宮沢賢治は、「あらゆることを、自分を勘定に入れず(自分のことを優先せずに)生きることができたら、なんと幸いだろう」と、自分の手帳に刻んで、生涯を終えたと言われています。生きるということに真剣に向き合い、死の床にあってもなお生きることを考える宮沢賢治の姿に多くのことを教えられます。
私たちも家族の一員として家族の世話をする、学校や職場で周りの人たちのお手伝いをする、ボランティア活動に参加するなど、さまざまなかたちで他者のために何かをしているでしょうし、時には自分を犠牲にしながら何かをするということもあるでしょう。しかし、それが、全くの無私の精神で行われているかと考えると疑問なのです。私も、以前に、何回か被災地にボランティア支援に行ったことがあります。そこで、片付けなどのお世話をした方から感謝をされると気分が良くなり、満足感がありました。どこかで自己満足のためにボランティア活動をしているのではないだろうかとの思いがぬぐいきれなかったのです。そう思った時に、私も、宮沢賢治のように自分を勘定に入れず、被災された方々のために活動をできれば、何と幸いだろうと思わされました。
イエスキリストは、多くの人々を癒し、慰めと励ましを与え、人々を教えましたが、最後には十字架につけられ死なれました。人の目から見るなら、報われない生涯に見えますが、自分を勘定に入れることなく生き抜かれた生涯は、まさに幸いそのものだったのだろうと思います。イエスキリストの生き方は、まさに仕えることであり、キリストご自身も仕えられるためではなく、仕えるために来たと言われています。キリストの仕える生き方の中にこそ、宮沢賢治が求めていた幸いな生き方があり、実際に私たちもキリストのように生きられたなら、そこにまことの幸いを見出すことができるはずです。自分を勘定に入れず、周りの喜びを自分の喜びとし、周りの悲しみを自分の悲しみとするような生き方をキリストへの信仰を通して与えられたいと思われるなら、ぜひ教会へお出かけください。
神の祝福を心よりお祈りしています。
<聖書のことば>
「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
1月19日の日曜日の午後に、教会主催の「わくわく子ども会」が行われ、餅つきをし、子どもたちやご父兄の方々と楽しい時を過ごすことができました。
その会の中に「聖書のお話し」の時間があり、私が聖書から回心したパウロの話をさせていただきました。パウロはもともとサウロという名でしたが、厳格に律法を守ろうとするユダヤ人でした。ですから、イエスキリストを信じるだけで罪が赦されるなどということは、律法を軽視しているように思えて、新しい新興宗教が現れたのではと思ったかもしれません。それで、彼は、キリストの弟子たちを脅かして殺害しようとの迫害の意に燃えて、ダマスコという所へ行く途中で、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」との声を聞き、「主よ。あなたはどなたですか」と問うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えられたのです。その時に、彼は、自分が間違っていたことに気がつき、クリスチャンを迫害する者から、キリストの救いを人々に伝える者へと変えられました。
人は、必ず新しく変えられると信じますが、そのために必要なことがあります。それは、自分の過ちを認めることです。二つ目が自分で変ろうとせず、神様が自分を変えてくださるようにおゆだねすることです。新しい年が始まり、一ヶ月が経ちましたが、この新しい年に、これをお読みのお一人お一人が、イエスキリストを信じることで、新しい人に変えられますようにお祈りしています。
<聖書のことば>
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
これをご覧の皆様に、新年のお慶びを申し上げます。また、神の祝福が、この年も豊かにありますようにお祈りいたします。
昨年は、皆様方にとってはどのような年だったでしょうか。さまざまな出来事があり、またいろいろな思いをもって、一年を終えられたのではないかと思います。その中で、自分の境遇を嘆き、自分の置かれた状況に不平や不満を抱かれた方もおられるでしょうか。もう少し良い境遇であれば、自分の能力を周りの人が認めてくれれば、もっと能力を発揮できるはずだと思われる方もあるでしょう。聖書の中に、パウロという人が出てまいります。彼は、「私は、どんな境遇の中にあっても満足することを学びました。」と言いました。ここで注目すべきことは、まず、彼は「どんな境遇の中にあっても満足する」と言っていることです。彼は、決して境遇を嘆いたり、不平を言ったり、境遇のせいにせず、どんな境遇の中にあっても満足していました。二つ目が、彼は、そのことを学んだと言っています。どんな境遇の中にあっても満足することは、学ばなければ身につかないということです。そして、私自身も、パウロのように、どんな境遇の中にあっても満足できる信仰を、聖書から学びました。皆様方も、聖書を通して、どんな境遇の中にあっても満足する秘訣を学びことができます。この年は、聖書を学び、そこから新しい発見をし、他ではなかなか学ぶことのできないことを学ぶ年としませんか。教会へのご来会をお待ちしています。
<聖書のことば>
「私は、どんな境遇のにあっても満足することを学びました。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
聖書の中に、東方から来た博士たちが星に導かれて幼子イエスに会い、礼拝する場面が出て来ます。以前に、人が星に導かれて、キリストに会うことなどありえない、聖書の話しはとても信じられないと言っていた方がいました。キリスト教と何の関係もないと思っていた彼は、その後クリスチャンと出会って、一緒に教会に行くようになりました。クリスマス礼拝に出席し、彼は、神がおられ神が導かれたに違いないと信じることができたそうです。神は、クリスマスにあなたのことも教会に招いています。ぜひ、この機会に教会にお出かけください。
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
アメリカでは、11月の第四木曜日をサンクスギビングデイと呼び、祝日と定めています。そして、家族や親族、友人などが集まり、食事をしながら楽しく過ごします。
このサンクスギビングデイですが、1621年にイギリスからアメリカへ、ピルグリムと呼ばれる人たちの移住がその始まりです。彼らは、過酷な自然環境の中で、病気や飢餓により多くの死者を出しましたが、ネイティブアメリカンたちの知恵を借りて、最初の収穫を見ることができました。そのことを感謝し、また、ネイティブアメリカンたちを招待して、祝宴を持ったことから、サンクスギビングデイとして祝われるようになったと言われています。
私たちも、日々食事ができていることの感謝、そして、毎日苦労しながら食物を育てて、私たちの食を支えてくださっている生産者の方々にも心から感謝をしたいと思わされています。それと同時に、私たちは、天地万物を創造し、今も、天候を始め、すべてを支えておられる神に、心から感謝をしたいと思います。天候は、人にはどうにもなりませんが、神が、日を昇らせ、雨を降らせることで、私たちは収穫を見ることができています。クリスチャンである私たちは、毎日食前の感謝を神にささげています。すべての人に食べる物を与えて、養い育ててくださる神様を知り、この方に感謝をささげていただきたいと願います。
<聖書のことば>
「神は濃い雲で天をおおい 地のために雨を備え また 山々に草を生えさせ 獣に また 鳴く烏の子に 食物を与える方」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
ノ-トルダム清心中・高等学校校長の神垣しおり氏は、「実際、その日の苦労で手一杯なのですから、明日は明日の自分にまかせればいいと思うと気が楽になる。」と著書に書いておられます。
私たちが、まだ自分の手元には来ていない未来のことを考えることは、すべて想像です。実際に、そのとおりになるのかならないのかは、私たちには分かりません。そのことで思い煩ったり、心配したりすることに、どれほどの意味があるのだろうかと思いますし、そのとおりになってから、どうすればいいのか考えればいいのではないかと思います。それでは遅いと言われる方があるかもしれませんが、私たちの人生は、日々の積み重ねです。明日のことを思い悩み、心配するよりも、今日できることを精一杯して、明日は明日で自分ができることを精一杯行えばいいのではないかと思うのです。
私たちクリスチャンは、自分ではどうすることもできないことや、将来のことなどすべてのことを、神にゆだねることができます。そうすることで、神垣氏が語っておられるように、気が楽になり、安心して歩むことができるようにされています。ぜひ、自分の生活や将来、そして人生までもゆだねることのできる神がおられることを知っていただきたいと思わされます。
<聖書のことば>
「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
9月16日は敬老の日です。祝日まで設けて、敬老ということを大切にすることはとても良いことだと思っています。これからも、この国において敬老ということが、次世代へと受け継がれていくことを願っています。
年を重ねてまいりますと、若いころとは異なるさまざまな変化が出てまいります。その一つは、白髪が増えるということです。誰もが、白髪が増えるのはいやだと思われるでしょうし、白髪を染める人も多くおられます。しかし、聖書においては、「白髪は栄えの冠」と言われています。栄えとは、輝かしいとか麗しいと訳すことのできる言葉ですが、なぜ聖書は白髪を栄えの冠と呼んでいるのでしょうか。それは、白髪が、その人の人生の歩みを物語っているからです。自らの人生を振り返るなら、さまざまなことがあったことでしょう。そのことを白髪の一本一本が証ししているのです。
そのように苦労してきた私たちを敬えとか、体力のなくなってきた自分たちを大切にしろと言う前に、大切なことがあります。それは、自分の人生を振り返る時に、自分は胸を張ることのできる人生を送ってきたかということです。誰の前にも恥ずかしくない人生を送ってきたかということです。自分は、周りから敬われる人生を果して送ってきたのでしょうか。
