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一般的に信仰とはどのように説明しているのか調べてみました。そういたしますと、「神や仏などを信じること、またある宗教を信じて、その教えをより所とすること。」「人や物事を信用・信頼すること」「証拠抜きで確信を持つこと。またそれを信じることを正当化する要因」とありました。キリスト教を信仰すると言えば、恐らく多くの人が一番最初の定義がふさわしいと思うでしょう。しかし、あまりにも定義が大ざっぱすぎるという印象がぬぐえませんが、皆さんはいかがでしょうか。例えば信じるとはどういうことなのか。その教えをより所とするということは、具体的にどういうことなのかもっと説明が必要なのではないかと思います。
それで聖書を見ますと、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と書いてあります。まずここで「望んでいる事がら」と訳されていることばですが、これはただ単に「ああなればいいな」とか「こうなればいいな」というような単なる願望を表すことばではありません。むしろ神を信じながら歩んでいく中での結果と考えるべきでしょう。ですから、目に見える現実はどうであったとしても、信仰がそれを保証しているので、私たちは疑わず、また失望することなく、確信をもって歩むことができるのです。また目に見えないことというのは、私たちの知識や経験、理解力を超えていることと言えます。それらを確信させるのが信仰だというわけです。
キリスト教を信じて良い事ばかりが続くということは絶対にありません。むしろ神を信じていても、なぜ自分にこのようなことが起こるのだろうかと思うことがしばしばです。また、神を信じていても世の中の人と同じように病気になったり、事故にあったりすることも当然あります。その中で信仰は、神を信じながら歩めば当然ついてくるものがあることを保証します。それは、苦難の中にあってもなお失われことのない平安であったり、世にあるものが決して作り出すことのできない希望であったり、世の中や目に見えるものが決して奪うことのできない希望を私たちに保証するものです。そして最も大きい希望は、私たちが天国へ行くことのできる希望だと思います。死は、すべての人から希望を奪い去ります。しかしイエスキリストにある信仰は、私たちに死の向こうに天国への希望を保証するものです。天国は目に見えないものであり、それは人間の理解や感覚を超えています。しかし、信仰はそれを確信させるものです。また、神は目に見えません。また当然神の愛も目に見えません。しかし信仰は、イエスキリストの十字架を通して現された神の愛を確信させます。その神の愛を信じる信仰が、私たちの人生がどのような中にあったといたしましても、神の愛を確信させ、決して何ものも奪うことのない平安を私たち一人一人に与えるのです。
キリスト教の信仰は、一般的に言われているような何となく神を信じるようなものではなく、信仰は必ず私たちに確信を与えます。つまり、決して奪われることない平安であるとか、神の愛を信じることで心が変えられるなどの何らかの変化が、大きな確信となっていくのです。また証拠抜きで確信を持つことという定義もありましたが、まず私たちの確信は聖書のことばです。聖書が言っているとおりになると、私たちは信じますし、必ずそのとおりになっていきます。そして、聖書のことばが信じられていくようになります。これがキリスト教の信仰です。これをお読みのお一人お一人が、信仰をぜひ持つことができるようにと願っています。
<聖書のことば>
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
(ヘブル人への手紙11:1)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
一般的に8月15日を中心にお盆の時期と言われ、多くの人がお盆休みで長期の休暇を取って郷里に帰省したりいたします。元々は旧暦の7月14日を中心に行われる先祖供養の儀式で正式名称は盂蘭盆会(うらぼんえ)と言います。ちょうどお盆は、ご先祖様や肉親の精霊が帰って来てくださる期間で、その精霊を迎えるために精霊(しょうりょう)棚を設け、追善供養をするのが一般的です。あの世からご先祖様が帰って来て、家族とともに過ごし、再びあの世に帰って行く一年に一度の期間です。そして、人々は生前のご恩に感謝の気持ちを込めて供養するということです。
