという。東京にきたばかりのわたしは、それがどれほど面倒なことかはわからない。引き受けた。が、すぐに音をあげた。五月の連休明けには逃げだした。
きたない部屋でも自由なほうがいい。
いまのサンシャインシティーの南西側、西友ストアがあるあたりだ。池袋駅の東口から徒歩十分か。このような地の利を得ながら、アパートの部屋代が激安であったのは、建物が敗戦直後のボロであったばかりではなく、せまい道路を挟んですぐに東京拘置所があったからだ。
赤レンガの塀とコンクリートの高い塀が、いまのサンシャインシティーの土地を囲んでいた。
戦後すぐには「巣鴨プリズン」と呼ばれ、A級戦犯が処刑されたのもここである。
わが部屋の窓は、わずか七十センチ平方ばかりで、おまけに格子が入っていた。そこから塀の向こうのおおきな窓の格子を眺めていると、ときどき、通用門の前に人だかりがした。学生運動家か労働組合員かやくざが、仲間を迎えにきたのだ。当人が釈放されて出てくると、「バンザイ」となる。この愉快な土地にいつまでいたのか。東京オリンピックの開かれた1964年10月にはここにいて白黒テレビを見ていた。格子窓の外には、ヘリコプターがうるさく、花火の音もした。年が変わってまもなく引っ越したのだが、何月であったかは忘れている。
こんどの住処も豊島区だ。地方から出てきた者は、最初に住んだ場所の近くで部屋を探してしまう。なかなか、新天地へ飛び立てない。アパートは米屋の二階で、東武東上線の北池袋駅から歩いて五分ほどだ。
会社は小川町にあったから、池袋から営団丸ノ内線で御茶ノ水駅まで行った。⑫のアパートよりはすこし遠くなったが、このころの通勤距離は、まだ牧歌的である。それでも完成まもない地下鉄の混みかたはすごかった。
ここをながく本籍としていて、右の番地にまちがいはないが、いまの地図で見ると桜木二丁目二十二番になる。地下の上野駅を出た京成本線が地上に顔をあらわすちかくだ。寛永寺や上野公園が散歩のコースになる。
団子坂の菊人形の土地にできたマンションだった。ここの八階に住んだ。鴎外記念館の近くでもある。
短いあいだ三畳の小部屋を借りていたが、ローラー作戦の警官がうるさいのでやめた。
善福寺河畔のアパート。元は釣堀であったかで、湿気がつよかった。ここで、『浅草弾左衛門』を書いた。
築五十数年で、わたしよりすこし年上の二階家であった。御幸が浜がちかくて、よく出かけた。ここで、『北条百歳』を書いた。
小平団地の近くになる。部屋を探したのがバブル経済がまだどうにかという時期で、もとの荻窪には家賃が高くて帰れなかった。
ここで、三一書房から出した六冊の本と、長編『車善七』と『深川医者殺し』、その他を書いた。親が転居すると、子は転校しなければならない。転校は心理的にも面倒らしく、子から転居を禁じられ足掛け十年、ここにいた。
(2005年8月記)