聖書は、私たちの人生に光を与える書物であり、聖書を通して、私たちは、自分の人生を省みることができます。また、これから老年を迎える方々も、聖書を通してどのように生きていくべきかを深く考えることができます。人生を導く書物として、ぜひ聖書を開いていただけることを心から願っています。
<聖書のことば>
「白髪は栄えの冠」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
連日、猛暑と言われるほどの暑い日が続いていますが、いかがお過ごしですか。くれぐれも熱中症には気をつけてお過ごしください。
子どもを見ていて、強がっているなと思うことがあります。本当は痛いのに、痛いと言わず、また、泣きたいのに泣くのを我慢することがあるからです。そして、大人も強がることがあります。その理由が、自分の弱さを見せたくないからです。
聖書の中にパウロという人が出てまいります。彼は、恐らく何かの病にかかっていたのではないかと言われています。ですから、彼は「手紙を受け取ると彼のメッセージは力強いのだけれども、見た目は弱々しい」と陰口を言われることもありました。それで、彼は、何とかしてその病を癒していただこうと神に願ったのですが、癒されることがありませんでした。しかし、彼は、自分のそのような弱さについてあきらめるのではなく、絶望するのではなく、むしろ、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と言っています。その一つの理由が、自分の弱さを通して、神の力が現れることを知ったからです。さらに、パウロは、「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」とも言います。つまり、自分の弱いところに神の力が働き、弱い自分を神が強くしてくださると、彼は知っていたからです。
私たちも、人には誇ることのできない、ある意味、弱い部分があるかもしれません。なるべく人の目につかないように隠したいと思うものを持っているかもしれません。しかし、神の力が、その弱さを強くしてくださいます。ですから、私たちは、弱い者ではなく、逆に強い者とされ、私が弱い時にこそ、私は強いのですと言いつつ、逆に人に隠したかった弱さを誇るようにされます。そのようにして、キリスト教の信仰は人を変えることができ、変えられた人は新しくされた者として、新たな人生を歩み出すことができます。これが、信仰を持つことの幸いであり、聖書の教える良い知らせです。
これをご覧のお一人お一人の上に、神の豊かな祝福をお祈りいたします。
<聖書のことば>
「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
今月号では、6月30日に湘南のぞみキリスト教会で行われた特別講演会の内容を少しお分かちさせていただきたいと思います。
聖書において夫は、その人のためであれば、いのちもささげるというような強い意志を持って生涯妻を愛し続けることが勧められています。それは、妻はそのように愛するほどに価値ある存在だからです。そのような愛で愛することにより、今度は妻が喜んで夫に従うことが期待されています。そのような関係の中で夫婦の愛がさらに増し加えられていくことでしょう。そうは言っても、もしかすると、夫や妻についてそれぞれの欠点や不完全さ、見たくない部分が見え隠れするするかもしれません。しかし、夫も不完全であり、完全な男性はこの世にはいません。妻も不完全であり、この世に完全な女性は存在しないでしょう。つまり、それぞれの欠点や不完全な部分を我慢するということではなく、互いに受け入れ合うことで、互いに夫婦としての麗しい関係を築いていくことが期待されているのです。
本来であれば、出会うはずのなかった二人が出会い、結婚へと導かれる中にあって、生涯にわたって互いに互いを受け入れ合いながら、幸いな結婚生活を送られることを心から願います。また何か結婚生活についてご相談されたいことがあれば、ぜひ教会をお訪ねください。皆様の上に、そして結婚しておられる方は、そのご夫妻の上に神様の祝福を心よりお祈りしています。
<聖書のことば>
「あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
ノートルダム清心女子中学校・高等学校校長の神垣しおり氏は、「完璧でなくてもいいと自分自身に言ってあげるのも、またひとつの優しさだと思います。私自身、そう自分に言い聞かせることで救われてきました。」と著書の中で語っています。
私たちは、仕事や家事、子育てを完璧にこなそうとしてしまいます。もちろん、努力することは決して悪いことではないのですが、いつの間にか、それが日々の生活のプレッシャーとなって疲れ果ててしまったりするのでは、かえってマイナスとなってしまいます。それと同時に、私たちが、完璧さを求める理由の中に、人と比べてしまうということがあります。あの人はこれだけできているのだから、自分ももう少しがんばらないといけないとか、負けていられないとか、もっとできるはずだという気持ちになって、がんばりすぎてしまうということはないでしょうか。人と比べず、周りを気にしすぎないで、完璧でなくてもいいと、自分自身に言ってあげることも時には必要なのでしょう。
なぜ、人は完璧さを求めるのでしょうか。それは、人の目を気にするからです。人から認められたい、「よく頑張っているね」「さすがだね」とほめられたい、そのような思いが、人に完璧さを求めさせます。しかし、自分の欠点、弱さ、足りなさ、そして不完全さを見れば、どんなにがんばっても、すべてを完璧にこなせないことを、私たち自身がよく知っています。だからこそ、人の目や評判から自由になって、完璧を求めず、できることを一生懸命行い、完璧にできなくても、がんばった自分をほめていくことが大切なのではないかと思わされています。聖書は、欠点や弱さや不完全さをかかえながらも、前を向いて歩いて行こうとする私たちの背中を押すように励ましてくれる書物です。もし生きづらさを感じることがあれば、ぜひ聖書をお開きください。これをご覧のお一人お一人の上に神の祝福をお祈りしています。
<聖書のことば>
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さわうちに完全に現れるからである。」と言われました。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
ノートルダム清心中・高等学校校長の神垣しおり氏が、自分の若いころを振り返りながら、「きちんとしなければ」「人に貢献したい」とがんばってきたけれど、その前に自分をしっかりみて、いたわることが大事ではないか、そして、自分の気持ちをないがしろにせず受け止めながら、他者とつながっていくことが、自分を愛することではないかと言われています。(「逃げられる人になりなさい」p22から引用)
何かに没頭しますと、よく周りが見えなくなると言ったりします。しかし、見えなくなるのは、周りだけではなく、自分自身でもあるのではないでしょうか。自分が、いかに、心身ともに疲れているか、言いたいことを我慢して、ストレスをかかえながらも、なお頑張らなければならない状況に置かれていること、自分の思いどおりにいかないことが多くイライラすることなどを、自分の内側にすべて押しこめて、何もないかのように振る舞っているかもしれません。そのような中で、私たちの心は、悲鳴をあげていないでしょうか。
私たちが周りから認めてもらい、周りから愛されることを求めるよりも、まずは、自分で自分のことを認めて、自分を大切にし、愛してみましょう。一日の終わりに、「自分、がんばったね。」「自分、素敵だよ」「私は、自分のことが大好きだよ」と語りかけてみましょう。そうすることで、もっと周りの人たちをいたわったり、優しいことばをかけたり、心から愛することができるようにされて、愛をもって他者とつながっていくことができるはずです。
そして、私たち一人一人を誰よりも愛している神様に出会っていただきたいと願っています。
<聖書のことば>
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
3月31日は、イエスキリストの復活を祝うイースターです。イエスキリストは、人類を罪から救う救い主として十字架で死なれ、墓に葬られましたが、三日目に死からよみがえられました。多くの方は、信じられないと思うことでしょう。しかし、現実に信じられないことが起り、すべてのクリスチャンは、この信じられないような出来事を信じているのです。クリスチャンが、イエスキリストの復活を信じる根拠は次のようになります。イエスキリストの遺体がおさめられた墓は、当時のローマ帝国により厳重に管理されていました。墓には封印がされ、許可なく墓は開けられないようになっていて、番兵たちが見張りをしていました。ですから、墓の中の遺体が盗まれるとか、仮死状態から蘇生して墓から出て来るということは、考えられません。弟子たちが、キリストが死からよみがえったと人々に言っていた時に、誰かが、墓の中のイエスキリストの遺体を見せれば、これほどまでに、キリスト教が広まることはなく、全世界規模でイ-スターとして、イエスキリストの復活が祝われることもなかったことでしょう。むしろ、当時の人々が、イエスキリストがよみがえったゆえに、イエスキリストの遺体を示すことができなかったと考えるのが妥当ではないでしょう。
これまで多くの人々が、イエスキリストの復活を否定しようと、多くの仮説を立ててきましたが、それを立証できた人は誰もいません。イエスキリストは確かによみがえられたのです。そして、イエスキリストの死からの復活は、私たちの人生が死で終わらず、死からの復活の希望を私たちに与え、死に対する勝利を示すものなのです。
<イエスキリストのことば>
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
1月1日に能登地方を震源とする地震が発生してから、一ヶ月が経ちました。あるテレビ局のアナウンサーが、一ヶ月経っていかがですかと、被災者の方々に尋ねていましたが、震災直後は時間の経過など気にする余裕もなく、そのような時間の経過は、被災していない側の感覚なのだろうと思わされます。私も、仙台市で東日本大震災を経験した時に、よく耳にした言葉が、「節目」ということでした。もちろん、時間が経てば町はきれいになり、復興が進んでいるように見えるでしょう。しかし、町の復興に心が追いついていかないということがしばしばあります。それでも生きていかないといけないからと、心を奮い立たせる人もあれば、家族も仕事も失い、途方に暮れる人もあります。決して被災地全体をひとくくりにできない事情が、被災者一人一人にはあります。