この盂蘭盆会に関してですが、仏教学者の一致した意見では盂蘭盆会というのは仏陀の教えではなく、またインドの仏陀の弟子が教えたものでもなく、実は中国の僧侶が書いたものだと言われています。インドの雨季である4月15日から7月15日には日本の梅雨のように雨が降り、托鉢に出ることが不便なため、弟子たちは精舎(今の寺)にこもり、仏陀の説法を聞いたり、討論や反省、修行などに精進していました。ところが十大弟子の一人である目連がある日、神通力を持って死んだ母親の行方を心に浮かべてみると、何の因果か餓鬼道(地獄)に落ちて、苦しみ悶えていることが分かりました。親孝行であった彼は、驚き悲しみ、早速仏陀に母親を救い出す道について尋ねました。仏陀は答えて、「おまえの母親は生前には、貪欲で無慈悲な人であった。だからこそ今その報いを受けているのである。お前が母親をその苦しみから救いたいと願うなら、救いうるだけの善行をお前が積まなければならない。ちょうど7月15日には、弟子たちが沙羅の林に集まることになっているからたくさんのごちそうを用意して、それを弟子たちに振舞えば、その功徳によって母親は救われるであろう。」と教えたので、日蓮は喜び、そのとおりにすると母親は助かったというわけです。実際のところ仏陀は、死人のことについて多くは教えませんでした。むしろ仏陀の関心事は、人間の理性や知恵を持って悟りうる世界であり現世の問題でした。仏陀がその弟子たちに説いた説法の理想は、義理と文句とを具足せる法を説くという一貫した理性の道でした。ですから、人間の理性や知恵では分からない死後の世界や来世のことについて多く語らなかったのです。恐らく多くの人々が、お盆の習慣は仏教から出たものと思っておられると思いますが、実際にはそうではなかったということですし、ここで問題になってくるのが、仏陀が多くを語らなかった人の死後どうなるのかということです。夜回り先生で有名な水谷修氏がお寺で講演をした時に、ひとりのお坊さんが来て、地獄と極楽は本当にあるのでしょうかと尋ねられ、「あると思わないで死んでみて極楽があればラッキイだし、死んでみて極楽がなければやっぱりなかったということでいいのではないですか。」と答えたと言われましたが、死後の問題というのはそんなに簡単な問題とは私には思えません。それは、死後のことというのは私たちの魂に関わるからです。人はすべて魂を持っています。だからこそ、人はお盆に先祖を供養したり、お葬式をするのでしょう。もし人に魂がなく、死んだら終わりだということであれば、そもそもそのような宗教行事自体が無意味だということになりますし、宗教の存在自体が意味がないということになってしまい、なぜ宗教が存在するのかというところから問うていかなければなりません。いずれにいたしましても魂は永遠です。聖書は、決して死後のことをあいまいにしていません。死んでみなければ分からないなどということを聖書は絶対に言いません。むしろ死後のことについて明確に語っています。そのことをともに聖書から見てまいりたいと思います。
ヨハネ3:16をご覧いただきたいと思いますが、ここに「それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく」とあります。逆を言えば、御子を信じない者は滅びるということです。滅びるとはどういうことかと申しますと、神から永遠に引き離されるということです。永遠に引き離されるとは、つまりその罪をさばかれるということです。聖書は、神の前に自分の正しさを主張できる人は誰もいないと言います。神は、私たちの行動はもちろんですが、言葉、そして心の思いまでもすべてをご存知の上でさばかれます。むしろ神は、私たちの心の中を問題にしていると言えるかもしれません。なぜなら悪い行動や言葉などはすべて私たちの心から出ているからです。それで、イエスキリストは「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また『ばか者』と言うようなものは燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と言われました。今まで私は人に腹を立てたことはありません、人に向かって悪い言葉を口にしたことはありませんと言える人があるでしょうか。誰もないでしょう。また「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」とも言います。世のすべての人が神の前に姦淫罪を犯していると言えます。そのようにして、神はすべての罪をさばかれます。その罰は、永遠に燃える火による苦しみです。その一方で「それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と言われています。御子とはイエスキリストのことです。自分の罪を認めて、御子イエスキリストが自分の罪を赦すために十字架にかかってくださったと信じるなら、罪から救われて永遠のいのちが与えられ、さばきを免れて、天国へ行くことができるということです。それは、16節の最初に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあります。つまり、神はただ単に、人類を罪人として断罪しようとしているわけではない、むしろ罪ある私たち一人一人を愛して、御子イエスキリストを十字架につけてまで、私たち一人一人を罪のさばきから救おうとされたということです。