震災を経験しなくても、普段の生活の中で、さまざまな心の痛みを経験している人があるはずです。愛する家族に先立たれた、可愛がっていた動物たちを亡くした、信じていた人に裏切られた、いつも孤独を感じる、何をしていいのか分からないなど、人知れず心の痛みを感じながら生きている人が多くあるはずです。時が解決すればいいのにと思うかもしれません。気にしなければいい、忙しくしていれば、忘れると思うかもしれません。しかし、大切なことは、何でも話し、時には遠慮しないで泣ける場所を持つということです。教会は、そのような場所であり続けたいと願っています。私は、ただ黙って話しを聞き、少しでも元気になってくださることを心から願っています。教会は、あなたの町の、あなたの教会です。どなたでもお出かけください。ご来会を心よりお待ちしています。
<聖書のことば>
「神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
これをご覧のお一人お一人に新しい年のお慶びを申し上げますとともに、神様の祝福をお祈りいたします。
十九世紀の産業革命以前は、息子はすべて父親の職業に就いていたので、生まれついた社会環境で人生の選択肢はほぼ決っていました。現代は状況が大きく変化し、さまざまな仕事に就くことや社会的地位の向上が可能になりました。努力すれば、望みはかなえられると言われて、私たちは育ったはずです。それは、私たちに、将来に対して夢と希望を与えるものですが、自分の望みがかなわなかったなら、どうすればいいのでしょうか(「魂のサバイバルガイド」ケン・シゲマツ著より引用)。最近は、格差社会と言われるようになり、生まれた環境はどうすることもできないと、将来に対して夢を持つことができない若者が増えてきたと聞いたことがあります。
新しい年を迎えて、これからいろいろなことに挑戦しようとしたり、将来に向けて努力しようとしていることをお持ちの方もおられることでしょう。また私たちは、何かをすることで満足感を得ようとし、学歴や職歴などの社会的地位によって自分自身を高めようとします。そのこと自体は決して悪いことではありませんが、その前に社会的な立場や地位には一切関係なく、また何かができるとかできないということでもなく、私たち一人一人の存在自体に価値があることを、まず知っていただきたいと思います。それは、誰であっても、生きて存在していることが尊いと聖書が教えているからです。生きることの喜びはそこから生まれ、その喜びは人生における挫折や逆境に耐え抜く力となります。まずは自分の存在を喜びつつ、その上で自分の夢や希望を目指していただきたいと願います。
<聖書のことば>
「人とは何ものなのでしょう。あなた(=神)が心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなた(=神)が顧みてくださるとは」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
イエス・キリストが誕生された時、彼には居場所が無かったと聖書は記しています。これは、私にとって大きな衝撃でした。居場所が無いとは、周りの人に関心を示されなかったり、拒否されたりしていることを意味するからです。
しかし、その生まれた時にすでに居場所の無かったイエス・キリストは、誰一人拒むことなく、愛をもってすべての人を受け入れ、ご自分を居場所としてくださいました。
イエス・キリストを信じる私たちの教会も、どのような人にとっても、居場所となれることを心から願っています。このクリスマスに、あなたも教会にいらっしゃいませんか。ご来会をお待ちしています。
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
ファームサイド株式会社代表取締役の佐川友彦氏は、20代後半に鬱病の苦しみを経験しましたが、後に経営改善ノウハウを共有するメディアを立ち上げ、「農家の経営改善運動」を展開しています。そのことが『東大卒、農家の右腕になる。』(ダイヤモンド社)との著書を通して今話題になっています。周りから「なぜこのようなことをしているのか。」「モチベーションはどこにあるのか」と聞かれるたびに、クリスチャンである佐川氏は、困っている農業従事者を助けたいとの思いは、人間的な欲から出たものではなく、隣人愛を基本とする聖書の価値観が原則となって、働き方や活動方針が規定されているように感じると言います。(「種まき」2023年11月号から引用)まさに、彼の経営理念や行動の原則など、すべての根底に聖書の教えがあるということなのでしょう。
隣人愛と聞くと、なんだか大げさに聞こえますが、家族、職場の同僚、学校の友人など、私たちの周りには愛を必要としている人が多くいるはずです。隣人愛の第一歩は、人の話に耳を傾け、その人が何に悩み、何を願い、何を考えているかを知ることです。現代において、聞くことはそれほど簡単ではありません。ですから、人同士がすれ違い、愛が冷ややかになり、互いにますます無関心になっているのでしょう。このような時代だからこそ、ぜひ聖書が教える愛に目を向け、愛をもって人の話に耳を傾けることのできる者でありたいと思います。
<聖書のことば>
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
三浦綾子氏の小説『泥流地帯』の中に次のような一節があります。「人間の思いどおりにならないところに、何か神の深いお考えがあると聞いていますよ。ですからね、苦難にあった時に、それを災難だと思って嘆くか、試練だと思って奮い立つか、その受け止め方が大事なのではないでしょうか。」
聖書には、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」と書かれてあります。私たちの品性が練り鍛えられるのは、苦難による忍耐を通してであり、苦難は、私たちの品性にまで影響を及ぼします。さらに、苦難は、将来の希望にまでつながると聖書は教えています。神は、私たちに対して、苦難の中で忍耐を通しての練られた品性や、そこから生み出される希望に満ちて歩んでほしいと願っているということなのでしょう。このようにして、聖書から苦難の意味について教えられ、苦難が、すべて神にあって最善に変えられると知れば、仮に、思いも寄らないかたちで、突然苦難が訪れたとしても、私たちは苦難に耐えることができ、それを試練だと思って奮い立つことができるはずです。子どもたちから年配の方まで、すべての人が苦難をただの災難として嘆く生涯ではなく、苦難が自分に益を与え、それを神が自分に与えた試練として奮い立つ人になっていただきたいと私は願っています。
<聖書のことば>
「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
私が、神学校時代に新約聖書を教えてくださった遠藤勝信氏が、2016年4月から東京女子大学の教授となられましたが、遠藤氏の大学チャペルでの講話が、「愛の心を育む」という題の本になりました。その本のあとがきで、遠藤氏は、「先生、このクラスに出ていると心が清らかになるのを毎回感じています。いまの私にとって、それはかけがえのない時間です。」との一人の学生のコメントを紹介しておられます。聖書のことばの豊かさや奥深さ、真実さにふれて、そのことばの一つ一つが心に届き、心が清らかになるというような感覚を持ったのでしょう。
子どもから大人まで、日々さまざまな言葉を見聞きしながら生活しています。その中で、言葉が自分の心に届き、心が清らかになるのを感じるという経験をされたことがあるでしょうか。むしろ、私たちが耳にする言葉は、うわさ話や悪口、卑猥な言葉、怒りや憎しみに満ちた言葉、不平や不満のようなものではないでしょうか。教会では、聖書が開かれ、人々の心へ向けて、聖書のことばが語られています。あなたも、聖書のことばを聞くために教会へいらっしゃいませんか。聖書のことばを聞く時間が、あなたにとってかけかえのない時間となるように祈ります。
<聖書のことば>
「あなた(=神)のみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
皆様方は、リハビリという言葉を聞いたことがあると思います。病気や骨折などのために負った後遺症を、回復するための機能訓練を指します。理学療法士の飯沼優氏は、リハビリテーション(rehabilitation)という言葉は、もともとラテン語で、「re」=(再び)「habilis」=(「人間らしい」)から、「再び人間らしく生きる」との意味があり、リハビリテーションの本質とは、「人間性の回復」と言えるのではないかと語っています。(種まき 2023年8月号参照)
私たちは、人間らしく生きるために、リハビリテーションを必要としていないでしょうか。それは、私たちの心のリハビリテーションです。私たちの心も、仕事、家事、子育て、人間関係によって病んでしまうことがあります。やる気が出ない、絶望感、不安、恐れ、心配、思い煩い、怒り、ねたみ、憎しみ、不平、不満など、これらは、すべて、私たちの心にダメージを与えます。これらによって、私たちの心は、機能不全に陥ってはいないでしょうか。しかし、聖書のことばの一つひとつが、私たちの心を癒し、私たちの心に力を与え、心のリハビリテーションとなっていきます。あなたも、聖書を開いて心のリハビリテーションを行いませんか。常に元気な心で、新しい朝を迎えられるようになっていただきたいと思います。
<聖書のことば>
「あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」
湘南のぞみキリスト教会 牧師
村上正道
イングリッシュバイブルクラスで、聖書に出てまいりますアブラムと彼の甥のロトの話を読みました。アブラムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者の間に、争いが起りました。その争いの解決方法として、アブラムは甥のロトと分れて暮らすことを提案します。それは、ロトが左に行けば、自分は右に行き、ロトが右に行けば、自分は左に行くというもので、アブラムは、先にロトに好きな場所を選ばせたのです。年長者であり、ロトの叔父にあたるアブラムは、本来なら、自分で好きな土地を選ぶことができました。しかし、先に甥のロトに選択権を譲ったところに、彼の謙遜さと、神に委ねきって人生を歩む姿を見ることができます。当然ですが、ロトはよく潤った土地を選びました。自分は、多くの家畜を持っていて十分生活できるから、叔父のアブラムに良い土地に移ってくださいとは言わなかったのです。たくさんの物を持っていれば、もっと欲しくなるのが人間の性質であり、それを聖書では貪欲と言います。貪欲な心は、どこまでいっても決して満足することはありません。たとえ全世界を手に入れたとしても、満足しない心に、本当の喜びがあるでしょうか。
私は、常に神によって貪欲から守られていることを感謝しています。神が、いつも必要な物を与えてくださり、必要のない物は、与えられないことを知っているからです。神が、必要な物を与えて、一日を守ってくださることを神に感謝する時に、私の心には、生かされている喜びと平安がわき上がってくるのです。
<聖書のことば>
「神に感謝せよ。神はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
5月28日(日)に、私どもの教会の講演会に来てくださった、玉川聖学院学院長の安藤理恵子氏がご自身の著書の中で、「神という存在を知り、人を愛そうと願うようになった人には悩みが増えます。」と書いています(「いまを生きるあなたへ」より)。もし、人が、現実を深く考えないで、日々生活するなら、それほど深く悩むことはないでしょう。また、人と深く関わらず、人の気持ちなど考えないで生きていくなら、決して悩むこともないでしょう。若者は、勉強や人間関係、進路や将来のことなど、様々なことで悩みますが、悩むとは、人間らしく生きていくことであり、成長し、人としての強さを身につける上で、必要なものだとも言えます。
しかし、その悩みが、その人にとっての苦しみや悲しみに変わったり、絶望感に襲われて、生きる気力をなくしたり、思い煩うようになって、夜もゆっくり眠れないということになってしまいますと大変です。そのような中で、決して一人で悶々として悩むのではなく、私たち一人一人のことを、心配してくださる神がおられることを知っていただきたいと思います。また教会には、ともに悩みを打ち明け、祈ってくれる仲間がいます。もし悩んでおられる方がおられましたら、ぜひ教会へご連絡ください。教会は、あなたの町のあなたの教会です。
<聖書のことば>
「あなた方の思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
2012年8月25日に公開された「あなたへ」は、富山の刑務所の指導技官である倉島英二役を高倉健氏が務め、彼の遺作の映画ともなりました。この映画の中で、杉野輝夫役のビートたけし氏が、「旅と放浪の違いが分かりますか。」と尋ねます。高倉氏が「分かりません。」と謙虚に答えますと、ビートたけし氏が「目的があるかないかですよ」と言います。それに続けて「目的があるのが旅で、目的がないのが放浪。帰る場所があるのが旅で、ないのが放浪。芭蕉は旅で、山頭火は放浪。」と言いました。
聖書は、人生を旅だと言います。それは、クリスチャンが人生において常に目的をもって生き、人生という旅の終わりに天に帰るべき場所を持っているからです。クリスチャンは、キリストの十字架の死からの復活をイースターとして祝っていますが、それはキリストを信じる者は、永遠のいのちが与えられ、天国へ入ることができる希望が与えられているからです。そんなことが信じられるのかと思われるかもしれませんが、2000年以上にわたって、キリストの復活を否定することのできた人は誰もおらず、事実として信じられてきました。ですから、聖書が語っているように、キリストを信じる者たちも、死後によみがえって、天国へ入ることができると信じることができるのです。
あなたの人生は、生きる意味も生きる目的も分からず、最後は死で終わる、帰る場所もない放浪になってしまってはいませんか。生きる目的を聖書から見出し、天国を自分の帰る場所とすることで、人生を放浪から旅に変えていただきたいと思います。イースターを祝うこの幸いな時に、お気軽に教会へお出かけください。お待ちしています。
<聖書のことば>
「・・・地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。・・・しかし実際には、彼らが憧れていたのは、・・・天の故郷でした。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
今年の3月11日が来れば、東日本大震災発生から12年が経つこととなります。私も震災当時は仙台市に住んでいて被災を経験した一人です。12年という年月をどう感じるかは人それぞれだとは思いますが、被災者にとっては年月というものは、あまり関係ないという気もいたします。
私も、震災で被災された方々のもとへ支援物資を届けた時に、いろいろお話しを伺いましたが。その時に多くの方々が口にしておられたのは、今はいろいろな人たちが支援に来てくれるけれども、そのうち自分たちのことなど忘れてしまうんだろうということでした。忘れられて、まるでなかったかのようにされることは、被災者によってはつらいことなんだろうと思います。逆に忘れないで、おぼえ続けることこそが愛の行為とも言えるでしょう。しかし、人はいつまでもその人のことをおぼえ続けることはた不可能です。しかし、神は永遠にその人のことをおぼえてくださいます。その人のつらさも、喜びも、悲しみも、すべてをおぼえ続けて慰めと励ましを与え続けてくださいます。なぜなら、神は永遠に存在されるお方だからです。そして、神が永遠に私たちのことを忘れず、おぼえ続けてくださるところに神の愛が現れるのです。私たちのことを永遠にいつまでもおぼえ続けてくださる神に出会って、どんな中にあっても神の愛に深い慰めを見出していただきたいと思わされます。
<聖書のことば>
「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
弘前大学名誉教授の河西達夫氏は、クリスチャンであり、弘前大学医学部の教授として千体以上の解剖に立ち会い、学生に解剖学を教えてこられ、「解剖学実習アトラス」の著者でもあります。その河西氏が、解剖を行うとき、学生たちに特に指導したことは、「人間のいのちの尊厳を知らなくては 良い医者になれない。人体を解剖することで、生命の尊厳を知り、医師としての責任感が身につく」ということで、そのために、人体の取り扱いには非常に厳しかったといいます。(横浜永谷キリスト教会 ブログcoffee time 参照)
コロナウイルスの感染者数などが人の存在が、数字化され、ロシアとウクライナ間の戦争を始め、世界各地で起こっている紛争において、多くの尊いいのちが失われ、また飢えによって、いのちの危機に瀕している多くの人々のことを見聞きする中で、いのちの尊厳の危機を感じます。日本の医療現場や様々な場所でも、いのちの尊厳が本当に確保されているのかと思える現状です。いのちの尊厳は、生きている一人一人が、かけがえのない尊い存在であると思える時に、はじめて守られるものです。河西氏もそうですし、私もそうですが、クリスチャンになり、はじめて、いのちの尊厳に気がつかされました。なぜなら聖書は私たち一人一人に「あなたは大切な存在であり、あなたのいのちはあなたのものだから、あなたらしく生きなさい。」と語りかけるからです。あなたも聖書を開いて、神の語りかけに耳を傾けてみませんか。そこには、いのちを大切にするメッセージがあふれています。
<聖書の言葉>
「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
これをご覧の皆様も、お元気で新年をお迎えのことと存じます。新しい年の上にも神の祝福を心よりお祈りしています。
一人の20代の若者が、「この年も何にもなかった。俺は何のために生きているんだ」とカメラの前で絶叫している様子をユーチューブに上げているのをニュースで見ました。彼は、このために生きているのだと思えるような生きがいを追い求めていたのでしょう。しかし、そのようなものが見つからず、ああ今日も一日終わったということの繰り返しの中で、自分は何のために生きているのだろうかという思いが心の中に出て来たのではないかと想像しました。
多くの人が、何かをすることで、自分の存在価値や生きる意味を見出そうとしています。学生は、勉強をして良い成績を取ることやスポーツ、もしくは音楽や芸術などで良い成果を上げることで、生きがいを見出そうとするでしょう。また、社会人は、職場において自分が与えられている役割を通して、何らかの成果を上げることで生きる意味を見出そうとします。また、家事や子育てなど、家族のために生きることが自分にとっての生きがいだと思われる方もあるでしょう。しかし、私たちの周りには、そのように生きがいをもって生きている人ばかりではないはずです。仕事をしたくてしているわけではないという人もいるでしょうし、病気で仕事を続けられなくなった人もいます。また、年を取れば、誰でも人のお世話にならなければなりませんし、そのような状況で、生きがいをもって生きていくことが難しくなることでしょう。
キリスト教の信仰とは、その人の存在を喜ぶということです。その人の存在を受け入れ、その人の存在を喜び、「いてくれてありがとう。私はあなたがいっしょにいてくれてうれしい。」と言えるのが、私たちの信仰です。何かができるから、その存在を喜ぶのではありません。むしろ何もできなくても、というより、もしかすると迷惑と思える存在かもしれない、また社会や周りからのけ者にされているような人たちの存在を、受け入れ、尊いと思う、それがキリスト教の信仰であり、それが神の愛です。自分の存在が受け入れられ、自分の存在を尊いと思ってくれる人がいる、自分がいてくれてうれしいと思ってくれる人がいると思えたなら、必ず人は変ります。神は、すべての一人一人の存在を喜び、いてくれてありがとう、私はあなたがいてくれてうれしいと思っておられます。この神の愛は、あなたを新しく変えてくれるはずです。この新しい年に、神の愛に出会うため、教会へいらっしゃいませんか。お待ちしています。
<聖書のことば>
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
人は、何かしらの闇を持って生きているのかもしれない、と思うことがあります。SNSでどれだけの人とつながっていても、どんなに賑やかな場所で騒いでいても、人間関係の中でふと空しさを感じ、孤独を味わうことはないでしょうか。また、疲れた体を横たえる時、ストレスに押しつぶされそうになる時、「自分は何のために生きているのだろう」と思うことはありませんか。