聖書は、死後のことを決してあいあまいにせず、明確に語っています。それは、罪ある人類のさばきであり、神の御前に誰一人として自分の正しさを主張できる人はありません。しかし、神は罪ある人類を愛して、その罪のさばきから救おうとしました。そのためにイエスキリストが、私たちのさばきをその身に受けて十字架に死んでくださいました。私たちの受けるべきさばきは、キリストが十字架の上で受けてくださったので、私たちは二重にさばきを受ける必要がありません。ですからイエスキリストを信じるなら、私たちの罪は赦され、永遠のいのちをもって天国へ行くことができるのです。私たちも、ぜひイエスキリストを信じて、神の愛から出ているイエスキリストにある救いをご自分のものとしていただきたいと思わされます。
<聖書のことば>
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
趣味は旅行という方もいらっしゃるでしょうし、旅は楽しいものです。しかしいかがでしょうか。長く旅を続けていると楽しいどころかだんだん疲れてきてしまうでしょう。そして、元気で安全に何日も旅を続けられればいいですが、旅の途中で具合が悪くなったりする方もあるでしょうし、さまざまなトラブルに巻きこまれたという方もあるでしょう。そうなりますと楽しい旅行も台無しです。
しばしば私たちの人生は、旅に例えられます。恐らく私たちの幼少期は、回りも私たちの成長を喜び、私たちも日々楽しく過ごしていたのではないかと思います。もしかするとさまざまな家庭の事情でそうはいかなかったという方もあるかもしれませんが。先ほども申しましたが、あまり長く旅を続けていると疲れてきますように、私たちも人生のさまざまな出来事の中で疲れをおぼえてくることがあります。人間関係に疲れるということがあるでしょう。受験戦争などと言われたりしますが、希望の学校に入れず挫折することがあるかもしれません。また仕事のストレズにより疲れてしまうということもあるでしょう。そして旅をする中で、疲れからとかストレス、また現地の食べ物が合わなかったりして具合が悪くなってしまうことがあるように、私たちは人生の中でさまざまな病を経験することがあります。しかも年をとってまいりますと、さまざまな病気を患うことが多くなってまいります。ですから、人生を何十年生きるかは人によって異なりますが、何事もなく元気に何十年かの人生を全うするという方は恐らくいらっしゃらないのではないかと思わされます。そして、私たちが旅を続けられるのは、最後に帰って来る場所である我が家があるからではないでしょうか。旅に出たはいいけれども、いったいどこへ向かい、帰る場所もないような当て所もないような旅では不安でしかたがないのではないかと思わされます。私たちの人生はどうでしょうか。もし私たちの人生を旅と例えたとしたなら、まさに私たちの人生は当て所のない旅となってしまってはいないだろうかということです。
聖書に出てくるアブラハムは、生まれ故郷のウルという地を出て、神様の約束された地を目指しました。実際に、彼は自分の人生は旅であり、自分は旅人であり寄留者であることを自覚していたのです。そして聖書は、このアブラハムも「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」と言います。まさに、彼は天国こそ自分の帰るべき場所、自分の帰るべき故郷だと考えていました。ですからアブラハムにとって、人生はまさに天国を目指す旅であり、帰るべき場所をきちんと定めながら、彼は人生の旅を送り続けたということです。聖書を見ますと、天国は罪や汚れのない聖い場所ですから、誰でも入ることはできません。むしろ、罪のある私たちは誰一人一人として入ることはできません。それで、神様の全人類に対する愛とあわれみによって唯一天国へ行くことのできる道が開かれました。それは、罪のない神のひとり子であるイエスキリストが、私たちのすべての罪をその身に負い、十字架にかかって苦しみ、血を流し、いのちを捨ててくださったことを信じることです。そうすれば、私たちは罪を赦された者として天国へ入ることができるのです。聖書を見ますと、天国は「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」と描写されています。まさに、イエスキリストを自分の罪からの救い主として信じるなら、この天国を目指す人生に変えられます。人生の最後はどこへ行き、どうなるか分からない、さまよう旅のような人生から、帰るべき家がきちんと定まった人生へと変えられます。ですから、ぜひ人生の旅を終えたなら、そこで私の人生は完成し、天国へ帰り、そこで神が自分を迎えてくれるという確信ある人生を送っていただきたいと思います。そして、この確信があれば、人生でつらいことがあっても、私たちはそれを乗り越える強さが与えるのです。
<聖書のことば>
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」
(ヘブル人への手紙11章16節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道