そのような私たちに、聖書は、「光は闇の中に輝いている。」と語ります。この光とは、闇を持つ私たちを、暖かく包み込む神の愛の光です。この光に触れる時、私たちの心は暖かくされ、癒され、生きる指針と希望が持てるようになっていきます。光である、イエス・キリストの誕生を通して、神の愛がクリスマスに現されました。ありのままのあなたで、光である方に出会ってください。是非、教会にお越しください。お待ちしています。
<聖書のことば>
「光は闇の中に輝いている」聖書(ヨハネの福音書1章5節)
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
フルート奏者に紫園香さんという方がおられます。その方のことが2022年10月号のクリスチャン新聞福音版に掲載されていました。紫園さんは、大学卒業を前に、お父様の会社が倒産し、決まっていたドイツ留学も諦めざるを得なくなりました。留学どころか、一家は離散することとなり、一人で生きていかざるを得なくなりました。それだけではなく、愛する人との別離、果ては健康まで失って大きな手術を受け、演奏家生命の危機にまで直面していました。紫園さんは、それまで自分が握りしめていた「三種の神器」(能力・経済的基盤・健康)は、いざという時に、何の役にも立たなかったと言います。そのよう中で、大学時代の指導教官から紹介され、フルートを教えていた教会で、洗礼を受け、クリスチャンとなりました。
私は、紫園香さんの記事を読みながら、恐らく、すべての人が「三種の神器」を握りしめ、それに頼りながら生きているのだろうと思いました。しかし、必ずしも自分の能力が、社会や職場で正当に評価されるとは限りません。こんなはずではなかったと絶望している人も多くおられるのではないでしょうか。また、経済的基盤もいつ失われるか分かりません。紫園さんのお父様の会社が倒産したことで、経済的基盤が失われ、紫園さんも夢を諦め、また一家が離散するという悲劇にも見舞われました。また、若くて元気でも、いつ病気になるか分かりません。若くして、大病を患っておられる方を、私も何人か知っています。それほど私たちが人生の基盤としているものは、壊れやすく、変りやすいものだと言えるでしょう。しかし、聖書のことばは決して変わりません。絶対に変わることのない真理です。人生において、特に、危機的状況において、聖書のことばなど何の役に立つのかと思われるかもしれません。しかし、聖書のことばは、考え方や価値観、物の見方などすべてを変え、そして心をも変え、私たち自身を変えます。そのことにより不安や心配は平安に、思い煩いは、すべてを神にゆだねる心に、恨みや不平、不満は感謝へ、嘆きは神をたたえる歌へと変えられます。苦しい状況は変わらなくても、私たちの心が、聖書によって変わるなら、そこからやり直すことができますし、希望をもって前を向き、歩みだすことができます。ぜひ、教会にいらっしゃり、聖書をお開きください。ご来会をお待ちしてぇいます。
<聖書のことば>
「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
前月に引き続き、キリスト教の異端ならびにカルト教団に対する注意喚起をさせていただきます。
多くの人が、自分たちは、宗教とは関わりのない生活をしているので、家族がキリスト教の異端やカルト教団に入信することはないと思っておられることでしょう。しかし、キリスト教の異端やカルト教団は、しばしば名称変更を行います。例えば、旧統一教会の場合には、世界基督教統一神霊協会が、国際勝共連合に変わり、その後、世界平和統一家庭連合へと、全く違う団体であるかのように名称が変わっています。これでは、一体何の団体なのか、よく分かりません。私たちが、これまで「湘南のぞみキリスト教会」の名称で44年間活動を続けてきたのとは、全く違います。また、私どもの教会においても、様々なイベントがありますが、すべてキリスト教会として行っています。ですから、ご案内を受け取っても、宗教には関心がないとか、宗教に関わりたくないという人は、教会に来られないでしょうし、信教の自由からも、それらは尊重されるべきだと思っています。しかし、キリスト教の異端やカルト教団は、しばしば自分たちの素性を隠して活動していることがしばしば報告されています。例えば、自己啓発セミナーや学生等に関心のある講演会へと人を誘い、しばらくしてから「聖書の勉強をしてみない?」などと誘うことがあります。また、若い人たちはSNSをよく使いますが、最近報告された事例では、ある人が「〇〇大学に入学します」と書き込むと、カルト教団の人が、「僕も〇〇大学の学生だけど、いろいろと大学の情報を教えてあげるよ」などと言葉巧みに近づき、そのまま教団の様々なイベントに誘って、いつの間にか信者にしてしまったということがあります。このように、親や学校も知らない間に、カルト教団に接触されてしまっては防ぎようもなく、素性が不明の状態で近づきますので、知らない間にカルト教団の信者になっていたということがあるのが現実です。
最近では、カルト教団に入信してしまった人たちに対する救出方法などの解説が見られるようになりましたが、大切なのは、救出よりもカルト教団への入信そのものを防ぐということです。キリスト教の異端やカルト教団への入信は、人生を台無しにし、家庭を崩壊させます。そのような悲劇を生むことがないように警告を与えるのが、私たちキリスト教会の使命だと思っていますので、不安があったり、お困りのことがあれば、いつでもご相談ください。
これをご覧の皆様の上に神の祝福を心よりお祈りいたします。
聖書のことば
「霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神のものかどうか、吟味しなさい。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
7月8日に安倍晋三元総理大臣が銃撃され亡くなりましたが、犯行の動機が、旧統一教会への恨みであったと、マスコミにおいて連日、ニュースが報じられています。その中にあって旧統一教会の実態が次第に明らかになってまいりました。特に、多額の献金や霊感商法によって、生活に困窮する人たちも出ていることや、自分たちの姿を隠して活動しながら、信者を集める手口は、決して容認できるものではありません。
現在も、旧統一教会以外にも、キリスト教の異端やカルト教団が日本で活動していますし、韓国においては他のカルト教団が、日本で活動する準備をしていると言われています。それでは、なぜそのようなカルト教団が、日本で活動を続けるのでしょうか。それは、日本人が宗教に無知なため活動しやすいからです。例えば、キリスト教系のカルト教団は、最初は自分たちの姿を隠して、言葉巧みに近づきます。そして、ある時期になりますと、聖書の話をしますが、それは決して聖書を正しく解釈したものではなく、自分たちの教団に都合よく歪曲させられたものです。しかし、聖書のことを何も知らなければ、聖書がそのようなことを本当に言っていると信じ込んで、結局入信することになります。カルト教団に入信した人たちに、少しでも聖書の知識があり、相談できるクリスチャンがいればと思わされます。
私たちは、正統的なプロテスタント派のキリスト教会として、聖書を正しく解釈して教えています。聖書は、難しそうだと思われがちですが、誰にでも理解できますし、聖書の教えは、決して一般の常識からかけ離れたものではありません。教会では、子どもから大人まで、無料で聖書を教えています。いつでもご連絡ください。なお、献金の強要、物品の販売、入信の勧誘などは決していたしませんので、安心してご来会ください。
これをご覧の皆様の上に神の祝福をお祈りしています。
聖書のことば
「霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神のものかどうか、吟味しなさい。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
ウクライナにおいて、ロシアとの戦争がなおも続いています。また、8月15日は終戦の日ですが、このような中で、どうしても私たちは戦争のことを考えさせられます。多くの人が、戦争はしてはならないと思うでしょう。特に、戦争の悲惨な現場を目にすれば、なおのこと、そう思います。戦争をしてはならない大きな理由の一つに、本来、最も尊重されなければならない人命や人権が、国家の犠牲になるということがあります。そして、ロイドジョンズという英国の牧師が、戦争は、人間の罪の結果だと言いました。禁断のもの、自分の手に入らないものを求める心の渇望です。(「神はなぜ戦争をお許しになるのか」から引用)それは、私たち個人においても、同じことでしょう。例えば、嫉妬や高慢、憎しみなど、私たちの心の中に出て来る様々な悪しき思いが、他の人との争いへとつながっていきます。それが、もう少し規模が大きくなって、国家というレベルになれば、戦争に発展していくのです。それでは、私たちが、他人と平和な関係を築くために、嫉妬や高慢、憎しみなどを心に持たないようにしようと決意したなら、私たちは、そのようなものが心からなくなるのでしょうか。恐らく無理だと思います。人は、決して自分で自分の心を変えることはできません。それと同じように、いくら戦争反対を叫んでも、世の中から戦争がなくなるということはないでしょう。
聖書の中に、イエスキリストが、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁である敵意を打ち壊し、そこに平和が実現したことが記されています。このイエスキリストこそが、まさに敵意を打ち壊し、まことの平和を実現される方です。それは、国家や民族、そして、個人においても、イエスキリストを通して、私たちは、まことの平和を経験することができます。ぜひ、このイエスキリストを通して、あなたもまことの平和を知ることができますように。
<聖書のことば>
「実に。キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において隔ての壁である敵意を打ち壊し」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
太平洋放送協会の番組で「ライフライン」というキリスト教番組が放送されています(※)ぜひご覧いただきたいと思いますが、その6月26日(日)の放送分に、ホサナホーム所長の玉井千尋氏が出演しておられました。ホサナホームとは、心や精神の病を抱える方々をお世話する施設です。その中で玉井氏が「存在しているの、見えますか。」と言われました。つまり、心の病を抱えて生きておられる方々を社会がどう見ているのかとの問いかけであり、心の病を抱えた方々からすれば、まるで自分たちは、社会からは存在していないかのように扱われているのではないかとの問いかけです。私たちの生きる社会は、常に生産性で人の価値を判断します。何らかの利益を生み出す人に価値があり、そうでなければ価値がないと判断されてしまいます。もちろん、そこには存在しているのは間違いないのですが、まるで存在していないかのように、人が扱われるということがあるのではないでしょうか。
聖書の中には、イエス・キリストが、多くの病人を癒す記事が出てまいります。イエスの関心は、常に病気や貧しさで苦しんでいる方々、社会からのけ者のようにして扱われる方々に向けられていました。それは、イエスの目には、それらの人々の存在がはっきりと見えていたからです。そして、イエスは、社会から存在していないかのように見られている方々のもとに行って、その人たちの上に手を置いて病を癒されました。イエスに習うようにして、ホサナホーム以外にも、存在していないかのように見られている方々のために、労している多くのクリスチャンの方々がおられます。
社会や周りにはその存在が見えていなくても、神は、常に愛のまなざしをもって見ておられます。教会は、その神の愛が語られる所です。ぜひ教会へお出かけください。ご来会をお待ちしています。神の祝福が豊かにありますように。
<聖書の言葉>
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
(※)神奈川県内では、TVKで毎週日曜日の午前8:30~8:55放送
(※)インターネットでも配信しています(「聖書チャンネルBRIDGE」で検索してください)
社会心理学者の村山綾氏は、「日米で比較すると、日本人は未来への展望を持つことが米国人より苦手で、未来をコントロールできるという信念も薄いという結果が出ている。(中略)未来を展望する力は、信仰心とも関連しています。死後に天国や極楽を想定する宗教は多く存在しており、そんな考えは、遠い将来を意識するきっかけとなる。価値観についての国際的な調査によると、日本人が「宗教」を重視する程度は、1990年代と比べても低くなっています。長期的な視点で考えることを助けてくれる力を、私たちは持ちにくくなっている。」と語っています。(4月7日付朝日新聞朝刊から抜粋)
別に信仰などなくてもいいではないかと思われる方もあるでしょうし、長期的展望などなくても一日一日を元気に過ごし、その日にしなければならないことを一生懸命にやって生きていけばそれでいいではないかと思われる方もあるかもしれません。しかし、より良く生きるためには長期的展望も必要なのではないかと私は思います。例えば、今学んでいることが自分の将来にどのように役立つのかを知ることは、子どもたちの学習意欲に大いにつながることでしょう。また仕事をする上で、自分のしていることが将来の成果として展望できるなら、仕事に取り組む意欲もまるで違うでしょう。要は、長期展望を欠く人生は、自分は何のためにこのようなことをしているのだろうとの思いを持ち続けながら生きるということです。そして私たちの究極の長期的視点は、死後のことです。先ほど引用した社会心理学者の村山氏も語っていますように、死を迎える視点から自分の人生を見るのと、死を考えようとせず、ただその日その日を生きていくのでは、人生が大きく変ってまいります。死によって自分の人生が終わるなら、苦労して生きていくことの意味を見出すことができないからです。
ぜひ聖書を通して、死で終わることのない永遠のいのちを持って歩む人生を見出していただきたいと思います。永遠のいのちの視点から自分の人生を見るなら、必ずあなたの人生も変るでしょう。
聖書の言葉
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
2022年2月1日に、作家で政治家でもあった石原慎太郎氏が亡くなられました。石原氏は、生前に死について様々なことを語っておられました。例えば、追悼番組では、「人は死んだら無になる。それでいいじゃないか。」と言っておられる一方で、プレジデント誌の2022年4月1日号では、「死というのは、人間にとって最後の未知で、最後の未来だから、私にとって非常に興味をひかれる対象なのです。」と言われたりもしています。死を感じながら、心がいろいろと揺れ動いていたのかもしれません。
釈迦も、死は不可解だと言い、そのようなよく分からないものに捕らわれるところにある苦しみがあると言われました。しかし、死は、すべての人に必ず訪れるものであり、私たちが考えないわけにはいかないものです。それと同時に、死が、すべてのものを無意味にしてしまうと考えるところに、人は虚無感を感じるのでしょう。私の祖父は、私が中学二年生の時に亡くなりました。その葬儀に出た時に、私が思ったことは、人は死んだらどうなるのだろうということと、人生は空しいということでした。どんなに一生懸命勉強をしても、明日死ねば、学んだことに何の意味があるのか、また朝から晩まで働いても、死ねば何の意味もないではないかと思ったのです。それ以来、受験勉強に身が入らなくなり、むしろいつ死んでも後悔しないように、自分がしたいと思うことだけをしようと思いました。そんな私が、教会に行き、クリスチャンとなりました。死の向こうに、永遠のいのちの希望があり、イエスキリストを信じれば、天国へ行くことができる、自分の人生は、死で終わりではないとの確信が与えられ、人生を前向きに生きることができるようにされました。思い通りにいかず、苦しい中を生きていくことに何の意味があるのだろうかではなく、どんな人生であっても天国を待ち望みながら、精一杯生きていこうと思えたのです。
もちろん、クリスチャンであっても、死は、未知のものですが、十字架の死からよみがえられたイエスキリストが、私たちの永遠のいのちを保証し、死後の希望となってくださっているのです。イースターは、イエスキリストの復活を祝うものです。あなたも教会にいらっしゃいませんか。ご来会を心よりお待ちしています。
<聖書の言葉>
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
2015年に、樹木希林主演の「あん」という映画が上映されました。ご覧になった方もおられると思いますが、その映画の中で、樹木希林演じる吉井徳江さんが「人は生きるために生まれて来たの。何者になれなくても生きることに意味があるの。」と言いました。徳江さんは、らい病を発症して以来、療養所でずっと隔離生活を送っていた人という設定であっただけに、その言葉が心に残りました。そのような人だからこそ、自分は何のために生まれて来たのか、療養所にいるためか、自分に生きる意味があるのかと問い続けても不思議ではありません。しかし、徳江さんは長い療養所生活の中で、一日一日生きること、もっと言えば一日を生き抜くことを生きる意味としたということなのでしょう。
多くの人が、何者かになろうとして生き、日々努力を重ねています。もちろん私は、それを否定するつもりはありません。しかし、もし自分が、将来に、思い描くような何者かになれなければ、人生に絶望したり、生きる意味を見失ったり、喜びをもって生きていけないということになってしまわないだろうかと思います。聖書は、存在自体が尊いと言います。何者になれなくても、仮に、病気や様々な事情で何もできなくても、また何者になれなくてもその存在自体が尊い、生きることに意味があると言います。そして、もし自分が思い描いていたような人生を送れなくても、決して下を向くことなく、希望をもって、日々生きていく力を一人一人に与えます。ぜひ聖書を開いてみてください。そして、一人でも多くの方々が、どんな状況にあっても、「人は生きるために生まれて来たの。何者になれなくても生きることに意味があるの。」と、喜びと希望と感謝をもって言える人になることを心から願っています。これをご覧のお一人お一人の上に神の祝福を心よりお祈りしています。
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
少し古い記事で恐縮ですが、2021年9月15日付朝日新聞の朝刊に、「コロナ禍で入学した学生や就職した世代の若者は、私たちの世代よりもどう生きたらいいのかという正解がますます分からなくなっているのではないでしょうか。」との一文が掲載されていました。私は、この記事に、違和感を覚えました。と申しますのは、「私たちの世代」と言っているその人は、学生生活や就職において正解を見出したのか、そして、その人の言う正解というのは、誰が見ても正解と思えるような、普遍的な正解なのだろうかと思ったからです。私は、人生には客観的な立場から見た正解や不正解はないと思っています。例えば、自分が自分の人生を振り替える中で、自分の人生は正解だと思えれば、回りの人がどう評価しても、その人の人生は正解だったと言えるのではないかと思うからです。しかし、人によっては、自分の選択が正解なのか自信がないとか、違った人生を生きるほうが正解なのではないかとの迷いがあるという方もおられることでしょう。と言うのは、私も、人生の正解を求めてさまよっていた一人だったからです。そして、自分の人生の正解が分からなかった理由というのは、「人は何のために生きるのか」ということと「人の死後はどうなるのか」ということに答えが見出せなかったからでした。しかし、私が教会へ行き、信仰を通して、生きる目的を見出し、自分の人生は死で終わることがないと思えるようになってから、自分の人生に確信が持てるようになりました。他の人がどう思おうと、私の人生は正解だったと思えます。
教会は、コロナ禍の前から、またコロナ禍の中でも、人生の生きる意味と目的を聖書から示すことで、進学や就職を控えた若い人たちから年配の方々まで、すべての人の人生を応援しています。そして、人生における生きる意味と目的を見出して、そこから自分で正解と思える人生を積み上げていただければ、これにまさる私どもの喜びはありません。教会へのご来会をお待ちしています。これをご覧の皆様の上に神の祝福をお祈りしています。
<聖書の言葉>
「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
小室圭氏と真子さんの結婚会見が行われた時に、「失敗のない人生はそれこそ失敗でございます」との言葉が紹介されました。それは、周囲ばかりが騒ぐ中、結婚を間近にした内親王に、作家・森まゆみさんは知り合いの古老のこの言葉を贈りたいと思われたそうです。(朝日新聞10月22日朝刊より)。
これは、あくまで私見ですが、最近の多くの若い人たちは、失敗することを恐れ、なるべく失敗しないようにと慎重に生きているような気がします。もちろん、そのような生き方が決して悪いわけではありません。しかし、もし失敗を恐れて、人生において、チャレンジする機会を失っているとしたなら、それは残念なことだろうと思います。私も、自分の人生を振り返ってみますと、結婚を通して素晴らしい伴侶を得た以外は、失敗の連続でした。しかし、失敗によって、私は多くのことを学びました。もし、失敗しない人生の中で、大切なことを学ぶ機会を失っているとしたなら、それもまた残念なことです。まず、私は、失敗を通して、なぜ自分は失敗をしたのか反省し、それを、新しいことをする上での糧とすることができました。次に、失敗は、私自身を謙虚にさせました。決して独りよがりになることなく、人の話にも耳を傾けることができました。三つ目に、失敗により、私は、自分が思うような人生を生きられませんでした。しかし、そのような中でも決してくさらず、自分が置かれている場所で、最善をなしていこうとの気持ちが常にありました。そのようにして、人生の上でのさまざまな失敗は、私が、人として成長する上でなくてはならないものでした。もし、失敗がなかったならば、今の私はないでしょう。ですから、私もすべての人に「失敗のない人生は、それこそ失敗です。」と言いたいのです。
私の人生の根底には、常に聖書の教えがあります。私が、失敗を肯定的に考えられるのも、キリスト教の信仰があるからだと言えます。神は、すべてのことを益に変えてくださるお方です。神が、失敗も必ず益にしてくださる、そして、すべてを感謝しながら振り返る時が来ると信じられれば、すべての人が恐れなく、失敗をしても、決して下を向かず、希望をもって生きていくことができるはずです。
最後までお読みくださり感謝いたします。神様の祝福が豊かにありますように。
<聖書のことば>
「すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
皆さんは、愛を信じていますか。また、愛が人を変える力を持っていると信じていますか。それとも、自分は100%の愛情を注いでいるのに、必ずしもいい反応がなかったり、それどころか裏切られたり、拒否されたりして、愛など何の意味もないと絶望していますか。
聖書は、愛は、根本から人を変えると教えます。そして、神は愛であり、その神の愛が人を変えると言います。例えば、クリスチャンになる前は、大酒飲みで、昼間から酒を飲んでいて、家族からも見放され、誰からも相手にされなかった人が、一枚のちらしをもらって、教会へ行くようになり、神を信じた途端に、全く酒を飲まなくなり、いつもニコニコしているように変った方がおられます。また、ご両親が、神を信じてから、子どもたちへの接し方が変ったと、子ども心に分かったと証言している方もおられます。そして、私自身も、祖父の死をきっかけに、人はいつか死ぬのだから、勉強していい学校に行くことも、いい仕事につくことも、すべてが空しいと思い、生きることに何の希望も持てず、ただその日をおもしろおかしく過ごせればいいと思って生きていましたが、神の愛を知った時に、人生が変わりました。生きることが喜びとなり、いやで仕方がなかった勉強にも、真面目に取り組むようになりました。このように、神の愛によって、自分自身が変えられたという人たちのいるところが教会です。
神の愛は、あなたをも変えます。神の愛は決してあなたを裏切ることも、失望させることもありません。あなたが、神の愛を知る時に、ここに「本当の」愛があったのだと、必ず気がつくはずです。神は目に見えませんから、そもそも神は存在するのか、本当に神は愛なのか、神を信じたら、人が変えられるのかと疑問に思う方がおられれば、まずは、神の愛を確かめるための一歩を、今年のクリスマスに歩み出してみませんか。なぜならクリスマスは、神の愛が最もよく現れる時だからです。教会では、あなたのご来会を心よりお待ちしています。
皆様の上に神様の祝福が豊かにありますように。メリ-クリスマス!
<聖書のことば>
「私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
私どもの教会は、毎週日曜日午前8:30~8:55までTVKで放送されています「ライフライン」というキリスト教番組を支援しています。そのライフラインの2021年4月25日(日)放送分に、クリスチャンアーティストの正野真侑子さんが出演し、インタビューに答えておられました。彼女は16歳で渡米し、10年間アートを学んだ後に帰国しました。昨年、自身のブランドLYN(Love Your Neighbor)を立ち上げ、売り上げの一部を、コロナ禍で困っている施設に、マスクを届けるなどの社会事業も展開しています。渋谷ヒカリエでポップアップストア(期間限定店)を成功させるなど広く活躍しておられます。
彼女のブランド名の「Love Your Neighbor」は訳すと、「あなたの隣人を愛せよ」との意味ですが、これは新約聖書から取られた言葉で、イエスキリストが、大切な戒めとして語っています。私たちは、自分の隣人とは誰だろうかと考える時に、自分の家族や大切な友人の方々の顔を思い浮かべ、その人たちを心から愛さなければならないのは当然のことだと思われるでしょう。しかし、イエスキリストは、自分の身近な人たちだけではなく、回りにいて、特に、傷つき倒れて助けを必要としている人たちも、私たちの隣人だと言われました。私たちは、そのような人たちを、どのように愛せばいいのだろうかと思うかもしれません。正野さんは、昨年のマスク不足で、多くの人々が困っていた時に「LYN」と刺繍されたマスクを届ける活動を続けました。できる範囲で、自分の回りにいる人たちに、小さな愛のわざを行うことが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」との聖書の教えにつながっていくのではないでしょうか。マザーテレサは、愛の反対は無関心だと言いました。コロナ禍の状況がどこまで続くか分かりませんが、小さな愛のわざが、私たちの回りのあちらこちらで行われることを願ってやみません。これをご覧になっておられるすべての人の上に神様の祝福をお祈りしています。
<聖書のことば>
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
「最後だとわかっていたなら」作・ノーマ コーネット マレック/訳・佐川 睦
あなたが眠りにつくのを見るのが最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをしてそしてまたもう一度呼び寄せて抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」とわたしは 伝えただろう
(中略)
だから 今日あなたの大切な人たちをしっかりと抱きしめよう
そしてその人を愛していることいつでもいつまでも大切な存在だということをそっと伝えよう
「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝える時を持とう
そうすればもし明日が来ないとしても あなたは今日を後悔しないだろうから
この詩は、10歳の息子を亡くした母親の作で、9・11の追悼集会で読まれて話題となりました。死は突然やって来て、人に人生の終わりを告げ、愛する者を引き裂きます。そして、残された者は、心に様々な後悔を持つことでしょう。死への備えはできていますか。宗教改革者のマルチン・ルターが、明日、世の終わりが来ても、私はリンゴの木を植えると言いました。何のことだろうかと思われるかもしれませんが、仮に、明日世の終わりが来ても、また死が訪れても、今自分のしていることを続けるということです。それは、日々の生活が、そのまま悔いのない死に直結していることを意味するとともに、それが、そのまま後悔のない人生となっていきます。それは、人が、なぜ生きなければならないかとの人生の根本的な問いに、答えが与えられた時に、与えられる生き方であり、神が必ずその答えとなってくださいます。
<聖書のことば> 「どうか教えてください。自分の日を数えることを。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
毎年8月15日は終戦の日です。今年の終戦の日に、私は、ある人物のことが思い出されました。その方は、淵田美津雄氏です。真珠湾攻撃に参加し、「トラ トラ トラ(われ奇襲に成功せり)」の無線を打電したことでも有名です。彼は、終戦後ほどなくC級戦犯の証人として、軍事法廷に召喚されました。勝者が敗者を裁く、欺瞞に満ちた裁判に怒った淵田氏は、逆に、アメリカ人の日本人捕虜に対する虐待の証拠を得ようと、アメリカから帰国した日本人捕虜たちに話を聞きました。すると、思いがけない話を聞きます。ある収容所で、日本人を、献身的に看病してくれた若い女性の両親は宣教師でしたが、スパイ容疑でフィリピンにおいて、日本軍に処刑されていました。 しかし、その女性の両親は、死の直前まで、「父よ、彼らを赦したまえ。そのなすことを知らざればなり」と、日本軍への赦しを、神に請うていたというのです。彼女もまた、そんな両親の遺志を継いでいたということです。その話を聞いた淵田氏は、なおも半信半疑でしたが、続いて、昭和23年(1947)、かつて日本本土を爆撃したドーリットル隊の一員で、中国で、日本軍の捕虜となっていたジェイコブ・デシェーザーが、「汝の敵を愛せよ」のキリスト教の人類愛で、敵意を克服し、宣教師として来日したことに衝撃を受けます。それから淵田は、聖書を読みふけり、ついに洗礼を受けてキリスト教徒となりました。「敵意を克服しなければ、真の平和は得られない」という思いからだったと言います。1976年に74歳で地上の生涯を終えましたが、後半生をキリスト教の教えに則って、日米の憎しみの連鎖を断つことに費やした彼の生き方には、いろいろな意見が今もあるのかもしれませんが、まさに神の愛によって変えられた一人の人の姿がそこにあると言えます。
イエスキリストは、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。もしかすると、どうしても赦せない人がいるかもしれません。顔を思いだすと、あの人のことは絶対に赦せない、あの人が憎い、あの人さえいなければ、自分の人生も違ったものになっていたかもしれないのになどという思いが心にわいてくるかもしれません。しかし、憎しみは、生きる喜びを奪いますし、憎しみを持ちながら生きていくことは本当につらいことです。そして、自分で心の中にある憎しみを処理することはできません。しかし、神の愛は人の憎しみを克服させ、人に平安を与えます。神の愛は、どんな人の人生をも変えることができるのです。
<イエスキリストのことば> 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
6月20日(日)の午後に、蔡香先生をお迎えして「よい聴き手になるために:あなたもできるケアのすすめ」と題して講演会を持ちました。もし録音をお聞きになられたい方がおられましたら、教会までご連絡ください。
その講演会の中で、一人の方から「家族の話をどのように聞けばいいのでしょうか。何かアドバイスはありますか。」との質問がありました。その時に、私も家族の話を聞くことの難しさを思わされました。例えば、友人であれば、私たちは、多少疲れていても話しを聞くかもしれません。それは、友情を壊したくないという意識が働くからかもしれませんし、断ると友だちがいがないと思われるかもしれないなど、様々な理由があるからです。しかし、私たちは、簡単に家族の話しを聞くことを拒みます。疲れている、自分の時間が欲しい、そして、家族という気安さが、実は家族の一人一人を自分から遠ざけ、聞いたり話したりという人間関係の基本が家族から失われてしまっているのかもしれません。それとともに、私たちは、他人に対しては十分共感できます。つらい状況に置かれている人の立場を何とかして分かろうとします。しかし、私たちは親や子が、兄弟が、また夫や妻が、つらい状況に置かれている時に、どれだけ共感しつつ、話しに耳を傾けているだろうかと思わされました。私たちは、人間関係が近くなればなるほど、うわべを繕うことなく、本当の自分を現します。そこには、まさに自己と自己のぶつかり合いが起こります。そして、そのような時にこそ、私たちの愛が問われます。口先だけの愛ではなく、見せかけの愛ではなく、心からの愛があるかどうかが問われます。私たちが、愛をもって、共感をもって家族の話しを聞く時に、必ず家族の一人一人が変り、家族全体が変ります。そして、家族が変れば、周りも変っていくのではないでしょうか。
家族を心から愛していますか。家族に自分の愛を現していますか。話しを聞いて共感することで、家族に自分の愛を現していますか。もし、愛とは何かが分からないという方がおられましたら、ぜひ聖書をお開きください。聖書を通して、私たちはまことの愛を知ることができます。
<聖書のことば> 「私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
7月21日からオリンピックが始まりましたが、競泳女子の個人メドレーで二冠に輝いた大橋悠依選手は、「何も後悔がないと言えるように」と思って泳いだと言います。また、柔道女子70キロ級を制した新井千鶴選手も、「絶対悔いを残さない」と攻め続けたと言います。(2021年7月29日付 「よみうり寸評」より引用抜粋)この二人の選手に共通しているのは、決して悔いを残さないようにということでした。 誰しもが、後悔しない人生を送りたいと思って生きているはずです。しかし、人生の様々な場面を振り返ってみた時に、「ああすればよかった」とか、逆に「ああしなければよかった」など様々な後悔が出て来ます。また、後悔とは少し違うかもしれませんが、自分の身の上や境遇が違っていたら、自分はもっと別の人生を歩めていたのではないかという思いを抱えながら生きている人がいるかもしれません。いずれにいたしましても、人生に何の後悔もなく生きることのできる人は、誰もいないのではないかと思います。
聖書に、パウロという人が出てまいります。彼が、自分の人生が終わりに近づいたことを悟り、自らの人生を振り返る中で、「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え」と言います。私たちは、このパウロの言葉に、彼の人生観を見ることができます。まず、私たちにとって、人生は戦いだということです。私たちは、病、失業、家庭の不和のような試練や苦難、そして心にわいてくる失望、悲しみ、悩み不安、心配などと常に戦わなければなりません。パウロは決してそのようなものに負けることなく、勇敢に戦い抜いたと告白しています。さらに「走るべき道のりを走り終え」と言います。彼の人生には走るべき道のりがあったということです。つまり、彼は、人生においてしっかりと目標を定め、日々何となく生きるのではなく、その人生の目標を目指して、彼は人生を走り続け、最後には「走るべき道のりを走り終え」と言うことができました。彼は、イエスキリストを信じる信仰を持っていました。その信仰が、人生の様々な苦難や試練の中にあっても、勇敢に戦い抜く力を与えました。また、彼の信仰が、人生に、変わることのない目標を与え、人生を最後まで完走する力を与えました。そして、パウロの告白には、人生に対する後悔は全くありませんでした。私たちも、パウロのように、イエスキリストを信じる信仰により、必ず後悔のない人生を送ることができます。
皆様の上に神の豊かな祝福がありますように。
<聖書のことば>
「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
蔡香さんは、2016年に『よい聴き手になるためにー聖書に学ぶ相互ケア』という本を出されました。この本を通して教えられることは、人の話を聴くということは、あなたといつも一緒にいるよというメッセージを送るということです。蔡さんの聞くことのお手本は、ご自分のお母様であったと言われています。蔡さんは高校生時代に、「自分はなぜ生きているのだろう」とか「自分は何をしたいのだろう」と思春期特有の問いに悶々としていました。特に、ミュージカルダンサーを夢見て、訓練を受けていた時に、腰を痛めたことで、その道が閉ざされると、ますますその悩みは深くなっていきました。そして、毎晩のように泣きながら話す自分の話を、お母さんは辛抱強く聴き、決して答えを出さず、安易なアドバイスや励ましをせず、葛藤するそばで一緒にいて話を聞いてくれたことが、ずっと心に残っていると言います。
聴くことは、私たちの人間関係において、最も大切なことです。人の話を聴くことで、私たちは、相手の気持ちや考えを深く理解することができるからです。しかし、私たちは聴くことが苦手です。聴く前に、自分の意見や考えを押しつけ、何も分かってくれないと相手を失望させてしまいます。聴くためには、まとまった時間と忍耐が必要ですので、忙しさを理由にして、人の話を聴こうとしないのではないでしょうか。確かに現代の私たちは、日々忙しくしているかもしれませんが、もし、スマホの電源をオフにすれば、家族や友人ともっと話す時間が取れるかもしれません。
私たちは、人との関わりの中で、お互いに何を考えているのか理解しようとしないことで、多くの人々が、常に孤独を深めているように思います。分かってもらえないのは仕方がないと、あきらめてしまうこともあるのではないでしょうか。しかし、あきらめる前に私たちは、相手の話を聴くことで、いつも一緒にいるよ、あなたは私にとって大切な存在だよとのメッセージを送っていきたいと思います。特に、これまで、私たちが経験したことがないコロナ禍の状況において、自分だけではなく、誰もが大変なのだからと、いろいろな思いを、誰にも話せず、心にしまい込んだまま生きている人もあるかもしれません。このような時にこそ、私たちは互いに話を聴くことの大切さを実感したいと思います。
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道
これまでに、取り返しのつかない失敗をしてしまったことがあるでしょうか。それにより心が責められ、悩んで夜も寝られないということがあるでしょうか。もちろん、人生を何の失敗も、また過ちなく生きていくことができればいいのですが、なかなかそうはいかないものです。特に、汚点ともいうべきものが、自分の人生の中にあって、それを思い出すと心が苦しくなるというようなことがあれば最悪です。
聖書には、様々な人物が出てまいります。その中の一人がペテロです。彼は、もともと漁師でしたが、イエスキリストと出会い、弟子となった人物です。イエスキリストが、ユダヤ人指導者たちによって捕えられ、裁判にかけられることになりましたが、ペテロは、あなたもイエスの弟子ではないのかと尋ねられた時に、私は、あの者を知らないとイエスキリストとの関わりを否定したのです。知らないどころか、師と弟子の関係であったにもかかわらず、ペテロは、自分が、イエスの弟子であることを認めようとしなかったのです。もちろん、これは偽りであり、ペテロは、イエスの弟子であることを否定するという、取り返しのつかないことをしてしまったことを認めて、激しく泣きました。しかし、イエスは、すべてのことを知っておられて、あらかじめ、ペテロに「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。
最近、多くの人が、生きることに疲れをおぼえているように感じますし、何となく世の中に息苦しさを感じます。なぜなのだろうかと考えました。その理由の一つは、大人も子どもも常に完璧さを求められ、失敗が赦されないからではないかと思いました。失敗をすると失格者の烙印を押され、二度と認めてもらえず、様々なかたちで批判されるので、どのような場面でも緊張を強いられてしまいます。しかし、イエスは、弟子のペテロが、師である自分を否定するという、あってはならないことをしたにもかかわらず、ペテロが立ち直ることを期待し、立ち直ったら、他の者たちを力づけるようにと言われたのです。
キリスト教の信仰は、赦しと失敗からの回復と、そこからの新しい歩みです。神の前には、取り返しのつかない失敗や人生の汚点はありません。神が、私たちを立ち直らせ、そこから再び歩み出せるようにしてくださるからです。あなたもぜひ教会に来て、聖書を開いてみませんか。そこには新たな人生の希望が必ずあります。
<聖書の言葉>
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道